哲学的な彼氏企画

竹尾 錬二

第1話


 たったったっ!

 アタシは食パンを加えながら急いでアカデメイアへの道を走っていた。

「大変大変、転校初日から遅刻じゃ格好悪いかな」

 でも、エヴァレットの多世界解釈によれば、この世界には見えないだけで全ての分岐する前の可能性が存在するらしい。

 つまり、アタシが遅刻をしたかどうかは、アタシが教室の扉を開けた瞬間に決定するので、教室の扉を開けるまでは分らないのだ!

 どかっ!

 突然、曲がり角でアタシに誰かかがぶつかった。

「ちょっと、いきなりぶつかってこないでよね!」

 アタシは文句を言った。

 アタシがぶつかった男の子は、こう言った。

「確かに、君の認識からするなら僕が君にぶつかってきたのかのしれない。しかし、僕の認識からすると、僕にぶつかってきたのは君なんだ。これはどちらもカントのいうモノ自体の真理ではない。でも、この二つの事柄を弁証法によって戦わせることによって、『君と僕がぶつかった』というより真理に近い形に近づけることができるんだ!

 どきん!

 アタシのハートが高鳴った。

 ……この人、凄く、アタシの理想の恋人のイデアに近いみたい!

 アタシの恋は死に至る病にかかった!


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「――いや、ないないない、アリかナシかで問うまでもなく、この小説は絶対に無しだろ!」

 俺はプリントアウトされた紙束を机上に放りだすと、三角締めを極められたレスラーの気分で、何度も机をタップした。

「む~、そんなに駄目でした? 私の自信作」

 不満そうな瞳でじっとりと俺を見つめながら、不肖の後輩、津久見理子は小さく首を傾げた。

 ショートカットの黒髪と、意志の強そうな黒い瞳に通った鼻筋。小柄な体躯は快活さに溢れていて、外遊びが好きな小学生を思わせる。……夏休みも過ぎ去り、二学期も半ばになるというのに、今だに首を捻ることが多い。なぜこんなやつがうちの部に入ったんだろう? 廃部寸前だった我が文芸部を救った新入生は、あろうことか、どう見ても読書に縁があるようには見えない、猪突猛進型の体育会系少女だったのだ。俺は嘆息交じりに頭を振る。

「問題外だ。妙な説明台詞は延々と続くし、哲学用語の使い方は明らかに明らかに間違ってるし、誤字脱字はあるし、何よりこの女の趣味は一体何なんだ? ギャグか? ひょっとして、何か俺たちには理解できない高尚なギャグでも書いてるのか?」

「違いますっ! 何度言えばいいんですか? 私は、哲学的な小説を書きたいんです!」

 いつもの如く、噛み付くような勢いで身を乗り出し、腕をぶんぶん振って熱弁を始めた。

「私は、私の小説で哲学の面白さというものをみんなに広めたいんです。色々考えたんですけど、やっぱり、哲学の理論に親しみを持ってもらうためには、哲学的なことで思い悩む男性達を小説に描いてみるのが一番かな、って思ったんですけど……ちょっと、聞いてるんですか! 佐伯先輩!」

俺は頭痛を抑えるかのようにこめかみを押さえた。入ってきた新入生が文芸部に似つかわしくない体育会系少女だった。それはいい。その正体は驚異の天才文学少女――なんてオチはなく、見かけ通りの残念な文章力の持ち主だったが、それもべつにいい。

 問題なのは――。

「どうして、おまえはロクに漢字も読めないのに哲学だけが大好きなんだよ……」

「だって、面白いじゃないですか、哲学」

 この問題児は、入部早々『たくさん哲学の本を読むために文芸部に来ました』と珍妙な宣言をし、その外見に似合わないたくさんの有名な難書――ヘーゲルの『精神現象学』や、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』など――に挑戦し、その全てに悉く敗北した。

「ねえ、佐伯先輩。先輩はどうして私が哲学の話をすると、そんなに嫌な顔をするんですか?」

「なあ、津久見。おまえが無謀にもカントの純粋理性批判に挑んで、1頁も理解できずに悩んでいた時に、3時間もかけて解読を手伝ってやったのを覚えてるか?」

「はいっ! あの時はとってもお世話になりました!」

「なら、次の日おまえがアプリオリとアポステオリの区別すら覚えていなかった時の、俺の怒りも覚えているな?」

「うっ……」

 新入生だからと大目に見てやっていたのは最初の方だけだった。似たような出来事が幾度も続き、ある日臨界に達した俺は、悪びれた様子もなく『ごめんなさい、頭こんがらがってきちゃったんで、もう一度解説お願いしてもいいですか?』と人懐っこい笑顔を浮かべたながらカントを差し出したこいつの頭を、容赦なくスリッパではたいてやった。

「悪いことは言わないから、今度の機関紙を哲学ネタでいきたいなんて我儘は言うな。おまえのオツムじゃ哲学なんて到底無理だ。趣味で入門書を読む程度にとどめておけ」

「むぅぅ、先輩はケチです。少しぐらい協力してくれてもいいじゃないですかあ!」

 困ったことに、頭は全く追いついてないものの、こいつの哲学に対する熱意だけは本物なのだ。愛用の入門書は付箋やラインマーカーの跡でびっしりだし、俺の解説も専用のノートを作ってきちんと纏めてある。だからそうそう無碍に扱うわけにもいかず、徒労と知りつつ、ついつい相手をしてしまうことも多い。

 だが、哲学小説の執筆なんて面倒ごとまで手伝うのは真っ平ごめんだ。

「ん~、真人くん、あんまり理子ちゃんをいじめちゃ駄目だよ~。うちの部のただ一人の一年生なんだから。大事にしてあげなくちゃね~」

「ああ。一年生の指導は二年の仕事だ。しっかり指導してやるといい」

 各々の椅子で、置物のように読書に没頭していた先輩達が余計な口を挟んできた。

 我が文芸部の部長、野津原和枝先輩は読んでいた杜甫の原書を閉じて、ほんわかと微笑んだ。

「理子ちゃんはね~、とっても頑張り屋さんなんだから、真人くんも応援してあげないとダメだよ~ 偽りても賢を学ばんを、賢といふべし、ってね」

 津久見とは対照的な、大人びた風貌と女性的な肢体。それを、間延びした子供っぽい喋り方が台無しにしている。古典漢文を愛していて、短歌や漢詩を作って新聞などに投稿するのを専らの趣味としている、外見通りの柔和な性格だが責任感は強く、文芸部の最高権力者である。

 むっつりとした顔で読書を続けているのが、蒲江洋次先輩。痩身に銀縁眼鏡をかけたその面持ちからは神経質そうな印象を受けるが、気さくで頼りがいのある俺の兄貴分だった。

蒲江先輩が愛するのは、野津原先輩とは対照的に西洋文学、もっと言うならシェイクスピアだった。演劇部と兼部もしており、蒲江先輩に言わせるなら、演劇も文学も、共にシェイクスピアに近づくための一手段らしい。

 野津原先輩と蒲江先輩は幼馴染らしいのだが、別段仲が良い風にも見えず、和洋の文学のどちらが上かで言い合っていることもしばしば見かける。興味の分野がまるで別なので、部室に二人でいる時も静かに二人並んで自分の本の項を捲っているのがこの部の常だ。

 この二人の先輩と、不肖の後輩津久見理子。そして、もうじき次期部長を受け継ぐ唯一の二年生である俺、佐伯真人の4人――それが、この廃部寸前の文芸部の全メンバーだ。

 先輩たちは、二人とも受験の近づいた三年生、とうに引退していておかしくないのだが、受験勉強に丁度いいだの、やり残したことがあるだの、俺に部長を任せるのはまだ早いだの、色々と理由をつけてこの文芸部に入り浸っている。本当に文芸部が好きなのかもしれないし、もしかして、先輩たちが引退してしまえば二人だけになってしまう俺たちのことを慮ってくれているのかもしれない。何にせよ、俺には部室に足を運んでくれる先輩たちの存在がありがたかった。俺の放課後の読書タイムが、津久見の哲学談義で塗りつぶされるのは絶対にご免だ。

 俺はパイプ椅子に深く腰を下ろすと、自分自身の楽しみを満喫すべく、昨日買ったばかりの文庫本を鞄から取り出した。津久見の原稿などに思わぬ時間をとられてたが、これでやっと俺の部活動が始まる。お気に入りの作者の新刊だ。沸き立つ心を抑えつつ、静かに頁を開く――と、その新刊を、小さな手がひょいと抜き取り、そのまま書店でかけて貰ったカバーを、バリバリと無遠慮に海老の殻でも剥くように剥がしてしまった。

 たちまち、でかでかと表紙に踊るアニメ調の色彩の少女のイラストと、ポップな字体で書かれた題名が晒された。

「先輩っ、またライトノベルなんて持ってきたんですかっ! こんな役に立たない軽薄な本ばっかり読んでないで、たまには野津原先輩や蒲江先輩のような学術的な本でも読んだらどうですか!?」

 学術的な本、と言いながら哲学書を差し出し、言外に自分の哲学話に付き合えとあざとく視線で要求してくる。勿論そんな要求を呑めるはずもなく、俺は津久見の手から新刊をひったくるように取り返した。

「断る。俺はこれか涼宮ハルヒの新刊を読むんだ。俺がどれだけこの新刊を待ち詫びてたか、おまえにわかるか?」

 津久見は見下すような視線をハルヒの笑顔に向け、首を振った。

「わかりません。この本が、一体何の役に立つんですか? 先輩はもっと有意義な読書をすべきです」

「役に立つ有意義な読書だぜ。そうだな、これはエンターテイメントの勉強だ。おまえの小説に一番足りない部分だ。『たんぽぽ』の中じゃ、俺の娯楽小説が一番生徒に受けがいいのは知ってるだろ」

 うっ、と津久見は返答に詰まったようだった。『たんぽぽ』とは、文芸部が学期毎に発行する由緒正しい機関紙の名前だが、ここ数年の部員の激減により、今ではその名の通り吹けば飛ぶような薄い冊子となってる。独創的でハイレベルな津久見先輩の短歌や漢詩と、大学生の論文レベルのクオリティを誇る蒲江先輩のシェイクスピアに関する考察コラムは、非常に高い文化の薫りを感じさせ、教師受けもいいのだが、反面生徒からの受けは今一つ芳しくない。そこで、俺が残りの紙面をライトノベル調の敷居の低い娯楽小説で埋め、『たんぽぽ』を教師からも生徒からも受けの良い機関紙へと仕上げている。つまり、俺は『たんぽぽ』の娯楽小説担当。そのためにライトノベルをどれだけ読もうと、まともな原稿一本上げられないこの後輩に謗られる謂れはまったくないのだ。

「対しておまえはどうだ? 哲学のお勉強は大いに結構だが、今度の『たんぽぽ』に載せる原稿はちゃんとできてるのか? 言っとくが、さっきのシュルレアリズム小説のようなものは論外だぞ。一学期みたいに、哲学の勉強を始める決意表明の作文もどきでお茶を濁すことは許さねーからな。俺があれだけ無理だと忠告してやってるのに、それでも哲学ネタで行きたいというなら、それに相応しいものを仕上げてもらうぞ」

「ば、馬鹿にしないで下さいっ! 私の今回のメインテーマ、『哲学的な彼氏企画』は、こんなものじゃないんです! アイデアなんて次から次へと湧いてきて、一体どれを書き始めればいいか迷ってるぐらいなんですから!」

 さっきのアレ、自信作って言ってなかったけ? そんな突っ込みの言葉を飲み込んで、生暖かい視線を向けると、津久見はぐっと握り拳を作って睨むような視線を俺に向け、ルーズリーフを取り出して猛然と何かを書き殴り始めた。きっと、次から次に湧き出すアイデアとやらを書き纏めているのだろう。正直、あまり興味はなかった。俺の今の関心事はただ一つ、この涼宮ハルヒシリーズの新刊の内容だけだ。今度こそ俺は文庫を静かに開き、物語の世界へと静かに没頭した。先輩たちもとっくに各々が好む本の世界へと飛翔している。部室には、机を叩く津久見のシャーペンの音だけが静かに響いていた。



「できましたっ!」

 津久見が声を上げたのは、奇しくも俺が新刊を読み終えたのとほぼ同時だった。時間にすれば小一時間というとこか。ハルヒの新刊は、予想は裏切り期待は裏切らない、俺の待ち望んでいた通りの傑作だった。痛快なハルヒや長門達の活躍、深まる物語の謎と絶妙な引き。これは次巻も楽しみだと胸中でほくそ笑む。できればもう少し読後の余韻に浸りたいところだったが、これ以外の思索は許さぬとばかりに、女子高生にしてはやや荒い文字でびっしりと埋まったルーズリーフが視界いっぱいに突きつけられた。

「どうです! 私の『哲学的な彼氏企画』は、ざっと書けただけでも、こんなにたくさんのアイデアを用意しているんです。解りましたか? 私にとって、先輩をぎゃふんを言わせるような哲学小説を書くぐらい、お茶の子さいさいなんです!」

 その自信の根拠が一体どこにあるのか教えて欲しい。鼻高々の後輩を横目で見ながら、ルーズリーフに視線を走らせる。少女小説のプロットじみたものに、イデア論だの主観的自我だのニーチェだのといった、明らかに場違いな哲学畑の言葉が混じっている。それが、箇条書きでルーズリーフ一面に並んでいて、俺は軽い眩暈を感じた。どれも、解読するにはシャンポリオンにでも依頼しないといけないような代物だ。

 正直言って関わるのは御免被りたいのだが、由緒正しい『たんぽぽ』にさっきのような珍妙なものを載せるわけにはいかないし、先輩達からはこの厄介な後輩の教育を命じられている。ハルヒの新刊のお陰で、今なら多少の理不尽なら我慢できそうな気分だ。仕方がないので、少しだけ温情を見せて取り合ってやることにした。

「ほら、そこに座れ。こんな走り書きじゃさっぱり判らん。一個づつ俺に判るように説明してみろ」

「やったっ! まず、一番上のこれですけどね、この物語の始まりは……」

「鬱陶しい説明はいい、起承転結だけ簡単に纏めて教えろっ!」

 かくして、俺にとっては拷問に近い、津久見による小説プロットの解説タイムが始まった。

「えっと、これはですね、ソクラテスを格好いい彼氏、プラトンを可愛い彼女にしてですね、二人のラブラブな会話が熱い議論となって、読者の真理への情熱を呼び覚ますという作品なんです。あっ、でも、メインはソクラテスとプラトンですが、近代の哲学を無視しているという訳ではなくて……」

 いつものことだが、津久見の説明はとてつもなく婉曲で脱線が多く、その真意は俺には到底掴みきれない。それでも、汲める部分は汲み取りながら、じっと我慢強く説明に耳を傾ける。――そうして数分。

「OK、了解した」

「え? 先輩、説明まだ3分の1も終わってませんよ」

「十分だ。ちょっと貸してみろ」

 勿論手心を加えたりする気はない。津久見からルーズリーフを奪い取ると、何色かのラインマーカーで魚でも捌くように、一気に色分けをした。

「……? 何ですか、このラインは?」

「お前は数え切れないほどのアイデアがあるなんて嘯きやがったがな、はっきり言って、これは全部同じ話だ」

「ええっ! 何を言ってるんですか? 全然違う話じゃないですか!?」

 ジト目で津久見を見つめて、とんとんとチェックを入れた二箇所を指差した。

「まずここ。どんなストーリーだ?」

「あ、これは自信作です。ええっと、大恋愛の末、現象学を愛する格好いい彼氏ができるけど、最後はその彼氏が交通事故で死んじゃう、胸が痛くなるような悲しいラブストーリーなんです」

「……じゃあ、これは?」

「これも自信作ですよ。苦難を乗り越えて、観念論を愛する格好いい彼氏ができるんですが、最後はその彼氏が交通事故で死んじゃう、悲劇のラブストーリーなんです」

「それって、彼氏の好みが現象学か観念論かの違いだけで、全く同じストーリーじゃねーかこのアホ! この辺の話全部、出てくる彼氏の好みの哲学のジャンルが違うだけで、後は全部同じだろうが! ほら、同じ傾向の話を同じ色のマーカーで塗ってみた。何が山ほどのアイデアだ。大きく分ければ、精々いいとこ5つか6つじゃねえか!」

 信号機のように単調に色分けされたルーズリーフ。これでも手心を加えてやった方だ。恋愛系は特に酷い。どれもこれも一昔前のケータイ小説の方がマシなレベルだ。

「アホは先輩です! 全然哲学のことを判っていませんね。……まったく、現象学と観念論の違いも分からないなんて」

 えっへん、とばかりに腰に手を当てて、鼻高々に微笑む。今すぐ卍固めでもかけてやりたくなるような、自信に溢れた微笑だった。

「なあ、仮にこんな話があるとしよう。……とあるバンドのギターと恋した女の子が、白血病で死ぬ話と、とあるバンドのベースと恋した女の子が、白血病で死ぬ話。どうだ?」

「う~ん。どっちも同じお話じゃないんですか? どちらも最後女の子は白血病で死んじゃうわけですし」

 俺は無言で窓際に歩み寄り、ガラス戸を開いた。三階から見下ろすグラウンドには、秋の大会に向けて、サッカー部の部員達が汗水垂らして走りこみをしているのが見えた。校庭のカエデは、少しだけ色が変わり始めたようだ。まだ幾分の熱気を残した一陣の風が吹き込み、部室に積まれた紙束を揺らした。野津原先輩の緩やかなウエーブのかかった美しい長髪が風にそよぐ。読書に没頭していた先輩は、本にかかっていた髪を少しだけ物憂げに掻き揚げた。

 俺はヤケクソ混じりに満面の笑みを浮かべて言った。

「先輩。こいつ、手足ふん縛ってここから放り投げていいですか?」

「こらこら。新入生の勧誘でこいつを連れてきたのはおまえだろう。餌の世話も散歩も全部一人でやると言ったじゃないか。もう放り出すのか?」

 蒲江先輩が本から目を話さずに答えた。

「ちょ、蒲江先輩も失礼ですね! まるで私が犬みたいじゃないですか!」

「そうだな、おまえは犬じゃないぞ。せめて犬ぐらい賢かったらどれだけ良かったか。おまえの頭は鳥だ。究極の鳥頭だ。それも飛び掛るしか知らない軍鶏の類だ」

「未だ木鶏に至らず、だね」

 野津原先輩がよく解らない合いの手を入れた。

「野津原せんぱ~い、また意地悪の佐伯先輩が私をいじめるんですよ~」

泣きついてきた津久見の小さな体を、野津原先輩はむぎゅー、と抱きしめて、ぐりぐりと頭を撫でた。

「おーよしよし、今日も理子ちゃんは可愛いね~、こんなに可愛い理子ちゃんをいじめるなんて、洋次くんも真人くんも意地悪さんだね~」

 野津原先輩のハグはどう見ても、犬か何かを愛でているようにしか見えないが、津久見はご満悦のようだった。きっと頭の程度が小動物と同レベルだからだろう。

「ん~よしよし。今日も理子ちゃんのお肌はすべすべだね~」

 この二人は、女同士だからという言葉では片付けられないぐらい仲がいい。野津原先輩は気がつけば津久見をいじっているし、津久見は何かあったらすぐに野津原先輩に泣きつくのがこの文芸部の常だ。野郎二人のいない時には、津久見は野津原先輩を『お姉さま』と呼び、先輩から津久見にロザリオの授受でも行われているのではないか――時々、そんな下らない妄想をしている。

「さて、野津原先輩にパワーを分けてもらったところで、続きですよ! 佐伯先輩!」

 ずびっ、と擬音が聞こえるような勢いで、津久見は俺に人差し指を突きつけた。……あいつは野津原先輩の豊満な胸から如何なる神秘のパワーを受け取ったのだろうか? 俺も一口あやかりたいものである。

「先輩は、哲学というものをよく解っていないようなので、レクチャーしてあげます」

「おまえは小説というものを欠片も解ってないようだから、レクチャーしてやるよ」

 互いの視線が交わり緊張感の火花散らす――とでもこのアホは感じてるのだろう。哲学かぶれのこいつは、大論客にでもなったような顔をして論戦を仕掛けてくるのが、その内容はまるで稚拙で、小学生の『先生~、どうして人を殺してはいけないんですか~?』という質問の相手をするのと差して変わらない。

 本音を言えば、鬱陶しい。しかし先輩の言うとおり、不出来な後輩の教育をするのは上級生の義務ではあるし、鳥頭ではあるがこいつの情熱は本物だ。いつかのカントのように、教えた片端から忘れてられていくようなことは稀で、根気強く教えればそれなりのことは学び取っていくから、完全に徒労というわけでもない。

 ……それにまあ、馬鹿だけどガキみたいに真っ直ぐなこいつの相手をするのは、時には結構楽しかったりすることもあるのだ。

「じゃあ、早速始めましょう! まずは、私が先輩に現象学と観念論についてのレクチャーを……」

「その話はもういいから。おまえの言う『山ほど』のアイデアのうち、どれを形にするのか言ってみろ。それに合わせてアドバイスしてやるから」

「む~、妙に上から目線なのが気になるけど、よろしくお願いします。悔しいですけど、やっぱり小説のことは先輩が一番詳しいですからね」

 津久見は少しだけ不満そうな顔をしたが、気分の切り替えが早いのだろう。すぐに、にぱっと笑顔を浮かべた。

「う~ん、でも、私のアイデアはどれも自信作揃いなので、どれにしようかと言われちゃうと迷っちゃいますね」

「無闇に数を並べるんじゃなくて、まずはそこのプロットの山をジャンル分けしてみろ。学園ものとか、SFものとか、ファンタジーとか。最初は大雑把でいい。分かれたら、それを更に細かく分けてみろ。――あ、恋愛要素は度外視して考えろよ。

