『橙色』

四月に入ったとはいえ、まだまだ夜は冷える。もう少し暖かくならない事には、天体観測も苦痛だ。とはいえ、空気が澄んでいる冬場のほうが星は綺麗に見える。難しいところだ。昼間に天体観測が出来ればいいのに。無理な相談を一人でしつつ、空を見上げる。淡い橙色オレンジの月が私を見下ろしていた。月は好きだ。太陽と違って眩しくないから。気付くと空が白み始めていて、月は存在感がなくなりつつあった。


今日から学校なのに、また寝るの忘れてた。まあどうせクラス分けが発表されて、宿題の提出をして始業式をするだけだ。ウトウトしてても問題ない。クラス分けを見間違いさえしなければいいだけのこと。二年二組。確認して教室に入る。教室の半分ほどは埋まっているような感じ。特に意味はないけれどさらっと教室の中を見まわしてから自分の座席をめざす。幸運なことに、窓際の後ろから二番目の席だった。目立たないし、プリントを集めなくていい。始業までもう少し時間がある。私は机に突っ伏して目を閉じた。


友達とかいないし。別に必要としてもいないし。そもそも学校なんて夜までの暇つぶしだし。ざわめきが遠のきかけたころ合いを見計らったように教師の声がした。


「おはよー、HR始めるぞー。あ、悪い相川、号令頼むわー」

「ちぇ、ですよね」

「そりゃまー、出席番号一番の定めだなー」


緩い雰囲気の教師が新しいクラスの空気を温めている。イイ先生なんだろう。私にとっては少々都合が悪いけれど、仕方のないことだ。諦めよう。足掻いても担任は変わらないし。睡眠不足でぼんやりとする頭で課題を提出する。頭はいいほうではないけれど、課題はキチンとこなす方だ。出しておけば基本的にお咎めなしだから。


眠い。校長の長ったらしいだけで無意味な話を聞き流し教室にかえる。この後どうする?とか、部活あるんだよねとか、カラオケいこうよとか。そんなざわめきから逃げるように教室を出た。帰って寝たい。眠気でとろけそうな目を軽くこすり昇降口をでた。真上にある太陽に目がチカチカとした。自然とため息が出る。部屋のベッドが恋しくなって、普段より少し足が速くなった。


* * *


夕飯の後にお母さんが出してくれたイチゴに、練乳を少しかけた。そのままでも美味しいのにとお母さんは笑って、お父さんは甘いほうが美味しいよな、と私以上に練乳をかけていた。


「あんまりかけすぎると太るよ」


お父さんは、あーとかうーとか微妙な声を出しながら、三個目のイチゴの練乳は気持ちだけ少なくしている。私は三個目のイチゴはそのまま食べた。やっぱりすっぱかった。四個目に手を伸ばしつつ、そういえばと話した。


「あ、私今日も星見るから」

「ほんと好きだな」

「好きにしていいけど、学校はちゃんといってね」

「うーん、頑張る」


じゃあお風呂入ったら少し寝る。おやすみ。声をかけてリビングを出た。今夜は早めの夏模様を眺めるつもりだ。眠るというほどの時間もなく、まどろんだだけでスマホが震えた。もぞりとベッドを抜け出しこわばった体を解す。何か飲もう。冷蔵庫を開けるとイチゴがまだ残っていた。そのまま口に放り込む。さっきよりは甘く感じたけれど、やっぱり少しすっぱかった。


さて。薄手のパーカーを羽織り外に出る。ベランダ付きの部屋がいいとお願いしたのは、このためだ。本当は屋上のある家が良かったのだけれど、それは却下されてしまった。少し広めのベランダは私の城。お小遣いをためて買った、マットやら簡易式の望遠鏡、星図。アルバイトが出来るようになったら、もっといい望遠鏡が欲しい。校則でアルバイトが禁止されているから卒業するまでは無理だけど。まぁ仕方ない。家からの距離には勝てなかった。朝はぎりぎりまで寝ていたいし。まずは、と。マットに転がり何も考えずに空を見上げる。星明かりに目を慣らすのだ。夏前の夜、月は淡い。だから星がよく見える。見え始めた星に笑顔が零れる。ぼんやりした橙色オレンジに目が眩む。月の向こう側にある太陽を思うと、イラっとした。気を取り直して星を追った。綺麗。思わず声が漏れる。


あれは、気の早い夏の大三角かな。え、もうそんな時間?やっちゃったなあとスマホを見ると案の定、午前三時を過ぎていた。手早くベランダを片付けて部屋に戻る。アラームをセットしてベッドに潜り込んだ。


