掌編集 愛憎

黒巣真音

ウロボロス

ああ夢だなぁ、と。あたしはすぐに気付いた。余りにもいつも通りの、よくみる、悪夢。心臓に十字架を突き立てられ、悶え苦しむ間もなく、灰になって崩れる。崩壊する。そしてそこに雨が降る。あたしなんて最初からなかったことにされる。そういう悪夢。


寝覚めは最悪だった。外を見れば、雨が降っている。準備しよう。少し早めに出ないといけない。まだ夢に囚われたままの脳を珈琲で現実に引き戻した。仕事の時間は差し迫っている。


さめざめと泣くように降り注ぐ雨が、広げた傘を伝って地に落ちた。極薄いカーテン越しに人影が近づいて来る。

鉄壁の防御にして最大の武器ともいえる営業用の笑顔でその人を見上げれば、自然、身体は仕事モードに切り替わった。


艶やかな衣装を身に纏い、最大限の露出をした肌は透明と言って差し支えないほどに、白。不自然な程のまつ毛も、淡い灰の瞳も、挑発的に引かれた口紅を引き立てるだけのモノでしかない。あたしは蝶だ。夜に舞う蝶。夢を見させる為だけの危うく朧げな存在。簡単には靡かない“あたし”を求め、哀れな男はあしげく“あたし”の元へ通い大金を落とす。


現代の吉原。

ネオンの街は眠らない。


「今度は、何食べに行く?」

「んー、お寿司とかどう?」

「よし、じゃあ今度はお寿司で決まり」

「うん。ありがとう」


驚くほど簡単に、次回の予定までもが埋まっていく。


ツマラナイ。


それが、あたしの本心だった。化粧をし着飾って成りすます。『アナタはこういうヒトが好みなんでしょう?』と内心で問えば、答えがそのまま“あたし”に成った。“あたし”が欲しい人なんて居ない。朧げに澱のように溜まっていくその感情は、けれど確実にあたしを蝕んでいく。

そんな折だった。風変わりな客が“あたし”の元を訪れたのは。


「はじめまして」


人好きのする笑みで声をかける。はじめましての時は、必ずそうするのがあたしの流儀。


「……どうも」


釣れないな。まあ、良くあることではあるけれど。頭の片隅でボヤく。勝手に喋ってくれれば、あたしも楽が出来るのに。


「酔っているんですか?」

「いや、別に」

「じゃあ、照れてますか?」

「……別に」


そう。軽く返す。返しながらまた、片隅であたしが騒ぐ。面倒くさいなぁ。何しに来てんだよ、こいつ。


「そう。何かのみますか?」

「お茶って大丈夫?」

「はい」


何がしたいんだろう。声には出さずに、顔にも出さずに、内心でボヤくのも上手くなったもんだと思う。


あぁ、ツマンナイ。


「じゃあ、また。お待ちしてますね、変なオニイサン」


あたしにしては、言葉尻にトゲがありすぎたようにも思うけれど、そんな事さえどうでもいいと思えるほどに、掻き乱されていた。本当に変な客だ。違う、嫌な客だ。


「ユカリ」

「え?なんて?」

「名前、ユカリだから。またね、サラ」


あたし名乗ったっけ……。拭いきれない不穏な感覚を残して、ユカリと名乗った男は帰って行った。


そもそも、だ。あたしが名乗るのを忘れるという事態が、コトの異常性を示している気がした。名乗った、ということを忘れているだけ?あり得ない。客との会話を忘れるなんてコト、あたしがする訳ない。じゃあなんで。考えても、堂々巡りの思考が、ようやくあたしを眠りに誘ったのは、明け方だった。


本日一食目を摂取する為に、キッチンに立つ。冷蔵庫の中には、大したものはなくて、冷凍食品を温めた。レンジが鳴るまでの間に、電子ケトルでお湯を沸かす。普通の食事はそこまで必要としていないけれど、珈琲だけは別だった。


あたしは何時、何処でどんな風に死ぬんだろう。考えても意味のない思考がよぎる。こんな風に、人間離れしてしまったあたしの、唯一、人間らしさが残っていると思える珈琲を、ブラックのまま嚥下し、冷凍パスタをフォークでつついた。……もういいや。半分以上残っているパスタをゴミ箱に放り、珈琲をもう一杯淹れた。インスタントだけど。


