『青色』

突き抜けるような青空に、カシャリカシャリとシャッター音が響いていた。


「そんなところを撮って何が面白いんだ?」


現地ガイドの呆れたような問いかけが耳の上を滑る。俺にもわからないよ、俺の写真のどこがどんな風に良いかなんて。


「けど俺がこんな風に俺の行ってみたいところをフラフラして、好きなように写真を撮っていられんのは、俺の写真をみて好きだって思ってくれる人が居るからだな。だから俺は、俺の行った先で馬鹿みたいに無心でシャッターを切るだけさ」


確かにあんたは馬鹿みたいだな。そう言って現地ガイドのアントニオは快活に笑った。どうやら、俺の言葉がお気に召したらしい。よかった。


「そろそろ市街地に戻って飯にしよう。なにかオススメの郷土料理ないか?」

「そうだな。あるにはあるが、日本人に食えるかどうか……」

「辛いのか?苦い?それとも、臭い?」

「ははは!臭い?ときたか!お前さんの言葉を借りるなら、辛い、だな」


愉快そうなアントニオに肩をすくめた。


「仕方ないだろ。前にどこだったかで食った肉がめちゃくちゃ臭かったんだよ」


大概の郷土料理は変わった味がするものだが、アレはさすがにキツかった。精がつくからといって無理やり食わされたんだったっけか。あのおばちゃん、元気かな。いつぞやの旅を思い返しながら広げていた機材を片付ける。


「そろそろいいか?いくぞ?」

「ああ、頼む。ハラペコだ」


車内で、撮った写真を眺めた。ものの見事に真っ青だなという印象を受ける。相変わらずだ。あの頃と何も変わっちゃいない。時刻を確認しようと触れたスマホにメールの通知がきていた。メールだなんて珍しい。メールボックスを開くと珍しすぎる相手からだった。


──

お久しぶりです。元気にしてますか?

こちらは、まだまだ寒さが残っています。

貴方はどのような気候のところにいるのかしらね。

どうか、身体には気をつけて下さい。


先日ようやく両親を連れて貴方の写真展に行くことができました。

貴方の写真展って本当に沢山の方が来られてるのね。

私、とっても嬉しかったわ。

あの父が、目を細めて喜んでたわよ。


もし可能なら帰国した際は実家に顔をだして下さい。

待ってますね。


頼子

──


ほっといてくれれば良いものを。嘆息が口を突いた。急にどうしたんだ、とアントニオ。日本にいる元カノさと嘯くと、良い男は違うねぇとからかわれた。そのからかいより、姉だと言った時のからかいの方が痛いだろうから、甘んじて受ける。


「良くもないさ、元なんだから。鬱陶しいぞ?」


確かにそりゃそうだ。彼は気にするなとでも言うように、アクセルを吹かした。少しだけ開けた窓からの風が前髪をさらう。今度は気付かれないように、そっと溜息を吐いた。


少し眠っても良いか?後ろ頭に問うと、勿論さ、と返ってきた。本当に良い奴だ。着いたら飯は奢りだな、などと思う。思いながら目を閉じた。喜んでいたという父親の顔を想像しようとする。思い出されたのは、真一文字に口を結び開けば罵声の厳格すぎる父親の顔だった。


「関野くん、生徒会長に立候補してみない?」

「僕、ですか?」

「ええ。先生ね関野くんならきっと、うまくやれると思うの」


そんな風に言われたのはいつのことだっただろうか。それを父に報告すると、父は『当たり前だろう、関野家の跡取りなんだから』と言って、やはり厳格な顔を崩さなかったように思う。健気だった俺は、もっと頑張らなくちゃ、とでも思ったんだろう。


「やっぱり関野くんに任せて正解だったわ」


任期を終えて教師からそう言われたときも、謙遜していたと思う。かなり無理をしていただろうに。それを父に報告したのか、していないのかは記憶にない。その頃から、少しずつ父親との距離は離れていた。


そして、進路指導。淡い希望を持って父に渡した紙は無残に破り捨てられた。何故、県内トップの高校に行かないんだ。それが父の言い分だった。俺は何も言い返せなかった。


言い返せなかった俺は夢も希望もない高校生活を送ることになった。けれど進学校独特の放任主義的な校則に、俺は救われた。気の合う友人と遊びに行くことも覚えた。しかして家に帰れば親の言いなりに逆戻りする生活。いい加減うんざりした俺は、家を出ることにした。クソガキが良くもまぁ家出したもんだと、今思えば懐かしい。結局のところ家出は3日ともたないうちに、母に連れ戻されることになったのだが。