 これは、小説のジャンルとしての分類だからな。くれぐれも、どんな哲学理論を使っているかで分類するんじゃないぞ」

「はいっ、やってみます」

 さっきざっと目を通してみたが、『哲学的な彼氏企画』と自称してるだけあって、十把一絡げの安い学園恋愛ものが大半だ。だが、SFやサスペンスを臭わせるようなものもちらほらと見られる。小説作法の指南書のような細かい指導はする気はないし、しても理解されないだろう。さて、どうしたものか。カリカリと真剣な顔でシャーペンを動かす津久見の顔を眺めながら、溜息を漏らす。

「できましたっ!」

 椅子を蹴飛ばすような勢いで立ち上がり、にぱっと笑って、出来たばかりの分類表を広げて見せた。

 そのあどけない顔を見て、むらむらと悪戯心が湧いた。こいつの哲学談義に付き合わされるのは、正直勘弁だが、こいつの得意な哲学ネタでこいつをいじってやるのは、――結構いい暇つぶしになるのだ。

「うん、まあ無難な分け方だな。学園もの、近未来もの、哲学史もの。

 何だこりゃ? 彼氏の傾向? 年上、年下、情熱的、クール、理知的、スポーツマン……。どれを選んでも、哲学好きというオプションがついてくるんだよな?」

「勿論ですっ!」

「なるほど。自分に哲学を教えてくれるような、格好よくて都合のいい彼氏が欲しいという、非モテ女の欲望がダダ漏れてるんだな」

「ほっといて下さいっ!」

 あっかんべーをするように、津久見は子供っぽく舌を出した。

「それに、典型的な少女漫画やボーイ・ミーツ・ガールな話だけじゃ詰まらないと思って、私も色んなバージョンを考えてあるんですからね」

「ほほう、例えば?」

「最初、登場人物は私たちと同じ高校生ぐらいがいいかなー、って思ってたんですが、段々と別にこだわらなくてもいいのかな、って気分になってきまして、14歳ぐらいの男の子が主人公でもいいと思うんです。ほら、多感で、色々世の中のことや哲学とかについて考え始める年頃ですし」

「なるほど、いいかも知れないな。思春期の少年にありがちなエディプス・コンプレックスを抱いていて、父親との不和に悩まされている、という設定にすると面白いかもしれないな」

 おおおおぉぉ、と目を真ん円にして感嘆の声を漏らした。

「佐伯先輩、流石です! エディプス・コンプレックス、凄く格好いい響きです。これは面白そうなものに仕上がりそうな気がしてきましたよ~」

 本当におまえはエディプス・コンプレックスの意味を知っているのか、小一時間問い詰めたい。

「それで、その少年の身近には二人の女の子がいて、一人は母親を思い出させる容貌の無口な少女、もう一人は主人公に近い傷を抱えた活発な少女という設定にしよう。この二人の間で悩み揺れ動く、少年の物語は一体どこに向かうのか――こんな感じでどうだ?」

 ぶふっ、と噴出す声が聞こえた。蒲江先輩が本で顔を抑えてぷるぷる震えている。対して、津久見は目を輝かせ、頬を紅潮させて興奮の真っ只中だ。

「ブリリアントです! その案でいきましょう! 先輩、ご協力ありがとうございました。

早速、執筆に取り掛かりましょう!」

 ノートパソコンを広げ、北斗百烈拳でも繰り出さんとするばかりに十指を広げてキーボードに向かう津久見に、そっとオチを告げた。

「ああ、それからエヴァに乗せて世界を守るために出撃させればパーフェクトだ。まあ、精々頑張って書いてくれ」

 獲物を捕らえる隼の爪の威容で広げられていた十指が、ふにゃりと萎えた。津久見は愕然とした顔で振り返った。

「ちょ、ちょ、ちょ、真面目に相談に乗っててくれたんじゃないんですか!? またふざけて私を騙したんですか!? 酷いじゃないですか! 今日は真面目に相談に乗ってくれてると思って信頼してたんですよ!」

 年中こいつの騒ぎ声を聞いているせいか、妙に右耳の奥が痒い。食ってかかる津久見を余所目に、俺は耳かきを探した。――卓上、なし。――筆箱の中、なし。そもそも、この部室に耳かきなんてあったけ? 仕方がないから、鉛筆の尻の部分で耳を掻くことにした。少し太いのが玉に瑕だが、快感快感。

「もうっ、聞いてるんですか、先輩!」

「んー、冗談半分なのは間違いないけど、そこまで脱線はしてないと思うぞ」

 鉛筆を耳から引き抜くと、微かについた耳垢を吹き飛ばす。

「津久見、お前エヴァ見たことあるっけ?」

「え? ……エバンゲリオンですか? いえ、ちゃんと見たことはありません。ローソンのポスターとかあちこちで見るんで、大まかな登場人物の顔とか、出てくるロボットの形とかは解りますけど。私、男の子が見るようなロボットアニメとか、あんまり見ませんから」

 まあ、この年代なら仕方ないが、ド素人のようだ。新劇場版などで、ブーム再燃しているようだが、一般的な女子高生への知名度はこの程度だろう。エヴァをエバンゲリオンと呼び、ロボットアニメに分類する辺り、狂信的なファンの怒りを買いそうでもある。

「じゃあ、エヴァが哲学的なアニメと呼ばれているのは知ってるか?」

「本当ですか~?」

 騙されたばかりだからか、津久見は半信半疑のジト目を向けてくる。

「うん、まあ、哲学的なアニメと呼ばれているのは本当だな」

 相変わらず本から視線は逸らさずに、蒲江先輩が助け舟を出してくれた。

「哲学や神学、心理学の匂いをあからさまにちらつかせてる。サブタイトルにも、『死に至る病、そして』なんてもろにキルケゴールからの引用があるしな。サルトルに似てるだの、ヘーゲルに似てるだの、ハイデガーに似てるだの、解釈は色々だ。……俺は、強いて言うならニーチェ的だと思うけどな。今流行ってるのは新劇場版だが、第一期ブームの時は、そこらに解釈本や考察サイトが溢れかえっていたもんだ」

 蒲江先輩は、そこで初めて本から視線を外し、少しだけ懐かしそうな目で、窓の外を眺めた。……この人も、きっと第一期ブームで深嵌りした口なんだろうなあ。シェイクスピアネタ以外の珍しい蒲江先輩の饒舌を、津久見は目を丸くして聞いていた。

「へええ、エバンゲリオンって、そんな凄いものだったんですね! 私、さっぱり知りませんでした!」

「う~ん、わたしも昔見たけどあるけど、ガオーってなって怖かったから、途中で見るの止めちゃったよ~。ん~、わたしは、ジブリのトトロやラピュタの方が好きかな~」

 野津原先輩は、頬に指を添えて首を傾げる。確かに、この人にはエヴァよりジブリだろう。一方、津久見は興奮冷めやらぬという表情で、今にもDVDを全巻まとめてレンタルをしに駆け出しそうな様子でうずうずと体を動かしている。

 蒲江先輩は、薄く笑みを浮かべて、くいと銀縁眼鏡を指で押し上げた。話題が話題なだけに、『あ、今の何かゲンドウっぽかった』と余計な感想を抱いてしまう。

「まあ、落ち着け、津久見君。確かにエヴァは巷で哲学的なアニメと呼ばれている。だけど、言ってしまえば、『それだけ』なんだ」

「……? どういう意味ですか?」

「確かに、エヴァは様々な哲学的、心理学的なネタを用いて構成されている。だが、それが何かの哲学理論を解説しているというわけではないんだ。エヴァをサルトル的だと見た奴も、ユング的だと見た奴も、ニーチェ的だと見てる俺も、全部、受け手の立場から勝手に、自分の好きな切り口で解釈しているだけであって、エヴァという作品がそういうものである、と受け取ったのならそれは大きな勘違いだ。

 エヴァが結局何の寓話だったのか、どんなメッセージが籠められていたのかは、今でもファンの間で論争になるところだが、その決着がつくことはない。監督自身も、哲学的と言うより、衒学的な作品だと言っているしな。最初から何らかの哲学的メッセージを汲み取ろうとして見ても、無理矢理な解釈をこじつけて、曲解に曲解を重ねた挙句、袋小路に嵌るのがオチだよ。

 見るのは勿論自由だけど――できれば、妙な先入観なしでそのままの作品を楽しんで欲しいね。あ、見るなら新劇場版がお勧めだ。野津原には昔旧劇場版を見せてやったんだが、どうも趣味に合わなかったみたいだからね。やっぱり解りやすい方がいいだろう」

 うわあ。野津原先輩は、一発目からあのグロエグい旧劇場版を見せられたのか。それはギブアップして当然だろう。いたいけな少女だっただろう頃の野津原先輩相手に血と臓物溢れる旧劇場版の上映会をやった蒲江先輩は意地悪なのか、無神経なのか。

 ふと、津久見の方を見た。津久見は神妙な顔で蒲江先輩の話をじっと聞いていた。少しだけ想像する。――津久見を騙して、旧劇場版を見せたらどんな顔をするだろう? こいつがホラーに弱いという話は知らないが、哲学的と思って見たアニメで思わぬグロシーンに対面して、叫ぶこいつの顔が見れれば、きっと凄く面白いのではないだろうか。

「ところで、少し気になったことがあるんですが――」

 ん? と皆の視線が津久見に集まる。

「佐伯先輩がオタクさんなのはよく知ってるんですが、エバンゲリオンについてそんなに詳しく知ってるってことは、蒲江先輩もオタクさんなんですか?」

「………………」

 空気読めよこの馬鹿、と叱りつけたくなる。さっきまで長弁を揮っていた蒲江先輩も、難しそうな顔をして黙ってしまった。

「……蒲江先輩はシェイクスピアオタクなのは間違いないが、おまえの考えてるような、いわゆる秋葉原系のオタクとは違うと思うぞ。漫画やアニメのネタも結構分かるけど、蒲江先輩は立派に普通の人だ」

「典型的オタクのお前に普通の人認定を受けても嬉しくはないな」

「ん~、洋次くんはオタクじゃないかもしれないけど、変わり者なのは間違いないと思うな~」

 さらりと、野津原先輩の容赦ない突っ込み。だが、その通りだ。蒲江先輩は断じて巷間オタクなどではない。先輩はシェイクスピアを愛しすぎて、二次元キャラなどに萌えている暇は無いのだ。もっとも、先輩がオフィーリアやデズデモーナに萌え狂っているという可能性は否定できないし、その場合には果たして二次元萌えの範疇に含まれるのか否かという問題もあるが、そんなものは全くもって俺の知るところではない。

「そもそも、おまえ何の権利があってオタクを差別してるんだよ? まさか、気持ち悪い犯罪者予備軍とか、社会不適合者とか、安いマスコミの煽りみたいなこと考えてるわけじゃないだろうな? ついでに言っとくが、哲学オタクだって十分オタクの仲間だぞ」

 あっ、と津久見は口元を押さえ、それからゆっくりと顔色を朱に染めた。

「わ、私は別に、オタクの人を差別して聞いたわけじゃありません! 先輩のことをキモいとか犯罪者みたいとか思ったことも一度もありませんっ! ただ、蒲江先輩が佐伯先輩の得意分野のエバンゲリオンのこととか色々知ってたんで、オタクの人って、みんなそういう話ができるのかなあ、ってちょっぴり思っただけです! 私は、オタクの人がキモいとか、そんなひどいことを思ってる訳じゃ、全然ありませんからね!」

「あ、……ああ、そうだったのか」

 予想外の勢いで一気にまくし立てられて、俺は少し引き気味になりながらコクコクと津久見の言葉に頷いた。はて? 俺は何か津久見の癇に障ることでも言ったのだろうか。先輩たちに視線で問いかけてみる。と、先輩たちはこそこそと言葉を交わし、ニヤニヤ笑いながらこっちを眺めていた。二人は一体何を話しているんだろう? 無性に腹が立つ。

「まあ、理解のある後輩で良かったじゃないか。普通の女子高生の前でラノベを読み耽ってたりしたら、蛆虫扱いされるのがオチだぞ」

「はい。理解ある後輩と先輩がいて、ありがたいですよ。本当に。お陰さまで、誰憚ることなく、部室でラノベが広げられます」

「……少しは憚れよ」

 先輩たちには、本当に感謝している。二人とも少し変わっているけど、優しくて聡くて頼りになる先輩たちだ。入部したての頃、「こういうのも、ありですかね?」とラノベを見せた俺に、「ありじゃないのか? 趣味は人それぞれだろ」と、本から目を離さずに素っ気なく答えてくれた蒲江先輩。あの時の言いようのない安心感は今も覚えている。いつも本を読んでばかりで、文芸部員として何かを教えてくれることは殆ど無かったが、必要なことはきっちり教えてくれたし、二人と一緒に本を開くだけで、心地よい安堵を覚えるのはあれからずっと変わらない。

 だからだろう。俺の後輩はこんな鳥頭だが、時折何かしてやらなければ、と思うこともある。

「さて、エヴァと哲学の話だったな」

「あ、はい」 

 脱線していた話を急に元に戻され、津久見は背筋を伸ばした。

「エヴァがどんな作品か、どんな哲学的解釈ができるかという話は、今はさておく」

「はい」

「哲学的な小説を書こうと思った時に、エヴァという作品によって現実的な問題が生まれるんだ」

「現実的な問題、ですか?」

「哲学的な作品、まあこれは小説よりも、アニメや漫画の業界の方が判り易いんだがな、エヴァ以降――哲学を匂わせるような作品が爆発的に増えたんだ。それっぽい哲学や心理学の専門用語を混ぜたり、色々な解釈ができるように抽象表現を多用したり、エンディングを曖昧にしたり、という具合だな。二匹目の泥鰌を狙った奴もいただろうし、純粋にエヴァをリスペクトしてた奴もいるだろう。――勿論、たまたまエヴァと似通った作品が出来上がったこともあるだろう」

「おい、それをエヴァ以降、で括ってしまうのは拙くないか? 『その展開は、ガンダムが20年前に通過した場所だっ!』とばかりにガンダムオタクが騒ぎ出すぞ。自分の存在だの、戦う意味だので、ぐだぐだ悩む主人公の類型は結構昔からあるからな。元祖本家の不毛な論争を呼ぶだけだ」

 流石蒲江先輩、よく解ってらっしゃる。

「意味不明なエンディングもイデオンとかで色々やってますからね。でもまあ、そこは置いときましょう。――要するに、似たような匂いの作品群が、またエヴァのパクリか、という一言で纏められるようになったんだな。下手に哲学的な方面に話を持っていこうとすると、もうアウト。『またエヴァのパクリかよ』という偏見の下で、作品は読まれてしまう」

 小首を傾げて話を聞いていた津久見の表情に、見る見る理解の色が広がっていく。

「たとえ、私が、エバンゲリオンを全然知らずに書いても、ですか?」

「そう。さっきおまえはオタクに偏見を持たない、みたいなことを言ったが、狂信的なオタクは、自分の好きな作品に似た後発の作品を、『また~のパクリか』調で貶めるのが大好きな歪んだ奴がたくさんいるからな。その辺りは十分非難に値すると思うぞ」

「むむう、じゃあ、わざとエバンゲリオンと全然違う話にすればいいんですか?」

「わざわざエヴァと差別化するために、自分の書きたいものを歪めるのか? それって窮屈じゃないのか?」

「む~、結局どうすればいいんですか!」

 わからない、とばかりに津久見は両腕をぶんぶんと振った。

「別に、普通はあまり気にしなくていいんだよ。エヴァに限った話じゃなくて、最初から予備知識として色んな作品を知っていれば、プロットを立てる段階で、これはあんまりにも似てるから止めとこう、と自然にブレーキがかかるんだ。俺もそうだったよ。このギャクは何か持ちネタに似てるとか、この展開は何かの漫画にそっくりだ、とか」

 ぼりぼり、と頭を掻く。問題点は幾つもあるが、どうも上手い解決策が見つからない。

「だけどな、おまえの場合あまりにものを知らな過ぎる。本も哲学関係以外はいくらも読んでないし、ドラマやアニメも大して見てないようだし、漫画も有名どころを幾つか知ってる程度だ。普通の奴が、これはあからさまにパクリくさいとブレーキをかけるとこに、アクセル全開で突っ込んでいくからな」

「中学の頃はバスケで忙しかったんですよぅ。でも、じゃあどうすればいいんですか? 今から山ほど本を読めばいいんですか、私、本を読むのすっごく遅いですから、先輩が思ってるぐらいの最低限の元ネタが解るだけの本を読んでたら、卒業しちゃいますよう!」

 津久見は唇を尖らせた。面倒臭い。面倒臭いことこの上ないが、これも先輩としての勤めと諦めよう。……それにしても、中学生時代バスケで忙しかった奴がどんな心境の変化であって高校の文芸部で哲学にのめり込むようになったのか、非常に興味深いところであるが、もし間違って尋ねでもしたら、水を得た魚とばかりに語りだして三時間は止まらないだろう。危ういスイッチは押さないでおくに限る。

「仕方ないから、俺がおまえの書くものを随時チェックして、もしも深刻なネタかぶりがあったら注意してやる」

 津久見は、ぽかんと口を開けて俺の顔を見つめていたが、子供のように両手を広げて喜色満面に飛び跳ねて喜んだ。

「やったっ! じゃあ、これからも先輩が手伝ってくれるんですね! それなら、百人力です! ありがとうございます! 私、頑張りますから、どんどん書きますから!」

 予想以上に喜ばれてしまった。対応に困って、ぽりぽりと頬を掻く。津久見をいじって遊ぶのは日々のささやかな楽しみとなっているのだが、『たんぽぽ』の原稿を手伝うと言っただけでこれだけ喜ばれてしまうほど、俺はこいつに冷たくしていたのだろうか?

 助けを求めるように視線を蒲江先輩に送ると、先輩はにやりと意味深な笑みを浮かべて見せると、すぐに視線を手元の本に戻してしまった。

「あ、ああ、頑張ってくれ……」

 津久見の勢いに圧されて、搾り出すようにそれだけ返した。一体何のスイッチが入ったのだろう。津久見はすっかり上機嫌だ。

「ふふふ~、先輩はネタかぶりを心配してるみたいですけど、私にはまだまだ秘策があるのです。誰も思いついたことがないような、オリジナリティ溢れる独創的なアイデアがあるのですよ」

 途轍もなく頭が悪そうな説明だったが、余計な突っ込みはせずに黙って聞いてやることにした。

「哲学を使って、SFをやろうと思うんです」

「……へえ、SF、ねえ」

 嫌な予感がするが、俺は努めて冷静に先を促した。

「哲学でSFなんて、それだけで新鮮だと思いませんか? その上、今私が考えてる小説のアイデアは独創的過ぎて、完全に時代の先を行ってます、もうこれは、ネタが被る、被らないなんてレベルじゃなくて、世間が一体どれだけ私のセンスについてこれるかっていう――」

「能書きはいいから、それがどんなアイデアなのか教えてくれ」

「びっくり仰天の逆転の発想から生まれてたアイデアです。それは、私たちを含める人類全員が、現実世界に生きていたつもりが、実はコンピューターの中の仮想世界の住人だったという、未だかつて誰も思いついたことのない、大どんでん返しのストーリーのSFなのです!」

「………………」

 ひゅ~う、と、先ほど開けた窓から一迅の風が吹き込んだ。本に没頭していた蒲江先輩が、静かに席を立ち、窓際に向かう。

「だいぶ冷えてきたな。窓、もう閉めるぞ」

「ん~、そろそろお茶淹れよっか~。みんなお腹すいたよね。おやつにしようよ~」

「………………」

 俺は無言で、がっちりと津久見を首を腋にホールドした。

「あ、あの、先輩方、私の世紀のアイデアはいかがだったのでしょうか……? っていうか、佐伯先輩、一体何をしてるんですか……?」

 すう、と大きく一呼吸。一拍溜めて、そのまま必殺のコブラツイトをかました。

「この鳥頭の馬鹿、何が独創的な世紀のアイデアだよ! 思いっきりベタ中のベタなストーリーじゃねえか! 星だろうが筒井だろうが構わないから、とりあえずもうちょっと本を読んで出直してこい! って言うか、何でおまえはいつもそんなに自信満々なんだよ! その自信の源は一体何なんだ? いい加減自分が馬鹿だってことに気づいちゃくれねえか? それとも、自分が馬鹿だって気づけないくらい馬鹿なのか? つーか、なんでこんなベタな話がオリジナリティ溢れる最新作になるんだよ!? おまえ、『マトリックス』ぐらいも見なかったのか!?」

「あうううぅ、痛い痛い痛い、ギブ、ギブです先輩!」

 津久見はもがくように俺の背中をタップした。本当はあと一時間ぐらいはこのまま締め上げてやりたい気分だったが、こんなのでも一応女の子だ。関節技を続けるのもまずいだろう。しぶしぶながら開放してやることにした。

「ううう、そんなに怒ることないじゃないですかあ。……それにしても、私のアイデア、もう先に思いついた人がいたんですね。ちょっとショックです」

「先に思いついた、なんてレベルじゃねえよ。手垢が付くどころか、使い古されてもう真っ黒、それ単体じゃ何のネタにもなりゃしねえ。もう舞台装置の一類型と認知されるぐらいに馴染みの設定だぜ。小説のオチがこれじゃあ、読者はどんな顔していいか判らねえよ。むしろ、冒頭の設定の時点で語られるのが妥当なネタだな。

