2.ハタラキバチ

「あらら、これもダメみたいね」

 探査用作業服のヘルメット内部につけられたスピーカーから、ベネラのやれやれといった声が流れてくる。

 今回の調査の最終日。この四日間、メンテナンスを行ってきた観測機器はどれもこれも、見事なまでに腐食しきっていた。

「ベネラ、こっちの機器も駄目だね」

 地面に転がったアンテナの残骸をつまみながら呟く僕。

 棒状のものだったそれが、粒と化して酸の雨と一緒に手の平からこぼれ落ちていく。

「ここらの機器は全滅かしらね」そう言いながら、目の前のひょろりと立っていた鉄柱を蹴り飛ばすベネラを尻目に、僕は周囲を見渡した。

 降り落ちる硫酸の雨にけぶる、女神星の大地。

 薄曇りの世界の果てまで続く、玄武岩に覆われた地表。

 遙か頭上を流れるぶ厚い雲の存在も、降りしきる硫酸の雨の中に溶け込んでしまっていた。

「こういうのを、寂しい風景っていうのかな」

「うん?」

 ぽつりと呟いた僕の独り言が聞こえたのか、ベネラが僕に振り返った。

「珍しいなあ、アカツキが『寂しい』なんて言葉を使うなんて」「そうかな」

 ベネラの返事に僕は首を傾げる。

 僕の中の記憶素子に収められた様々な世界の景色。

 クドリャフカのデータベースに格納された、地球で作られた無数の物語。

 その中では、薄暗くて色の無い光景は『寂しい』とか『空虚』な様子を表すものとして描かれていた。僕の論理回路が、目の前の光景からそういったことを導き出した。ただそれだけのことだったのだけれど。

 だから、もちろん。

 『寂しい』が何なのかなんて、僕の論理回路も、感情回路も、けして答えてはくれないのだけれど。

「でもね、アカツキ」

 いつものように思考の螺旋に入り込みかけていた僕は、ベネラの言葉で引き戻される。

「うん?」

「わたしはね、この景色が寂しいなんて思わないけどなあ」

 そう言うと、ベネラは僕の前でくるりと回ってみせた。

 雨の包み込む岩に覆われた広大な世界の中で、彼女の気密服が舞っていた。

「この服を脱いだらすぐにでも人工被覆を溶かしていくような硫酸の雨。せっかく立てた観測塔もしばらくすればぼろぼろの鉄屑。ここは全く、ひどい地獄の釜の底だよね」

 だけど、とベネラは言葉を続ける。

「だけど、わたしはこの星の、女神星の地面が大好き。どこまでも広がるこの平原も、みんなで歩いた溶岩流の痕の大河も、ごとごと揺れる探索車に乗ってのアカツキやメイブンとのお喋りも、みんな大好きだよ。だからね、わたしはこの景色を寂しいなんて思わないんだ」

 硫酸の雨を全身に受けながら、くるくるとベネラの気密服が舞っていた。

 寂しいと思う僕。思わないベネラ。

 この世界を大好きと言えるベネラ。大好き、が何なのか分からない僕。同じ機械人形、二体。

 僕らはどうして、こうも違うのだろう。

 ヘルメットのスピーカー越しに弾むベネラの声を聞きながら、僕はそんなことをまた考えていた。

「それにさ、金星にも大昔には水があったっていう話もあるんだよ。ひょっとしたらさ、金星にも生物だっていたかも、いや、今も地中の奥深くにいるかも? そう考えると、こう、わくわくしてこない?」

「わくわくするのはいいが、踊ってばかりで作業が滞るのはいかがなものかな」

 苦笑混じりで割って入ってきたメイブンの言葉に、ベネラが「むー」と抗議の声を上げた。

「メイブン、ここらの観測器具はどれも廃棄だよ。そっちはどう?」

「ああ、どうやら『ハタラキバチ』の濃度が低いようだ。今から頒布することにしよう」

 探査車両の中でモニターしているメイブンの言葉に、僕とベネラは探査車両の下部ハッチへと身体を滑り込ませる。「十本くらいでいいかな」「そうね」

 ハッチの中に並ぶ、鈍く銀色に光る大きな筒。

 そのうちの一本を二人で持ち上げると、僕らは再び雨にけぶる女神星の大地に筒を運び出した。

 そして。

「いくよ。せーの!」

 ベネラの掛け声とともに、僕ら二人は筒を大きく放り投げた。

 機械人形二体の力で投げられた筒は宙高く舞い、そして、頭上で爆ぜた。

 雨に染まる世界を、銀色の光が一瞬染め上げるけれど、その光も少しずつ薄まっていく。大気に溶け込んでいくかのように、この星の地表に染み込んでいくかのように。

 一本、また一本。

 次々と銀色の筒が宙を舞っていく。

 銀色の筒状の形から四散し、金星の大気中に舞っていく。

 僕らが『ハタラキバチ』と呼ぶ、大気を、地表を、女神星を作り替えていく、無数のナノマシンたちが。

 それは、『女神殺しの狂信者』ムーハ・アリビーナがその身もろともにこの星に撒き散らした、金星を地球化するための機械たちだった。

 この星の大気のほぼ全てを占めていた二酸化炭素を地へと封じ込め。二酸化硫黄の雲に食らいつき。

 役割の異なる、無数の微細なナノマシンたちはそうやって五百年をかけて、金星を今の形へと少しずつ変えてきた。そしていつかは、この星を水の溢れる、蒼い姿へと変えていくのだろう。ムーハ・アリビーナが請い願った、太陽系で三つ目になる地球となるように。

