3.金星探査ステーション『太白』

「ライカ博士、こちらですか?」

 観測室を覗き込みながら、僕は博士の名を呼ぶ。

 がらんとした部屋の中には誰の気配もなくて、僕はそのまま通路へと戻っていく。

 この時間に観測室にいないとなると、どこだろう。

 天井に連なる照明が淡く明滅する中、僕は無機質な通路の両側に並ぶ自動扉を一つ一つ、開けては閉じてを繰り返していく。

 たくさんの探査メンバーたちのために設けられた、一度も使われたことのない部屋が並ぶ中を、僕はかつん、かつんと靴音を響かせて歩いていく。

「そろそろ夕食の時間なのに、どこに行ってしまったのかな」

『え、もうそんな時間なの!?』

 天井から降り注いだ声に、僕はため息混じりに顔を上げる。

「ええ、そんな時間です博士。今はどちらに?」

『ええと、その』『博士はベネラと一緒にお風呂だよ。アカツキ、どうよ? うらやましいでしょ、でしょ?』『ちょっと、ベネラ』

 天井に備え付けられたスピーカーから流れる二人の声に、僕は首を横に振ってみせた。

「博士」『……はい』「髪をしっかり乾かせてからお越しください」『……はい』『アカツキ、お母さんみたいだねえ』

 機械人形に母親はいないけれど。

 僕は息をひとつついて、元来た通路を戻り始める。

 博士が戻ってくる前に、スープを温め直さないといけないな、と考えながら。



「ふー、お腹一杯、ごちそうさまだあ」

「おそまつさまでした、博士」

 満足そうに手を合わせる博士に会釈をして、僕は手にしたポットからコーヒーを注ぐ。

「博士はアカツキが料理当番の時は嬉しそうよねえ」テーブルの隅で頬杖をつきながら、ベネラがくすくすと笑う。

「そうかな?」「そうよ。わたしが当番の時は、博士って結構仏頂面だし」

「それはベネラの料理の腕前が原因じゃないかな」

 少し離れた椅子に腰掛け、目の前に置かれた碁盤と手にした冊子を代わる代わる見ながら、メイブンが呟く。

「なによー、クドリャフカのデータベースからきちんとレシピを読み込んで、それどおりに作ってますわたし」

「ふむ、では訊ねるが」ぱたんと冊子を閉じるメイブン。

「この間のパスタは皿に山盛りだったが、レシピには何人分と書いてあった?」

 メイブンの言葉に、視線を宙に漂わせるベネラ。「……一人前だよね?」

「四人前だ。それと、味付けはどうだった?」

「……どうって、赤くてキレイなやつ」

「ああ、赤くてキレイで、そして辛い味付けだったようだな。アカツキ、君はどう思う?」

「辛い味付けは、ライカ博士は苦手だったかと」「そういうことだな、ベネラ」「ぐぬぬ」

 ぐうの音も出ないベネラに、「いや、ベネラの料理も美味しかったよ」と慌てて博士が声をかける。

「……博士、ほんとう?」「もちろん。まあ、その、ちょっと量が多くて、少し舌がひりひりしたけれど」「ごめんなさいはかせー!」

 うわーんと飛び付くベネラ。「おーよしよし」と彼女の頭をなでる博士。人間でいえば成人女性の大きさのベネラが小柄な博士にしがみつく光景は、正直どうかなと思わないこともないけれど。

 それを言葉に出すかわりに、僕は小さく息を吐いて、「博士、コーヒーのおかわりは?」と尋ねる。

「うん、いただこうかな」「わたしも!」「ベネラ、君もわたしも飲めないと思うが」「メイブン、『土』のそういうところ、わたしきらいです」

 博士と、僕たち三体の機械人形たち。

 僕たちの日常は、いつだってこんなふうに賑やかだった。



「さて、先日の探査結果を調べてみたんだけど」

 食事を終えて、ライカ博士と僕たちはいつもの観測室にいた。

 博士がコンソールを慣れた手つきで操ると、壁面いっぱいに並べられたモニターが次々と明かりを灯していく。

「観測機器の損耗が想像以上に激しい。腐食の速度もずいぶんと速いみたい」

 モニターの一つに浮かび上がった朽ちた機器を見ながら博士が呟く。

「博士、採取してきた雨水の分析はいかがでしたか?」

「そっちもよくない」と、苦々しい表情で博士がコンソールに指を走らせる。

 別のモニターに表示された文字の並びに、「ふむ」とメイブンが呟く。

「酸の濃度が高いな」「そうね。まるで『ハタラキバチ』が活動してないみたい」

 ベネラが腕を組みながら、「前回の頒布から間隔を空けすぎたかしら」と僕を見る。

「いや、通常どおりだよ」頭の中の記憶回路を辿りつつ答えながら、僕は首を傾げる。

 『ハタラキバチ』と僕たちが呼ぶナノマシンは、空気を漂いながら、この星の「地球化」を進めるために様々な機能を持つ。例えばその中の一つは大気中の二酸化炭素を取り込んではさらさらと金星の大地に積もっていき、別の『ハタラキバチ』は二酸化硫黄の雲を食いちぎって、硫黄の固まりとなって大地に降り注いでいく。

 そうしてこの女神星を少しずつ変えていく『ハタラキバチ』を、僕たちはこの星の空から、あるいは地表から定期的に、注意深く撒き続けてきた。

「ふむ、だとしたら原因は何かな」

「何とも言えないわね。博士、何か気づいたことは?」

 ベネラの質問に、ライカ博士は首を軽く横に振ってみせた。

「今のところは思いつくところはないわ。付近の探査を続けて、この状況がどこまで及んでいるかを調査する、といったところが今後の方針かしらね」

「えー、次の探査はマクスウェル山でハイキングと決めてたのに」

 膨れっ面をするベネラに博士が苦笑する。

「マクスウェル山はちょっと離れているから、また今度かな」

「むー」ますます頬を膨らませるベネラ。

「ベネラ、博士をあまり困らせちゃだめだよ」「ベネラ、一緒にライブラリの映像を見よう? それでどうかな?」

「じゃあみんなで『武士に二言はない』を見よう!」

 両手を挙げてばんざいをするベネラ。きょとんとする博士。

「武士に二言?」「ああ、博士、あのですね」

 どう説明したものやらと演算回路を働かせる僕の様子に、くすりと博士が笑う。

「よく分からないけれど了解しました。じゃあ、みんなで観ることにしようか」

「うん!」「いいんですか博士」「構わないさ、さ、みんなでソファに腰掛けて観ることにしよう。さて、ライブラリの検索は……」

 笑顔でコンソールを操作する博士と、やれやれとため息をつく僕の方を叩くメイブン、ソファに寝そべるベネラ。


 僕らの日常は、いつだってこんなふうだった。

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女神星にて starsongbird @starsongbird

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