* * *


「んじゃ、今日から教育実習生くるし、紹介するぞー」

神崎恵かんざきめぐみです。担当科目は生物です。今日から二週間、よろしくお願いします」


教育実習か、興味ないけど。何歳ですか?とか、好きな食べものは?とか、趣味は?とか。雑音から意識をそらそうとしたとき、教育実習生が肩まで伸ばした髪を耳にかけながら言った。


「――が好きです。趣味は天体観測ですね。普段、顕微鏡ばっかり覗いてるからか星を眺めると落ち着くんですよ。そのせいで時々、睡眠不足になっちゃうんですけどね」


ふぅん。気持ちはわかるなぁ。喋る機会なんてたったの二週間であるとは思えないけど。まぁ、どっちでもいいし。特別に何か接触があるわけでもなく淡々と普段通りに、彼女が来てから一週間が過ぎた。授業を受け持つ彼女はいきいきとしていて、きらきらとしていて、物珍しさだけが彼女の授業を成功させているとは思えない。って誰目線だよ。なんて思ったりもする。


――橙色オレンジの、太陽みたいだ。中心になることが得意で、視線をあつめるのが好きで、居ることが当たり前だと思われるような、橙色オレンジ。イラっとした。太陽は嫌いだ。私には『橙色オレンジ』がない。だから私は太陽みたいには、なれない。なりたくもないけど。太陽なんか嫌いだ。太陽なんか疲れるだけだ。視界に入らないで。最初に持った興味からは信じられないほどの勢いで、彼女のことが疎ましくなっていた。なんでこんなに気になるんだろうか。ただの教育実習生なのに。


溜め息を吐いて屋上の小さな日陰に入った。いただきますと弁当を広げる。もうそろそろ屋上で昼ごはんを食べるのも苦しいかな、暑さ的に。そんな風に思いながら太陽が昇っているのとは反対側の空に目を凝らす。月が見えたらいいのに。


