1.『金星の地球化に関する変遷における調査団』
「この五臓六腑に沁み渡る美味さ。生き返るなあ」
「それ、ただの水ですよ、ライカ博士」
なにさ、とふくれ面をする彼女を前に、僕は小さくため息をついてみせる。そんな動きに合わせて、両手で持つ水差しの中の液体が揺れていく。
「風呂上がりの一杯の美味しさが、アカツキには分からないかなあ」
そう言ってぐい、と突き出されたコップに、僕は水差しを傾ける。うむ、と幼い外見に似合わない仕草で、彼女は再び水を呷った。
「ライカ博士、『ぷはー』と口を拭うのはやめてください。みっともないです」「ちぇー」
肩に掛かるくらいで切りそろえられた金色の髪を揺らしながら、口をとがらせる彼女。博士のそんな様子を見ながら、僕はふと思う。
入浴後の汗をかいた身体が、水を欲する気持ちは分かる。
硫黄臭さの抜けきれない水でさえも、この金星ではとてもとても貴重なもので、いつでも飲めるものではないということも分かる。
彼女がそういった色々なことを踏まえて、「美味しい」と笑顔を浮かべたことも理解できる。
けれど。
けれど、彼女が今呟いた、「美味しい」は、何なのか。
それは、僕にはまったく分からない、理解できない言葉だった。
こんなことを言うと、きっと彼女は「アカツキは頭が固いなあ」と、やれやれと首を横に振るのだろうけれど。
「アカツキ? どうかした?」
そんなことを思い浮かべて佇む僕にかけられた博士の声に、僕はいいえ、と答えて再び水差しを傾ける。
アカツキはいつも考え事ばかりだね、と苦笑しながら、彼女は窓の向こうへと視線を投げかけた。
そこに広がるのは、星々の瞬く世界。
赤茶けた死の大地から八十キロメートル上空の、ぶ厚い硫酸の雲の上に広がる光景。僕たちの暮らす、宇宙ステーションが漂う場所。
それが、この女神星――金星を探査する僕たちが眺めてきた景色だった。
「雲の量も相変わらず。女神様は今日も泣いてるのかな、と」
そんなことを呟きながら、彼女はコップをことりと机に置くと、大きな伸びをしてみせた。
「さあて、働くとしますか。アカツキ、今日の作業予定は?」
「ライカ博士はクドリャフカと観察結果の分析を」
「えー、今日も?」
退屈だあ、と白衣の裾をばたつかせながら不満の声を上げる彼女を無視しながら、僕は言葉を続ける。
「僕とベネラとメイブンは、今日から四日間、地表活動に入ります」
「ずるい!」
「博士。言葉の意味が分かりませんが」
「いつも解析ばかりでつまらないー。たまには地上に行ってみたい!」
赤子のように駄々をこねる彼女に、僕はやれやれと首を振ってみせる。
「博士、地上はまだ安全な場所じゃないことくらいご存じでしょう」
僕の言葉に、彼女はむー、と頬を膨らませる。
『女神殺しの狂信者』ムーハ・アリビーナがこの星の大気に風穴を開け、金星という名の地獄の釜の蓋を開けてから、およそ五百年。その間に、濃硫酸の雨ですら蒸発してしまうほどの大気は徐々に薄れ、数百度に達していた地表の温度も、急速に冷えていったけれど。
それでも。
大気が薄れたために、地表まで届くようになった硫酸の雨にけぶるこの星に降りることは、危険極まりない行為だ。それが例え、この女神星の『地球化』を観測するためには欠かせない、大切な観測活動のためだとしても。そんな場所に、博士のような人を連れて行くことは到底できないことだった。
だから。
「そんな危険な場所には、僕たちが行ってきます。僕たちのような、『機械人形』が」
僕の言葉に。
彼女は駄々をこねるのを止め、頭を何度かかいた。
「分かりました。もうちょっとだけ下に行くのは我慢します」
べー、と舌を出して、白衣のポケットに両手を突っ込みながらデスクへと向かう彼女に僕は一礼をすると、ドアへと足を向けた。
「あ、アカツキ」
「はい」
振り向いた僕に、博士が声をかける。
「土産話、期待してるからね」
自動扉が開き、そして、再び閉じるまでの間。
彼女はずっと、僕に笑顔で手を振っていた。
その笑顔はずっと、僕の機械仕掛けの視界に残っていた。
『金星の地球化に関する変遷における調査団』
それが、ライカ博士と僕たち三体の機械人形、そしてこの宇宙ステーションの人工AI『クドリャフカ』に与えられた名前だ。
ムーハ・アリビーナが行った『金星の地球化テロ』の進行状況の観察と、そのために必要な設備の設置、改修。五百年前からずっと誰かがやってきたことを、今は僕たちが行っている。僕はまだ、起動してから五年しか経っていないけれど。
「おはようさま。今日からよろしくね、アカツキ」
ステーションの一角にある機械人形たちの棺が並べられた区画で、僕に向かって手を差し伸べた彼女の笑顔を見た時から。僕はずっと、観察と分析と器具の設営と、ライカ博士の笑顔と、ご機嫌斜めの時の膨れた頬と、ひらひらと舞う白衣と、ベネラに整えられた自慢の金色の髪がそよぐ様子と、そんな光景が繰り返される日々の中で過ごしてきた。そう、ずっと。
