欠色

黒巣真音

『赤色』

その夜、僕は街灯もない街のはずれを灯りを避けて歩いていた。真っ白いニットも老いてみえる白髪も闇夜にほとんど紛れてしまっている。とはいえ、この暗闇は僕にとって好都合でしかない。


「おーい、どこ行っちゃったんだーい?」


随分と間延びした声だと思う。あちらさんからすればむしろ恐怖心を煽るだけなのかもしれないと思った。……こういうことは、わかるんだけどなぁ。独りごちつつ路地を歩く。この辺りはもう袋小路になっていて一歩先は行き止まりだったりした。そのたび声をかける。おーい、どこ行っちゃったんだよー。パタパタと駆けていく足音に探し人との距離が近い事を知る。逃げないでよー。パタパタッ。何個目かの行き止まりでようやく探していた人を見つけた。


「みぃつけたー」


もう、探しちゃったじゃないか。僕はにっこりと笑いながら、路地の奥でうずくまる人にゆっくりと近付く。ガタガタと震えているのはきっと寒さだけが理由じゃないのだろう。


「悪足掻きは、終わったみたいだね?」

「や、やめっ。ころさない、で」


命乞いする他人の姿はどうしてこうも面白いのだろう。僕はそろそろ笑いが抑えられなくなった。あっははは、やだよ?君は死ぬんだもん。僕が君を殺すんだよー。僕の笑い声に感化されたのか、その人は震える両膝で立ち上がる。やっぱり僕より背が高かった。とはいえ、そんなことは何の意味も持たない。そう思いながら手にしたナイフをくるりと弄ぶ、と。嫌だあああああ、死にたくないーーー。転びそうになりながらも、目の前の人が僕に向かって突進してきた。逃げようとしてなのか、はたまたナイフを奪おうとしてなのか、僕には想像もつかないけれど。半歩分道を譲ってすれ違いざまに右脚を前に出せば、面白いくらい簡単に転んだ。あははは。笑いは溢れる。


「無様だねぇ、けど、そういうのいいと思うよ。生きてるっぽくて」

「やだ、やだっ」


涙と汗と、一番最初につけた傷から垂れる血が混ざって、その人の顔はグチャグチャだった。汚い。汚いけれど、この人は生きてる。まだ、生きてる。


「いいねいいね、生きてるっぽくて。凄いよ汚いけど綺麗だよ、たぶんね、あははは」


楽しくて仕方ない。生きてる人間が死の間際に見せる全部のことに、僕は魅せられていた。笑いが漏れる。あっははははっは。


「けどね、残念ながら、君はここで死にまぁす。僕という身勝手な人間の所為で、君の生は終わります。残念でした。あはは」


馬乗りになってその人を見つめる。その目は虚ろで絶望色をしていて、しっかりと僕の姿を反射していた。月光が僕たちを刺す。


キラリとナイフの切っ先が首筋を捉えた。スパン。真っ赤な血が噴き出す。見開かれた瞳がだんだんとただのガラス玉になっていく。噴き出す血が生暖かく僕とその人を赤に染めていく。ただひたすらに、赤だった。あはは、凄いね、凄い凄い。君はこの真っ赤な血の分だけ、生きてたんだよ。赤は、生きている証だもんね。凄いよ、綺麗だよ。そしてその赤を失った分だけ、君は死んでいくんだよ。あははは。さよなら。


「僕のことは恨まないでね。恨むなら運命を恨んでね。それで運命とカミサマを恨んで呪って、憎みながら死んでね」


あっははは。真っ赤に染まった髪や服や手や顔や体のすべてが、僕自身に生きているという感覚を思い出させてくれた。あぁ、僕は今、生きてる。真っ赤に生きている。その感覚が心地よかった。


ゆっくりと路地を出る。月がまだまだ空で主役を張っていた。いいね、お前は。ぼおっとしてるだけなのに、存在を認められて。ーーー所詮僕は、生きちゃいない。血も涙もない、死んだままのような人間だ。


滴る血もなくなって、カサカサとガサガサと真紅が深紅になり始めたころ、ようやく今の棲家にたどり着いた。浴槽に湯を張る。ジャバジャバと勢い良く跳ねる水がさっきの流血を思い出させて、笑いが漏れた。あははは。愉快だ。爽快だ。服を脱ぎ捨てるのも煩わしくなって、そのまま湯船に落ちた。透明だったはずの浴槽内は、溶け出した血でだんだんと赤く染まっていく。生の証の赤い浴槽と生を感じさせない真っ白な僕の髪や肌が、混ざっていく。ともすれば薄紅にも見える浴槽内という小さな世界に、僕は確かに興奮した。


