雑草奇譚

かしはら

第1話

 叔母から三日ぶりにメールが来た時、思わず僕はカレンダーを確認した。間違いなく今日は八月二十一日で、四月一日ではなかった。冷房がきいた電車内で、夜闇にぽつぽつと浮かぶ滲んだ光が、幾筋も流れていくのを窓から眺めながら、背中にじわりと汗が滲むのを感じた。

 駅から線路沿いに三分もかからない所に、祖母の家があった。ロータリーに出て右に折れると、道の先に祖母の家が見える。家の前に人影があった。おそらく叔母が僕を待ち構えているのだろう。小柄な影が、手を大きく振っているのが見える。ここまでされると、先ほどの報せが現実味を帯びてくるようにも思われるが、いや、まだ油断ができない。僕は騙されているのかもしれない。いつバカを見てもいいように、心の準備を忘れずに家へ向かった。

「おかえり。今日は学校やったか?」と叔母が手を振った。その手の先で、何かがきらりと瞬いた。以前に、同じ光景を見たような気がした。

「こんばんは。おばさん、それ、どうするの?」と僕は、叔母が持ち上げたものを指差した。街灯の光を受けて、鈍く輝いている。

「どうするのって、刈るに決まってるやんか」

「え、じゃあさっきのメールは本当やったんですか?」

「なんでわざわざ嘘つかなあかんねん」とからから笑った。僕は笑えなかった。

 叔母の手には、小ぶりの鎌が握られていた。祖母が庭の手入れに使うもので、二年の古希のお祝いに僕が贈ったものである。二年を経ても鋭さは鈍っていなかった。

玄関が開いている。橙色の薄暗い電灯の下、上り框(がまち)に祖母が座っているのが見えて、僕は手を上げた。祖母は立ち上がって、待ってたでえと声をあげた。奥の階段から、叔父がばたばたと降りてくるのが見えた。なんとなく僕は、刃物を持つ叔母を背後に回したくなかったので、「どこに生えるんですか?」と叔母に訊き、遠回しに先に行くように促した。

 通い慣れている祖母の家も、どこか自分の家とは違う匂いがする。庭に金木犀や百日紅(さるすべり)を植えたり、花を植えたプランターを所狭しと拵えているからか、家の中もどこか自然の、しかも水気を含んだ活きた自然の匂いが、漂っている気がするのだ。一度家に踏み込むと落ち着いてしまう、僕はそれが好きだった。しかし、今回はその気色が妙に違った。庭に自然が溢れかえっていても、家には花など飾っていない。だというのに、今日はどこか、露骨に自然の気配を感じた。

 いよいよ僕は帰りたくなった。悪い夢か、ふざけた冗談であって欲しいと願った。

「ばあちゃん」と僕は呼んだ。

「幹也、よう来たな」祖母はにやにやしながら、玄関からすぐ近くの襖を開けて中に入り、こちらに手招きした。

 僕は誘われるがまま入り口に立ち、そして絶句した。

 そこは客間として使われる和室だった。広さは八畳で、南側に小さな縁側があって、生垣の手前に竹が何本か生えている。床の間には、祖父が生前に骨董商から買い取った、ずんぐりとした黒い壷が鎮座している。

 そう、そこまでは普段と変わらない。問題はそれ以外の部位にあった。敷居、鴨居、床の間、柱――檜で出来たそれぞれの表面に所々、緑色の何かが生い茂り、楕円の斑を形成していた。ぎっしりと小さく細かな葉が生えている。瑞々しい緑の匂いがした。

 はっ、と息が漏れた。それが笑いなのか、詰まった息を吐き出したのか、よく分からない。悪い冗談だとしか思えなかった。土の匂いがしないのに、こんなにも緑に囲まれている。ひどく不自然に感じられた。

「これはまた、手が込んでるなあ」と僕は笑って振り返った。叔母は「ちょっとよく見てみ」と横を通り過ぎ、床の間の前にしゃがんだ。草を上から鷲掴み、鎌を奥に差し入れて、勢い良く引いた。ざくっ、と小気味のいい音がした。掴んだ草を見つめて「あ、袋忘れた」と眉をひそめた叔母に、廊下から叔父がレジ袋を差し出した。

「ほらみーくん、ここ見てみ」と叔母が刈った場所を指差した。僕は恐る恐る、こんもりと茂る敷居を踏まないように、跨いで室内に入った。そのさまを、横にいた祖母がふふふと笑った。