 ……ところで、本当に『マトリックス』、見たこと無いのか?」

「ええと、見たことはあるんですが、覚えてるのはキアヌ・リーブスがびゅんびゅんって鉄砲の弾をよけて、カンフーで黒い悪者をいっぱいやっつける所だけで、細かくて難しいところは忘れちゃいました……」

 鳥頭にも程がある……っ! 頭を掻きながら、えへへーと笑う津久見を見て、こいつを小脇に抱えて窓から飛び出して、そのままパイルドライバーをかましてやりたいという衝動が腹の奥底から湧き上がってきたが、俺は努めて平静を保った。

「それにしても、しょんぼりですよー。現実だと思っていたこの世が、実はコンピュータの中の出来事だった、ってオチはそんなに古くからあるんですか?」

「ああ。もう初出がどれかも判らないぐらい古くからあるぜ。亜種や派生、アレンジの数々を考えれば一体幾つあるか分かったもんじゃねーよ」

「ん~、別にコンピュータの世界ってわけじゃないけど、荘子の説話にも似たようなオチの話があったよね。『果たして荘周が夢で蝶になったのか、それとも蝶が夢を見て荘周になっているのか』みたいな~」

 野津原先輩が、唇に指を当てて、ん~と眉根を寄せた。この人も随分と天然がかかっているのだが、時折ぞっとする程鋭いことを言うので中々侮れない。

「……荘子って、どれくらい前の人でしたっけ」

「ざっと、2300年ぐらい前だったかな?」

「うう、じゃあ、私のアイデアは2300年も時代遅れなんですね……」

「いいじゃないか。オチがコンピューターの中だろうと、蝶の夢だろうと。問題なのは、それらのオチがありきたりだってことじゃない。オチがただそれだけじゃ、面白くないってことだろ?」

「うーん、真実が分かってびっくり、というだけじゃダメなんですかね?」

「駄目だな。ほら、おまえの大好きな哲学の時間だぞ。その辺の問題は、もう飽きる程議論がされてる。結論なんて出やしないが、とりあえず、これだけは間違いないと言えることがあるぞ」

「そ、それは一体なんですか!?」

 ぐぐっ、と小さな握り拳を作って、身を乗り出して津久見は尋ねた。

「この世がコンピュータの中だろうが、蝶の夢だろうが、今こうして生きてる俺たちが出来ることは何も変わりはしないってことだ。――何も変わりはしないことを考えても無駄だろ? だから、そんなオチを書いても、今更誰も喜ばないんだよ」

「『消えろ、消えろ、つかのまの燭火、人生は歩いている影にすぎぬ』」

 蒲江先輩がぼそりと呟いた。荘子の次はシェイクスピアか。自分の得意分野からの引用は大好きな先輩たちである。

「ついでに言うなら、今現在SFというジャンルには刺激的で斬新なネタが溢れてる。今じゃ、現実側とコンピュータの中の世界の視点を逆転させるタイプよりも、現実世界の人間が、脳に細工をしてコンピュータの中の世界に直接入れるようになった、というタイプの設定の『サイバーパンク』ってジャンルのSFがかなりのメジャーなジャンルになってきてるしな」

 まあ、教えたところでこいつはギブスンなどのコチコチサイバーパンクや時間SFは絶対読めないだろうけど。ついでに、自分のいる世界がバーチャルリアリティーだと気づく展開なら、その後はマトリックスよろしく真の現実へと脱出に向かうのが王道である。

「そうなんですか……」

 さっきのハイテンションはどうしたのか、津久見はがっかりと肩を落として座り込んだ。

――本当のことを言えば、多少のネタかぶりなど、作者の力量次第でどうにでもなるものだ。どれだけ使い古されたありきたなネタだろうと、書き手の料理法次第で無限の可能性を持つ新しい作品として生まれ変わることができる。

しかし、現在の津久見の筆力を考えれば、ネタで勝負させた方が無難だろう。これも勉強だ。今のうちに、世にどれだけ多くの作品やアイデアがあるのかを知っておくべきだ。

 それにしても、よくこんな凡百のプロットをさも新しい名案のように自慢できたものだ。……ん? 突然、違和感を覚えた。津久見は、このネタを自分で考えたと言っていた。あの、碌に本も読まない津久見が。『現実だと思っていた世界が、実はコンピュータの内部の仮想現実だった』というオチ。今では使い古されてしまっているが、初めて世に出た頃は、間違いなく斬新で先鋭的なアイデアだった筈だ。それを、津久見は何の予備知識も無い状態で、ゼロから自分の頭で思いついたのだろうか? だとすれば……?

 ……そんな馬鹿な。俺は頭を振って、下らない思いつきを振り払った。過大評価だ。あの津久見がそんな発想力を持っている筈がない。きっと、漫画か何かのネタが頭の端に残っていて、それを自分で思いついたと勘違いしているのだろう。まったく仕方のない奴だ。こいつの読みそうな本で、この類のオチの物語は……ふと気づいた。こいつの、哲学への執念の源が、一体何なのか。

 

淀んだ気分を払うようにもう一度大きく頭を振り、まだ現状を正しく把握できていないだろう津久見に、嘘偽りの無い自分の考えを真っ直ぐにぶつけた。

「津久見、よく聞け。おまえの『哲学的な彼氏企画』だがな……大きな問題点がいくつもあると俺は考えてる」

「問題点、ですか?」

 津久見は眉を寄せ、困ったように首を傾げた。

「あの、それは、どういう意味での問題点ですか? 私の文章が下手なのが問題ですか? それとも、企画自体が間違ってるって意味での問題点なんですか?」

 こいつにしては珍しく、察しの良いことを尋ねてきた。答えは勿論――。

「後者だ。おまえの文章が下手なのは何を書かせても同じだからな。『哲学的な彼氏企画』それ自体が危ういと俺は思う。率直に言わせて貰うと、『たんぽぽ』に載せてウケるようなのを書くのは、お前じゃなくても難しいんじゃないか?」

「そうでしょうか? 私は凄く面白いって思ってるんですが……」

「そりゃ、書き手のおまえにとっちゃ面白いだろうが、読み手も同じとは限らないだろ? 哲学なんて、響きだけで興味ない奴にとっちゃ敷居が高いんだよ」

 まだ、自分の中でも整理しきれていない部分も多い。だが、津久見の話を聞きながら、こびりつくように胸中にわだかまっていた漠然とした違和感。語れるだけ語ってみて、損はないだろう。

「とりあえず、俺の思いついた『哲学的な彼氏企画』の問題点、幾つか並べてみるぞ」

「お聞きします」

 津久見は背筋を伸ばして、じっと俺の瞳を覗き込んだ。

「まずはやっぱり、哲学というジャンルが、イマイチ小説の題材として馴染みないってとこだな」

「だから、そこで――」

「だからこそ、哲学小説に挑戦したい、って言いたいんだろ。そこは解ってるつもりだ。まあ、もう少し聞け」

 口を開きかけた津久見を、静かに手で制す。椅子から腰を浮かせかけた津久見は、少し不満げな表情を浮かべながらも、再び腰を下ろした。

「そこで問題になるのは、主題がただの哲学小説ではなく、哲学的な彼氏小説というとこだ。おまえの作ったプロットを見たところ、どれも多かれ少なかれ恋愛要素が混じってるようだな。つまり、哲学小説と恋愛小説の二面性を持ってるわけだ。

 そこでクエスチョン。これを読むだろう読者にとって、哲学小説と恋愛小説、どっちが馴染み深い?」

 あ、と言うように、津久見が表情が変わった。

「おまえは、恋愛部分などを混ぜることによって、哲学部分を親しみ易いようにするつもりだったんだろうが、それを知らない読者にとっては全くの別だ。哲学と恋愛、二つの要素があるなら、理解しやすい恋愛小説としてのストーリーとして読む。

 さっきおまえは、観念論を専攻する彼氏と現象学を専攻する彼氏によって、全く別の物語になると言ったが、哲学に興味を持たない読者にとってはどちらも同じだ。恋愛小説としてのストーリーラインが変わらなければ、それはほぼ同一のものとして見なされてしまう。……ちょうど、音楽に興味のないおまえが、ギター担当の彼氏とベース担当の彼氏じゃ、ストーリーは同じだと言ったみたいにな。

 ぶっちゃけ、哲学じゃなくてさえも、それは変わらない。彼氏の興味が数学でも物理学でも天文学でもいい。なんか小難しいことをやってる、という同一の属性で見なされる。それを差別化するためには、ただ哲学をやってる、ということだけじゃなくて、哲学をやっていなければ出来ない、オリジナリティというものがどうしても必要になってくるだろうな」

 顎を押さえ、津久見は眉を寄せて下を向いて考え込んだ。こいつの真空管コンピュータ並の頭脳で、一体どれほどの思索ができるものか、お手並み拝見である。

 むむむ~、と難しい顔で考え込んでいた津久見だが、ふと何かに気づいたように顔を上げた。

「あの、先輩は哲学を馴染みがない、って言いましたけど、それって、逆にいうと新鮮味がある、ってことじゃありませんか?

 数学や物理学が得意な彼氏より、哲学が得意の彼氏の方が、珍しくて格好いい、みたいな! どうです? そう考えたら、馴染みが薄いってことは、弱点というより長所として働くような気がします!」

 悪くない着眼点だ。俺もそれは考えてみた。――だが、まだまだ浅い。

「確かにな。珍しい趣味や特技を持っているキャラクターは、一種の新鮮味があるし、何より個性が際立つもんだ。でもな、今の世の中、変わった個性や趣味を持ってるキャラクターなんてありふれてるんだよ。漫画でもアニメでも、最近の作品はキャラクターを切り売りするものばかりだ。どの業界でも、どんな斬新な……まあ、突飛なと言い換えてもいいが、そんなキャラクターを作ることばかり考えてる。

 ここ最近話題になった作品も、中々際どいやつが揃ってるぞ。高校野球部の女子マネージャーがドラッカーにはまってたり、中学生の妹が妹もののエロゲーを愛好してたり、ヒロインがイカの化身だったり」

「うわ、なんですか、それ? そんなカオスな話、キワモノ好みの先輩以外に読む人なんているんですか? ……そのキャラクター、女の子ばっかりみたいですけど、もしかして全部先輩の大好きなラノベの話じゃないでしょうね?」

「馬鹿にするなよ。ちゃんと一般書籍のレーベルで売られてるのも入ってる。どれも結構なヒットで、売り上げのランキングにも入ってるんだぞ」

「……今の流行って、私にはよくわかりません」

「別に解らなくてもいい。ただ、覚えとけ。今の世の中、変わったキャラ付けだの変化球だのはありふれてる。飽和していると言ってもいい。相当変わったものを考え出したとしても、『ああ、またありがちなイロモノか』で片付けられてしまう。――勿論、その内容が面白いかどうかはまた別の話になるけどな」

 俺の読んだところの感想は、エロゲー妹とイカ彼女はかなり美味しく味わえたが、ドラッカー女子高生はイマイチだった。ストーリーが平凡過ぎたし、ドラッカーの知識の挟み方も強引な感がしてどうも頂けない。

「その中で、哲学という題材は、どうも馴染みが薄い割りに、目を引くほどの新鮮さもない。売りにするにはどうも弱いんだな。セールスポイントとして掲げるには、手垢が付きすぎてる」

「うーん、確かに、ヒロインがイカだったり、ドラッカーが好きだったりする作品に比べれば、哲学っていう響きは普通ですよね。……ところで、ドラッカーっていうのは一体何ですか? もしかして、サッカーみたいな新しいスポーツですか?」

「今度読ませてやる。あれなら読みやすいから、おまえの頭でも理解できるかもしれない。

……おっと話が逸れた。キャラクターの話だったな。う~ん、哲学的な彼氏、ってのがどうも引っかかるなあ。今は、ラノベでもなんでも、キャラクターは類型分類するのが基本なんだよな。スポーツマンとか、美人とか、幼馴染とか、ツンデレとか」

「……ツンデレってあれですよね。あの、こういうこと言ったりする女の子のことですよね」

 津久見は立ち上がり、胸に手を当てて、すぅと短く息を吸った。

「『べ、別に先輩のことなんて、全然好きじゃないんですからね!』……みたいな」

俺は、恥ずかしげな表情で立ちつくす津久見に、本気で蔑みの視線を送った。

「そんな、分かりきったことを大声で言い直さないでいい。時間の無駄だから黙って座ってろ」

「え、えええ!? あの、私に別にそんな……違うんです、いや、違わないんですけど、あの、その……」

 口ごもりながら小声でよく分からない言い訳をする津久見を、しっしっ、と犬を追うように手で払った。津久見は何故か涙目になりながら、しゅんとして席に着いた。

 これも一種の才能だろうか。これほどツンデレらしくないツンデレの真似は初めて見た。もう一度こんなツンデレキャラを冒涜するような真似をしたら、どうしてくれよう。

「ツンデレに対するこんな鬼畜返し、初めて見たぞ」

 蒲江先輩が呆れたように声をかけてきたが、ここはスルーさせてもらおう。

「――ツンデレだの天然だのメイドだのいった属性には、分かり易さがあるんだが、哲学にはどうも分かり易さが無いんだな。『テツガク』なんて新属性を考えたとして、ウケると思うか?」

「うーん、ちょっと解りません」

「まあ、そんな新属性を作ること自体難しいだろうな。草食系男子とかならまだ分かるが哲学系男子なんて言われても意味分からないぞ。哲学抜きじゃ成立しないキャラクターなんて、そうそうできない」

 一息ついて、スポーツドリンクのペットボトルに口をつける。津久見はちょこんと椅子に腰掛け、ノートに今までの俺の言葉を書きつけながら、じっと俺の次の言葉を待っていた。……正直、少し照れくさい。こちらは自分でも突っ込みどころ満載の未整理の意見を垂れ流しているだけなのに、そんな真摯な瞳で見つめられると、どうも調子が狂うのだ。こいつ相手には、指導などをするよりもふざけあっていた方がよほど気が楽だ。



「んで、次。さっきのエヴァの話の続きだ」

「エバンゲリオンが哲学的って話ですか?」

「……その後の、エヴァみたいなのが増えすぎた、って話の方だ。哲学要素のあるストーリーというやつだ。

 哲学は小説の主題になることはそうそう無いが――小説に哲学要素が混じることは、すっかりメジャーになっちまったんだ。

 それも、哲学史や哲学理論をきちんと解説するんじゃなくて、世界の意味だの、生きることの本当の意義だの、本当の自分探しだの……『哲学的!』だの『深遠な世界設定!』だの煽りを入れると聞こえがいいが、実のところ、何の理論立てもせずに馬鹿がぐだぐだ悩んでるだけの話が多い。

 もしかして、さっきのエヴァの話で、色んな作品に取り上げられて、哲学が身近なものになってきたかも! なんて思ったんじゃないだろうな?」

「うっ、……ソンナコト、全然考エテナイデスヨ」

 津久見は気まずそうに目をそらした。わかりやすい奴である。

「そこから興味が長じて、本格的に哲学を勉強するようになった奴もいるにはいるだろう。でも俺は、そんな二束三文の哲学モドキなんて、増殖したところで哲学という言葉を貶めるだけじゃないかと思うけどな。

 難しいこと考えてますよ~、って気分に浸りたいだけの雰囲気哲学なんて、正直下らないと思うぜ。飲み屋のオヤジの人生哲学とか女子大生の本当の自分探しのようなことを延々とされてもつまらんよ」

「う~ん、随分手厳しいですね……。

 先輩ってよく本を読むし、オタクさんだから、さっきの話聞いてて、そういう最近のエバンゲリオンの影響を受けた小説とか大好きなんだろうなー、って思ったんですけど、好みが厳しいんですね、先輩って」

「いんや、大好きだよ」

「えっ」

 部室の隅を漁る。目当ては『佐伯』と書かれた小さなダンボール箱。よいしょ、と持ち上げて、机の上でおもむろに開封した。中に詰まっているのは、俺がこの部室に持ち込んだライトノベルの山だ。久しくご無沙汰だった俺の嫁や娘たちが、表紙で変わらぬ笑顔を向けてくれる。

「うわぁ、こんなに沢山部室に持ち込んでたんですね……」

 ラノベを手に取り、ぺらぺらとページを捲り、じっくりと見つめる津久見。その瞳に浮かんでいるものは侮蔑や嫌悪ではなく、ただ純粋な興味だ。そのことに、少しだけ心地よい安堵を覚える。

 山となったライトノベルから、俺は幾冊かを選りすぐった。

「これ、これ、それと、これ、あとこれもだな」

「? そちらに分けてるのは一体なんですか」

「おまえの言った、エヴァの影響を受けてるようなライトノベルだよ。まあ、影響を受けてるって言っても、どんな風に受けてるかは様々だし、似てるけど本当は全然影響なんて受けてない作品も混ざってるかもしれない。無口キャラを全部綾浪の影響なんて言ってたらキリがないし、キャラ云々より、世界観や使われてる哲学のエッセンスがエヴァ寄りの作品達だな。俗に言うセカイ系とか、まあ、その辺りだ」

「ちっとも解りませんよぅ」

「その辺りは解らなくていい。寧ろ解らない方がいいかもな。

 ……まあ、要するに、さっき言ったような、主人公が自分の存在意義だの世界の価値だの、そういった哲学っぽいことでぐだぐだ悩んでる作品だな」

「ええっと、さっき先輩が酷評してた小説ですか?」

「そうだな。これが、実に面白い」

「ふええっ!? さっきと言ってることが逆じゃないですか! 今日の先輩、いつもに増して言ってることがさっぱりです!」

「俺はただ、これらの本が読んで面白いと言ってるだけだ。俺は大好きだな、そんなラノベが。愛してると言ってもいい」

「あ、ああああ愛してるですか!?」

 何を驚いたのか、津久見は胸を押さえて立ち上がると、ラノベの一冊をぐいと握り締め、何かライバルでも見つめるような眼差しで睨みつけた。何やら、頬が少し紅潮しているようにも見える。こいつも支離滅裂で、相変わらずよく解らないやつである。

「下らないと言ったのは、哲学の本と思って読んだ場合の話だ。ライトノベルとして読んだらなら――こんな面白い本はないぜ。いくら難しそうな哲学用語が使われていたり、意味深そうなことが書いてあったとしても、間違ってもこれで哲学を勉強しようなんて思って読んじゃ駄目だ、ってことだ。ラノベはラノベとして楽しめばいい。本にはそれぞれの読み方があるんだ」

「じゃあ、その、先輩が言う、安っぽい形で哲学用語が使われていることについては……」

「ラノベとして読んでる連中は、別にそれで哲学用語の勉強をしようと思っちゃいないんだ。話を楽しめて、ついでにお手軽に頭が良くなった感を味わえれば、最高じゃないか。……そうだな、頭が良くなった感、これは結構大事な要素だな。

 なあ、津久見、最近、萌えるナントカシリーズってのが流行ってるの知ってるか? 知らないな? 知らなくていいぞ」

「は、はぁ……」

「要するに、哲学や相対性理論などの難しい学問を、この表紙のような萌えキャラが解説するっていう趣旨の本だ。当然の話だが、内容は入門レベル、加えて、イラストや萌えキャラのお喋りでページを削られて内容はかなり薄くなる。――本気で勉強したいやつなら、入門にこれを選ぶことはまずないだろうな。ちょっと簡単に舐めてみたい、っていう程度のやつには丁度いいシリーズだ」

「ええっと、人気なんですか? それ?」

「そこそこ人気だな。萌えキャラを使えば馬鹿なオタクに一定の人気はつくし、何より取っ付き易い。毛嫌いするやつもいるが、俺は別にいいんじゃないかと思ってる。一割の賢者が更に知識を深めるための本より、九割の馬鹿が何か利口になったように錯覚できる本の方が、よっぽど価値があるんじゃいかと思うぞ」

「それは、流石に偏見が過ぎるな」

 英字で書かれたシェイクスピアの考察書から目を離さずに、蒲江先輩がぼそりと呟いた。

「専門書は絶対に必要だぞ。興味を持って先に進もうと思った時に、どうしても標は必要となる。学習段階に合わせて勉強できる本が、均等にあるのが理想だ。素人に外側だけ舐めさせて、何か分かったかのように錯覚させる愚書の氾濫なんて、もっての他だ」

「蒲江先輩は、佐伯先輩と全く逆の意見なんですね! ええと、難しくて頭がこんがらがってきたので、簡単にまとめをお願いします」

 まとめ、か。結構難しいことを要求してくる。

「えーと、……おまえが何か書く時は、どんな読まれ方をして欲しいか、何も知らない人が手に取った時、どんな読まれ方をされるだろうかを、よく考えて書け。以上!」

「ん~、真人くんは最初からそうやって簡単に説明してくれればいいのに、難しいお話が長いよね~」

「……放っといてやれ。あいつは津久見に衒学的な話をして尊敬の目で見られるのが趣味なんだ」

「そこの先輩方、一体何を二人で話してるんですか?」

「気にするな、続けてくれ」

 実に憎たらしくいい笑顔を浮かべて先を促す先輩方に釈然としないものを感じながらも、続けることにした。


「さっきお前の言ったように、哲学的なことを説明するのにSF的なガジェットを用意するのは、凄く有効だと俺も思うんだな」

 勿論、さっきの電脳世界オチのようなありきたりなのは論外だが、と一言加えて続けた。

「ぼんやりと形而上のことを考えるより、喩え話となるアイテムがあった方が理解はしやすいだろう? そうだなあ、二次元世界に住むイソギンチャク状の宇宙人だとか、一旦体を破壊して転送先で再構成するどこでもドアとか、まあ、そういうトンデモアイテムを使って考えた方が、頭の中で言葉をいじくりまわすよりも何倍も理解しやすい」