あっははは、ははは。……っは。ぁあ。


水分を含んで重たくなった洋服をどうにかこうにか脱ぎ、全身を洗い直してからタオルにくるまった。まだ熱をもったままの身体を誤魔化すように真っ白なシーツに倒れ込んだ。どうせ僕には、赤なんてないんだ。真っ白なシーツがお似合いだ。


「お前は、血も涙もない奴だな」


蔑みの声に僕は飛び起きた。いつの間に眠っていたんだろうか。脳内再生された蔑みの声に肯定の意味を込めてうなずく。


「そうだね。僕には『赤色』がない。だから僕は笑いながら人を殺すんだよ」


もちろん返事はない。求めてもいない。代わりに空腹を訴えた腹をなだめるように撫で、キッチンに向かった。冷めて硬くなったご飯と卵、人の指のようにも見えるウインナーを冷蔵庫から取り出す。ウインナーを切り刻んでも、血はでない。だから僕は笑わない。まぁこんなもんか。食事を済ませ満たされたはずの身体はそれでも何かを求めていた。ああ、赤色が欲しい。まだまだ赤色が欲しい。赤くなければいけないのに。それなのに、僕は赤くない。


赤くないなら、赤を浴びればいいんだ。


赤を求めて僕はまた、宵街に繰り出す。


「綺麗なネックレスですね」

「え?ええ、あ、ありがとう。そ、それじゃあ私、急ぐので」


踵を返した女性の細い腕を掴む。待ってよ。


「もう少し、話そうよ」

「ぎゃっ、離してよ!!!」


暴れても手は離さなかった。逃がさないよ、僕は君の赤が欲しいんだから。真っ赤なネックレスが似合う君の赤はどれくらい、僕を染めてくれるのだろうか。想像するだけで、笑みがこぼれた。


「誰かっ」


言いかけた彼女の眼の前に、ナイフをかざす。すぐに彼女は怯えた顔をした。その目には、うっすらと涙が浮かんでいるようにもみえる。ああ、君も生きているんだね。綺麗だな。


「残念だけど、君は死ぬことが今決まったんだ。生きている君は、真っ赤な血を流して、死ぬんだよ、殺されるんだよ。僕のせいでね。ああ、けど僕のことを恨んだりしないでね。恨んだり呪ったり、憎んだりっていうのは、君の運命か、あるいは神様の方で頼むよ」


笑いながらナイフをくるくると弄ぶ。彼女は、泣いていた。さめざめと。ああ、生きてるね。生きてる、生きてる。ほんの数十分もしないうちに、君は死ぬけれど。


「ころさな「嫌だよ」


僕がにっこり笑うと彼女は弾かれたように暴れだした。解けた拘束に、彼女は駆け出した。ハイヒールが脱げている。ああ、もう。足に怪我しちゃうよ。僕は彼女を追いかけ始めた。一本奥の路地に逃げていった彼女の荒い息遣いが聞こえる。


「逃げなきゃ、殺されちゃうよー?」


笑いをこらえつつ、路地を駆ける。生きてるってスバラシイね。どうでもいいけど。どうせ、君は死ぬんだし。嫌っ、と彼女は僕に背を向ける。何てことないほんの数センチの段差が彼女の足を引っ掛けた。無様に転び、転びながらも駆ける彼女は、確かに生きている。


「つかまえたー」


先ほどと同じように腕を掴み、強引に抱き寄せる。涙でぐちゃぐちゃな顔と目があった。せっかく綺麗にお化粧してたのにね。髪もボサボサだ。どうせ死ぬなら、綺麗に死にたかったかな?けれどね僕は。こういう風に必死な形相の方が、好きなんだ。だってほら、生きている、って感じがするでしょう?


いっそキスでもしてあげればまだ、彼女も救われるのかな、だなんて愚かしい考えが、頭をよぎる。何をしようとも、何をしなくとも。僕には血も涙もないのに。


「…にたくない」


そっか、うん。じゃあ君だけは、助けてあげる。……なんて、この僕が言うとでも思ったのかい?アスファルトに組み敷いた彼女の心臓めがけてナイフを突き立てた。そして、抜く。噴水のように鮮血が飛び散り、僕はたまらず笑い転げた。あっははははははは。彼女の顔が歪んだ。痛いのだろうか。痛くないわけはないだろう。痛くて当たり前だ、生きてるんだから。真っ赤な血が、彼女の歪んだ顔や、僕の白い髪に降り注ぐ。特有のサビの匂いが、感覚を麻痺させた。


