毒虫

望み薄の教室で、君と目があった。君は笑って言った。


「早く諦めちゃえよ」


頭を鈍器で殴られたかのような衝撃に、走馬灯のごとく記憶がフラッシュバックした。


特別でもない、ありふれた平日の朝。通学カバンを手に教室に入り、いつも通りにおはようと言う。教室は談笑の声や椅子を引く音、本をめくる音、ノイズで溢れていた。一言も返事がなくておかしいなと思いながら、いつも一緒に過ごしているメンバーに向かってもう一度、おはようとさっきより大きく声をかけた。けれど、誰一人として私の声に耳を貸す人は居なかった。

そのとき、私は私が毒虫になったのだと理解した。いっそカフカの変身のように、本物の虫になっていた方が、いくらかマシだったのに、とさえ思った。


けれど、毒虫になった私を人間扱いする男が一人だけいた。彼は、私が一人きりの時だけ私と話しをしてくれた。そう振る舞わなければならないのも仕方ない。たった一日でみんなが私を無視するようになったのだ。もし、こんなことをさせた首謀者にバレたら、彼まで同じ目にあってしまう。だから、彼と話せるまでの辛抱だと自分自身に言い聞かせて日々を乗り切っていた。彼だけが、心の支えだった。彼の前でだけ、私は人間だった。


学校以外では、人間だった。学校に行かなければ親に説明しなければならなくなる。なんて言ったら分かってもらえるのか分からなかった。学校に行かなければ彼には会えない。彼に会えるだけで救われていた。

だから、学校には行った。

けれど、学校に行けば毒虫になる。彼に泣きつこうかと思った。泣きつけるわけなかった。家族以外で、私が人間だと証明してくれているのは彼だけだったから。それだけで十分だったから。


そうやって、毒虫と人間を行ったり来たりすることで、私は確実に狂っていった。ほんの一ヶ月間の出来事だった。


そしてその日は授業が午前で終わり、午後は部活のみの日だった。私は、初めて教科書を捨てられた。今までは徹底した無視だけだったのに。存在そのものが無いもののようにされるだけだったのに。それなのに今日は、教科書をゴミ箱に放り込まれた。悔しくて悲しくて涙が出そうになった。けれど泣けなかった。

ひとりぼっちの教室で、ゴミ箱から教科書を拾い上げる。がらりとドアの開く音がして、私より背が高い彼と目が合った。


「なに、してるの?」


彼は私の手の中にある教科書とゴミ箱を見比べて問う。捨てられたと分かっていて問うているのは、私も分かっていた。分かっていて強がったのは、巻き込みたくなかったからだ。


「気にしないで。大丈夫だから」


彼は私の顔を見下ろしながらとてもつまらなさそうに顔をしかめた。


「いつまで頑張っちゃうつもり?」


私の手から教科書が滑り落ちていく。


「どうでもいいからさー、早く諦めちゃえよ」


なんだ、君だったんだ。君の目は毒虫を見つめるそれだった。その目としっかり目が合った。望みなんてひとつもなかった。そうか。私はあの日からずっと毒虫だったんだ。


君が、私を、毒虫にかえたんだ。君が。君の。君に。君さえ。ああ。君のせいだったんだ。君さえいなかったら私は、こんなに醜い毒虫になんてならなかったのに。

ああ。だったら私、毒虫らしくいよう。この、目の前の危険因子を殺してしまったって、毒虫だから仕方ない。だって身を守るためにはそれしかないんだから。


ゆらゆらと窓際に立つ。透き通る青空が視界に入った。いい天気だなと呑気に思った。


「自殺?」


君は、ニヤニヤと笑いながら寄ってきた。まるで、もし自殺するならその死体を一番先に見るのは自分だとでも言わんばかりに。


「しんじてたのに」


私は君の右手を引いた。そして背面から窓を超える。外に向かって。君の体も私に引きずられて外に出る。

私は落ちていく。世界はスローモーションだった。君の顔が恐怖で引きつっていくのが見える。何かを叫ぶかのように口が薄く開いていく。左手が窓枠を捉えて君自身の身体を支えた。ここまでかな。


私は彼の手を離した。


私だけが落ちていく。真っ逆さまに。そして君が窓から身を乗り出している。私は悲鳴をあげた。助けて、と。


願わくば、誰か見ていて。これは、他殺。私は君に殺された。


私は毒虫。けれど、心は人間だった。だから、君を、彼を、殺せなかった。それが、全てだった。

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掌編集 愛憎 黒巣真音 @catnap

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