『緑色』

穏やかな陽の光に新緑がさわさわと揺れている。とある田舎の大学の敷地内、桜の木が薄紅の花を落とし新しい葉をつけていた。それが風に揺れる。木陰が小さく行ったり来たりするのを踏みつけ歩く学生たち。


みな思い思いの服装に思い思いの髪型で、中にはちらほらと目立つ者も混ざっていたりする。髪色にして、黒黒茶黒金黒黒赤黒。そんなところだろうか。幼い顔立ちに黒髪が目立つのは、一回生に多い。年齢にしてみても恐らくは十八か十九か。まだまだ幼さの残る姿で、大学の敷地内を我が物顔で歩く姿は微笑ましいものである。学生たちが校舎に入っていく。理系校舎、文系校舎。そのように分けられている。文系校舎のとある一室では一般教養の講義が行われているようだ。


淡々と講義が進んでいく。白髪の目立ち始めた男性講師は、眠たそうに垂れた目で教科書を眺めては、板書をし、読み上げていく。流暢な英語は日本人であるところの大学生たちには、まるで子守歌のように響いている。こっくりこっくりと船を漕ぐ者。悩まし気に頬杖をつく者。潔く諦めて突っ伏す者。大半がそんな風にまどろんでいる。残りの者も、板書を写している者は少ない様で、スマホを触っていたり、筆談をしていたりと、講義としては成り立っていない。それでもこの講義が人気なのは、先輩から後輩たちへと、その実態が伝えられているからなのだ。


──楽でいいよ。出席さえしとけば単位貰えるようなもんだし。テストもちょー楽。持ち込みオッケーだし。寝てても怒んないし。

とまあ、そんなところである。


彼は教科書からふっと視線をあげ教室を見回した。半分ほどは寝ているようだと嫌でも気付かされるその光景に、けれど、不快な感情は見えない。ただ、どこか羨まし気な表情だった。淡々と板書が増えていく。内容としては基礎英語の様だ。一呼吸置き読みあげる。やはり流暢な英語が彼の口から零れていく。


似つかわしくない。この講義を取っている者ならば、そんな感想を一度は抱く。彼はそんなことにも気分を害したりはしないようで、一定のペースを保ち講義を進めていく。ひと段落ついたのだろう。鞄から緑茶のペットボトルを取り出すと軽く口内を湿らせ、講義を再開した。


やがて講義の終わる時間になり、男性講師はじゃあここまで、と言い残すとそそくさと出ていった。背中が少し丸まっているが、身長は低くないようだ。彼は敷地内を淡々としたペースで進んでいく。理系校舎の裏手、少し奥まったところに彼の目的地はある。


植物園。誰が言い出したのかは知らないが、そんな風に呼ばれるのは、少々ボロいだけの普通の温室だ。しかし、ボロいがゆえに生徒は寄り付かない。施設管理人が週に一度と理系の学生が極稀に講義で来るくらいのものである。


だから彼はこのボロい植物園に入り浸る。講義をすることもあるから、綺麗とは言い難いが机と椅子はある。温室であるから意外に快適で。なにより他人と接するのがあまり好きではない彼にとって、一人の時間が確保されるというのは、とても重要なことであった。彼は静かな植物園のさらに奥の方、出入り口から直接は視認できない位置にある座席で弁当の包みを開いた。手作りの弁当である。前日の夕飯の残りに少し手を加えて詰めただけのそれだが、彼は嬉しそうにそれを食べる。


にゃおん。


彼はそっと箸を置くと出入り口へ向かった。植物園の前にちょこんと座っていたのは彼の髪と同じような色をした猫だった。


「いらっしゃい。さ、お入り」


彼は手慣れた様子で猫を招き入れる。猫の方も手慣れた様子でと言えばいいのか、さも当然という様に中へと入ってきた。彼の数歩先を歩く猫は彼より先に特等席へと着く。彼が座っていた椅子の横で猫はちょこんと座った。


にゃおん。


再び猫が鳴いた。その声はねだるように甘い。


「はいはい、おまたせしました」


彼は猫の頭を軽く撫でると弁当の包みから猫用の餌を取り出した。猫は躊躇いなく彼の用意した餌を食べる。猫の方もこの植物園の常連なのだろう。ごちそうさまでしたと彼が呟き弁当を片付け終えると、猫は待っていましたとばかりに彼の膝に飛び乗った。思わずと言った風に彼から優しい笑みがこぼれる。