 おおー、と関心したように津久見が声を上げる。

「そのまま使うんじゃないぞ。これは俺が昔読んだ本の受け売りだからな。――確かにSFガジェットを使うと理解し易くなる。……理解し易くなるのはいいんだが、今度は話がSF寄りになってくるからな。分かり易い哲学小説としての属性より、底の浅いSFとしての属性が目立ってくる。何にせよ。哲学より別の要素が目立つことには変わりないか」

「何か、みんながアッと驚くような新鮮なアイデアって出せませんか~」

「別に、そんな新鮮なアイデアにこだわらなくてもいいんじゃないか?」

「えっ?」

「今言ったように、哲学という題材で新鮮味を出すのは難しいかも知れんが、まあ別に、小説を書くのに目新しい題材をセールスポイントにする必要なんて、別にない。イロモノに走らずに、ごく普通の題材として書けばいいんだ。恋愛小説だって推理小説だって、またこの展開か、と言わされるようなベタでありきたりな話が溢れてる。そして、大抵読者が追っていくのは、興味の薄い哲学要素じゃなくて、ベタでありきたりなストーリーラインの方だ。その辺りをしっかりさせとけば、大抵の読者は納得するよ。まあ、ちょっと本を読みなれてた奴はこう思うだろうけどな。

『――ああ、これもベタでありがちな話だったか。少し見慣れない哲学の話とかも混じってたが、本筋では、別段光るものは無かったな』

ってな。どうしても物語の中じゃ哲学は添え物になる。他の何かに代替可能なんだな」

「そんなことありませんよう! 哲学抜きじゃ絶対に成り立たない面白い小説は、必ずあります!」

 今までに無い剣幕で、津久見が噛み付いた。この反応、もしかして、こいつはアレだろうか? 少しだけ、こいつの哲学好きの理由が見えてきたかもしれない。

「……そう思うなら、自分で書いて見せやがれ」

「はい、絶対に書いて見せますからね!」

 そこで俺は、にやり、と悪人じみた笑いを浮かべて見せた。

「でもその前に、おまえには問題が山積みだぞ~、文章は下手だし構成は破綻してるし、誤字脱字は山ほどあるし、完成するのは一体いつになるかな~? 印刷の都合もあるから、たんぽぽの原稿はちゃっちゃと上げて貰わないと困るなあ~」

「うううううう……」

「その上、おまえ馬鹿の癖に、覚えたばかりの難しい専門用語や横文字の言葉を使いたがるだろう。典型的な初心者だな。誰かに何かを説明しようとしてるんじゃなくて、自分の知識を見せびらかしてるようでみっともない。まあ、おまえには見せびらかすような知識もないわけだが」

 不意に、窓の外を眺めていた野津原先輩が口を開いた。

「寺院の号、さらぬ万の物にも、名を付くる事、

昔の人は、少しも求めず、たゞ、ありのまゝに、やすく付けけるなり。

この比は、深く案じ、才覚をあらはさんとしたるやうに聞ゆる、いとむつかし。

人の名も、目慣れぬ文字を付かんとする、益なき事なり。

何事も、珍しき事を求め、異説を好むは、浅才の人の必ずある事なりとぞ」

 鈴を転がすような澄んだ声で、朗々と暗誦した一節は――。

「徒然草の116段ですか! GJです! 野津原先輩!」

「ええと、……どういう意味ですか?」

意味が分からず目を白黒させていた津久見に、俺は笑顔で告げてやった。

「兼好法師の名言だ。要するに、馬鹿ほど難しいことを言ったり子供におかしな名前をつけたり喜んでるが、普通が一番なんだ、という有難いお言葉だよ」

 それから暫く、俺は津久見に哲学も作文も関係ない、単純な技術指導をした。津久見はじれったい程覚えるのが遅く、哲学の話をが終わって集中力も切れたのか、すぐに根を上げてきた。

 「うう~、どうして、先輩はどれもこれもダメ出しばっかりなんですか? 小説なんて、好きなことを好きなようにのびのびと書けばいいんじゃないんですか? どうして、こんな色々面倒くさいことを考えないといけないんですか?」

「ああ、それはそいつが、物事を斜めから見て、ネガティプなこと言ってる俺カッコいい! とか思ってるアホだからだよ。あんまり気にしなくていいぞ~」

 ぐさり、と胸に刺さる一言が蒲江先輩から放たれた。……そういうのは中学2年生で卒業したから、今更掘り返さないで欲しいなあ。

 ごほん、と咳払いをして続けることにする。

「別に、好きなことを好きなように書いていいぞ。俺たちは小説家じゃないんだ。それに、これは別に金取って読ませる本でもない。たかが文芸部の機関紙だ。自由に好き勝手に書けばいいさ。俺も、文芸部の歴代の先輩たちもずっとそうしてきたんだからな」

「なら、どうして――」

「それはな、お前が自分の小説で哲学の面白さを広めたい、って言ったからだ。それって、書き手の自己満足として好きなことを書きたいってことじゃなくて、誰かに伝えたいことがあるってことだろ?

 なら、最低限、小説として読めるものを形にしないと、誰にもお前の伝えたいことなんて、伝わりゃしないぞ。お前がどんな高尚な哲学理論を籠めてるかのなんて、俺の知ったことじゃない。ただ、今のお前の書いてるものは純粋に読みにくい、面白くない。誰が手にとっても碌に読まれずにすぐに放り投げられるのがオチだ。

 だから、俺の気づく範囲で突っ込みを入れてるんだが――余計なお世話だと思うなら、別にいいぜ。お前の小説だ。お前の、好きなようにすればいい」

 津久見は少しだけ落ち込んだような眼差しで、俺の瞳と、机の原稿を幾度か見比べた。十秒か、二十秒か。じっと身を固め何かを考えていたが――そのまま、すっと頭を下げた。

「……生意気言って、ごめんなさい。もうちょっと、教えて下さい」

「うっ……」

 困る。こんな風に素直に頭を下げられてしまうと、非常に困る。俺は、こいつの嫌がる顔を見ながらビシバシとスパルタ教育するのが好きなのだ。こんな風に素直に教えを乞われては、調子が狂ってしまうではないか!

「なあ、津久見。ここの部員だけじゃなくて、もっと外の人間にも原稿を見せてみないか?」

「外の人、ですか? 誰か、先輩のお知り合いで指導をしてくれる方がいるんですか?」

「多くの人間に自分の作品を見て貰えて、感想や指導をして貰える、とてもいい場所がある。――インターネットの、掲示板だよ。インターネットの2ちゃんねる、という掲示板には優しい人が沢山いてな、小説とかを投稿したりすると、丁寧に指導をしてくれるんだ」

 津久見は瞳を輝かせた。

「そんな素敵な場所があるんですか! 私、インターネットとかほとんどしないから、全然知りませんでした! 早速、私の小説も、その2ちゃんねるの人に指導して貰おうと思います!」

「原稿はちゃんとあるか? いい加減、人差し指以外でキーボードは打てるようになったか?」

「原稿は、家に書きかけの取っておきがあります! キーボードは……気合でカバーです!」

 ぐっと握り拳を作って立ち上がるや否や、津久見は鞄を掴んで帰宅準備に入った。

「先輩方、今日は自宅で、その2ちゃんねるでご指導を頂くので、早めに失礼しますっ!」

「ほい、これURL。俺もこっちで投稿してるから、暇だったら覗いてみるといい。エンターテイメントという奴を教えてやるよ」

「ふっふっふ、私の小説の方が人気が出ても吠えずらかかないで下さいね! それでは、お先に失礼します~」

 ドアを閉める音と、廊下を駆けていく足音が遠ざかっていく。最後まで騒々しい奴である。

「……おまえ、ドSだよな」

 蒲江先輩がぽつりと呟いた。

「――まあ、俺はまだ、あいつのこと完全に許したわけじゃありませんから」

「んふふ~、いいな~、真人くんは理子ちゃんに懐かれてて」

「? 津久見に懐かれてるのは野津原先輩の方でしょう?」

「真人くんだよぅ。だって、理子ちゃん、わたしといるときいっつも真人くんの話ばかりするんだよぅ。ちょっと妬いちゃうなあ~」

 どうなのだろう? まあ、指導役として重宝されている感はあるのだが。

「ん~っとね、ところで真人くん、2ちゃんねるってどんな掲示板かな? わたしも見てみたいなぁ」

「いえ、野津原先輩は止めといた方がいいんじゃないかと……」

 この穢れ無き先輩をあんな汚泥のような場所に浸す訳にはいかない。

「佐伯、明日の津久見のフォローは当然やってくれるんだろうな?」

「ええ、明日は土曜ですから、昼にマックでも奢ってやれば機嫌は直るでしょう」

 先輩方が引退してしまえば、俺はあの暴走娘と二人だけでこの文芸部を支えることになる。考えただけでも気が重いが、仕方のないことだろう。

「――くっ、俺はただ平凡な学校生活が送りたかっただけなのに……」

ちょっと格好つけて、ラノベの主人公みたいなことを言ってみた。

「そういう台詞は、もう少し派手な中二バトルにでも巻き込まれてから言え」

 蒲江先輩が、ぼそりと突っ込んでくれた。

 穏やかな秋の夕暮れが、すっかり静かになった文芸部室に差し込み、いつの間にか橙色の影を落としていた。













『真人くん、おはよう』

 俺には、恋人がいる。

『実は待ってたの。一緒に行かない?』

 可愛くて、優しくて、仕草豊かで、何より俺に一途の素敵な彼女だ。

 朝はいつも一緒に登校するし、下校する時も一緒だ。俺の好みに合わせてお弁当を作ってくれることもあるし、態々朝家まで起こしに来てくれることもある。休日には勿論、二人で市内のあちこちをデートして周っている。

 ――この彼女が出来てからというもの、俺の生活は実に彩り鮮やかで、潤いに満ちているように思える。

 今日は土曜休日なので、彼女同伴で部室に向かう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「おはようございま~す」

 部室には、休日だというように、既に俺以外の全員が集合していた。

 尤も、全部員と言っても、引退間近の3年生が二人、2年生が俺一人、新1年生も一人きりという弱小文芸部ではあるのだが。

「ん~、おはよ~、真人くん~」

 何時も通りの野津原先輩の少し間延びした声。蒲江先輩は本から目を離さずにパタパタと手を振ってくれた。――ふと、違和感が。最後の一人。一番喧しい馬鹿の声が聞こえない。何時もなら真っ先に声をかけてくるのだが。

「おい、どうにかしろ、アレ」

 蒲江先輩が、指で部室の隅の椅子を指した。

 そこにに俯いて座っていた最後の一人――体育会系で哲学好きの新入生、津久見理子は、特異点でも発生させているかのような、どんよりと黒いオーラを全身に纏い、部室の空気を重苦しいものへと変えていた。

「あちゃ~、こりゃあ悪戯が効きすぎたかな?」

 原因には、まあ大よその予想はついている。……というか、一つしか考えられない。

「あの~、津久見さん……?」

恐る恐る声を掛ける。津久見は身じろぎ一つせず、輝きの消えた瞳でじっと机上を凝視していた。

「お~い、津久見さ~ん、聞こえてますか~?」

 顔の前で、ひらひらと手を振ってみる。――と。その手首を、津久見の指ががっしと掴んだ。この細い腕のどこにそれだけの力があるのか、万力のような力でギリギリと捻り上げられる。

「嘘、つきましたね、先輩」

 普段の快活な笑声とは似ても似つかない低い怨嵯の声。俺は冷や汗を流して言い訳をした。

「い、いや、あれだ、たまには気分転換になるかなあ、と思って3ちゃんねるを紹介してみたんだが……」

 津久見は机を叩いて立ち上がり、噛み付くような剣幕で俺に迫ってきた。

「先輩の大嘘つき! 何が優しく小説の指導をしてくれる掲示板ですか! みんなからよってたかってボロボロに貶されたんですよ、私! そりゃあもう、どうすればここまで酷い人格毀損ができるのか、ってぐらい、ボロっボロに貶されたんですよ!!」

「……そりゃ、その、大変だったな」

 正直な感想を言うと、津久見の小説を2ちゃんに投稿したら、ごく当然の流れとしてそうなるだろうなあ、と納得している自分がいる。そういえば、夕べはチェックするのを忘れていた。帰ったらスレを覗いてみるとしよう。

「貶されただけならいいんです」

「ん? それだけじゃないのか?」

 ええ、と答えて津久見は忌々しげに唇を噛んだ。

「どんな奴がこんなのを書いたんだ? って書き込みがあったんで、普通の16歳の女子高生です、ってレスしたんです。――そしたら、ネカマじゃないのか? だとか、その、お、お、お、おっぱい見せろだとか、変な大きな顔文字とか、卑猥で大変態的な書き込みが山ほど来てっ!」

「………………」

 分かっていたことだけど、馬鹿だ、こいつ。2ちゃんで女子高生です、なんて自己紹介する奴を初めて見たぞ。さぞや猥褻な書き込みが殺到したことだろう。津久見の胸元にちらと視線を向ける。――そこは、男の俺から見ても悲しくなるぐらいに真っ平である。

「あ~、そりゃまあ、仕方ないだろう。おまえの胸じゃ、見せても男の胸にしか見えないだろうから、ネカマ扱いされてもしょうがないんじゃねえの?」

「セっ、セっ、セっ、セクハラですっ! 訴えたらお金が取れるレベルのセクハラですっ! っていうか、見せてませんから! それよりまず、幾らなんでもそこまで小さくありませんから! ってああ、一体何を言わせるんですか先輩は!」

「よ~しよし、やっと何時もの調子が戻ってきたな」

 湯気を上げんばかりの津久見の頭をぽむぽむと叩くと、まだ怒り足りないのだろう、む~、と不満げな表情を浮かべながらも、津久見は口を噤んだ。

「騙したことは悪かった。でもいい勉強になっただろ? あれがおまえの小説を読んだ一般人の反応という奴だ」

「2ちゃんを一般人と呼ぶのはかなり同意しかねるとこだがな。津久見、そう気にすることはないぞ。あそこの住人は大抵の相手には噛み付くからな。真っ当に評価されなくて当然だ」

「気にしますよぅ」

 駄々をこねる子供のように、津久見は口を尖らせた。

「だって、別の場所じゃ、佐伯先輩の書いたものが大人気なんですよぅ!」

「あ、わたしも理子ちゃんにURL教えてもらって読んだよ~。真人くんのは、小説というより体験談みたいな感じだよね。え~と、血の繋がらない義理の妹さんに愛の告白をされて悩んでる、っていうロマンチックなお話だったよね。……あれ? そういえば、真人くんに兄妹なんていたかなあ? あ! 義理の妹さんだから、最近できたのかなあ!」

 ぽん、と手を打つ野津原先輩に、蒲江先輩が突っ込んだ。

「こいつはずっと一人っ子だ。その血の繋がらない義理の妹とやらは、こいつの脳内の存在だ。そういう妄想日記を2ちゃんに書き綴って賞賛を浴びるのが趣味の根暗い奴なんだ。そっとしといてやれ」

「釣りだろうとマジレスだろうと、住民を楽しませることができるならいいスレですよ。そういう意味じゃ、一番端的にエンターテイメントとはどういうものかを味わうことができる場所ですね」

「……何にせよ、低俗な娯楽の部類には違いないんだがな」

「ショックです。私の自信作の哲学小説が、先輩の空想恋愛小説に敵わないなんて……」

「ん~、気を落さなくていいと思うよ~。単純な人気で言うなら、真人くんは『たんぽぽ』の中でもぶっちぎりで一番だからね~。理子ちゃんの自信作でもそう簡単には勝てないよ~」

「ふむ――佐伯に対抗できるのは、智ちゃんぐらいのもんだな」

 この部の中でタブーとなっている名前が出た瞬間、微妙な雰囲気が部内を満たした。

「……勘弁して下さい、智ちゃんには敵わないですよ、ほんと」

「あの人は特別、別格ですよぅ」

 誰もが認める影の実力者、智ちゃん。今月はまだ部室に顔を見せていない。出来れば、このままずっと顔を見らずに済むように祈りたいものである。

「でも、やっぱり、納得いきませんよう! どこかで見たような筋書きの先輩の妄想話が大人気で、私が苦心を重ねて作った斬新な哲学小説がボロボロに貶されるなんて……」

「誰も、斬新な小説なんて求めてないってことじゃないのか? 大抵の読者は、そこそこ安定した面白さの既存のジャンルの話を読みたがってる、って感じだな」

「それは、何となく私も分かります。でも、それが本当に面白い物語なら、ジャンルとかパターンとか関係なしにウケるものじゃないんですか?」

 また、甘ったるい理想論を。そもそもの問題として――。

「単純に読み物として見た場合、おまえの書いてる話は大して面白くないからな。自業自得というやつだろう。――この調子じゃ、哲学の面白さを下々に知らしめるような小説が出来上がるのは、猿にタイプライターを打たせてシェイクスピアが書きあがるのを待つよりも時間がかかりそうだな」

 ――突然、景気のいい音を立てて、俺の側頭部にコーヒーの空き缶が直撃した。

「あ痛」

 空き缶を投擲した姿勢で、蒲江先輩が眼光鋭く俺を睨めつけていた。

「猿畜生如きがシェイクスピアを書ける訳ないだろう。ふざけたことを言うのも程々にしろよ」

 そうだった、この人には、シェイクスピア関連のジョークは一切通用しないのだった。

「――失礼しました。シェイクスピアは人類の至高の文学でしたね。申し訳ございません、猿や津久見のような下等な生物と比較した俺が間違ってました」

「うむ、分かればよろしい」

「……佐伯先輩は、とことん私を馬鹿にしなくちゃ気が済まないんですね」

 大きく嘆息して、津久見はひょいと蒲江先輩の読んでいる本を覗き込んだ。

「うわぁ、相変わらず蒲江先輩は難しい本読んでますねー。これ、アルファベットだけど、英語とは少し違いますよね?」

「ああ。ハムレットの原書――古英語で書かれてる。何だ? 興味があるのか?」

「はい、蒲江先輩が語ってるの聞いて、シェイクスピアってそんなに凄いものなのかなー、っと少しだけ」

 あの馬鹿! 蒲江先輩の押してはいけないスイッチを! 止める暇もあればこそ。銀縁眼鏡の下の、蒲江先輩の瞳の輝きが変わった。

「津久見は佐伯の奴と違って、中々いい目の付け所をしているな。ふふ。凄いとも。シェイクスピア程凄い作家はいないと俺は思っているよ。最高の劇作家だ。シェイクスピアの戯曲には人間の人生そのものが表れている。作品の中で語られる名言、至言は数知れない。

 佐伯の奴はライトノベルを指して、それぞれの読み方というものがある、などと言ったが、シェイクスピアの作品はそんな窮屈な枠には囚われない! 読者が望むように読み解けるだけの懐の深さも持っているんだ! ……もちろん津久見、君の好きな哲学だって、たっぷりと内包している」

「哲学も、ですか?」

「ああ、シェイクスピアの哲学は深遠だよ――。

『愛は食べすぎるという事がない。欲情は食いしん坊で食べすぎて死んでしまう。愛には真実があふれているが、欲情はこねあげた虚妄に満ちている』

『偉人には三種ある。生まれたときから偉大な人、努力して偉大になった人、偉大な人間になることを強いられた人』

 シェイクスピアの戯曲は、語り尽くせない程の彼の哲学ではちきれんばかりだ。――本当に優れた文学とは、佐伯の言うライトノベルのように読み方を指定されるような貧困なものではなく、様々な面から自由に読み解くことができるものだと、俺は思ってるけどな」

 普段の仏面丁はどこにやら。蒲江先輩は両手を広げてシェイクスピアの魅力を滔々と津久見に語った。果たして、それがどこまで津久見に理解できるものかは分かったものではないが――確かに、先輩の言うことは一理ある。

物語の本質など、受け手の解釈によって変わるもの。――そんな相対主義で片付けてしまうのは簡単だが、この世に数多ある文学作品の数々を並べてみたならば、そこには必ず優劣が存在する。世間の格付けによる偏見や、個人の嗜好の偏りはどうしてもあるが――それを踏まえてもなお、後世に名を残し、燦然と輝き続ける名作は必ずあると断言できる。

 先輩の愛するシェイクスピアもきっと、そんな普遍的名作としての位置に至った稀有な作品群だ。

「うわあ、先輩の読んでる本、日本語が全然無いじゃないですか! 翻訳されたのじゃなくて原書を読むと、何か違った発見とかあるんですか?」

 そうこうしている間に、津久見は興味深そうに蒲江先輩の読んでいたハムレットの原書をしげしげと眺めていた。

 ……あまり、先輩を調子に乗せるのは程々にしといて欲しいものである。蒲江先輩は普段はクールで冷静だが、シェイクスピア関係で燃料が入り過ぎると収集がつかなくなるのだ。先輩は益々機嫌良さげに、人差し指を立てて講義を開始した。

「”To be ,or not to be,that is the question.”