きっとたぶん、ちゃんと人間として生まれたはずなのに、気付いたときには、人間らしさが薄れていた。曖昧な生き物になってしまったあたしには、生きていく場所が必要だった。受け入れてくれたのは、夜の街だけ。

別に、何も、欲しくなんかない。

全てを誤魔化すように飲み干した珈琲は、妙に苦くて、慣れたはずのソレを吐き出してしまいそうになった。

準備しよう。言い聞かせるように呟いてキッチンを出た。


おはようございます。夕刻に似つかわしくない挨拶が罷り通るのだ、夜の街では。違和感も忘れてしまった挨拶を口ずさんで、着替えるために更衣室に入った。鏡に映った白い肌に、グイと爪を食い込ませてみる。じわりと赤が滲んだ二の腕はすぐに元どおり、白くなった。痛みすら、ほとんど感じない。あたしは不死ではないはずだけれど、異様に傷の治りが早かった。


「来てくれたんですね、ユカリさん」

「うん。またねって、言っただろ?」


信じてなかったんだ、と。言外の意味が痛く刺さる、なんてコトはなくて、あたしはただ、面倒臭いと思うのだった。


「だって、絶対もう来てくれないって思いましたよ」

「……そう」

「ええ。だってつまらなさそうでしたし。ところで、ユカリ、ってどんな字を書くんですか?」

「ナイショ」

「ユカリさんはそういうのばっかりですね」


掴めないし面倒臭いし嫌いだ。なんて思う。あたしらしくもない、本当に。なんでこの人だと、こんな風に掻き乱されるんだろうか。


「じゃあ、また」

「ええ、お待ちしてますね、ユカリさん」


ひらひらと手を振る。ユカリはあたしの手を掴み、ぐいと引き寄せ耳元で囁いた。


「ムラサキだよ」


なんのこと?戸惑いは口ではなく顔に出ていた様でユカリはクスと笑い店を出て行った。


あの人、初めて笑った。


よくわからない感覚を誤魔化すように、深呼吸をひとつ。それから珈琲を求めて厨房に入った。いつも通りに作ったはずのインスタント珈琲が妙に苦く感じて、滅多に入れない砂糖を入れた。


滞り無く営業は終わり重い身体を引きずるようにして家に帰った。寝よう。疲れた。


ああ夢だなぁ、と。あたしはすぐに気付いた。余りにもいつも通りの、よくみる、悪夢。心臓に十字架を突き立てられ、悶え苦しむ間もなく、灰になって崩れる。崩壊する。そしてそこに、雨が降る。あたしなんて最初からなかったことにされる。そういう悪夢。


寝覚めは最悪だった。首筋に張り付いた髪がそれを増長する。その悪夢が一週間ほど続いた日の夜だった。久し振りに現れたユカリはいつも通りの無愛想だった。


「顔色悪いね、どうした?」

「そんなことないですよ」


そんな風に言ったのはこの一週間で、ユカリだけだった。他の誰にも気付かれなかったのに。ゾッとした。素直に気持ち悪いと思った。お願いだからそれ以上、近付かないでくれ、と。


「はい、貸してあげる」


ふわりと膝に掛けられたのは、ユカリが着ていた上着だった。ありがとうございます、と嫌悪感を顔に出さないようにしながら、呟いた。……あったかい。一瞬、嫌悪感よりも安堵感の方が上回った気がして、奥歯を噛み締めた。違うから。そんなんじゃないから。


「間も無く閉店のお時間です」


ようやくボーイの閉店を告げる声がした。ホッとしつつ上着を返そうと膝から持ち上げると押さえつけられた。


「羽織って帰りなよ。夕方よりもっと寒い」

「ユカリさんに悪いです」

「気にするな。良い格好させろって」


好きなんだから。そんな言葉が聞こえたような気がした。気のせいかもしれない。気のせいであって欲しい。そんな願いを込めて、うん、と。曖昧に頷いた。ユカリを見送ったあと珈琲を飲んでから着替えた。ユカリの上着を目の前にぶら下げて思考を巡らせる。どうしたものか。


