第6話 邂逅
自らの運命が変わった瞬間とその元凶。忌々しい男の顔を脳裏から消すため、
許された
あるいは、閉ざされたからこそ、渇きはさらに彼女を
心は死んでも、体は死なない。
楊倩のやわらかい笑みを、忘れぬように何度もなぞりながら、いっそ死ねば楽だろうと、あの日以来幾度くり返したか知れないことを
けれど、
踏みにじられたことを当然として生きるには、彼女の矜持は
風を感じた気がして、双玉は瞼を開いた。
皇帝が訪れるまで
薄闇に浮かぶ濃い闇が人の形をとっていることを認めて、総毛立った双玉はまず、入り口との距離を確認した。石床だ。身のこなしを見るだけでも、まともな人間ではないのはわかる。
刺客か、あるいはそれに類する人間か。刃物は持っていないように見える。
ほんの小さな部屋だが、門に向かう線は遮られていて、そこから逃げ出すのは困難であることが予測された。
誰何をすべきか迷った僅かの間に、先に人影が言葉を発する。
「あんたが、水双玉?……答えなさいよ」
意外にも若い女の声で問うた影は、おもむろに床に近づいた。
「ふうん。流石にみてくれは悪くないわね。でも、もうそれ取ってるってどういうこと。あの昏君をなめてるの?いい趣味してるじゃない」
黒い顔覆いで、影の表情は見えない。全てに黒い薄帳がかかった視界は、現実味を双玉から奪っていた。
気負いのない小馬鹿にしたような調子で一方的に語る影に、ようやっと、言葉が返る。
「あなたは誰」
「あんたは知らなくていいことよ。あんたが知っておくべきなのは、後宮にあんたの心の休まる場所はないこと。信用できる人間もいないこと。周りは全部敵だと思いなさい」
「そんなの、
その返答は、どうやらお気に召したようで、影は笑い声をあげた。決して声は大きくない。ただ、その密やかさがかえって
「まるで世の中の全部があんたに借りがあるみたいな態度ね。じゃあ、今までになかったことを足しましょう。知っておくのよ、
「欲しいなら今とればいいじゃない」
引き出しやすいところに仕舞われている虚勢は、すんなりと張られる。
奪ろうと思えば無駄な問答などなしに、とっくに
「私もそうしたいんだけどね。
らしい。それは、この影が、自らの意思だけで動いているわけではないということだ。
湧いてきたのは、行き場のない怒りだ。
朱子毅といい、この目の前の影といい、生まれてこのかた、屋敷をろくに出たこともないこの身に、一体どこでこれほどの
自分は、なんのために、あの鳥籠にこもっていたのか。理不尽さに涙が出そうになる。
『水家の娘』と『水双玉』は必ずしも同義ではない。『水家の娘』という立場に向けられた悪意は、彼女がどこで何をしていても避けようがない、という事実を、この時の双玉は真に理解していなかった。
どうしたって彼女は箱庭で育てられた千金だ。
「あなたは誰の使いなの」
「それも知らなくていいことよ」
朱子毅ではないの、そう喉元まで出かけた言葉を押し戻した。違ったら目も当てられない。相手は双玉のことを知っていて、逆は何もない。
下手を踏めば、もとより薄氷ほどの確かさしかない祖父の生存への希望を、さらに削ることになりかねない。
「飼い主の名前は出さないのね。見直したわ。少しは考える頭があったようで」
心中を読んだかのような返しに驚いて、双玉はまじまじと見えない目に視線を向けた。
「驚いた?私はなんでもわかるのよ。そうね、今何を考えてるかあててあ」
「ムホウ、そこまで」
人影が増えていた。新たな影はやや小柄で、声も高い。けれど、その手はムホウと呼ばれた影のうなじをつかんでいた。
それから二つの影は音を発するのをやめた。
「あなたは誰」
応えはない。そして、長くはない静けさの後、最後まで何事もなく小柄な影は、かき消えた。
「ムホウ、一体これは何なの」
「気安く呼ばないで。私、あんたが大っ嫌いなの。本当はいますぐ殺したいのよ」
先ほどの気負いのない声とは別人のようだ。
このわずかの間にどんな心境の変化があったのかは窺い知れない。原因はおそらくさきほどの小柄な影か、あるいは名を呼んだことか。
「もう行くわ。忘れないでね、私はいつもあなたを見ている」
「私は、あなたのこと嫌いじゃない」
返された背に、反射的に投げた言葉は双玉の本心だ。
腹蔵のない言葉を発する点では、来歴不明の刺客すら、今の彼女にとっては、好ましい人間に思える。
「やめて虫酸が走る。長く生きたいなら、私に媚を売るより、あの方をこれ以上傷つけないように過ごすことよ」
最後に、またひとつ大きな情報を落として、ムホウは現れた時の時間を巻き戻すように天井に消えた。
ムホウのあの方は、きっとこの後宮に居るはずだ。そして、過去に自分と会っている。
また、一つ課題が増えた。
課題は積もっていくばかりなのに、今の彼女にはそれを解決するすべはない。
考えても、考えても、この身の他は何一つ彼女の手には残っていない。
それを持っているのは、彼だけだ。
「
「来ないでください、陛下」
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