 ……有名な言葉だが、知ってるか?」

「あ、蒲江先輩も私を馬鹿にしてー。有名な台詞だから私でも知ってますよぅ、

『生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ』……ハムレットの名台詞ですよね」

 蒲江先輩が裂けるような笑みを浮かべる。

「ああ、シェイクスピアの名台詞の中で最も有名なものの一つだ。君が今言った通り、『生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ』――そう訳されるのが通例だ。だが、それが定着したのもごく近年の話でね」

「それまでは、どう訳されてたんですか?」

「色々さ。一番訳すのが難しい台詞とさえ言われることもある台詞だからね。今までにも、本当に多くの訳者がこの台詞をどう訳すかに苦心してきたんだよ。

『定め難きは生死の分別』『生き続ける、生き続けない、それがむずかしいところだ』『世に在る、世に在らぬ、それが疑問ぢゃ』『どっちだろうか、さあそこが疑問』

 長いところじゃ、『第一、生きて居るか、死なうといういふ事を考える逆境に立って苦しんでも、生きて居るのが幸か』なんてものまである」

 ほえー、と口を開けて津久見は蒲江先輩の台詞を聞いていた。俺は、原書を読むどころか、訳書のバージョン差分まで暗誦できる先輩の偏執的なシェイクスピア愛に、かなり引き気味である。

 津久見は、好奇心100%の瞳で先輩に問うた。

「それで、一番正しかったのが、『生きるべきか、死ぬべきか~』なんですか?」

 蒲江先輩は不敵に笑って先を続けた。――何となく、今の先輩の胸中が分かる気がする。津久見は、無駄に好奇心旺盛で、何にでも食いつきがいい。一般人には易々と理解出来ない趣味を持つ先輩方からすると、ごく単純な興味で話を聞いてくれる後輩というのは、可愛くて仕方がないのだろう。

「訳というのは所詮日本語による置換だ。”To be ,or not to be,that is the question.”という一言で、台詞自体は美しく完結してるのに、それを無理やり違う言語に書き換えようとするからこんな煩雑な事態を招くことになる。日本語に訳した時点で、それは原典のシェイクスピアから離れていってるんだよ。

 こんな例は幾らでもあるぞ。――もう一つ、ハムレットから行こうか。

“Get thee to a nunnery!”、直訳すると、『尼寺へ行け』だな」

「……えっと、そのままの意味じゃないんですか?」

「当時、尼寺というのは売春宿の隠語でもあったんだ」

 売春宿、という言葉に津久見の頬が、かぁっと紅潮した。

「敬虔な修道女として暮らせ、と言っているのか、娼婦にでもなってしまえと言っているのか。こんな短い台詞なのに、全く別の解釈ができるんだよ」

 ぱんぱん、と津久見は紅潮した頬を叩いて鎮めた。

「まっ、こういうことまできちんと考えてみたければ、シェイクスピアは原文で読むことをお勧めするよ。初期近代英語で書かれてるから、少し難しいけどね。……でも、そうした方が、シェイクスピアの本当に書きたかったことに近づける。俺はそう思って読んでるよ」

 ふと、紅潮していた津久見の頬から、すっと赤みが引いた。そのまま少しだけ首を傾けて思案をする。僅かな、沈黙。真顔に戻った津久見は納得したように小さく頷き、正面から蒲江先輩を見つめ返した。


「あの、こんなこと言ったら失礼になるのかもしれませんけど……シェイクスピアが本当に言いたかった事って、一体何なんでしょう? 原文のまま読んだら、本当にシェイクスピアの言いたかったことが分かるんでしょうか?」


 ――ほう、面白い。そう蒲江先輩は一言呟いた。

「どうしてそう思うんだ? 原文で読んだところで、シェイクスピアには近づけないと?」

 教師が詰問するような、厳しい口調。しかし、口の端には微かな笑みが浮かんでいる。……間違いない、先輩は面白がっている。

「全く、しょうがないなあ、洋次くんは……」

 野津原先輩が嘆息した。その視線は、少しだけ羨ましそうに二人を見つめていた。

「あ、あの、私なんかじゃ上手く言えないんですけど、その、結局、作者の言いたいことは作者にしか分からなくて、読者に出来ることはいまあるテキストから作者の言いたかったことを想像――さっき先輩が言ってた解釈ですね――それをすることしか出来ないんじゃないかな~、って思うんです。

 確かに、翻訳されたものより、原書の方が作者の書いたものに近いことは間違無いと私も思います。でも、原書だからと言って、それを読んだら作者の言いたいことが分かるかと言うと、ちょっと違うと思うんです。どんな風に細かく書かれていても、やっぱりそれはただの言葉で、作者であるシェイクピアさんの本当に書きたかったことそのものじゃないから、どうしても想像しなくちゃいけない部分が出てくると、思う、ん、です、けど……? あの、蒲江先輩?」

 蒲江先輩は、薄笑みを浮かべて俺に視線を遣した。

「佐伯、こいつはデリダ辺りの勉強でもしてるのか?」

「まさか。まだ到底理解できませんよ。そいつの魂は古代ギリシャと近代の狭間を彷徨ってます。時折、口当たりの甘いクオリア問題とか舐めて哲学やった気になってますが、中身はお粗末なもんです」

「……なんだか私、凄い侮辱を受けた気がするんですが」

「気にするな。――それで、デリダがどうかしたんですか?」

「いや。佐伯、おまえの連れてきた新入部員、大器晩成の逸材かもしれないから、しっかり面倒みてやれ」

「?」

 蒲江先輩の言葉に、思わず首を捻る。先輩は、パチパチと津久見に向け手を打った。

「津久見、おまえの疑問だが――何一つ間違いなく正論だ。

 小説に限らず、全ての言葉を用いたコミュニケーションの持つ限界点だな。どんなに詳細に、数多くの言葉を用いて語ろうと、その言葉の受け手は発話者の意図そのものには、絶対に辿り着けない。

 勿論、現文の授業のようなレベルでの『正解』は存在するのだろうけど――そんなものに、文学作品としての価値がどれだけあるかは甚だ疑問だな。

 作者の意図と読者の解釈は、アキレスと亀のような関係だ。どれだけ近づいたつもりでも、到達することはない。必ず俺の辿り着いた地点の一歩先にいる。……いや、近づけるのならまだましか。どれだけシェイクスピアを追いかけても、俺は無限遠の彼方から僅かも動いていないような感覚に陥ることがよくあるよ。原書で読んだからと言って、容易に理解できるような安いものじゃないんだ」

 黒い瞳をくりくりと動かしながら、津久見は先輩の言葉を反芻しているようだった。津久見は、困ったような視線を俺に向けた。先輩の言葉の意味をよく咀嚼できずにいるのだろう。

「えっと、じゃあ、……原書で読んでも、やっぱりシェイクスピアの言いたかったことには近づけないんですか?」

 無遠慮で無神経な問いに、傍で聞いている俺の方が動揺してしまった。馬鹿なことは重々承知している。だが、こいつはもう少し口の利き方から勉強すべきだ。

 怒鳴りつけられても仕方のないところだったが、流石は蒲江先輩。涼しげ顔で津久見の言葉を流すと、悪戯っぽい顔で、逆に津久見に聞き返した。

「無駄なことやってると思うか?」

「いえ、そんなことありません! 先輩はとっても立派な勉強をされていると思います! それに、上手く言えないんですが……本当に言いたいことが伝わるとか、伝わらない、とか、そういう話じゃなくて、やっぱり作者のシェイクスピアも、違う言葉に訳されたものじゃなくて、自分の書いたそのままの物語を読んで欲しいと思うんです!」

 津久見は拳を振って、たどたどしい言葉で子供っぽく力説した。

 先輩は、可笑しくてたまらないというように破顔した。

「そうか、そうか、シェイクスピアも原文のまま読んで欲しがってる、か……成る程。シェイクスピアを読んできて結構経つが、そんなことは考えたことも無かったな。佐伯、やっぱりこいつは中々の逸材だぞ」

「考えることが小学生レベルなだけですよ」

 そんなことないよね~、と言いながら、野津原先輩が背中から津久見をぎゅうと抱きしめた。

「わたしも、理子ちゃんと言う通りだと思うな~。わたしも大好きな短歌や漢詩はいっぱい、いっぱい読んだけどね、心を籠めて書かれた言葉は、書かれた通りに読むのが一番綺麗だもんね。綺麗に読んでもらった方が、書いた人もやっぱり嬉しいよ。

 だから、洋次くんの大好きなシェイクスピアさんも、洋次くんに一番綺麗に読んでもらえて、きっと喜んでると思うよ~」

 ふにゃりと柔らかな笑顔で微笑む野津原先輩の笑顔に、どう言葉を返したものかと蒲江先輩は困ったような苦笑を浮かべた。流石は野津原先輩、文芸部の最強キャラである。

 照れ隠しか、蒲江先輩は小さく咳払いをし、眼鏡のツルをくいと直して話題を戻した。

「ま、まあ、言葉の持つ細かなニュアンスやスラングは、翻訳してしまうと失われてしまうものが多いからな。語感の良さもまた然りだ。別に、高尚な文学に限定した話じゃなくて、どこにでもある、ごく身近な話だよ。

 ……そうだな。例えば、ドラえもんの秘密道具の、『ホンヤクコンニャク』ってあるだろ?」

「は、はあ、ホンヤクコンニャクですか?」

 困惑した顔で津久見は首を捻った。

「あれ、実にいいセンスをしてると思わないか? 翻訳と蒟蒻を見事に掛け合わせて、語感も最高にいい。でも、これを英訳したらどうなると思う?」

「ええっと――” translate konnyaku”ですかね?」

 英語堪能には程遠い津久見は捻り出すようにそう言って、先輩の意図に気づいて苦笑した。

「……台無しですね」

「台無しだろ?」

 そう言って、蒲江先輩は誇らしげに読んでいたシェイクピアのハードカバーを掲げた

表紙には、”Shakespeare’s sonnets”という古めかしい英字が踊っている。

「シェイクスピアは強弱五歩格という韻律を好んで使った。このソネット集などはその芸術だな。韻文で築かれた戯曲は、文学作品として優れているだけでなく、舞台演劇としても至高の輝きを放つ存在だ。戯曲の美しさは壇上で役者が演じ、その台詞を語ってこそ、その真髄を見せる。 

 よく、音楽は世界共通の言語と言うだろう! 韻律の美しさもまた同様だ。例え言葉が解らなくても、その美しい韻律の響きは間違いなく本物だ。その響きに触れることによって、確かにシェイクスピアが本心から表現したことに近づけると俺は信じてるよ」

 語りながら完全にスイッチが入ったのか、蒲江先輩はうっとりとした表情でソネットの表紙を撫でた。

 ほえー、と口を開けて津久見は先輩の熱弁に耳を傾ける。その頭を、ぽむぽむと野津原先輩が優しく撫でた。

「うんうん。わたしも、それは洋次くんの言う通りだと思うなー。別に外国のシェイクピアさんの話じゃなくても、日本にも俳句や短歌をはじめとして、いっぱい素敵な文学があるよね。

 俳句の5・7・5とか、どうしてこんなに短い言葉なのに、ぎゅーって内容が詰まってるんだろう、ってよく思うよー。

 それに、これも外国語に訳しちゃったら、やっぱり台無しになっちゃうものだよね。それに、絶句や律詩で書かれてる漢文も、とっても素敵だと思う。杜甫や李白の漢詩はね、とっても哲学的だと思ってるよ」

「哲学的、ですか!」

 そのフレーズに、すぐに津久見が食いついた。

「うん、昔の中国の人の、世界や人生に対する考え方って、凄く深いなあ、って思うんだー。流れ行く歴史や世界をありのままに受け入れる、っていうのかなあ……。上手く言えないんだけどね」

 照れくさそうに頭を掻きながら、野津原先輩はぽわぽとした笑みを浮かべた。

「杜甫さんに李白さんですか……私、まだ授業でちょっとしかやってないんですよね」

「そうだ! 理子ちゃん達が授業でやってるのは、書き下しだけだよね。洋次くんの言ってたシェイクピアの話と同じで、漢文も拼音で読むとね、凄っごく響きが綺麗なんだよ~。 

 ……えっと、一年生でやってたのは『春望』とかかな?」

 そう言うと、野津原先輩は見事な美声で、杜甫の春望を拼音で詠い上げた。

――國破山河在

――城春草木深

――感時花濺涙

――恨別鳥驚心

――烽火連三月

――家書抵萬金

――白頭掻更短

――渾欲不勝簪

 野津原が、自信満々な顔で、笑みを浮かべて頷いた。

「はい、丁度授業でそこを習ったとこですよ。……ええっと、国敗れて山河無し、でしたっけ?」

「……長安は、一体どんな無慈悲な殲滅戦を受けたんだよ」

 投げやりな突っ込みを返して、俺は手元の彼女へと向き直る。

『ねえねえ、お話しよ。何か聞きたいこと、ない?

 あなたの好きなお店、教えて欲しいな』

「うーん、最近の好みはラーメン屋かなあ。駅前に新しくできたとこ」

 そんな他愛もない雑談に花を咲かせる俺と彼女に、蔑みの一瞥をくれてから蒲江先輩は続けた。

「まあ、でも韻だの原義だのいった話は、全部後付けの理由なんだよな。好きなものを楽しむのに、そんな頭で考えたような理屈はいらないよな。

 言ってしまえば陳腐な言葉なんだが、近づきたいという思いさえあればいい。……もっと深く知りたい、理解したい。そんな思いがあれば、作者が直接手がけた原作へと近づいていくのは、自然な流れだよ。分からないからこそ面白い。近づきたい。恋愛と同じだな」

「も~、似合わないこと言っちゃって~」

 長い髪を揺らして、野津原先輩がくすくすと笑った。

「あああ愛と同じですか……」

 津久見は、ちらりと俺の方を意味有りげな視線で流し見た。

 一体何だろう? 何か用でもあるのか、と視線を返すと、津久見は真っ赤な顔で視線を逸らしてしまった。

 ――本当に、どうしたのだろう?

 まあ、蒲江先輩の意見には大いに肯ける。分らないこそ面白い。近づきたい。それが恋愛だ。

『よかったら、一緒に帰らない? どう?』

「そうだね、一緒に帰ろうか、ネネさん」

 彼女からの下校の誘いに、頷きで返す。俺の彼女も付き合い始めてから結構長いが、それでもまだまだ分らないことばかりだ。どうすれば互いに理解しあうことができるのか。それで頭を悩ませることも往々にしてある。

……ふと顔を上げると、津久見が訝しげな視線で俺と彼女をじっと見つめていた。


「あの、先輩、非常に聞きにくいことをお尋ねしますが、あの、さっきから何をしてるんですか? DS持って、一体誰とお話しています……?」


 やや怯えたような視線を向けてくる津久見に、自慢の彼女をどう紹介したものか、暫し思案する。そして、俺より先に蒲江先輩が口を開いた。

「ああ、それはラヴプラスだよ」

「らぶぷらす?」

 聞き慣れない単語に、津久見が首を捻る。

「DSの恋愛ゲームの一種だ。可愛い女の子から告白されて、恋人になってからの日々がエンドレスで続く、DSを持ち歩いていつでも画面の中の彼女と一緒、ってのが売りの、退廃的なギャルゲーだな。現在彼女の居ない淋しいオタクの間で大人気だ」

「……随分と悪意に満ちた紹介をしますね、先輩」

「俺の紹介が正しいか否かは、津久見にでも判断してもらえよ。興味深々な目付きで見てるぞ。プレイして見せてやれ」

 うわぁ、この人、明らかに面白がって焚きつけてるよ。でもまあ、その挑戦、受けて立とう。俺とネネさんのラブラブっぷりを見せ付けてやろうじゃないか。

 DSを開くと、ネネさんがいつもの花のような笑顔で出迎えてくれた。

『真人くん。おはよう、行きましょ?

 ……

ふふ。手……繋いでも、いい?

私たちって……ちゃんと恋人同士に見えたらいいんだけど……

ううん、なんでもない』

 恋人パートで日常をこなし、彼女に適切なタッチやスキンシップを行い、着実に恋人としての親密度を上昇させる。彼女と俺の愛が深まれば、俺好みに呼称や髪形を変えてくれたり、様々なデートや旅行が楽しめる。

 そして、このゲームの醍醐味の一つである、ラヴプラスモード。DSの音声認識機能を利用して、彼女との会話を楽しむことができるのだ!


『ねえ、何か聞きたいこと、ない?』

 俺は愛しさと慈しみを籠めて、DSが認識しやすい明瞭な発音でネネさんに語りかける。

「俺のこと、好き?」

『大好き! ……ねえ、わたしのこと、離しちゃいやだよ』

「もちろんだよ、ネネさん」

『こんな褒めても何も出ません……ねえ、何か聞きたいこと、ない?』

「好きな色は?」

『そうね……赤や黄色みたいな、暖かい色が好きかな』

「愛してるよ、ネネさん」

『ふふ、ううん、あなたがいるだけで嬉しくなっちゃった……』


 その後も、俺はいつものようにネネさんといくつか短い会話を交わした。

十分に魅せつけることができただろうか? 俺は『お話終了』のボタンを押す。

『今日は、たくさんお話できたね』

 名残惜しいが、俺とネネさんのハッピータイムは中断だ。手を振るネネさんに微笑みを返して、丁寧にDSを閉じた。


「どうだ、津久見。このラヴプラスの、ネネさんの素晴らしさが解っ……?」

 解ったか? と語りかけようとした俺を待ち構えていたのは、口元を押さえて後ずさる青褪めた津久見の冷たい視線だった。

「……うわぁ、…………うわぁぁ」

「何だ、津久見。その、『うわぁ、この人一体どうしたらいいんだろう?』的な痛々しい視線は?」

「いえ、……先輩、また性懲りもなくそんな女の子と遊ぶゲームをやってるんですね」

 性懲りもなく、という津久見の一言に、俺の鱗がぴりりと疼いた。

 ――あれは、まだ一学期も終わろうとする7月のことだった。津久見がこの文芸部の面々に慣れ親しんだ頃の話。一学年下の後輩として、目をかけてやっていた俺に対して、津久見は許し難い裏切りをした。善意で指導をしてやっていた俺に対して、津久見は平然と恩を仇で返したのだ。あの日の屈辱と恨み、一日たりとも忘れた日はない。

「……性懲りもなく、だと――津久見、あの日、お前が俺にやったこと、忘れたわけじゃないだろうな?」

 あの日、床に膝をついて号泣した俺の姿を思い出したのか、津久見は少し焦ったように両手をばたつかせて拙い弁解をした。

「や、やだなあ先輩、まだ覚えてたんですか? ……いくら何でも、もう時効ですよ……ね! ねっ!」

 上目づかいで津久見の顔を見上げ、腹の底から絞り出した怨嵯の声を響かせる。

「俺は一日たりと忘れたことは無かったけどな。津久見――あの日、俺のパソコンにインストールされていたエロゲー・ギャルゲーのコレクションを一つ残らずアンインストールしやがったお前の罪は死ぬまで消えねーぞ!!!」

「いや、だって、それは蒲江先輩もやっていいって……」

「よりにもよって、アンインストールの方法が解らないからってハードディスクごとフォーマットしやがって! お陰で俺の電子データは猥雑・非猥雑を問わず全滅だ!! いつになったらこの落とし前つけてくれるんだよ!」

 津久見にがっしとヘッドロックをかけ、俺の心の痛みを思い知らせんと、制裁のぐりぐりをこめかみに抉り込む。

「あうう、痛い、痛いです先輩、ギブ、ギブですよぅ……」

 あっさりと津久見は俺の腕をタップした。

 しぶしぶ解放してやると、津久見はじっとりと恨みがましい視線で俺を見上げてきた。

「でも、先輩も悪いんですよぅ。文芸部は、本を読んだり、文学などについて語ったりする場所です。そこにゲームを持ち込んだりして、文芸部の活動サボってたんですから、先輩はお仕置きされて当然です」

 これはまた、聞き捨てのならないことを。一番の若輩のクセしてこの文芸部をドヤ顔で語るとは。どうやら、こいつにこそお仕置きが必要なようだ。

「おいおい、俺がここに持ち込んだゲーム類は、アクションやシューティングの類じゃない。パソコンを使って物語を読み進める『ノベルゲーム』だ。まあ、可愛い女の子のCGが見れる『ビジュアルノベル』も多いが、どれも活字媒体の読み物として真っ当な作品ばかりだ。中には文学と呼ばれるような作品もある。

 ――つまり、俺がここでノベルゲームをしてたのは、立派な文芸部の活動の一環なんだ」

「詭弁です! どう取り繕っても、先輩がやっていたのは、ただのゲームです!」

「どうしてそう言い切れる? 今は会誌の作成だってパソコンでやるし、活動の一環としてネットの青空文庫で過去の名作を読んだこともあるじゃないか。それとも、女の子のCGが表示されることがいけないのか? お前、前に絵本にも名作が沢山あるって言ってなかったっけ?」

 ぐぬぬ、と津久見が奥歯を食いしばり、視線が虚空を彷徨う。こいつが俺に対する反論を思索しているのが手に取るように判る。

「それは……ええと、文芸部でいつも読んでるものは、きちんと本かそれに準ずる形で文学作品を読めるようにしてあります。でもでも、先輩が買ったゲームは、ただのゲームとして売っているものじゃないですか!」