 すっぱりと切られた茎が十数本、床から数センチ残っている。その根元をじっと見ると、木の表面から生えているのがよく分かる。どう見ても接着剤などでくっつけているようには見えない。試しに一本の茎をつまんで、引っ張ってみると、びくともしない。強く引いても抜ける気配がしない。

「こ、これ、本当に生えてるんですか」ぐいぐいと引っ張りながら僕は言った。思わず声が震えた。

「私たちもさっき気がついてん。私が昼間に掃除機をかけてから誰も入ってないみたいやし、いつから生え出したのかは分からんけど」と叔母は草を入れた袋に顔を近づけ、研究者よろしく、試験管を扱うように左右に振った。乳白色の奥で、小さな葉ががさがさと音をたてた。「なんでこんな事になったんやろうなあ」

「ほんま、不思議やねえ」と祖母が首を傾げて、柱に生えた草を撫でた。叔母といい祖母といい、もう少し深刻そうにしたらどうだろうか。

 他に生えている草と見比べてみると、どうやらこの部屋に生えている草は同一のものらしい。僕は立ち上がって、鴨居に生えた草を一本毟り取った。葉の形はシロツメクサによく似ているが、それぞれの葉が小さく、葉の色が深緑を更に濃くしたような色で、雑草とは少し違う印象を得る。ぱっと見て黴や苔のようにも見えなくもないが、短い茎が伸びて、それぞれの斑がこんもりとしている。どこか作り物のような感じがするので、匂いを嗅いでみると、しかし間違いなく、植物の匂いがする。葉を一枚千切り、指先で捏ねるように擦り潰すと、しっかり水気が出てきて、爪の先に緑色がうつった。僕はここまでして、これらが贋物でないことを認めた。

 うーん、と僕は唸った。雑草が家の中に生えるという、俄(にわか)に信じがたい怪奇現象を目の前にして、どんな言葉を出せばいいというのか。

 柱に生えた草の斑の一つに触れた。手のひらでぐっと押しつぶして、離してみると、彼らはそれが当然の姿勢であると主張するように、茎をぴんと伸ばし、もとの姿に戻った。とても活きが良かったので、僕は二三度それを繰り返した。「何、ハマったんか?」と祖母が笑った。

「いや、ハマってはないけど」と僕は語尾を濁した。はまる、という単語に何か引っ掛かりを感じる。その正体を確かめようとして、もう何度か草を押しつぶし、そこで僕は気がついた。ある一つの予感が閃いて、僕は叔母へ言った。

「おばさん、その鎌貸してください」

 鎌を受け取ると、手を突いたり離したりした草の一山を引っつかみ、ばっさりと刈り取った。茎だけが数ミリ残り、斑の輪郭がしっかりと現れた。歪な円の集合体から上に向かって、五つの線が伸びている。真ん中の三つが長くて、端の二つは短い。

その雑草らは、人間の手のような形を成していた。

「ほら見てみてこれ、ヒトの手の形してない?」と僕は刈ったあとを二人に示した。二人は顔を近づけて、目を丸くした。

「イヤッほんまや、なんやこれ気持ち悪いなあ」と叔母が顔をしかめた。祖母はへえと声を上げて、目を丸くしている。僕は床の間に駆け寄って、斑の一つをかき分けた。よく見ると、楕円の先に溝があるのが確認できた。この調子だと他の草も、同じ大きさの楕円であるから、手の形に生えているに違いない。

「なんかまるで、誰かが触ったあとに生えてるみたいやなあ」と僕は振り返った。二人は代わりがわり茎に手を乗せては、うわあと声を出した。気味悪がっているのか喜んでいるのか分からない。

「あっ!」と祖母がおもむろに叫んだ。「これもしかして、あのおじさんが来たのと関係あるんちゃう?」

 僕と叔母は「ああ!」と同時に口を開いた。僕は、三日前にこの家に起きた、奇妙な事件を思い出した。



 八月の中頃に、祖母が体調を崩した。ただの夏風邪だったがそうだが、祖母も年齢(とし)だから、風邪をこじらせただけでも僕は心配になり、それ以来毎晩祖母の家に寄って顔を見せるのが習慣になっていった。