「どういうつもりだ!」


父が怒鳴り声をあげるというのはあまりないことだった。厳しいけれど、怒ることはしない人だったのだろう。それも今になってようやく思い至ることができたことだ。当時の俺には、わかるはずもない。いかんせんクソガキだった。


「ふざけんな!俺にだってやりたいことくらいあんだよ!俺はあんたの玩具じゃない!」


やりたいことがあると切った啖呵も、友人と遊びたいとか、その程度の内容だった。それでも今までにない反発に、母はさめざめと泣き父は青ざめた。取りなしてくれたのは姉の頼子。その甲斐あって事態が好転した、とかならまだもう少しマシだったのかもしれない。俺が根無し草になることもなかったのかもしれない。けれど締め付けは厳しくなり、友人と遊びに行くことも出来なくなった俺は、孤独になった。


学校と家とを往復する毎日。電車の窓枠からみえる風景だけが、俺を慰めてくれた。そしてその時、俺は気付いたんだ。俺にないのは『青色』だっていうことに。それから俺は写真を撮り始めた。当時はまだガラケーだったはずだ。ちゃちな写真を何枚も何枚も何枚も撮った。自由の象徴みたいな『青色』の空の写真ばかり、何枚も。そして親に隠れてアルバイトを始めた。カメラを買おうと思ったのだ。十何万もするカメラを目標にしたのは、決意の表れだったのだと思いたい。


それなりに学校の方もちゃんとこなしていたはずなのだけれど、出席日数がきわどくなった辺りで、とうとう家に連絡が入った。俺は何も言う気はなかった。どうする、と父が俺の方を見向きもせずに問う。母は淡々と夕飯を作っていた。学校やめる。


破裂音がして、母が食器を取り落として割ったことに気付いたけれど、俺は無視した。慌てて階段を駆け下りてくる姉。すれ違いざま、姉は困ったように笑っていた。頑張りなさいよ、と。そんな風にも見えた気がした。


だから俺は今、此処に居られる。


俺には『青色』がない。だから俺は『青色』を求めて旅に出た。行く当てなんてない、行き着く場所なんてない、そういう旅だ。


「リョージ!着いたぞ、飯だ!」


けたたましい声で現実に引き戻された。うんと伸びをして車を降りる。奢るから旨いところに連れてってくれ。俺の言葉にアントニオはニヤッと笑った。


「後悔するなよ?」


上等だ、受けて立とう。笑い返して彼の隣に並ぶ。昼下がりの市街地は喧騒に塗れている。


「いつものやつ、頼むよ」


彼の行きつけだろうか、店員はわかったよと言いながらキッチンに戻っていった。席に着くと、疲労感が増した。肉体疲労七割、精神疲労三割。そんな風に分析してみる。あの、メールのせいだ。なんて返信したものか。


「おまちどうさまー!」


いいタイミングで、見るからに辛そうな色をした料理が運ばれてきた。


「なぁ。これ、どれくらい唐辛子はいってるんだ?」

「さぁなぁ。知らない方がいいこともあるんじゃないのか?」


彼は意地の悪い顔をした。意を決して一口。思ったより辛くないな、旨味もあるし。結構イケると言おうとした瞬間、口の中が麻痺した。俺が、目を白黒させているのを見て、アントニオはもちろんの事、料理を運んで来た店員も笑っている。