「はん」

 俺は、あらん限りの嘲笑と侮蔑を籠めた視線で津久見を見下しながら、

「お前、いつも哲学が好きだのなんだの、五月蠅いぐらい繰り返してるよな」

「はいっ、私は哲学をするためにこの文芸部に入ったんですから」

「お前さあ、常々、

『哲学をするものは好奇心をもって物事の本質を考察しなければならない(キリッ』

だの、

『世の中の常識を盲目的に受け入れず、常に疑惑の目を向け自分なりの解釈を加えなければならい(キリッ』

 だの、どこぞの本の引用丸わかりのことを偉そうに言ってるけどさあ、ノベルゲームが本かどうかを決める基準は、それがゲーム会社のレーベルから発売されているか否かという一点のみなんだな」

 面を手で覆い、悲しげに目を伏せて失望したとばかりに大げさに頭をふってみせた。

「それって、社会の決めた分類に盲目的に従ってるだけで、物事の本質への考察も、疑惑の目を向けた自分なりの解釈も、何一つしてないじゃないか。

 偉そうなこと言ってる割に、お前、全然哲学してないんだな。あ~あ、お前の大好きなソクラテスもウィトゲンシュタインも草葉の陰で泣いてるぞ」

 ちらり、と津久見の表情を伺う。この単純馬鹿は、ガーンという擬音を顔面に貼りつけたような表情で、目を見開いて唇を震わせていた。

 ふふふ。俺の趣味を侮辱した罰、存分に受けてもらおう。指を突き付けて笑い飛ばしてやりたいところだが、追い打ちをかけてやることにした。

「哲学を一生懸命に勉強する姿……少しは魅力のある奴かと思ったんだが、お前の哲学への愛は、所詮口先だけだったんだな……」

「え……そんな、あの、私は本当に……」

「いいさ、津久見。頑張りますと口に出す人間は数多いが、本当の意味での努力ができる人間なんて一握りだ。

――逆に言えば、そんな真の努力なんて、できなくて当たり前なんだ。お前も、その他大勢の人間のように、ナアナアな努力を続けていけばいいさ。そのことを責めやしないよ……」

「違います、先輩、私は本当に――」

 ああ、津久見をからかうのは本当に楽しいなあ! この馬鹿はすぐに自爆をしてくれるから、いくらいじっても飽きるということが無い。本当に愉快な奴である。

「……真人くん、すっごく楽しそうだね~」

「……ああ。あいつは津久見をいじってる時が一番生き生きとしてるな」

 先輩方が何かひそひそと内緒話しているが、気にしないことにした。

 津久見は下を向いて、ぷるぷると震えていた。ねえねえ、今どんな気持ち? とばかりに更なる追い打ちをかけてやりたいが、あんまりやり過ぎて泣かせてしまうと、今度は俺が野津原先輩に地獄の制裁を受けてしまう。そろそろこの辺りで手打ちにしてやろう。

「なあ、津久見――」

「ああ、やっぱり納得いきません!」

 項垂れていた津久見が、虎が吠えるような勢いでがぁーと立ち上がった。

「おかしいじゃないですか! 確かに先輩の言う通り、私が消したノベルゲームは本の一種で文芸部の活動対象だということにしましょう。

 ――でも、先輩が今遊んでるラヴプラスはDSの恋愛シミュレーションゲームですよね? どう見ても、文芸部の活動内容とは、完全に無関係じゃないですか!」

「…………」

 これは、痛いとこを突かれた。この件に関しちゃ完璧に津久見の方が正論だ。勿論、それであいつの過去の非が消えるわけではないので、その点で責めれば口先三寸で何とでも繕うことはできるのだが――。

「津久見の一本」

 そう言って、蒲江先輩が審判のように腕を上げた。

 どうもこいつを馬鹿にし過ぎたか、と少々反省していると、津久見は拗ねたようにその先を続けた。

「それに、おかしいじゃないですか。ゲームの中の女の子と恋愛なんて。間違ってます。そんなの、本当の恋愛じゃありません。先輩は、もっと普通に人間の女の子と恋愛をすべきです」

「……あ、突っ込む所そこなんだ」

 なんだか、論点がずれてきているが、その話題なら俺の土俵だ。やられっ放しは性に合わない。もう少しこいつとディベート――だと津久見は思っているかも知れないが、実際はただの口喧嘩――を続けることにしよう。

「へえ。じゃあ、本当の恋愛とは何か、恋愛経験豊富な津久見理子さんの意見を拝聴しようじゃないか」

 うっ、と津久見が声を詰まらせる。こいつの彼氏いない歴=年齢はとうに知っている。

「ええと、ネネさん、でしたっけ? 先輩がゲーム上で恋愛している相手は、人間じゃありません。単なる電子データの集合体です。だから、本当の恋愛じゃありません!」

「浅いな。ゲーム上のキャラクターは単なる電子データの集合体なんだ、という意見は、人間は単なる蛋白質と水分の集合体なんだ、という意見と何ら変わらない。構成要素に分解したところで、その違いが本当の恋愛か否かを決める要因にはならないんじゃないか?」

 ぐぐ、っと津久見は息を詰まらせた。さあ、この程度の詭弁は真っ向から切り捨てられるようじゃないと、本当のディベートじゃ話にならないぞ。

「詭弁ですっ! ゲームのキャラクターは、あらかじめプログラミングされた反応しか返せません。それに対して、人間は自分で考えたことを自由に行うことができます。そこが、一番大きな違いです?」

「そんなもの、何の違いにもならない。おまえは人間は自分の頭で考えて行動できるというが、人間だって自分の脳にインプットされていない行動は絶対にできない。俺やおまえが、習ってもいないのに突然ドイツ語を喋り出したりすることがないのと同じだ。

 勿論、自分の持ってる情報を組み合わせて新しいものを作り出せる、という反論もあるだろう。だけどな、それだって、その組み合わせの方法やパターンはやっぱりに脳内に蓄えられた情報に依存してんだ。

 ――完全に新しい反応を創造する能力なんて、やっぱり人間にもない。そして、反応パターンを組み合わせる程度のことなら、ゲームのキャラだってできるぜ。まあ、人間の方が反応パターン豊富なのは間違いないが、それは程度の問題であって、完全な差異とはとても言えないな」

 むむむ、と津久見は唸って考え込んだ。

 言ってる自分から省みても、穴だらけのとんでもない詭弁。しかし、俺は別に完全無欠の真理を語ろうと思ってる訳ではなし、これはディベートの授業でもない。精々この馬鹿を黙らせることができる程度の説得力さえあれば、それで十分だ。

 津久見は鋭い目つきでこちらを睨み、決然と言った。

「魂です。人間には魂がありますが、ゲームのキャラクターには魂がありません。それが一番の違いです」

 予期せぬ津久見の答えに、大爆笑してしまった。

「ちょ、魂って、大真面目な顔して魂って、ちょっと待ってくれ、そんなゲテモノを持ってくるのは持ってくるのはもう少し後にしてくれよ!!」

 俺が腹を抱えてひいひいと笑い転げたのが不満なのか、津久見は頬を膨らませた。

「じゃあ、先輩、これに反論できるんですか?」

「反論するとかしないの前に、まず魂の定義を頼むぜ」

 すると津久見は、薄い胸を誇らしげに反らし、自信満々に言った。


「魂があるとは、クオリアを持っているということです」


 堪え切れずに、俺は再び爆笑した。

「ちょっと先輩、何がおかしいんですか!」

「いや、魂がクオリアって……一体どこの本にそんなことが書いてたんだよ」

「私が自分で考えたんです」

「くくっ……霊体だの前世だのまで言い出すのは勘弁してくれよ」

「本当に、とことん先輩は私を馬鹿にしなきゃ気が済まないみたいですね……」

「じゃあ聞くが、どうして人間はクオリアを持っていて、俺のネネさんはクオリアを持っていないと言い切れるんだ? クオリアそれ自体は観測できないのに」

 うっ、と津久見は言葉を詰まらせた。クオリアを議論の俎上に置く時の最大の難点の一つだ。絶対にクオリアは客観的が観測できない。この問題によって、クオリア議論は出口の無い無限ループに陥ることが往々にしてある。

「っ、それは――そうだ、『認識におけるマッハの原理』です! クオリアは生物の脳によって、ニューロンの発火によって発生する現象です。だから、脳を持たないコンピュータープログラムは、クオリアを持っているわけがありません!」

「それも、何の根拠もない仮定だけどな。クオリア問題は、原理的に証明できない」

「でも、クオリアが脳に発生することは自明です! それこそが魂の証明です!」

 苦しい言い訳だ、やれやれと両手を広げ、俺は津久見の言葉を切り捨てる

「確かに、クオリアが脳に発生することは自明かもしれないが、それは脳以外のものにクオリアが発生することの反証にはならない。

 そうだな――じゃあ、俺もおまえに倣って仮説を立ててみよう。簡単な思考実験だ。

『クオリアは、電流によって発生する』

 どうだ?

 脳はニューロンによって複雑な電流が発生しているので、高等なクオリアを発生させることができる。しかし、豆電球を点すだけの簡単な電気回路にもクオリアは発生中だ。

 人間だけがクオリアを持っているように見えるのは、人間同士でのみ自己言及のやり取りができるからだ。現に、犬猫亀とかのペットなんかも、自分でクオリアを持ってると言ってる訳でもないのに、人間との類推解釈で同じようにクオリアを持っていると思ってる奴が大半だろ?」

 俺はDSを開き、ネネさんの頭を撫でる。

「ゲームのキャラは、それらの人間に近い動物に比べて、類推解釈をしにくいし、自己言及する機能を持っているわけじゃないから確かめ難いかもしれないが――俺のネネさんがクオリアを持ってると考えることも十分に可能じゃないか?

 それにさ、おまえはネネさんがクオリアを持っていないことを証明できない上に、そもそも俺がクオリアを持ってることさえ証明できないじゃないか? 俺が哲学的ゾンビだっとしても、おまえには絶対に分らない。これは、おまえが心脳問題の入門書を読んで、常々偉そうに語ってる通りだな。もし俺とネネさんが共にクオリアを持たない存在なら、それはそれでいいカップルじゃないのか?

 ……というわけで、はい、論破。どう考えても俺が正しい」


 少しでも筋道立てて物事を考える奴なら分るだろうが、これは論破でも何でもない。2ちゃんねるの馬鹿並の勝利宣言だ。しかし、口喧嘩で言い負かしてから勝鬨を上げると、大抵津久見は素直に引き下がってくれる。ここは3ちゃんの粘着野郎と違って評価できるところだ。

 あまり長々とレベルと低い舌戦を続ける気はない。早々に勝ち逃げさせてもらおう。

「ま、待って下さい! まだ私には反論の余地はあります!」

 珍しく、津久見が食い下がってきた。

「そうです、先輩は一番大切なことを忘れてますよ! 恋愛というのは、その……愛し、愛されることが大事です。先輩は――その、ネネさんを愛してらっしゃる……のかもしれませんけど、そのネネさんは先輩を愛してなんていません! 断言できます!」

 おいおい、なんだか道徳の授業じみた話になってきたぞ。この流れはまずい、泥沼になりかねない。

「ふん、そもそも俺に惚れてくれる女なんていないからな。それなら――例え嘘でもプログラムでも、俺を好きだと言ってくれるゲームと恋愛した方が、恋を楽しめるってもんじゃないのか?」

 津久見は柳眉を釣り上げて、薄いベニヤの机を叩いた。

「そんなことはありません! 先輩を好きになる女の子は絶対にいます! だから、そんな非生産的なゲームを止めるべきです!」

 その勢いに気押されながらも、もう少し意地悪く突いてみる。

「どうしておまえがそんなこと言えるんだよ? 何か根拠でもあるのか?」

「根拠はその……言えませんけど、間違いありません! 先輩を好きになる女の子はちゃんといますから、そんな恋愛ごっこはやめて下さい!」

 横目で後ろを見ると、蒲江先輩と野津原先輩が互いに肩を押さえて笑いを堪えていた。どうもこの二人は、俺達を観察するのを日々の娯楽にしている節がある。今度それとなく問い詰めてみなければ。

「恋愛ごっこと言うけどな、恋愛なんてみんなごっこだろ? クオリア問題と同じだ。自分は相手を愛していても、相手が自分を本当に愛しているかどうかは、絶対に分らない。分りやすい婚姻や家族といった社会形態はあるが、そんなものは愛の証明じゃない。

 ――最後にはただ、無条件に信じあうしかないんだ」

 小説だのドラマだので、散々語りつくされたテーマだ。俺が口にするまでもなく、津久見もその程度のことは分っているだろう。それでも口にしたのは、もうその程度の安い道徳の領域でしか、津久見は反論が思いつかないということだ。

 もうとっくに、津久見は詰んでいる。それでもこんなに意地を張って俺に反論してくるのは、何か理由があるのだろうか?

「あ、そうです! ええと……恋愛というのは、そもそも結婚して子孫を残すという、生物としての根本的な目的から生まれた行為です。だから、結婚もできないし子孫も残せないゲームとの恋愛は、極めて非生産的で、生物学的に間違った行為なんです!」

「……ふっ」

 悪いが、鼻で笑ってしまった。反論してやるのも億劫だが、これでチェックメイトをかけてやることにしよう。

「おいおいおい、津久見さんよう、恋愛が結婚して子孫を残すことを目的とした行為なんて、そんな自分も欠片も信じていないような嘘をついちゃいけないなあ。

 本能の赴くままに生きてる下等な動物ならともかく、人間やボノボは高度な社会的行為としての恋愛行動を成立させてきた。おまえが時々読んでる恋愛小説だって、扱ってるのはその類だ。おまえがロマンたっぷりに語っている恋愛は、本能的行動から離れて成立した、高度なコミュニケーションとしての恋愛だろ?」

 図星を指されて、津久見には反論の言葉もない。もう少しだけ、いじめてみよう。

「それとも、だ。津久見ちゃんの考えてる恋愛とは、子供を残す生殖行動に直結したもので、プラトニックな愛情や同性愛は一切認めない過激な恋愛観の持ち主なのかな?

 つまり、こう言いたいわけか。――ゲームなんて止めて、誰でもいいから女の子を見つけて、子孫が出来ちゃうような行為に励めと。

 うわーお、津久見ちゃんは随分とエッチな女の子だなあ」

 ひゅう、とこれ見よがしに口笛を吹いてみせる。たちまち、津久見の顔色が熟れたトマトのような真っ赤に染まった。

「な、な、な、な、何を言ってるんですか、先輩、私はそういう意味で言ってるんじゃなくて?」

「じゃあ、どういう意味で言ったんだ?」

「ただ、先輩を好きな女の子がいたりしたら可哀想だなー、と」

 またその話題か。


「だから、そんな奇特な奴はいねえ、って。彼女居ない歴17年を舐めるなよ。それにしても、さっきからおまえ、随分と俺がラヴプラスをやってることについて噛みついてくるな。なあ? 人の楽しみ邪魔してそんなに楽しいか? 俺が恋愛ゲームしてたら、何かおまえに不都合でもあるのかよ?」


「あ……」

 津久見は大きく目を見開いて、よろけるようにふらりと下がると、何か言いたげに口を動かしたが、やがて諦めたようにその唇を真一文字に結んだ。

「……もう、いいです」

 ぐすっ、と洟をすすって、津久見はくるりと踵を返した。

「失礼します。今日は、早退します――」

 涙声でそういって、そのまま声をかける暇もなく、肩を落としてとぼとぼと部室を出て行ってしまった。

 後には、ネネさんの棲むDSと、言いようも無く居心地の悪い部室の空気だけが残された。

「あ~あ、泣~かせた」

 蒲江先輩の意地悪い声に被せるように俺の後頭部に衝撃が襲った。

 瞼の裏で散る火花。

 振り返ると、野津原先輩が、のほほんとしたいつもの微笑みを浮かべて、分厚い古語辞典を振りおろしていた。

「ダメだよ~、真人くん。女の子は大事にしなくちゃ」

「……普通の女なら大事にしますけどね、あんな猪突猛進娘、女の子にカデゴライズするには無理あり過ぎですよ。もっとお淑やかで可愛い奴じゃないと、到底女の子としては見ることはできませんね」

「――真人くん、嘘つきさんだ~」

 ばさり、と野津原先輩は卓上に何かを投げ出した。それは、プリントアウトされた紙の束だった。

「これは――2ちゃんのスレ……俺が書き込んだやつですか!?」

「そうそう。義理の妹さんに愛の告白を受けて悩んでる、って内容だったよね。その、登場する義理の妹さんがすっごく可愛いってみんなに大人気だったけど――この義理の妹さん、理子ちゃんがモデルだよね」

 ギクリ、と背筋が強張った。なんでそんなことが分るんだこの人は! もう原型も無いぐらいに性格改変してあるのに! 鋭いにも程があるだろ!

「……ゼロからスレの住人にウケる萌えキャラを創作する自信が無かったんで、手近なところをモデルに済ませただけですよ。他意はありません。それに、これではっきりしましたよ。津久見をモデルに萌えキャラなんて、とても作れたもんじゃありませんね」

「んふふ~、凄っごく可愛いかったよ~」

 いやだから、と反論ようとして、この人に言い返す虚しさを思った。野津原先輩は津久見とは正反対。天然でありながら天性の感覚で相手の急所を突いてくる、絶対に口では敵わない強敵なのである。

「さて、真人くんには今すぐやらなければいけないことがあります。それは一体何でしょう♪」

 人差し指を立てて、野津原先輩は邪気の欠片もないのに、凄まじい圧迫感を放つ笑顔でそう問うた。

「……津久見を、連れ戻してきます」

「うん、大正解。いってらっしゃい~」

 先輩はひらひらと綺麗な花柄のハンカチを振った。

 我ながら女々しいと思ったが釈然としない思いは消えず、嘆息と共に俺は愚痴るようにこう漏らした。

「……別に、俺があいつに謝らなきゃならない義理はないんですけどね。

 俺が何の謂れがあって、俺が部室で恋愛ゲームをするのを咎められなきゃいけないんですか……」


「――謂れならあるぞ、佐伯」

 野太い声と共に、荒々しく部室の扉が開いた。

「うわ! 智ちゃん先生!」

「こぉら! 俺のことは杵築先生と呼ぶよう、いつも言ってるだろうが!」

 炯々と光る眼差しに、青々とした髯の剃り跡。190cmを越える長身は筋骨隆々という言葉の相応しい立派な体躯で、会う者誰もを威圧する。

 杵築智彦、35歳独身。我が校の名物体育教師――と思われがちだが、実は日本史担当の社会科教師である。

何の因果か、この泡沫文芸部の顧問を務めており、部員には甲子園でも狙っているのかと思わせるようなスポ根のノリで接してくるが、部の運営方針は基本放任である。

 何を考えているのか毎号欠かさず、姫島智美というペンネームでたんぽぽに投稿してくれる、誌上での5人目の部員でもある。この姫島智美は滅多に学校にも来れない病弱な美少女という設定で、その体にまるで似合わない耽美な恋愛小説を書くので、部員からは『智ちゃん先生』と呼ばれて威厳をまるっきり失っていた。

「佐伯、話は聞かせてもらったぞ」

「また部室の外で部員の話を立ち聞きしてたんですか? 趣味悪いから止めた方がいいですよ」

「おまえの疑問に答えてやろうと思う」

「……相変わらず、人の話はまるで無視ですか?」

 ああ、どうして俺の周りにはこんな無駄に血圧の高い人間が多いのだろう。この杵築教諭、何故かというか矢張りというべきか、津久見とだけは妙に仲がいい。さっき泣きながら出て行く津久見とすれ違った筈だが、慰めてやったりはしなかったのだろうか?