「月は見えそうにないね」


本当にね、と簡単に相槌を打ちそうになってから、ひとりきりだったことに気付いて息を呑んだ。落ちそうになる弁当を慌ててひっつかむ。危なっ、私の昼ごはん。


「ああ、ごめんごめん。驚かせちゃった?」


声のする方をみると、ついさっきまでうちのクラスで授業をしていた教育実習生がニコリと笑っていた。眩しい。


「何か用ですか?」


取り繕うように出した声はツンと尖っていた。


「怖いなぁ、大野美佳おおのみかさん。そんなに私のこと嫌い?」

「いえ、別に。それより、もう生徒の名前覚えたんですね」

「さすがに全員じゃないよ。大野さんのことはなんとなく気になったから覚えただけ」


問題児扱いかな。そう思ったのが顔に出たんだろう。


「別に、悪い意味で気になった訳じゃないよ?」

「はぁ、そうですか」


特に返す言葉も思い当たらず、適当に相槌を打って弁当を食べ始めた。教育実習生こと神崎先生は、購買のパンを二つ持っている。焼きそばパンとメロンパン。


「結構食べるんですね」

「まぁね。教師っていうのはみんなが思ってるより、過酷な労働なのよ」


いただきます、と。神崎先生はかわいらしい顔をびっくりするくらい大きく歪めて焼きそばパンを頬張った。


「ひどい顔」


もぐもぐとウインナーを噛みながら言うと神崎先生は照れたように笑った。


「かわいらしくて大人しくて礼儀の正しい先生やってんのも、疲れるでしょ。ご飯のときくらい、ね」

「そっちが素ですか」

「うん。あのキャラだと趣味が天体観測っていっても笑われないから」

「あ、趣味は本当なんだ」

「年も好きな食べ物も嘘ついてないよ。嘘なのは、キャラだけー」

「疲れませんか、それ」


思わず口をついたのはそんな、心配めいた言葉だった。


「べっつにー、っていうと嘘っぽいけど、多少猫かぶらないと、大人はやっていけないのですよ」


冗談っぽく笑った神崎先生は、やっぱり太陽みたいだった。眩しい。


「そうですか」


私はプチトマトをつまんで口に放った。トマトにしては甘かった。口に残った甘酸っぱさの余韻が、口を滑らせたんだろう。


「私も、天体観測好きです」


少し驚いた風に神崎先生はこっちを向くと、にっこりと笑ってから、だと思った、と呟いた。メロンパンが半分ほどなくなっていた。


「日中眠そうにしてたからさ、タイミングも私と一緒で。明け方の夏の大三角、みた?」


嬉しそうな神崎先生はいそいそとスマホを取り出すと、慣れた手つきで写真を見せてくれた。薄い紺色の空に、夏の大三角が映える。


「天体用のカメラですか、羨ましいです」

「大人ですから」


ニヤッと笑った神崎先生は子供みたいだった。ずるいなぁ。不覚にも可愛いだなんて思ってしまった。


「いつもここ?」


なにが?と目線で問うと、お昼ごはん食べる場所と続く。一度だけ頷いてお茶を一口飲んだ。


「じゃあ、明日も一緒に食べていい?」

「ご自由にどうぞ」


ダメだと言ってもきかない予感がしたし、それはそれで悪くないと思った。どうせあと一週間だ。今日は月曜日。火曜の昼はコロッケパンとメロンパンだった。水曜の昼はソーセージパンとメロンパン。


木曜の昼。神崎先生は相変わらず他の生徒や先生たちにはみせない、飄々とした態度で屋上のドアを開けた。


「やあやあ、今日も一人ぼっちの美佳ちゃん」

「うっさいわ、猫かぶり教師もどき」


辛辣ぅ、と。神崎先生はいいながらパンを頬張り始めた。カツサンド。もう一つのほうはと手元をみた私は、やっぱりそうだよね、なんて思う。


「またメロンパン?」

「うん。好きなのメロンパン。美味しいよ?あげないけど」

「別に要らない」


弁当あるし。見せつけるように卵焼きを頬張った。


「弁当いいよね。作るの面倒くさすぎて実家出たとたん買い食いになったわ、私」

「母は偉大」

「そゆこと」


パンも嫌いじゃないけどね。神崎先生はどこか寂しそうに笑った。ヘンな顔。らしくないから止めた方がいいとは言わなかった。


「酷いなぁ、これでも結構可愛いほうだと思うんだけど?」


自信満々に笑った顔は少し憎たらしくて、けれど似合っていて、この顔もあと一日だけか、と。心がざわついたのだ。


「そうですね。神崎先生は可愛いし、世渡りも上手だし、きっと教育実習生じゃなかったとしても、学校とかの集団生活で苦労なんてしないでしょうね」

「え?」


あ、神崎先生の顔歪んでる。怒ったんだろうか。それとも悲しんでる?どっちにせよ、狙い通りのはずだった。


「こんな私にこんな風に構うのも点数稼ぎなんでしょう?いつも一人でいる集団になじめない地味な生徒も実習を終えるころには心を開いていた、なんてところですか?迷惑だから巻き込まないでくれませんか?私は一人が好きで一人でいるんです」


言葉が止まらなかった。嫌だこんなこと言いたくなんかないのに。神崎先生はさっきまでの歪んだ顔すらできなくなったみたいで、能面みたいな顔で黙って私の声を聞いていた。黒目勝ちの目だけが静かに私を観察している。見ないで。先生みたいな人に見てもらえるほどの人間じゃないの、私。


「邪魔しないでください」


たったそれだけの言葉にすごく疲れた。今日は早退しよう。心に決めて屋上を出た。だって午後は神崎先生の授業がある。


* * *


「みーかー。遅刻するよー」


天体観測と勉強のことに口出ししない代わりにきちんと高校を卒業する、というのが親との約束で。塾や習い事の代わりにベランダのある部屋にしてもらったりして。だから遅刻とかズル休みっていうのは、私の中でタブーになっていて。けど今日は学校に行きたくなかった。行くけど、行くけどさぁ。ため息。


朝のHRの時間。神崎先生は少し眠そうな顔をしている。眠れなかったんだろうか。そっと観察していると、一瞬だけ目があった気がした。どうでもいいけど。そうだ、どうでもいい。グイと視線を窓の外に逃がした。太陽の光が窓に反射して、痛かった。ああ、やっぱり太陽は嫌いだ。橙色オレンジは嫌いだ。


弁当を持って屋上を目指す。来るんだろうか。いやきっと来ない。昨日あんなに酷いことを言ったんだ。


「よ!」


先客の姿にたじろいだ。同時に心臓が跳ねる。口をついて出たのは心無い言葉だった。


「何で居るの?」

「それさ、思ったんだけど、意味ないじゃん。昨日はびっくりして何も言い返せなかったけど。屋上ってそもそも共有スペースだし。穴場とはいえ、別に私が遠慮する必要ないでしょ?」