「サラさん、それいつものイケメンさんのですよね?!」

「え?ああ、ユカリさんのだよ」

「ユカリさんっていうんですかー!名前までカッコ良い!!」


同僚の好奇の目に晒されている上着が面白くなくてパッとそれを羽織ると、そそくさと更衣室を出た。すぐ帰るのはいつも通りのこと。何もおかしくない。大丈夫だ。言い訳を心の中でしつつ、部屋に入るなり上着を脱いでソファに投げようとしたところで、何故かそれを抱き締めてしまった。


……あったかい。


違う。違う。そんなことない。そんな訳ない。そんなことあって良いはずがない。嫌だ。違うってば。絶対。あたしが、ユカリをーーー。


ああ夢だなぁ、と。あたしはすぐに気付けなかった。余りにもいつも通りの、よくみる悪夢に似通っているのに、余りにも違いすぎて。大蛇に心臓を食い破られ、あたしは悶え苦しむ間もなく、灰になって崩れる。崩壊する。そしてそこに、大蛇の涙が降る。あたしのことを愛してると大蛇が泣く。けれどあたしは居なくなっている。そういう悪夢だった。


寝覚めは最悪だった。泣いていたらしく濡れていた瞳を擦る。胸に手を当てて心音を確認してようやく安心した。


その夜どうしても気分が乗らなくて、仕事を休んだ。次の日も、その次の日も。仕事を休み始めてしばらくが経ったころ、見覚えのない番号から電話がかかってきた。


「はい。どちら様でしょうか」

『俺』

「え?ユカリさん……?」

『正解』

「番号……」

『お店で、他の女の子から聞き出した』


なにやったんだよ。店の女の子が勝手に、常連とはいえそんな簡単に、あたしの連絡先を教えるはずないだろ。何したんだ。あんた最低だよ。


そう言えたら良かったんだろう。そう言えなきゃダメだったんだろう。


「……あいたい」

『家どこ』


あたしはぼそぼそとマンションの名前と部屋番号を告げた。ユカリはゆっくりと復唱する。


『すぐ行く』


切れた電話に少しだけホッとした。パジャマだし、化粧もしていないし、髪もボサボサ。けれど、どうにかしようという気にはなれなかった。そのままの格好で電子ケトルのスイッチを入れる。マグカップの珈琲がぬるくなったところでチャイムが鳴った。


はい。


ドアスコープを確認もせずにドアを開けた。この部屋に尋ねてくる人は居ないから。すると余りの対応の早さにか、あるいは、あたしの格好の適当さにか、驚いたらしいユカリが慌ててドアの隙間から入り込んできた。


「なんつー格好してんだ」

「うっさい。ほっといて」

「それが素か。可愛くないな。あいたいって言ってくれたのは、嘘なのか?」


意地の悪いニヤッとした笑みを浮かべたユカリと目があう。とうとうあたしは、それで壊れた。涙が次から次にポロポロ落ちてきた。


「あいたかっ……」

「あっ、おいっ」


ユカリが焦ったように頬を拭った。それを無かったことにするように、涙はポロポロ落ちていって、止まらない。止まらない。止め方がわからない。気付けば呼吸もままならなくなっていた。


「おい、ばか!息しろ!死ぬぞ?!」


頬を伝う涙を拭うことを諦めたユカリの手が、今度は背中をさする。その手が暖かくて、また涙が落ちていく。


「恨むなよ?!」


言葉の意味を咀嚼する間も無く口を塞がれた。僅かな隙間から、吐息が溢れる。どれほどの間そうしていたんだろうか。不規則な呼吸音がおさまったのは、数秒後にも或いは数時間後のようにも思えた。