「君は本当に僕の膝の上が好きですね。構いませんけれど、太らないようにだけ気をつけて下さいよ。そうじゃないと僕の方が潰れてしまいますからね」


嬉しそうに彼は小さな呟きをもらす。猫はというとわかっているのかいないのか、こちらも嬉しそうに喉を鳴らしたのだった。


「さあ、そろそろ時間ですね。猫くん、また明日」


彼は講義を終える時のように言う。ただ、その声は講義の時より幾分も寂しそうに聞こえた。きっと彼にとっては講義より、猫との時間の方が有意義なのだろう。


* * *


今日も日差しは暖かく、緑は更に生き生きとしている。あとわずかもしないうちに、梅雨が来てそれから夏になる。そんな予感がするような、じっとりと暑い日だった。


学生たちはウトウトとしている。こんな日だ、致し方ない。彼もそう思っているようで、講義自体は淡々と進んでいく。まあ、これは通年の光景、なのだが。とはいえ彼はどこか物憂げだった。らしくもなく小さなため息を吐いている。鞄から取り出したままの緑茶のペットボトルはいつもより減りが早い。


疲れ切ったように講義は終わり、彼は逃げるように出ていった。植物園の温度は一定に保たれている。その事だけが彼の救いであるかのように、彼は植物園にはいるとようやく疲れ切った顔をやめた。温和そうな表情に戻る。


にゃおん。


彼は猫を迎えに行き座席に戻ると、珍しくも彼から猫を膝に抱いた。猫の方も大人しく膝の上に丸まっている。


「君はいいですね。何に縛られることもなく幸せそうで。そして何より若い。若さとはやはり何にも変えがたい幸福です。私にも君や学生たちのように若さが、『緑色』があれば今もなお何も変わらずに居られたのでしょうか」


今日のような暑さは身体にこたえます。君は暑くないんですか?


その問いの答えは返ってこない。代わりに猫は彼の膝を抜け出し、植物園の出入り口を目指した。猫には開けられない扉は、何故か開いている。誰が開けたのだろうかと彼は猫を追って下げていた目線をすっとあげた。


「あ」

「学生さんですか。理系かな?」


暗い茶髪をショートカットにした彼女、この大学の学生らしき彼女はバツが悪そうにその場に立ち止まった。扉は開いていても猫は出て行かず、代わりに彼女の足元をうろつく。


「なんやぁ、シューくんお腹すいたん?」


とりあえず猫の方を済ませた方が早いとでも言うように、彼女は鞄から猫用と思わしき菓子を取り出した。


「この子は君のとこの子ですか?」


彼はらしくもなく再び彼女に声をかけた。彼女はというと、やはりバツが悪そうなままだが問いかけを無視する気はないようだ。


「えーっと、文系です。温室に用事あった訳とちゃいます。そんで、えっとこの子、うちの子ちゃいます。ただ最近この辺で見かけて、人懐こいしかわええなぁって。ほんでうちの手ぇからもの食べるし、なんかオヤツでもって。あ、大学ん中でマズかったですかね?」


彼は彼女の怒涛の答えに微笑む。


「大丈夫だと思いますよ。ダメだったとしても私の方が不味いことをしています。ここにその子を入れてあげて、それからご飯をあげてますからね」


ああそれで。そんな風に彼女は頷いた。


「今日はいつもよりちょっと早めにこっち来たんです。したらシューくん、温室ん中入ってくし誰かシューくんのこと構ってるんかな?って気になって。そんでこっそり這入ったんです」


なるほど。だから彼女はバツが悪そうにしていたのか。彼はそんな風に微笑んで奥に行きましょうかと彼女を誘った。


「這入ってみたら年老いた教師が猫に向かってボヤいていたなんて、そんなものを見てしまったら、そんな顔にもなりますね」

「えっ、あ、その……。ごめんなさい!」


大丈夫ですよ。彼はそう言いながら猫を抱えた。座席の場所は定位置。座ったらどうですか?との彼からの誘いに、彼女は迷いながらその前の座席の椅子だけをぐるりと彼の方へ回して座った。机を挟んで向かい合う形になる。

彼はその辺には興味がないようで猫の背をそろりと撫でた。


「君は若いですね。私と違って『緑色』を持っている。そんな君が私と同じようにこの猫に惹かれるということは、私にとってとても嬉しいことなんです」


ほとんど独り言のように紡がれる言葉を彼女は黙って聞いていた。猫はというと大人しく彼に身体を預けている。


「『緑色』を持っている人と触れ合っていれば、私の中の『緑色』も顔を出すんじゃないか、なんて思ってしまうんです。そんなことは、無理なんでしょうけれどね」

「そんなに『緑色』が大切ですか?」


彼女は酷く不思議そうに問うた。


「うちは。あくまで、うちはですけど、若いってことは、幼いってことやと思うんです。お金もろくに稼げんし、やからペットも飼えへん。なんするにも基本的には親の承諾が要るし、もちろんお酒も飲めへん、そういうのってつまらんって、うちは思います」