「何の謂れがあって恋愛ゲームをするのを咎められるのか、おまえはそう問うたな、佐伯2年生。その答えを教えようじゃないか!」

 生徒指導担当の杵築教諭は、俺のネネさんの眠る俺のDSをむんずと掴んで張りのある声で宣言した。

「それは、学校に携帯ゲーム機を持ち込むのは校則違反だからだ」

「…………」

「何か、反論はあるかね?」

「……いえ、全くもって完全に有りません。おっしゃる通りです」

「よし、では返却は1週間の没収と反省文の提出の後とする。

 ――その前に、最優先事項として、津久見君を追いかけるのだ。佐伯よ、おまえは不器用だから下手に優しい言葉をかけるより、食い物で釣るのが一番だと俺は思うぞ。そうすれば、女の子に許して貰うことなど簡単だ」

「……そんなだから、結婚相手が見つからないんですよ、智ちゃん先生」

 そう言い捨てて、俺は津久見を探しに部室を出た。まだ余り遠くには行っていない筈だ。走ればまだ間に合うだろう。ああ言ったものも、津久見は単純だから、食べもので釣るのも十分ありかもしれない。とりあえず頭を下げて、あとは出たとこ勝負で行ってみよう。

 ――まったく、何の因果だろう。津久見には泣かれるし、俺のネネさんも杵築教諭に没収されてしまって全く今日は厄日である。

 ラヴプラス、1週間も放置してしまったら、好感度パラメータは激減してしまうだろう。折角ここまでネネさんと愛を育んだのに、全く以て残念極まりない。でもまあ、無くなってしまうものは仕方がない。当分は、ラヴプラスの代わりに津久見の哲学の相手でもしてやることにしよう――。








「先輩、新作のアイデアが浮かびました」

 そんな不吉な言葉と共に津久見が部室に駆け込んできたのは、あれから数日後――俺の愛するネネさんが杵築教諭に没収され、俺が津久見にミスドを奢ってご嫌をとってから、暫く経った日のことである。

「これまでにない斬新かつ画期的なアイデアです! 聞いて驚かないで下さいね!」

 鼻息荒く意気揚々といった様子の津久見に、俺はいつもの如く頭痛を催すこめかみを押さえつけた。

「ええっと、その台詞一体何回目だ? そろそろ部室に数算機を備えつけようと常々考えてるんだが? 隣に円グラフをつけてネタの有効率を100分率で表してやるのもいいかもな。ああ、その新作のアイデアとやらが使えるネタだったことは一度だってないから、唯の円盤になるのは目に見えてるんだが。

――それで、今回こそちっとは読めるネタなんだろうな?」

 津久見は薄い胸をそらして、えっへんと言わんばかりに自信満々に告げた。

「勿論ですよ! 私の今回のアイデアによって、『哲学的な彼氏企画』は、また新たなステージへの一歩を踏み出すことでしょう!」

「新たなステージはいいから、そろそろ最初の一歩を踏み出そうぜ、なっ、なっ。もったいぶらずに教えてくれよ、その新作のアイデアとやらを。

 懇願に近い勢いで、俺は努めて先を促した。

 津久見は、人差し指を一本立てて誇らしげにそのアイデアを披露した。


「哲学で、バトルものをやろうと思うんです」

「……バトル?」


 哲学という知的な響きから掛け離れたバトルという野蛮な言葉に、俺は思わず眉根を寄せた。また随分と、頓狂なことを言い出したものである。

「戦うの? 哲学で?」

 はい。と頷いて、津久見はその黒く大きな瞳を輝かせた。

「私、考えたんです。『哲学的な彼氏企画』で、どんな物語がウケがいいのかなぁ、って。私も反省しました。先輩の言う通り、自分の作品を読んで貰うためには、自分の書きたいことをただ詰め込むだけじゃなくて、ちゃんと読者の方々に楽しんでもらえるように設計することも大事なんだ、ってことが少し分った気がします」

 それは重畳。俺の指導によって改心した結果辿り着いた結論が哲学バトルとは、光栄過ぎて涙が出そうである。

「どんな物語が人気があるのかな、って考えた時、それはやっぱりバトルしかないと思うんです」

「……その心は?」

「だって、売れててみんなが知ってる漫画やアニメの作品は、バトルものばっかりじゃないですか! クラスのみんなにも聞いてみましたけど、難しい文学作品は知らない人がいましたが、ワンピィスやドラゴンボォルなら全員が知ってました! だから、みんなが知ってるバトルもので哲学的な小説を書いたら、誰にでも楽しんでもらえると思ったんです!」

 予想の斜め上を遥かに超える短絡的な理由だった!

 著名な文学作品でも、『銀河鉄道の夜』や『羅生門』、『ライ麦畑でつかまえて』など、高校生レベルでも誰でも知ってて簡単に楽しめるものはいくらでもあると思うのだが――。

 その中から、あえて漫画やアニメの作品をチョイスした理由を考えようとして、師匠筋の人間――即ちこの俺が漫画やラノベを愛するオタクだからに他ならないことに気がついた。もちろんその大半の原因は津久見本人にあるとしても、その指向を歪めてしまったことに、若干の罪悪感を覚える。

「ええっと、趣旨は解ったが、バトルが、どうやって『哲学的な彼氏企画』に絡んでくるんだ?」

「決まってるじゃないですか! 哲学的な彼氏が格好良く戦うんですよ!」

「ええっと、それは何とか理解できるんだが、どうやって戦うんだ? 学園異能バトルか? ファンタジーか? それとも素手喧嘩か? まさか麻雀やポーカーじゃないだろうな? 哲学ビームや哲学バスターみたいな必殺技を使うわけじゃないだろうし。おまえらしく健全にスポーツ勝負でもするのか?」

 そこまで細かいことは考えていなかったのだろう。津久見は小鳥のように首を傾げた。

「スポーツ……そうですね、確かにスポーツものは私らしいかもしれません。

 私、中学の頃はバスケ部で名選手と呼ばれてたんですよ。南中のNo.1ガードだって」

「そのNo.1ガードが、どうして高校では文芸部で哲学小説なんか書いてるんだ?」

 おそらく、バスケは体の故障などで辞めたのだろう。そのリハビリ中に哲学書を読んだとか、そういうありきたりな理由だろうと、大まかなあたりはつけていた。しかし、津久見はまたしても俺の予想の斜め上を飛んだ、理解不能な回答を寄越した。

「三年生になってバスケを引退した後、受験の時に哲学に嵌っちゃいまして。それで哲学が勉強できるとこはないかな、って探してたら、先輩が私を文芸部に誘ってくれたんです」

 津久見を文芸部に誘った日のことを思い出す。今年は新年度に入っても新入部員が入らず、蒲江先輩から首に縄をかけてでも連れて来いとの厳命を受けていた。そんな折、この馬鹿と出会ったのだ。

『ええっと、この学校に哲学部はありませんか?』

 期待を籠めて瞳を輝かせるこいつに、んなもんあるある訳ないだろ馬鹿、と返さなかったのは、俺の忍耐強さの賜物だ。

『う~ん、ちょっと哲学部はありませんねえ』

『……やっぱりありませんか』

『哲学が勉強したいんですか?』 

『はい、私、哲学が大好きで、哲学を勉強できるサークルを探してるんです』

 ――その時俺は、妙な奴だが丁度いいカモが引っ掛かった! と胸中で会心のガッツポーズをしていた。

 俺は、努めて善人じみた柔和な表情をつくり、優しく手を差し出した。

『それなら、文芸部に来られてはいかがですか? 我が文芸部は、ありとあらゆる本を読んで解釈したり研究したりする活動を行っています。読む本は勿論部員の自由――当然、お好きな哲学な本だって好きなだけ読めますよ。

 ――どうです、哲学好きな方にはぴったりだと思うのですが?』

 蒲江先輩に後から聞いた話である。津久見を連れた俺は、どこの悪質商法かキャッチセールスかと言わんばかりの胡散臭げな表情をしていたらしい。しかし、

『わあ! 本当ですか! 素敵です! ぜひ文芸部に案内して下さい!』

 そう言って、津久見は目を輝かせて俺の手を握り締めた。

 ……その時は、新入部員が入らなければ廃部という我が部の状況を鑑みて、誰でもいいから引き入れなければいけな状況だった。正しい選択だった。

 しかし、最近、津久見を文芸部の部員にしたのが本当にこいつにとって良いことだったのか、時折悩むこともある。

「なあ、バスケはもういいのか?」

「はい。バスケットは大好きでしたから、高校に入る時に止めちゃうのは本当に名残惜しかったんです。でも――今度は、何か新しいことが、哲学がしたかったんです」

「……そっか」

 微妙な、違和感。津久見がバスケと哲学を秤にかけて、哲学を選んだことは十分に解った。しかし、これでは肝心の、津久見が哲学に興味を持った理由が全く解らない。

 てっきり、いつものように自信満々な表情を浮かべ、いかにして自分が哲学を愛するようになったかを滔々と語るのだろうと思っていたのだが。

 その理由は内緒にしておきたいのかもしれないし、こいつのことだから単に説明を忘れただけということも考えられる。別段、津久見が哲学を好きになった理由などに興味はないのだが――奥歯にものが挟まったような、釈然としない気持ちだった。

 何故だろう。どうして津久見はここまで一途に哲学を愛することができるのだろうか。

津久見が哲学とバスケ、どちらでより大成できるかと問うなら、その答えは勿論バスケットだ。普段の何気ない動きを見るだけで解る、運動神経と敏捷性の良さ。そして中学生時代に積み上げた見事な実績がある。それに対して、哲学の方は素人丸出し、過剰な興味ばかりが先走って空回りする毎日だ。

 津久見はまだ高校一年生、充分に転部も間に合う齢である。本当に津久見のためを考えるなら、今からでも、バスケ部に転部することを勧めるべきではないだろうか。そんな煩悶が、時折俺の胸中を通り抜ける。

「なあ、おまえ、もうバスケをする気はないのか?」

「勿論時時々は遊んだりするでしょうけど――今は、哲学の方に集中したいんです」

 迷いなく、淀みなく、きっぱりとそう言い切った。

 俺は所在無さげに視線を彷徨わせ、助けを求めるように蒲江先輩の方を見つめた。いつものように洋書を読みふけっていた先輩は、俺の視線に気付くと、一瞬だけ顔を上げて小さく頷き、また視線を手元に洋書に落してしまった。

 ――自分で解決しろ。まるで、そう戒められたような気分だった。

「ねえ、先輩、それで哲学バトルの話なんですけど」

「哲学バトル……? そうか、そうだったな」

 津久見のバスケの話に脱線したので、頭から消えかけていたが、そういう話題だったのだ。

「それで、哲学バトルをどうするんだ? 格好いい哲学的な彼氏は、哲学でどうやって戦うんだ?」

 苦笑交じりに先を促す。

「究極の真理と至高の真理で大バトルっていうのはどうでしょう? 格好いい哲学系男子がお互いの持てる限りの知識を出しあって、どちらがより真理に近いか論戦をするんです」

「……そいつぁすげぇ」

 全く進歩の感じられない津久見のアイデアに微笑ましささえ感じながら、津久見の頭をぐしゃぐしゃと掻き乱した。

「わ、わ、わ、何するんですか!」

「哲学でバトルというのは、そう悪くないアイデアだと俺も思うぜ。今までのおまえが出した案の中じゃ、まあ、マシな方だ」

「本当ですか!」

「でも、勿論問題はあるぞ。哲学論戦バトルを行うとして、ジャッジはどうする?」

「あ……」

 笑顔を表情に貼りつけたまま、津久見が動きを止めた。

「まさか、作者のおまえが全知全能の神として、どちらがより真理に近いかジャッジを下すわけじゃないだろうな?

 一番無難な解決策は、過去の議論や理論の変遷をそのまま流用することだけどな、哲学議論ってのは、快刀乱麻断つような、鮮やかで誰もが納得できる結末で終息することなんて、滅多にないんだ。罵り合いに終わることも多いし、そも議論の内容が決着不可能な命題であることも十分に有りうる。互いの問題点を指摘し合って手打ちにするようなナアナアな終わり方なら、議論は上手く言った方だ。読んでカタルシスを感じるような見事な議論の決着というのは、本当に、稀なんだ。

 だから、書くとするならおまえが解釈や脚色を加えて、読者に解りやすいく形成しなくちゃいけないだろうな。勿論、読者が読んで納得するような、議論の決着なんて、かなりの文章力がないとできない芸当だが――挑戦してみるか?」

 そんな、挑発的な言葉が口をついた。津久見の力量ではできる筈はない。普段のように冷笑的な態度をとって、方向転換させた方が利口だろうに。何故だろう、今日に限っては、唐突にダメ元でも津久見にやらせてみようという気になったのだ。

 津久見はぽかんと口を開け、首を傾げて俺の言葉を反芻していたが、それが俺からのOKサインだということを理解すると、小さな両拳を握り締めて、飛び跳ねんばかりに――いや、流石は元バスケット部、天井近くまで飛び上がって喜んだ。

「はい、私、頑張りますから! 絶対先輩をぎゃふんと言わせるような素敵な哲学小説を書いてみせますからね!」

「ああ、期待せずに待ってるから精々頑張れ」

「はいっ! では私は、資料を集めるために図書館に行ってきますね!」

 言うが早いか、津久見は廊下に飛び出してぱたぱたと駆けていった。生徒指導の杵築教諭に捕まらなければいいのだが。

 津久見の小説の件は何一つ片付いてはいない。これで、最初の第一歩の方針が決まっただけだ。しかし、何か途轍も無い大仕事を片づけたような疲労に襲われて、俺はどっかりと椅子に深く腰を下ろした。

「小説のジャンルを決めるだけでこれじゃあ、『哲学的な彼女小説』、完成までいつまでかかることやら……」

 呟いた俺の眼前に、ことりと緑茶で満たされた湯呑が差し出された。

「んふふ~、お疲れさま、真人くん♪」

「あ、すみません、野津原先輩」

「やっと、理子ちゃんにしっかり厳しくできたみたいだね、真人くん。いつも真人くんは理子ちゃんを甘やかしてばかりだから、ちょっぴり心配してたんだよ~」

 甘やかしてた? 俺が? 津久見を? どうも、今日に限っちゃ野津原先輩の言うことは的外れのようだ。

「真人くん、理子ちゃんのアイデアにあれはダメ、これもダメ、ってダメ出しばっかりしてたでしょう。心配だったんだよね、理子ちゃんのことが。

 真人くんは優しいからね~。理子ちゃんが自分のアイデアそのままで書いてたんぽぽに載せちゃったら、きっとみんなに批判されて、理子ちゃん凄っごく傷ついちゃうだろうからね。真人くん、そんな理子ちゃんが見たくなかったんでしょ?」

「いや、あの、それは――」

 反論したい。反論の台詞など一瞬で幾つも考え付いたが、どれも喉元で止まってしまって言葉として口からでない。

「でも、それじゃあ理子ちゃんがいつまで経っても成長できないからね~。獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす、ってね。例え傷つくことになっても自分の責任で、自分の伝えたいことを書いていかないと。それが、文芸部だからね~」

 全然、そんなつもりはなかったのだが。俺は、先輩の義務としての最低限の指導して、そのついでにあいつをいじって遊んでいただけだ。別に、あいつのためだなんて全然考えてはいなかったのだが――そんな曲解をされると困ってしまう。

 ……やっぱり、野津原先輩はどうも苦手だ。反論の言葉がうまく口にできないので、代わりに、ずっと胸中で蟠っていた疑問を口にした。

「あいつが哲学好きなのは知ってるんですが、それが、どうして『哲学的な彼氏企画』に繋がるんでしょうか? どうも、そこが解らないんです。ただ哲学が好きなだけなら、ただの哲学企画で事足りる筈だと思うんですが……?」

 野津原先輩は、少女が内緒話をする時のように唇に人差し指を当てて、んふふ~、と微笑んだ。

「それは秘密だよ~。真人くんはにぶちんさんだから、もしかしたら当分解らないかもしれないね。とってもとっても簡単なことなのにね~」

 何時もの無邪気の笑みとは違う、少しだけ悪戯げな笑みだった。

 



 さて、出来心で作ってしまったコレをどうしよう?

 部室の備品である小型のシュレッダーを前に、俺は小さな選択を迫られていた。

 ボタン一つで、俺の昨夜の30分の苦労は完全に消滅する。たかが30分だ。別段惜しむ程の労力ではないが、無為なものとしてしまうには幾許かの心残りを覚えた。

 さて、どうしたものか。

 5分程試案したが、これ以上考え続けると、制作時間を消去しようと悩んでいる時間が上回ってしまうことに気がついた。これ以上の浪費はないだろう。ここは男らしく、ぱtっと一気に裁断してしまうのが吉だ。

 俺は、思い切ってボタンを押――。

「これなんですか? 先輩?」

 絶妙なタイミングで、不肖の後輩が俺の持っていた紙束をひょいと取り上げた。

「ああっ!?」

「あ、もしかして、先輩のたんぽぽの原稿ですか? 読ませて下さい読ませて下さい~」

 俺の制止など聞く筈もなく、津久見は無慈悲にも紙束の一枚を捲り上げ、そこに大きく踊る題字を見た。

 津久見の顔から表情が消える。その瞳が潤み、唇が震える。ゆっくりと、津久見はそこに書かれていた文字を読み上げた。

「『哲学的な彼氏企画――実験小説』もしかして、私のために書いてくれたんですか!?」

 それは壮絶な勘違いだ。本当にバトルもので哲学小説が書けるか、若干の興味が湧いたので、幾つかプロットを立ててみたら思いの他興が乗って、そのまま短編小説に仕上げてしまったのだ。断じて津久見の為などではない。

 趣味とノリ100%で書いたので、内容はそれはそれは酷いものである。とても他人に見せられたものではない。津久見の教育にも良くないだろう。

「ちょ、返せ、それ!」

「もう返しませんよ! 読ませていただきます!」

 手を伸ばして奪い返そうとするが、中学時代バスケで名を上げたのは伊達じゃないらしい。するりするりとかわされてしまう。

「……ああ」

 俺は、顔面を両手で覆った。今から激怒する津久見の様子が目に浮かぶようである。

 ――それは、本当に気の向くままに書いた雑文だった。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「俺は、楽しく無えことは大ッ嫌いなんでな。テメエみたいな真面目くさった坊主のことも大嫌いだ。辛気くせえ顔しやがって。

 ふふふ、俺の哲力は2400ソフィスだ。たった1300ソフィスのテメエに負ける筈がねえんだよ。ほら、とっとと降参しな、糞坊主」

 エピロスは余裕綽々の笑みを浮かべて、トーマスを睥睨した。トーマスは教会の片隅に追いやられ、その壁に背を預けている。誰が見ても、トーマスが劣勢なのは明らかだった。もはや勝ち目の無いトーマスを見守るように、その頭上は十字架の聖者の像が輝いていた。

 トーマスは救いを求めてるようにロザリオを掴み、両手を組んで高く掲げると――ニヤリと口の端を吊り上げた。

「……そこのお嬢サン、もう一度ワタシの哲力を測定してみてくれまセンか?」

「は、はい!」

 突然声をかけられたアリスはびくりと背筋を震わせ、あたふたと哲学スカウターを取り出した。

「おーいアリスの嬢ちゃん、何やってんだよ、そんなのこいつの時間稼ぎに決まってるだろ? 一撃で終わらせてやるから、律儀にそいつの言うことなんて聞くことねーよ」

 エピロスはそう言ったが、アリスはトーマスの言葉に引っ掛かるものを感じ、哲力スカウターを起動させた。――そして、彼女は息を飲んだ。

「っ、これは一体――」

「どうしたんでぃ、アリスの嬢ちゃん!」

「トーマスさんの哲力が上昇していく! 2000ソフィス、3000ソフィス、……っ、そんな、まだ上がっていくなんて!」

「っ、テメエ、一体何をしやがった」

 さっきまでの劣勢はどこに行ったのか、トーマスは不敵に微笑むと聖書を広げ掲げた。

「特に何も。ここは教会デス。神の愛に抱かれているワタシの哲力は、信仰心と共にこの場所にいる限り、永遠に尽きることはありまセン」

「ケッ、教会だか何だ知らねえが、宗教家ごときが哲学者に敵うわけねえんだよ! 勝負だぜ! クソ神父! おい、お前は危ないから下がってろ、アリスの嬢ちゃん! 巻き込まれるぞ!」

「いいデショウ。信仰心を持たない者の言葉ナド、神の前では無力であることを教えてあげまショウ。どこからでもかかってキナサイ」


 トーマスは、己の聖書の表紙に掌を当てて叫んだ。

「論理召喚――全知全能の神!」

 高い哲力を持った哲学者は、己の哲学理論を具現化する論理召喚能力を持つ。

 これは、哲学理論が破綻していない限り際限の無い破壊力を持つが、相手に論理の穴を指定されたり、より正しい理論と競り負けたりすると、己の攻撃が全て自分に跳ね返ってしまうという諸刃の剣だ。


 トーマスは、矢次ぎ早に己の論理を繰り出した。

「全ての因果には始まりありマス。従って、そこには全知全能の神が存在するというのは自明のことデス」

「地球に人間が生存できるというのは、極めて奇跡的なことデス。僅かに大気の組成や太陽との距離が変わっていたら、人間は存在できなかったでショウ」

「人間には生きる目的が必要デス。ただ生れたから生きるという無為な生き方は、神の愛に包まれて生きる私たちの生き方に比べて何と悲しいことでショウ――」

 凄まじいトーマスの論撃が、神の威光の具現となって教会の中を吹き荒れる。

「きゃあっ!」

 まだ論客として未熟なアリスは、吹き飛ばされないようにするだけで必死だ。

「下がってろ、アリスの嬢ちゃん!」

 エピロスも、己の哲学書を取り出し、表紙に掌を当てて叫んだ。

「神だの因果だの楽しくないことが好きそうな奴だな、おい!

 ならば俺も貴様の神に問うてやる。

論理召喚――全能の逆説!」

 ずずん、と重々しい音を立てて、教会の中央にステンドグラスまで届きそうな巨石が突如出現した。

「テメエの神に心して答えてもらおうか。

 全知全能の神よ、お前は自分に持ち上げられない石が作れるか?