「おさまったな?」


乱れた呼吸のことか涙のことかはわからなかったけれど、あたしはこっくりと頷いた。


「珈琲、のむ?」


今度はユカリが頷いた。どうぞ、と部屋を指す。部屋に他人を入れるのは久し振りで、自分の部屋なのに緊張した。


「……ごめん」

「俺の方こそ、ごめん。泣かせるつもりじゃ無かったんだ」

「……わかってる」


二人分の珈琲をテーブルに置いた途端、視界が反転した。天井が見えて、ソファに押し倒されてるんだなぁと他人事のように思った。


「やり直しさせて」


そんな声が聞こえたような気がして、それからすぐに、キスされていることに気付いた。けれどそのキスは抗議する間も無く終わる。


「俺もあいたかった。店の女の子から無理やり電話番号聞き出したは良いけど、電話かけるかかけないかで凄く悩んだ。で、かけたら、あいたいって言われて、嬉しかった。けど、喜んでるって思われたくなくて、素っ気ないこと言った。意地悪なこと言った。俺が悪かった。ごめん」


ほとんど零の距離で捲し立てられて、何も言えなかった。ただ、抱き締めたいと思った。大人しく腕におさまった温度は暖かくて、生きているってこういうことなんだ、と思い知らされた。


珈琲が冷めるなぁ。視界に入ったマグカップが、二つ並んでいるのをみて思った。ユカリが少しだけ身体を浮かし距離をとってから、あたしの名前を呼んだ。


「サラ。俺は、サラのことが「待って!」」


ユカリの体温が高くなっていることも、心臓が早鐘を打っていることも、その眼が真剣なことも、手に取るようにわかった。わかったからこそ、続きを聞けなかった。聞きたくなかった。聞いてしまったら、余計に辛くなる。


「キャストと客だから「違う!」」

「俺以外に惚れ「ちがう!」」

「……じゃあ、俺がタイプじ「ちがうんだってば!」」


違うんだ。違う。客だからとか、他に良いと思ってる人がいるとか、タイプじゃないだとか、そういう次元じゃなくて。あたしには無理なんだよ、そういうの。諦めたんだ、そういうのは。ずっと、ずっと前に。


「ちがう、ちがうの」

「じゃあ俺が納得いくように説明しろよ!」


痺れを切らして大声をあげたユカリは次の瞬間ごめんと口走っていた。


「説明したって信じない」


押したユカリの肩は簡単に動いた。これでさよならだね。そう思いながら、にっこりと営業スマイルを浮かべる。


「最後にあえてよ「ふざけるな!説明しろよ!逃げんな!」


今度のユカリはごめんとは口にしなかった。だからあたしは、新しいマグカップはどんな柄にしようかなぁ、と今使っている花柄のマグカップに視線を向けた。ごめんね。


ガシャン!!!


掃除が面倒だなぁ。珈琲のシミは取れないのに。カーペットも買い換えだなぁ。職場も変えなきゃ。今度は何処に行こうか。いっそ海外でも良いかもしれない。けど、面倒だなぁ。面倒だなぁ。面倒だなぁ、本当に。


「何やってんだ!!」


マグカップを叩き割ったあたしの拳を、ユカリは慌てて持ち上げた。急場凌ぎのティッシュで拳を覆うと、それはすぐに真っ赤に染まる。ズキン、ズキン。一瞬しかない痛みは、引いていく。赤の侵食が終わったのを見届けてからぼそりと零した。


「もう大丈夫」

「は?」


理解していないユカリの手を振りほどいて、真っ赤に染まったティッシュをめくる。その下にあるべきはずの生々しい切り傷は既に、殆どが治癒していた。


「あたし、死ねないの。あたしね、バケモノなんだ。多分、最初はニンゲンだったはずなんだけど。気付いた時にはこんな身体になってたんだ。わかるかな?怪我しないのって便利そうでしょ?けどね、実際は不便だよ。病院にも行けやしない。行ったらモルモットだよね。行くほどのことには、滅多にならないけどさ。それでも事故に巻き込まれたりしたら、救急車がくるでしょ。そんなの乗れるわけない。そうやって人目を避けて隠れるように生きてるの。どんな気分になると思う?……凄く、死にたいよ。死ねないけど」


世の中の負の感情全てをない交ぜにしたらきっとこういう顔になるんだろう。そんな顔をしたユカリの頬をそっと撫でた。避けられなかったことに、ホッとすると同時に苦しくなる。