それが何を意味しているのかなんて、硫黄臭い水の「美味しさ」さえも理解できない、僕の中にある無数の集積回路はけして教えてくれないのだけれど。
「いっそのこと抱き締めてキスしちゃえばいいじゃん。こう、ちゅーっと」「ベネラ、気色悪いよ」
何かを抱きすくめるように両手を突き出したベネラに、肩をすくめてみせる僕。
そんな僕らを見て「仲の良いことだな」と呟くメイブンに、「良くなんてない!」と抗議の声を揃って上げる僕たち。
地表へと降りる準備を終えた探査車両の中は、いつもどおりの賑やかさに満ちていた。
僕と、いつも元気なベネラと、静かで落ち着いているメイブン。それぞれ特性の異なる、三体の機械人形たち。
「あーあ、アカツキがうらやましいなー」くるりと回って椅子に腰を下ろしたベネラが、足をぶらぶらさせながら呟く。
「うらやましいって、何が?」と訪ねる僕に、彼女は「だってさー」と言いながら伸びをしてみせた。
「だってさ、アカツキって博士に恋してるでしょ? いいなー、わたしも恋してみたいよー」
「恋? 僕が、恋してるって」「うん」
心底うらやましそうなベネラの言葉に、僕は首を傾げてみせた。
クドリャフカの無尽蔵と言っていいデータベースの中には、『恋』という単語に関する情報が無数に納められている。恋をした人の独白、行動、感情の吐露。その中には、確かに今の僕のような、博士の姿がいくつもいくつも思考ルーチンの中に浮かび上がってくるようなものが確かにある。
けれど、僕の中の論理回路も感情回路も、何も答えてはくれない。それが恋だとも、そうではない、とも。
「アカツキ?」
不意にかけられた言葉に答えの出ない思考のループから戻ってきた僕に、今度はベネラがやれやれと肩をすくめてみせた。
「まったく、固いというか朴念仁というか。『水』の属性はこれだからねえ」
「私は『火』の属性は感情的に過ぎると思うがな」「『土』のそういうところ、わたしきらいです」
メイブンの言葉に、ベネラは「いーだ」と舌を出してみせる。
水。
火。
土。
それは僕ら機械人形の思考性を示す大枠だ。
論理的な思考を追求する『水』。論理回路よりも感情回路の動きを優先する『火』。安定と調和を求める『土』。
この三つに、とりとめのない思考や感情を次々と編む『風』を含めた四つの思考性が、僕らを作り上げている。僕らの中には四つの属性全てが備わっているのだけれども、それぞれに付けられた属性の強弱が、僕らをちょっとずつ違う思考を持つ機械人形に――人間だったらきっと性格、というのだろうけれど――仕立て上げている、というわけだった。
それにしても、とベネラとメイブンのやり取りを見ながら僕は思う。
どうして人間は、僕らにこんな属性をつけたんだろうと。
ただ人間に従い、作業をこなすだけの機械人形に、個性を生み出すような複数の論理と感情の回路を埋め込んだのだろうと。
「アカツキ、また考え込んでる」
再び思考の迷路に入り込んだ僕に気づいて、呆れたような声を上げるベネラ。
「これはもうアカツキの癖みたいなものだな」
その横で、同じように頷くメイブン。
そして。
「なになに、わたし抜きで楽しいお話?」
探査車両のスピーカーから流れるライカ博士の声。
「いえ、なんでもないです」
「なによー、アカツキ、わたしだけ仲間はずれ?」
スピーカー越しにでも分かる不満げな声に、ベネラが思わず吹き出した。
「気になる子にはつっけんどんになるわよねー。青春だわー」「ふむ、微笑ましいな」
頷き合うベネラとメイブンを無視して、僕はスピーカーに向かって「そろそろ出発します」と博士に伝える。
「三人とも、帰ってきたら尋問だからね……えーと、探査車両の切り離し、了承します。回収は地球時間の四日後」
「了解」
「クドリャフカへの定時連絡を忘れないように」
「了解」
「頒布濃度が低い場所への、『ハタラキバチ』の散布も適宜行うように」「了解」
探索前の、いつもどおりの応答を繰り返す僕ら。
「それじゃあ、行きますか」
ベネラの声に、僕らはめいめいの配置につく。
探査車両がステーションの昇降ブロックに運ばれる。
降下準備が整ったことを告げる緑色のランプが点灯する中、再びスピーカーから博士の声が聞こえた。
「そうそう、アカツキは土産話を忘れないように。待ってるからね」
「相思相愛かお前ら」とにやつくベネラ。
彼女を無視しながら、僕はスピーカーの向こうで笑顔を浮かべているだろう博士に「アカツキ、了解です」と答える。
そして。
僕たちを載せた探査車両が、ゆっくりとステーションの昇降口を降りていく。
二酸化硫黄の雲海を越え、その向こうに広がる、地獄の釜の底の大地へと。
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