 今から三日前の晩、十時を過ぎた頃である。電車内で吊革を持ちながらうとうとしていた僕は、携帯の振動で目が醒めた。叔母からのメールだった。滅多にやり取りをしない相手なので、はて何事だろうかとメールを開き、僕は固まった。

『こんばんは。もし今日もうちに来るんだったら、家に着く前にメールか電話下さい。変質者がうちに上がり込んだため、防犯のために鍵を閉めています』

 僕は息を詰まらせた。祖母の家に、変質者が侵入した? 本当に何事だというのだろう。変質者という単語より、防犯のために鍵を締めるという一文に緊張感が現れているように、僕には思われた。

 普段は夜九時以降は鍵を締めているのだが、ここ最近は、毎日出入りする僕のために施錠がされていない。僕が帰るのを見送って、叔父が門を閉めるのだ。変質者の闖入を許したのは自分のせいじゃないかと考えだすと、申し訳がなかった。震える親指で、あと五分で着きますと返事をした。

 玄関前に、叔父が立っていた。「おう来たか」と持ち上げた右手に金属バットが握られているのを見て、僕は素早く後ろに下がった。「なに持ち出してんの?」と僕はバットを指差すと、防犯対策やと言って叔父は野球選手のようにバットを構えた。ずいぶん攻撃的な防犯対策だが、これを毎晩続ける気だろうか。これだと叔父が通報されかねない。

 家に上がってリビングに入ると、そこで叔母と祖母がお茶を飲んでいた。切迫したメールの内容とは裏腹に、空気はのんびりとしていて、笑いながら話していた。僕はひとまず安心して力が抜けた。

 はじめに招かれざる客に気がついたのは、二階で縫い物をしていた祖母だったという。ラジオを聞きながら針に糸を通すのに苦戦していると、パーソナリティの笑い声の向こうから、何か物音が聞こえたような気がした。気のせいかなと思っていると、その直後に襖が開く音を聞いた。階下からの音だと気がついた。初めは僕がやって来たのかと考えたらしいが、もし僕だったら真っ先に二階に上がって、祖母の部屋の扉を叩くのが普通だから、誰がいるのだろうかと不安に思い、廊下に出て、階段の下の闇を見つめた。

 すると後ろの方から叔父夫婦が現れ、幹也が来たのかと祖母に訊いた。祖母は自分の聞いた物音のことを話した。子どもたちはみな寝ていて、起きているのはこの三人だけだったから、では下にいるのは誰だろうという話になった。物音の正体を確認すべく、まず叔父は部屋に戻り、バットを携えてきた。その叔父にしがみつくように、祖母と叔母が順番に階段を降りた。

 廊下に電気は点いていない。玄関の格子からさす街灯の光を頼りに電気をつけると、客間の襖が開いているのを見つけた。廊下の光を拒むように、部屋の中は暗闇が支配していた。「開けたら閉める」を徹底していた家族にとって、そういう意味でも不気味に思われた。叔父がバットを構えながら部屋に入り、電気の紐を引いた。蛍光灯が眩しく輝いて、室内が形を取り戻すと、叔父は息を呑んだ。続いて入り口から覗いた叔母と祖母も、ひゃッと悲鳴をあげた。

 部屋の中央に、見知らぬ人が正座していた。薄汚れたシャツの裾をしっかりズボンの中に入れ込み、ウエストポーチをつけている。半袖から覗く腕は痩せ細り、膝の上に載せた拳は固く握られていた。俯いた野球帽の鍔の下に見える口周りに、深い皺が刻まれている。シャツの袖やズボンの裾が所々破れていて、ぼろぼろな身形をしていた。

 明かりがついても、その人物は微動だにしない。叔父は大きく深呼吸して、何か用ですかと早口に尋ねた。野獣珍獣の類なら、バットを振り回して追っ払うところだが、相手が人間だとそうはいかない。話が通じるかどうかをまず確かめようとした。

その言葉が引き金となったのだろうか、男は返事をせず行動で応答した。握り拳を解いて、畳に両手をつき四つん這いになり、よろよろと立ち上がった。存外背が高く、針金細工のようであった。帽子を目深に被っていたため、面と向い合っても表情がわからない。どうしたものか反応に困った叔父は、何が起こっても対応できるようにバットを構えた。他の二人も、固唾を呑んでそれを見つめた。