「旨いだろ!」


ひとしきり笑った彼が同意を求めてきた。完全にノーと言えないところがまた、悔しい。


「辛すぎさえしなけりゃ、かなり旨いな」

「そりゃそうだろうな」

「はい、どうぞー」


先ほどの店員が同じ風な器を持ってきた。


「それね、この人のジョークで海外の方に出してる、十倍辛いやつなのよ、ごめんねぇ。こっちはちゃんと、ほどほどに辛いやつだから、こっちなら食べれると思うわ」


けどお兄さん凄いわよ、ちゃんと飲み込んだんだもの。吹き出しちゃう人もたまぁにいるのよ。店員は楽しげに去っていった。ギロリと彼を睨む。


「特注の分は俺が払うんだ、それでチャラだろ?」


悪びれもしないアントニオにわかったと告げ、ようやく遅めの昼食を食べ始めた。素直に旨かった。一息ついたところで彼がこの後の予定を確認してきた。


「この後は、例のスポットだったな?」

「ああ、頼むよ」


そういえばと、間をつなぐために疑問を投げ掛けた。


「あんたは、本来なら旅行ガイドのはずだろう。なんで俺の曖昧な注文を受けてくれたんだ?」

「ああ、そのことか!言ったつもりになってたっけな。お前さんの写真が好きだからさ」


しれっと言い放ったアントニオに俺はたじろぐ。


「そんなところを撮って何が面白いかって聞いたよな?」

「ああ聞いたな。俺の目から見たところで、あの空は何の変哲もないただの空でしかない。けど、リョージ・セキノのファインダー越しに見ると、綺麗になるんだ。だから、お前さんの目からみた空がどんな感じなのか、聞いてみたくなったんだ」


大した答えじゃなかったけどな。素直に照れてしまった俺は誤魔化すように頭を掻いた。


「俺はあんたが思ってるほど、特別でも何でもない、普通のやつだっただろう?けど、やっぱり撮ることは好きなんだ。だから、これからも写真は撮り続けるんだと思う」


嬉しそうな顔をしたアントニオと連れ立って店を出る。いってらっしゃい、と店内から声が追いかけてきた。嫁さんなんだ、あいつもリョージ・セキノのファンなんだぜ。吹き出しそうになるのを堪え、平然を装って歩くので、精一杯だった。


「そういうことは、先に言ってくれ」


車内に戻り俺が訴えるとアントニオはやはり悪びれもせず、頼まれてないからな、と笑った。言い返す気力もなく、肩をすくめるに終わる。走り出した車は午前中とは別の場所を目指していた。


「思ったより今日は日の入りが早そうだ。悪いが少しばかり飛ばすぞ」

「了解」


青が濃くなりだした頃、目的地に着いた。慌てて機材を準備する。セッティングが終わりあとはシャッターを切るだけになった。こちらを伺うようにボソリとした声が聞こえた。


「間に合ったな」

「ああ、ありがとう」

「いえいえ、これは俺のためでもあるんだからな」


恥ずかしげもない言葉にむしろこっちが恥ずかしくなる。少し困っているとぎゃあぎゃあと鳥の声が大きくなった。


「来るぞ!」


俺は返事の代わりにシャッターを切る。薄紅を端に迎え始めたまだ青い空と、巣へ帰らんとする鳥のシルエット。この場所からでなければ、夕焼けが視界に入ってしまう。そんな場所がないかと尋ねたとき、ほんの刹那ほどしか悩まなかった、本職は現地ガイドのアントニオ。本当に俺のファンなんだなと、今になって思い知らされた。……けっこう恥ずかしいぞ、これ。幸いカメラが俺の顔を隠しているから変な顔をしているところは見られずに済む。


やがて鳥の数も減り、視界に夕焼けが混ざって来た頃、俺はカメラを下ろした。


「俺たちも、帰るか」

「そうだな」


アントニオには帰る家があるのだ。ふっとそんなことが頭を過る。姉を立てるために今度、実家に帰るのも悪くないな、なんて思考が首をもたげた。そんなことを思ってみたものの、今回の旅は、もうしばらくは帰国出来やしないのだったと思い出す。代わりに、と。


「なぁ、ポストカードを買えるところはあるか?」

「あるぞ。けどお前さん、ポストカードを出すんだったら、自分の撮った写真を印刷すればいいんじゃないのか?」

「……ああ、そっか」

「ははは!可愛い奴だな」


うるせぇ。吐き捨てて俯く。今夜は宿に戻ったら、すぐにポストカード用の写真を印刷しよう。一枚は実家へ、もう一枚はアントニオと奥さんへ。それを手放したら、すぐに次の旅だろう。ほんの少し寂しくなるなと思った。


けれど俺は、俺の『青色』を見付けるために旅を続ける。インクが滲まないようにと机に置いたポストカードは、やはり『青色』をしていた。すこしでも、俺の中に『青色』があれば良いのにと、願いながら目を閉じる。


俺には『青色』がない。けれど『青色』を切り取ることは出来るようだ。俺は『青色』と寄り添って生きていくことを決めた。だから、旅を続ける。

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