「だからあたし、もうこの街から消えるし、ユカリさんもあたしのことなんか忘れて、幸せになって下さいね。ユカリさんはあたしと違って、まともなニンゲンなんですから。あ、それと。夜遊びは程々にしないと、身を滅ぼしますよ?」


小首を傾げて心配する素振りで、また笑顔の仮面を被った。それから割れたカップをゴミ箱に放る。割らなかった方のマグカップには冷めた珈琲が揺れていた。一瞬、飲むことも考えたけれど、どうせ飲むなら淹れなおそうと思い、キッチンに向かった。


「俺は「それでも一緒にいたい、って?そういうの聞き飽きた。どうせ嘘だもん。どうせいつかは、あたしのことなんか気持ち悪くなって、捨てるんでしょう。だったら最初から要らない」」


沈黙が突き刺さる。背を向けていて良かった。うっかりすると、また泣いてしまいそうだった。突き放す言葉と引き換えにゆっくり大きく息を吸う。それを吐き出そうとした刹那。ガシャン。シンクにマグカップが落ちて爆ぜた。背中の体温が痛い。拘束された腕が、苦しい。


「それで全部か?俺はサラを裏切らない。俺は、サラの言ったこと全部信じる。だから、サラが俺を信じてくれるなら、なんだってする。俺はサラが欲しいんだ」


あたしの全てを肯定した言葉が、ドロリとあたしを蝕んで、身体を操り口を開かせた。


「だったらあたしを殺してみせてよ。死ねばあたしは、あんたのものだわ」

「それがサラの、俺にして欲しいことだな?」


問い掛けの言葉がねっとりと足元に絡み付いてきて、あたしを飲み込まんと大口を開けた。這い上がってきたそれが、ぬらりと首を掠める。ユカリの右手の指先が切り揃えられた爪が、喉元に添えられる。


「殺してやるよ。俺がお前を殺してやる。生きてたんだっていう実感を得られるように、出来るだけ痛くて苦しい方法で、きっちり殺してやる。だから俺のモノになれよ、サラ」


あたしに、選択肢は、ない。

あたしに、生きる道は、ない。

あたしは、生きて、ない。

あたしは、だけど愛してしまった、から。


じわりと締め上げられ声を出せなかったあたしは、緩慢な動作で首を縦に振った。


「愛してる、サラ」


指先の力はまだ弱まらない。左側の首に生ぬるい感触を覚えた。と鋭い痛みに襲われる。皮膚が破けたのを感じた。


くるりと身体を反転させられ、あたしを締め上げていた獰猛な蛇と視線が絡まる。大き過ぎる熱量の視線から、あたしは逃れられない。むしろ誘われるように、ユカリの胸に頭をうずめた。


「ユカリ、さん?」

「ユカリでいい」

「ユカリ。……すき」


ふわ、と身体が持ち上がった。寝室どっち。ユカリの問いに答えを指し示す。優しく降ろされたベッドは二人で寝そべっても余りある広さだった。ねっとりとした行為が終わり、あたしは眠りに落ちた。


ああ夢だなぁ、と。あたしはすぐに気付いた。いつも通りの、よくみる悪夢。に似通ってはいたけれど、嫌な感じはしなかった。ユカリが心臓にナイフを突き立てる。あたしは身体が動くうちにユカリの心臓にナイフを突き立てる。ユカリの血があたしの身体に降り注いで、あたしの身体は灰にもならず崩壊もしない。ユカリは泣いていない。あたしも泣いていない。全てを洗い流すように、雨が降る。そういう夢だった。


「目、さめた?」


寝覚めは最良だった。答えの代わりに擦り寄った。頭を撫でられる。わしゃわしゃと、その感覚に遠慮はないように思えた。


「ところで、ムラサキはわかった?」

「わかんない」


そういえば、そんなことも言っていたような気がする。


「つーか考えてないだろ、別にいいけど。ムラサキって書いてユカリって読むんだよ」

「いい名前じゃん」

「どーも」


珈琲がのみたい。抗議するように投げるとユカリは苦笑した。


「マグカップ買いに行こう。どうせならお揃いにしようか」


あたしは頷くだけの返事をする。けれど、どちらもベッドから出ようとはしなかった。構わない。どうせ時間は余りあるほどにあるのだから。

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