したたかな言葉に気圧されて私は何も言えない。


「私だって見れるなら見たいの、真昼の月」


そうでもしなきゃ学校なんてやってらんないじゃない。遠く突き抜ける空を見上げたまま、神崎先生はいう。


「そうだよね」


同意を示すと、何かが壊れてしまったかのように、私は言葉を失った。


「私ね、教師になる気なんてこれっぽちもないのよ。ぶっちゃけ、こんな割に合わない仕事する気になれない。奉仕の精神?ボランティアでもやってろっての」


間を埋めるためだろうか、神崎先生は淡々と喋りだした。合間合間にパンを齧ってみたり、ジュースを飲んでみたりしている。結局私もつられて弁当を広げた。


「でもね、学校っていう空間は嫌いじゃないのよ。いろんな人がいて、いろんなことがあって、大体のことは決まってて、いい顔して良い子の振りしてれば、評価してもらえる。決まりが多いってのは面倒だけど同時に凄く楽なの」


ある程度型にはまってれば落ちこぼれていかない。それが学校というモノなんだ、と。神崎先生はいう。


「だから、型にはまっているように見えて、型にはまる気がさらさらない美佳のことが、かっこいいと思った。私にもそんな強さがあったら良かったのにって、すごく羨ましくて。でも。だから、かな。好きだと思ったの」


よくわからない言葉に私はむせた。げほげほと咳き込む。背中をさすってくれた神崎先生の手は橙色オレンジみたいに暖かかった。大丈夫?と心配そうに私の顔を覗き込んだ彼女の顔は、少しだけ昨日と同じ風に歪んでいた。


「私は」


言っていいものかどうかほんの少し悩む。その躊躇いが神崎先生には否定的に映ったのだろう。


「ごめん忘れて」


悲しそうな声色。ダメだ、このままじゃ。まって、と。言葉より先に手が出た。その手は神崎先生の橙色オレンジの手を掴んだ。


「嬉しかった。私なんかに声をかけてくれて。憧れたの、そういう風に振舞えることに。だから羨ましかった。太陽みたいにみんなの真ん中で笑ってる神崎先生が。私は絶対にそんな風にはなれないから。私には先生みたいな橙色オレンジはないから。でも、橙色オレンジは要らないって思ってる先生にムカついた」


頭に来たのは本当だった。だから傷付けようと思った。そうすればこの人は実習が終わった後も、私のことを引きずるだろうと思った。引きずってほしいと思ったんだ。


「ムカついてわざとひどいこと言った。そしたら何か変わるんじゃないかって思った。かわいそうで地味な生徒Aじゃなくて、大野美佳が神崎恵の記憶に残ったらいいのにって思った。傷付いてたらもう、来ないと思った。来てほしくなんかなかった。のに、最後に二人きりで会えて、やっぱり嬉しかった」


自分で言った最後という言葉に、首を絞められた。痛い、苦しい。絞り出すように声を出す。


「すき」


弁当もメロンパンも地面にほったらかしになっていて、うつむいた私の視界に入ってきた。それが段々滲んでいく。嫌だ泣きたくなんかないのに。握りしめたままの手がほどかれて呆然とする。


「美佳」


決して他の生徒は名前で呼ばない。神崎先生は教師と生徒の線引きを間違えない。そういった意味でよくできた教育実習生だ。そんな彼女が私の名前を呼び捨てる。心臓が痛い。促すように手が握られた。ゆっくりと顔をあげる。神崎先生は笑っていた。


「なんで笑って」

「同じ気持ちだったなんて、そんなの嬉しいじゃない。嬉しかったら笑うのよ」


もっともだと思う。そんな風に笑える彼女が、やっぱり好きだと思った。


「恵さんって呼んでもいい?」

「学校以外ならね」


最後じゃないのだろうか。そんな風に思わせる言葉にすがって彼女の笑顔を見上げた。


「今度、一緒に星見に行こうよ」


言葉が出なくて頷いた。素直に嬉しかった。身体があったかくなった気がした。きっとこれは、恵さんの橙色オレンジのおかげだ。


私には『橙色オレンジ』がない。だから橙色オレンジをした太陽みたいな恵さんが好きだ。私にないものをたくさん持っている恵さん。私の憧れの人。でもその人も、私のことをかっこいいと言った。羨ましいと言った。私たちはお互いに無い物ねだりなだけだった。それに気付いて、私たちはお互いの手を握ることにした。そうしたら、私の中にも少しだけ橙色オレンジが見えた気がした。

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