 もし答えがイエスなら、持ち上げられねえ石を作った時点でテメエは全知全能じゃねえ。

 そして答えがノーでも、持ち上げられねえ石を作れねえテメエは全知全能じゃねえ」

 ごろり、人の身の丈を超える巨石が、ゆっくりと転がり始めた。――その先にいるのは、当然のようにトーマスだ。

「さあ、心して答えるんだな、糞坊主。まあ、どう答えようとテメエは大岩の下敷きなワケだが――」

 巨石は徐々に転がる速度を上げていき、やがて唸りを上げて回転を始めた。しかし、絶対絶命の筈のトーマスは十字を切ると、張りのある声で論撃を返した。

「ワタシからも問いまショウ。頂点が5つある三角形を作れというような、そもそも論理的整合性を持たない命題に回答義務は有りますかでショウか?」

 エピロスは一瞬の逡巡の後に大声で答えた。

「そもそも論理的整合性を持たない命題に回答義務はない! それは出題者の誤謬である!」

 トーマスは嬉しそうに唇を歪ませた。

「ならば、全知全能者に己の不可能な事物を作成せよと命じる命題も、同様に論理的整合性を持たないのではないでショウか?」

 トーマスの寸前で、石が止まった。エピロスの頬を冷や汗が伝う。

「しかし……全知全能者が真の意味で全知全能なら、論理的整合性を超越することも可能な筈だ」

 トーマスは、楽しくて堪らないという風に目尻を下げた。

「その通りデス。当然、その場合はには、全知全能の神が己の持ち上げられない石を作成したところで、その全能性の否定にはなりまセン。そもそも、そんな論理的整合性は超越しているのですカラ。

 ――即ち、いずれにしても、我が神の全能性に曇りは無いのデス」

 トーマスの眼前で停止していた巨石が、ゆっくりと逆回転を始めた。ゆっくりと速度を上げ、召喚者であるエピロスの元へと向かっていく。

「うわっ、うわぁぁ!」

 恥も外聞も無く、エピロスは叫びを上げた。巨石は止まらない。エピロスには止める術がない。『全能の逆説』は、エピロスが神学者に使う最大級の大技だったのだ。それが破られた今、エピロスにはもう成す術は無かった。

「エピロスさんっ!」

 アリスが叫び声を上げた。しかし時既に遅し。エピロスは無残にも潰されようとした、その瞬間。

『神と言う言葉は事象の説明には不要である!』

 身の丈を超す長剣を持った男が、その鞘で巨石を受け止めていた。

「そんな、たった一言であの岩を止めるなんて……」

 謎の男はアリスを一瞥すると、トーマスへ鋭い瞳を向けた。

「戦意を失ったものへトドメとは、余りよい趣味ではないな。神学者トーマス」

「貴方は、一体何者デスか? どうやらタダものではないようデスが?」

「なに、元は貴公と同じ神学者よ」

 新たなる強敵の出現かと、戦々恐々していたトーマスは、あからさまな安堵の表情を見せた。

「何ト! 貴方もワタシと同じ神に仕える者でしタカ! 丁度いい、一緒に我らが神敵を滅ぼそうジャありまセンか!」

「見くびるな!」

 謎の男に一喝され、トーマスはヒイと縮み上がった。

「元同じ神学者だからこそ解る。貴公の言葉には、神に対する信仰心がまるで欠け落ちている。貴公は、自分の哲学を神という都合のいい概念で補強したいだけの俗物だ」

「い、いいでショウ! 貴方も同じ神敵なら、そこの連中と一緒に滅ぼして差し上げマス!」

 プライドを傷つけられたトーマスが、再び聖書を手にする。

 その動きを見た謎の男は、巨石を押し留めている大剣の鞘から、その刃を抜いた。

 しかし――。

「何なの。あの小さな剣は!?」

 その巨大な鞘に比べ刀身はあまりに貧弱。掌に乗る程度のサイズしかなかった。

「は、ハハハ、随分と見かけ倒しの剣デスねえ!」

 エピロスが一人、青褪めた顔で声を上げた。

「違う……違う、あれは剣なんかじゃねえ!」

「知ってるんですか!? エピロスさん!」

「知ってるも何も、あれは伝説の刃『オッカムの剃刀』だ!!」

 男がその小さな刃を持っただけで、まるで身の丈を超える剣を構えているような威圧感が周囲を覆いこんだ。

 男は低い声で告げる。

「神の名を濫用する愚者よ――貴様の神、このオッカムの剃刀が剃り落してくれよう」


 ……一体、何が始まるというの? 兄さん、貴方なら、こんな時にどうするのかしら?

 アリスはただ、胸元でぎゅっと拳を握り、事の成行きを見守ることしかできなかった。



 同刻。


 そして、一つの戦いが終わった。

 湖の畔の小さな小屋は、屋根は吹き飛び、壁は倒れ、半壊の有り様を見せている。

 この場で行われた論戦の激しさを物語っていた。

 一つ、奇妙なことがあった。

 半壊した壁から覘く小屋の内側――そこには、何一つ、色が無いのである。パソコン、壁紙、机、扉、マグカップの一つに至るまで、まるで色黒放送のテレビのように、全て無彩色で埋め尽くされていたのだ。


「うふふ、負けちゃったわね」

 湖畔では、若い女性が、たおやかな笑顔を浮かべて空を見上げていた。

 童女のような笑みを浮かべ、空を見上げ、湖を覗き込み、花を摘んでいる。

 彼女は、隣の少年に語りかけた。

「でも、貴方に負けることができて良かった――。

テレス君、ありがとう、やっと解ったわ。……これが、『色』なのね」

「ええ、マリーさん。これが、『色』です」

 無彩色の部屋に閉じこもり、色彩という概念のメカニズムを全て解き明かさんと研究を続けていた色彩学者のマリーは、この日、初めて本当の意味での色を理解したのだ。

 マリーはゆっくりと、己を取り囲む全てをゆっくりと指さす。

「この空の色が青、この花の色が赤、あのお日様の色が黄色、この葉っぱの色が緑――。

 本当に綺麗。こんなに長く色を研究してきたのに――ずっと気付かなかったのね。色の美しさに」

 テレスは、溜め息を漏らす。マリーに色というものを教えたくて、部屋で研究を続けようとするマリーと戦ったのだ。テレスにとって初めての本格的な論戦。本当に長く苦しい戦いだったけど、これで、全て報われた気分だ。

「ああ――空……陽の光……本当に、何て素晴らしいんでしょう」

 マリーはゆっくりと空に向かって両手を広げ――。

 そのまま、突然の落雷に撃たれて倒れ伏した。

「マリーさん! マリーさん! ……っ、誰がこんな酷いことを!」

 幸せそうな表情で、マリーは静かに絶命していた。この晴天で雷なんて落ちる筈がない。

 何者かによる論撃があったのだ。


 べちゃり、と、泥沼を歩くかのような足音が聞こえた。べちゃり、べちゃり、という水気のある足音はどんどんテレスの背後に近付いてくる。

 テレスはマリーの亡骸をそっと草の上に寝かせると、鋭い目つきで振り返った。

「……マリーさんを殺したのは、貴方ですか?」

 べちゃり。今泥沼から上がってきたばかりという風情の、小汚い男が、虚ろな瞳でテレスを見つめていた。

「か、か、雷を落したのは、お、俺だ。そ、そうか、彼女は死んでしまったのか……」

「ふざけているんですか! 貴方は!」

 テレスは激昂した。だがその瞬間――天から落ちた稲光が、男を貫いた。

 男は声も無く倒れた。テレスが慌てて駆け寄ると、既に絶命している。

「……どういうことなんだ、一体?」

「お、お、俺は死んでしまった。だが、こ、こ、ここに俺はいる。お、教えてくれ。俺は生きているのか、死んでいるのか?」 

 テレスの背後から声がした。反射的に振り返ると、今絶命した男と寸分変わらぬ男が、テレスの背後に立っていた。雷に打たれて絶命した男の亡骸は、そのままその場に横たわっている。

「貴方は一体、何者なんですか?」

「お、お、俺の名はスワンプマン。不死者スワンプマンと呼ばれている。お、俺が雷に打たれて死ぬ度に、しゅ、周囲の元素を使って、お、俺を構成していた元素配列と全く同じ形で、お、俺と同じものが複製されてしまうんだ。お、俺は今死んだ。今までに幾度となく死んだ。だが、こ、この俺は今生きている。教えてくれ。俺は生きているのか? 死んでいるのか? ――論理召喚、テセウスの船」

 こんな相手、どうしろというのか?

 テレスは泣きそうは気分で空を見上げた。マリーが見上げた青空は徐々に雨雲に覆われ、じき土砂降りの雨によって、周囲は泥沼のように変わるだろう。

 ――アリス、僕はどうすればいいんだろう?

 テレスは胸中でそっと、遠く離れた妹を思った。


次回予告!


 伝説の刃を目撃するアリス、オッカムの剃刀、伝説のその威力とは!?

 不死者スワンプマンと相対したテレス、果たして攻略法はあるのか!?


 第4話 アリスとテレス、絶対絶命!


 『哲学兄妹 アリスとテレスの大冒険』次回もお楽しみに! 



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 やっべー、怒られる、これは怒られるぞ。

 構想5分執筆30分。深夜アニメのノリでふざけ半分に書いてみたのだが、到底津久見の楽しめるような代物じゃあない。

 見ると、津久見はぷるぷると肩を震わせていた。まずい、爆発5秒前といった感じだ。早く逃げなければ……。

 踵を返してダッシュしようとした俺の手首を、津久見が掴んだ。

「ヒィィ!」

「佐伯先輩!」

「は、はいぃぃ!」

 津久見の勢いに、情けなくも敬語で返事をしてしまた。津久見は鋭い瞳で俺の目を覗き込むと、重々しい口調で言った。

「素晴らしい作品ですね。流石は先輩」

「えっ!? アリなのか!? おまえ的にはこれがありなのか~!?」

 親指を立てる津久見の肩を掴み、がくがくと前後に揺さぶった。

 本当に――こいつの趣味だけは、本当に解らない。




 これも鬼の撹乱と言うのだろうか。珍しく、最近津久見に元気が無い。『哲学的な彼氏小説』の進捗が良くないわけでも無さそうだし、何時かのように3ちゃんねるで作品が酷評されたようでも無さそうだ。 

 ただ理由もなく、部室でもぼーっとしていることが多いし、明らかに以前のような活気を失っていた。

 いつもは喧しいのでもう少し静かにして欲しいと常々思っていたのだが、いざだんまりを決め込み始めると、何か良からぬ病気にでも罹っているようで、これはこれで不気味である。別に津久見を心配するわけではないが――部の平穏のため、少しこいつを散歩に連れ出してみることにした。

 津久見を部室から連れ出しながら、いつもの癖で振り返る。引退間近の先輩二人は、いつものように読書に没頭しながらひらひらと手を振ってくれた。

 秋風吹く校庭の端で、津久見は所在無さげに鉄棒にぶら下がり、前転をして嘆息を漏らした。……やはり、尋常な様子ではない。

「なあ、おまえ最近何か悩んでること、あるんじゃないのか?」

 こいつ相手に回りくどい尋ね方をするのは面倒だ、単刀直入に聞くことにした。

「はい、最近悩まされることばっかりで……」

 津久見ももったいぶらず、真っ直ぐに言葉を返した。

「へえ、教えてみろよ」

 津久見は小さく深呼吸をして、重大ごとを打ち明けるかのように俺に漏らした。

「ねえ、先輩、私哲学に向いていないんでしょうか?」

 ……言いたいことは多かったが、俺は冷静に先を促した。

「バスケ部の子たちが、私にバスケ部に入った方がいい、っていうんです。作文もまともに書けないのに、文芸部なんて無理だって、バスケ部ならスターになれる、って」

 それは、俺が長らく懸案してきた事項でもあった。

「私、哲学の良さをみんなに知ってもらおうと思って、時々クラスのみんなに哲学の話をしたりするんです。でも、ちゃんと聞いて貰えたことはありませんでした。ほとんど興味ないよ、って感じで。良くてへーって聞き流す感じで」

 それはそうだろう。こいつのような偏執的な哲学好きがそうそう居る筈がない。そのクラスメイトの方が正常な反応だ。

「家族も言うんです。そんなもの勉強するより、学校の勉強をしなさい、って。学校の先生も、哲学じゃあ、なかなか大学行けないぞ、って。もしそれで大学に入れても、哲学なんか専攻したら、就職で凄く苦労することになるぞ、って」

 それも概ね親や教師が正解だ。――ついでに言うなら、俺が幾度も、哲学を勉強したいという津久見に教えたリスクでもある。

 津久見は辛そうに下を向いていた。

 つまりこいつは――この後に及んで、やっと少しだけ自分を、哲学をするということを客観視できるようになったということか。

 今まで何度も俺が注意してやったのに、ざまあみろ。そう言って嗤ってやりたいという黒い気持ちが、もぞりと腹の底に湧いた。しかし、肩を落とす津久見の姿を見ていると、そんな気持ちも、この秋の枯葉より脆く散り散りに飛散していった。

「中学でも、そうだったんですよ」

 津久見は、ぽつり、ぽつり、と先を続けた。

「バスケ仲間や、クラスメイト、みんなに興味を持って貰おうと思って、哲学を広めようとしたんですけど――興味をもってくれうる友達は居ませんでした。それどころか、哲学好きになって、失くしちゃった友達も何人もいます。その頃は、私も哲学にはまったばっかりで、強引に良さを伝えようとしちゃったこともありますから、半分は自業自得なんですけどね」

 津久見は、弱々しく笑って頬を掻いた。本音を言えば、津久見を才能にあった道に戻す、良い機会かもしれない。そんなことを俺は考え始めていた。だが。津久見は続けた。

「先輩が、初めてだったんです。

 文芸部に誘ってくれて、哲学の本を紹介してくれて、私の哲学の話を聞いてくれて、一緒に哲学の勉強をしてくれて――全部、先輩が初めてでした」

 ああ、こいつは馬鹿だ。

 馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、ここまで馬鹿とは思わなかった。

 あれだけ邪険にされても意地悪されても、哲学の本を持って俺の元にやってきたのは。

 ――本当に、他に頼る相手もいなかったのか。同好の士の一人も作れなかったのか。

「先輩は、結構意地悪さんでしたけど……いつも大事なとこは優しく教えてくれましたし、文芸部の蒲江先輩も、野津原先輩も、智ちゃん先生も、とっても素敵な人ばかりでした。だから、先輩には感謝しきれないぐらい感謝してるんですよ?」

 こっ恥ずかしい台詞を、臆面もなく正面からぶつけられて、気恥ずかしくて反射的に視線を逸らしてしまった。

「先輩は、本当に不思議な人ですね。オタクさんなのに、本を読むのは物凄く早いし、哲学のことだって、もしかして私より知ってるんじゃないかって思うことも何度もありました……」

「ちょっと待てやコラ」

 大人しく独白を聞くつもりが、堪えられずつい突っ込んでしまった。

「おまえ、もしかして未だに哲学知識で俺に勝ってるとか思ったりしてないよな? な?」

「ええっと、専攻分野なら流石に負けないだろうと思ってたんですが……」

「アホか! わざわざ口に出すことでも無いだろうからと黙ってたが、本当に気付かなかったのか? おまえの読んでる程度の入門書なら、とっくの昔に読破済みなんだよ! 哲学好きなら、実力差ぐらいには気付いてくれよ!」

「あうう、おかしいじゃないですか! 先輩はいつも漫画やラノベばっかり読んでるオタクさんなのに、何時の間にそんな難しい本を沢山読んだんですか?」

 ……そういえば、津久見視点からは俺はただのオタク野郎なのか。あいつが色々語ったんだ。俺も、少しだけ自分のことを話してみよう。

「俺の親はな、司書だったんだ。小さい頃は図書館が俺の遊び場だったよ。興味のある本や、親が薦めた名作の類は、小学生の頃に全部読み上げた」

 先輩方には前に話した、他愛もない無い昔話だ。

「凄い……先輩が本を読むのが早いのも当然ですね……でも、じゃあどうして先輩はライトノベルばっかり読むようになっちゃたんですか?」

 ほえ~と目を丸くしながら、津久見は俺に続きを促す。……少しだけ、いつものテンションが戻ってきた気がする。

「中学校の頃に友達に借りた涼官ハルミの憂鬱、それが面白くてなー、貪るように読んだよ。それから次々ラノベを梯子して……中学2年の頃には、すっかりラノベ中毒、今じゃあこの有り様だよ」

「普通の本は、全然読まなくなっちゃったんですか?」

「読んでるに決まってるだろ? ラノベは駄菓子感覚で読めるから、持ち歩くのには丁度いいんだよ」

「そんなに、ラノベが面白かったんですか?」

「ああ。勿論、純粋な小説としては、普通の本に劣ってる部分が多いのも承知してる。ボキャブラリーは貧弱だし、行間は多いし、テンプレな展開に終始してる作品ばかりだし、

ヒロインはどこかで見たような萌えキャラばかりだし……それでも、問答無用の迫力と、腹を抱えて笑える底抜けの明るさがあったんだな」

「本当に、先輩はラノベにはまっちゃったんですね」

「そうだな、経緯はおまえが哲学にはまった理由と似たようなもんだな?」

「はい……えっ?」

 津久見はきょとんとした表情で、俺の顔を見据えた。

「えーっと、先輩、どうしてご存じなんですか? 私、誰にも言ってないつもりだったんですけど……?」

「あ、カマかけてみたけど、当りだった?」

 意地悪い顔でピースサイン。うん。だんだんいつもの調子が戻ってきた気がする。

「ど、どして先輩が知ってるんですか? あ、もしかして、知ってるふりしてるだけじゃないんですか?」

「『ソフィーの世界』」

 その一言で、津久見は完全に息を飲んだ。

「何で? どうして先輩がそれを知ってるんですか? な~ん~で~?」

「簡単な推理だよ、ワトソン君」

 俺は自分の名推理を披露する。

「おまえは有名な哲学の入門書を何冊を持ち込んでいたが、ソフィーの世界はその中には無かった。また同様に、俺に解読を頼んだ本の中に存在しなかったな。

 何より、文芸部で哲学的な小説を書こうというのに、著名な哲学小説筆頭であるソフィーの世界に、おまえが触れないわけがない。

 人が何かを遠ざける場合に、理由は大まかに分けて三つある。一つは嫌悪。一つは無関心。もう一つは、極度の愛情だ。おまえは、軽々しく文芸部で題材として扱うのを嫌うほど、ソフィーの世界を大事にしてたわけだ」

 津久見はぽかんと俺の話を聞いていたが、にぱっ、と笑って降参とばかりに両手を上げた。それは、いつもの部室での笑顔だった。

「ご明答です。名探偵佐伯先輩! そこまで知ってるということは、当然先輩も……」

「ああ、小学生の頃に持ってたよ。だいぶ前に古本市に売っちまったけどな」

「うわ! 信じられません! あんな素敵な本を売っちゃうなんて……でもまあ、私もソフィーの世界を買ったのは古本市だったので、売った人を責めることなんてできませんけどね」

 そう言って、津久見は頭を掻いた。

「いつかのおまえのアイデア、実はこの世はコンピュータの中の世界だったオチ、あれもなんだかソフィーの匂いがするし、ヒントはいくらでもあったさ」

「本当に、先輩には敵いませんね……本当にその通りです。高校受験の時期に気分転換に読んだソフィーの世界が本当に面白くて、今まで自分が考えたこともないような哲学を山ほど考えさせられて、今でも少し解らないところがありますけど、中学生の私には解らないところだらけで、難しい言葉の意味を調べたりして……受験そっちのけで、哲学のファンになっちゃいました。こんなに一生懸命本を読んだのはこの本が初めてだったんです。はい、これが私の宝物、ソフィーの世界です」

 津久見は、ごそごそとトートバッグから一冊の古びた本を取り出した。一世を風靡した哲学小説、『ソフィーの世界』である。

 懐かしい装丁である。まるで皺や折れ目の入り方にまで既視感を覚えるような。

――……ん?

 ……――んん? ……あ。……あ!


「……津久見、その本を、早く鞄にしまうんだ」

「先輩?」

「しまうんだ」

「どうしたんですか、先輩、顔が真っ青ですよ。どこか体調でも悪いんですか」

「いや、そんなことはいいから、その本を――」

 しまえ、と言おうとした瞬間、なんともベタなタイミングで一陣の秋風が吹いた。

 俺は無神論者だが、この時ばかりは、悪意ある神か何かを信じてしまいそうな程の、最悪のタイミングだった。

 ぺらり、とソフィーの世界の表紙が捲れ上がる。慌てて津久見がそれを押さえる。

 そして、津久見は見た。

 本の表紙カバーの内側に書かれた、拙い文字のフルネーム。

 ――鉛筆書きの『佐伯真人』という名前を。

 津久見は自分の見たものが信じられないという様子で、名前と俺の顔の間を幾度か視線を往復させた。そして、暫しの黙考。ぱっと目を開いてぽんと手を打ち。

「あ~~~っ、この本、もしかして先輩が売っちゃったっていうソフィーの世界ですか?」

「……もしかしなくてもそうだよ、見て解らないか?」

「何だか、運命的なものを感じますね。先輩がこの本を売ってくれなかったら、私が哲学に興味を持つこともなくて、文芸部に入ることも無かったんですから」

 愛しげに、宝物のようにソフィーの世界を抱き締める。

 津久見の薄い胸に抱きしめられているソフィーの世界を見て、少しだけ胸の奥が疼いた。直接的な原因ではないし、責任も無いだろう。だが俺は、確かにこいつの人生に哲学という一石を投じる発端を作ったのだ。

 その事実は、もう変えられない。だが、これから先、哲学とどう付き合っていくかは、津久見が自分が決めるべきことなのだろう。

 表情に少しだけ不安げな陰りを見せて、津久見は問うた。

「ねえ、先輩……私、これからも哲学してもいいんでしょうか?」

 ……こいつは、本当に、つくづく馬鹿だ。そんなの、答えは決まっている。


「おまえ、哲学好きなんだろ? だったら、哲学する理由ぐらい自分で哲学しろ」


 津久見は雷に打たれたように立ち尽くしていたが、やがて満面の笑みを浮かべて頷いた。


「はいっ、自分で哲学します!」


 そしてこの不肖の後輩は、前を歩く俺の袖を、はにかみながらそっと掴む。


「先輩が売ったソフィーの世界のお陰で、私はこんなに哲学好きになっちゃいました。

 私がこんなに哲学が好きなのは、みんな、み~んな先輩のせいです。

 だから――これからもずっと、私の哲学に付き合って下さいね!」


(完

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哲学的な彼氏企画 竹尾 錬二 @orange-kinoko

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