 でもきっと、その時を見ることはできないんだろう。少しずつ酸で腐食し、宇宙線で損なわれ、最後にはここの観測機器のように錆びた屑鉄となる、機械人形の僕らには。

「アカツキ、ベネラ、今日はもう少し先に進むことにしよう」

 メイブンの声がヘルメットの中に響き渡る。

 僕は軽く首を振るようにすると、探索車両へと足を向けた。

 次の定時連絡は何時間後だっただろう、なんて思いながら。



「今回の探索区域はどこも機器の腐食が進んでいたな」

 探査車両の中で、モニターを眺めながら呟くメイブンに、僕は「そうだね」と相づちをうつ。

「雨に含まれる硫酸の濃度を調べる必要があるかな」「ふむ、サンプルを持って帰るとするか」メイブンは小さく頷くと、探査車両のアームをいつものように淡々と操っていく。

 僕たちの仕事はいつもこんなふうだ。金星の空高くを漂う宇宙ステーションから女神星の地表に降り、設置された観測機器の点検を行い、そして『ハタラキバチ』を散布しては、再び宇宙ステーションに戻っていく。その繰り返しを、僕は目覚めてからの五年間、ずっと続けている。

 それはひょっとしたら、単調な日々というものかもしれないけれど。

「ね、次の探査は何日後だったっけ?」

 後部座席で足をぶらぶらさせていたベネラが、僕たちの間にするっと顔を覗かせる。

「そうだな、一週間後くらいだろう」「え、そんなに後なの?」「今回の探査結果を博士とクドリャフカに調べてもらうと、次の探査場所の決定にはそのくらい時間がかかると思うよ」

 メイブンと僕の言葉に、「むー」とベネラは頬をふくらませる。

「ま、しかたないか。アカツキも博士と一緒にいられる時間は長い方がいいもんね」

「そりゃそうだけど」「少しは否定しろこの唐変木」

 僕の頭をこつんと叩いた後、ベネラは「ね、メイブン、わたし次はマクスウェル山に登りたいな。うん、ハイキングだ!」とメイブンに話しかける。

「ベネラ、前にイシュタル高原を探索した時は、『くたびれたー』とか言っていなかったっけ」「機械人形は疲れませんからそんなこと言いませーん」

 あかんべーをする彼女。ため息をつく僕とメイブン。

「ベネラは火というより風の属性が強いような気がするな」「うん、僕もそう思うよ、メイブン」

 なにさー、とまたも頬を膨らませるベネラを横目に、僕とメイブンはモニターに視線を向ける。

 周囲の状況を映し出していた無数のモニターの幾つかに、次々と文字と数字が流れていく。

「ベネラ、お迎えが来たみたいだ。ハイキングの話は戻ってからにしよう」「メイブン、武士に二言はないわよ」「ベネラ、どこで覚えたのそんな言葉」「博士のライブラリよ。今度みんなで見よう?」

 そんな会話が流れる中、メイブンの操作に合わせ、探査車両は向きを微調整しながら、雨にけぶる女神星の地表を、宇宙ステーションへの回収地点へと進んでいく。

 幾つかのモニターに浮かぶ座標。僕たちの乗る探査車両と宇宙ステーションのそれが、少しずつ重なっていく。

 そして。

 そして、探査車両の周囲を映すモニターに、いつものように「それ」が姿を現したのを見て、僕とベネラが席を立つ。

「メイブン、行ってくるね」「調整よろしく」「ああ、気をつけてな」

 片手を上げるメイブンに手を軽く振ると、僕らは気密服に身を包み、探査車両の後部ハッチを開ける。

 時速四百キロ近くで走る探査車両に降り注ぐ硫酸雨は、クドリャフカのデータベースにあるどの『台風』よりも強烈だけれど。

『アカツキ、こっちは準備できたよ』

 ベネラの声に頷くと、僕はハッチから身を乗り出して、探査車両の上部へと移っていく。

『アカツキ、回収地点まで二百秒だ』

 メイブンの声に『了解』と答えると、僕は空を見上げた。

 叩きつけるように降り注ぐ雨の向こうに、僕の『眼』――それは、不可視の波長もとらえる機械人形の『眼』だ――は、”それ”を見つけた。

 雨の向こうに見えたもの。

 それは、空のはるか彼方から垂らされてきた、一筋の『ワイヤ』だった。

『いつも思うけど、原始的だよね、これ』

『あと十秒』

 メイブンの声が流れる中、僕は探査車両の上部に備え付けられた『かぎ爪付きのワイヤ』を片手に取る。

『あと三秒、二秒、一秒、ゼロ』

 そして。

 メイブンの合図とともに、僕は、とん、と探査車両の上部を蹴った。

 次の瞬間、ワイヤと共に宙を舞いながら。僕の身体は天空から頼りなく流れ落ちてきた一本のワイヤへと、宇宙ステーションからのワイヤへと飛ばされていく。

 そうして。

『ベネラ、”蜘蛛の糸”と接触成功できたよ』『了解。ワイヤの巻き上げ、開始するね』

 かちり、と二つのワイヤをつなぎとめた瞬間、探査車両の百トン程度の車体がゆっくりと持ち上がっていく。

 するするとワイヤをつたって降りていく中、僕は空の彼方へと伸びていく、硫酸雲に呑み込まれていくワイヤの先を眺めていた。

『アカツキ、お土産話を楽しみにしてるからね』

「……今回の探査では別に大した話もないけどなあ」


 僕の回路をよぎった金色の髪の博士の姿に、僕は一人、なんとはなしに呟いた。

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