「あははは、可哀想にね、生きてたのにね、生きてるのにね。もう死んじゃうんだね。あははは」


何か言いたげな瞳のまま、彼女は事切れた。なんだよその目は。やめろよ、憐れむなよ。怒れよ恨めよ嘆いて呪えよ。……ははは、馬鹿馬鹿しい。あっははは、くだらねえ。本当に本当の本当に、くだらないな!人だったモノに何度も何度もナイフを突き立てた。血はもう、飛ばないのに。赤くもなれないのに。僕は、もっと赤く赤く赤くなりたいのに。


棲家への道中、昔のことを思い出していた。どうでもいい昔話だった。思い出の人は、儚げに笑っていた。その笑顔を、僕は、嗤った。


「ふぅん」


なんてことはない、日常的なワンシーン。僕は興味なさげにその人の話をいなした。そしてその人は、笑った。


「本当に君って人は、血も涙もないね」

「……うん、そうだねぇ。じゃあさ、せめて、君の血をちょうだいよ。君の赤で、僕のことを染めて?」


僕は嗤った。 嗤って嗤って嗤ってその人にナイフを突き立てた。視界が真っ赤に染まる。真っ赤に染まる視界の中で、君はやはり綺麗だった。そして、笑っていた。悲しそうに、笑っていた。僕も笑った。僕は悪くなんかない。


どうせ僕には、血も涙もないよ。知ってる。ゆっくりと瞬きをして、残像を振り払った。黒くなってしまった血だったモノを洗い流すために浴槽に潜った。ごぼり。真っ赤な世界に沈み込んでもなお、僕は満たされなかった。赤が赤が赤が欲しい。赤。


僕は耐えきれなくなって、棲家を飛び出した。濡れた髪が首筋にまとわりつく感覚が酷く気持ち悪い。白い服に薄く赤が滲み、ほんのりと色付いていた。


「そういうわけなので、僕を真っ赤に染めて欲しいんです」


あなたの赤を下さいな。あは、君は生きているんだね。あははは。生きてる、生きてる、生きてるんだね。羨ましいなあ。あははは。何度も何度も何度も切り付ける。ずっとずっと、その人が赤く染まり続けるように、浅く薄く切り付ける、切り続ける。


「私を殺すの?」


その人は泣きながら囁いた。極小さな声だったはずのそれが、嫌に耳に痛い。うるさいなあ、命乞いでもしてみたらどうなんだい?苛立った問いかけは、わずかな動作でいなされた。


「どうせ生きてたっていいことないんだし、君のために死んであげる」


そんな言葉が聞こえた。今夜二人目の僕を赤く染めるための生贄と目が合う。ねぇ、早く殺して。生贄は赤い身体で僕に抱きついてきた。僕にはもちろんそれを拒む理由はない。二人の間に挟まれたナイフがずっぷりと生贄に突き刺さる。生暖かい鮮血がパタパタっとアスファルトを染めた。


「殺してくれて、ありがとう」


耳元で囁かれた声は確かにそう言っていた。力尽きて倒れたその人を見る。腕や足には幾筋もの切り傷が見て取れた。左腕には僕が付けたものではない真新しい傷がひとつ。ああ、そういうことか。死にたかったんだね、君は。いい加減に疲れ果て、本日二度目の棲家への道をたどる。赤色をしていた浴槽を一度洗い流した。緩慢な動作で服を脱ぐ。身体が重かった。


薄く赤に染まった浴槽内で僕はまだ、赤を求めていた。先ほどの彼女の左腕が脳裏をよぎる。もしかしたら僕にも赤はあるんだろうか。確かめなくちゃ。傍らに投げ出したままのナイフを手に取る。こんな感じかな。スパッと左腕を切り付けた。真新しい傷口から血が流れた。赤いよ、ねぇ、僕にも血は流れているじゃないか。あは、僕にも、赤はあったよ。あははは。あはははは。じんわりとした痛みとにじむ赤。ツンと鼻の奥が痛くなる。嬉しくなって今度はもう少し深く切った。玉のようになった赤を浴槽にこぼす。


「きれい……」


溶け出す赤に心を奪われて、今度は足を切った。あはははは、赤い赤い赤い。赤が滲んでは消えていく。もっと、もっと、もっと。赤く赤く、僕の中にも、血は流れてるんだよ。僕も血の通った人間だよ。あははは。視界がぼやけた。赤い。口の端が少し塩辛かった。ああ、僕は、泣いているのか。あは、涙もあるじゃないか。あはは、あはははは。僕は、ようやく満足して、目を閉じた。


ーーー僕にも、ちゃんと『赤色』あったよ。

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