あ、生意気ですよね、すみません。ぺこりと頭を下げた彼女を彼は物珍しそうに見つめ、それから柔和に笑う。


「物事を、特に思っていることをはっきり伝えられるのは、とても素敵なことですよ。確かに『緑色』が濃い人はそうですね。不自由、だと思います。けれど、ある程度の不自由さがないと安全は確保されませんから仕方ないのではないでしょうか。安全を確保してくれる不自由さは、そんなにも不快なものでしょうか?」

「うちは不快やと思います。なんでも好きに出来る先生には、わからんと思うけど」


ずいぶんと砕けた調子になった彼女は、不満げに口先を突き出した。その姿が彼には好ましく映ったのだろう。彼はにこやかな笑みのまま応えた。


「私はなんでも好きにやってる様にみえますか?」

「え?うん。ちゃうんですか?」

「私は君たちが思うよりもずっと色んなものに縛られてますよ。会社、まあ私の場合は学校ですけれど、あとは家族。それから老い。だから言うほど、君たちと変わってません」


ですが、それは大人であることの責任ですからね。彼は淡々と語る。


「だからこそ私は『緑色』をもつ自由な君達が羨ましい」

「うちらが、自由ですか?」

「ええ。あまりに幼い訳ではない、程良い具合の『緑色』ですからね。そういった頃合であれば自ら選ぶことができ、かつ、責任は大人がとってくれます。やはり私の目からすれば自由ですよ」

「言いたいことはわからんでもない、です」


けれどやはり少し不服そうな彼女は彼の膝の上で微睡み始めた猫の頭を強引に撫でた。


「今はわからなくても、いずれわかる時がきます。君はまだまだ『緑色』ですからね」


彼は諭すようにゆっくりと話す。彼女は彼のそんな姿を講義中の彼に重ねた。


「先生は、ほんまに先生なんやね」


ぽろっと溢れたような台詞に彼の方がむしろ戸惑っているようだった。


「私のことを先生だと、思いますか」

「はい。つまらん講義のつまらん先生やと思います。思ってました。案外話してみたら、うちらと変わらんのかなぁって、今は思ってます」


ずけずけと言い過ぎている自覚があるのか、彼女は照れたようにはにかんだ。


「先生も、学校めんどいんやなとか、家族もたまにめんどいんやろうなあって」


ほら、と彼女は彼の手元にある弁当の包みを指差した。


「弁当作って貰えるんは有り難いけど、たまにはコンビニとか行きたなりません?」

「お見通しですか」

「うちがそうやから、先生もかなって」


彼女はまた笑ってみせる。彼もつられたように笑った。それは猫と一緒に居るときと似た笑みだった。


「そうですね。夕飯の残りを朝にまた別の料理に作ってくれているので、飽きはしませんがそれでも、たまに変わったものを食べたくなる気持ちはよくわかります」

「だよね。うんうん、わっかるわぁ」


でもさぁ。彼女はそう言ってから少し間を置いた。


「老いは、やっぱりうちにはわからん。けどそれって違うんやないかなって思う」

「と言いますと?」


彼は教師らしく彼女の言葉を促す。


「さっきの話と被るとこも多いけど、やっぱり老いてないうちは、うちには老いが自由を奪ってるとは思えん。確かにうちらみたいに若い方が体力あるかもしれへんけど、若くて体力ない子もおるし、めっちゃ元気な爺さんとかもおるやん。だから結局そんなのって、自分で自分の限界をどこに決めるかだけやと思うんね」


彼ははっとしたように彼女の顔を見上げた。彼女はというと、小難しそうな顔をしたまま、老いるって何なんやろなぁと呟いている。物思いの所為か彼の視線には気付かなかった。


「君は物怖じしない性格なんですね」


彼は楽しそうに顔を綻ばせた。彼女はパッと顔をあげると、小難しい顔をやめて満面の笑みを浮かべる。


「そんなことないで。ただ、先生とおしゃべりするんは楽しいよ」


ねー、と彼女は彼の膝の上で丸まっている猫を撫でた。そろそろ猫の方は撫でられることに飽きてきたようで、彼女の手をすり抜け彼の膝から飛び降りた。二人に見向きもせず、植物園の出入り口を目指す。待ってえやシューくん、あんたそこ開けられへんやん。彼女は慌てたように猫を追いかけた。思い出した様に彼女は、彼の方を振り返った。


「先生はそーやって、のほほんと笑ってる方がえーで!先生の授業ほんま眠て」


じゃあまた今度。そんな風に言い残し、彼女は『緑色』を残して走り去った。彼はというと少し困ったように、けれど笑う。


「やっぱり『緑色』には敵いませんねぇ」


彼は言葉とは裏腹に嬉しそうに笑ってみせた。そんな彼の頬はうっすらと『緑色』に染まっているようにも見えた。

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