 住人にお構いなしに、男はふらふらと室内を歩き出した。何をするのだろうと住人が見守るなか、男はふと壁の前に立ち止まり、ぺたぺたと触りだした。そこから壁を伝って縁側の窓硝子、柱と手をついて歩き、床の間の前にくるとわざわざしゃがみ込んで、入念にぺたぺたと触った。見た目からは想定できない俊敏さで動く男に、三人は思わず吹き出しそうになった。

 部屋の端、出口のところまで男が来ると三人は素早く廊下に出た。男は立ち上がり、鴨居もぺたぺたと触りだした。その挙動は、家の建て付けがしっかりしているかどうかを確認しているようにも見えた。

 男は腕をだらりと下げ、右に左にふらふらと廊下に出て、立ち止まった。「出口はあっちですよ」と祖母が玄関を指すと、男は首をそちらに曲げ、それにあわせて体の方向を変えてひたひたと歩き出し、土間に降りた。叔父が先回りして玄関の戸を開けてやると、男は覚束ない足取りで外へ出た。男の影が門から出ていくと、叔父がその後を追った。外にはもう、誰も居なかった。

 一連の話を聞いて僕は、気味悪がればいいのか笑い飛ばせばいいのか、反応に困った。ともあれ、祖母たちや家財道具に被害は無く、それだけは本当に良かったと心から安堵した。

 ふと、何の根拠もない想像が働いた。あの日にやって来た男は、もしかしたら数年前に亡くなった祖父ではなかろうか。盆の時期に現れ、あちらから帰宅した祖父ではなかったろうか。盆だというだけで恐ろしく安直な発想ではあるが、そういう風に考えたほうが、どこか心が和むような気がしてくる。そのことを祖母らに伝えると、「うちのじいちゃんは、あんなに痩せてへんで。似とらん似とらん」と手を振った。



「もう原因、それしかないやろ」と僕は言った。男の奇行を見たわけではないが、叔父たちから聞いた話と、この草の手形がしっかりと結びつく。

「気味悪いなあ、どうしようこれ。刈っても伸びてくるんやろか」と叔母は口元を歪め、額に汗を流しながら、ざくざくと草を狩っている。綺麗に刈り取るたびに、緑色の手形がそこかしこに増えていくのが気持ち悪かった。――新しくできた手形の一つに、手を合わせた。茎の感触がくすぐったいようで、心地良いようで、よくわからない。草に囲まれた奇妙すぎる光景の中で、三日前の男の姿を想像した。あの時は祖父が戻ってきたのだと信じていたが、しかし、だとしたらなぜ祖父は、こんな奇っ怪な現象を起こして去っていったのだろうか。行動の意味が更にわからなくなる。

 ぐいぐい茎を押していると、急に玄関から「幹也、ちょっと来て!」と祖母の叫ぶ声が聞こえた。いつの間にか表に出ていたらしい。庭に出ると、植木鉢の前で祖母がしゃがんでいた。支柱にそって主枝が高く伸び、枝葉を広げている。花はなく、何の植物なのか分からない。

「どうしたん?」と僕が近づくと、祖母は「茄子が盗られとる」と支柱の先を指差した。枝がもぎ取られたような痕が見えた。

「草刈りの手伝いしよ思うて、物置から鎌持ってこようと思ったら、無くなってるのに気づいてん。今朝まであったんやけどなあ、犬か猫の嫌がらせやろか」と祖母がぼやきながら、物置の戸を開き、中を物色しはじめた。

「犬とか猫って茄子食うんかな」僕は立ち上がって、自分が考えていたことを話した。「さっきちょっと考えたんやけど、この間来たヘンな人、やっぱりおじいちゃんじゃないって思ったわ。おじいちゃんやったら、あんな嫌がらせみたいなことせえへんやろ」

「そらそうやわ。ウチらに何の恨みがあって、あんな――」と言いかけた時、祖母の手が止まった。物音が失せ、コオロギの鳴き声が庭に響いた。

「どうしたん、鎌見つかった?」と訊くと、祖母はゆっくりと振り向き、半笑いで言った。

「もしあの変人がじいちゃんやったら、ウチ悪い事したわ。――風邪で寝込んでる間に、キュウリ置いとくの忘れてた」

 ははっ、と祖母が笑った。僕は笑えなかった。

                                  

                                      了

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雑草奇譚 かしはら @morarara

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