トイレに紙がなくて途方にくれてたら彼女が出来ました

ニセ梶原康弘

トイレに紙がなくて途方にくれてたら彼女が出来ました

「きゅおぉ~ぐぎゅるるるるるぅ~」



入学式から間もない、うららかな春の昼下がり。

緑ヶ丘高校の教室の中で、地獄の番犬ケルベロスの唸り声にも似た不気味な音が風間将太のお腹から発したとき、彼は遂に観念しました。

苦渋に満ちて目を閉じた顔に悲壮な決意がみなぎります。


(授業が終わるまで25分。だがオレのお腹は持ってもあと2、3分……やむをえん、脱出作戦を開始せよ! )


カッと目を見開くと彼は教壇の先生に向かって手を上げました。


「どうした風間」

「すいません先生。具合が悪くて……保健室に行ってきてもいいですか? 」


先生は怪訝な顔になりましたが、情けない声と共に立ち上がった将太は本当に苦しそうで仮病ではなさそうです。


「ああ、いいけど大丈夫か? 顔色悪いぞ。おい保健委員、風間に付き添って行ってやれ」

「いやいいです、独りでいけます。大丈夫です」


先生の好意を力なく手を振って断ると、将太は教室の後ろのドアを開けてのろのろと廊下に出ました。

しかし廊下に出た途端、将太は凄い勢いで歩き出しました。


目指すは保健室ではなく校舎の南端、男子トイレ。

歩き出した彼の背後からは講義を再開した先生の声が聞こえてきました。


(よし、先生とクラスの連中はオレが頭痛でも起こしたと思ったようだ。何とか誤魔化せたな)


入学早々、「下痢で授業中の教室を飛び出した男」という情けない噂は立てられずにすみそうでしたが、まだ安心出来ません。

下半身の緊張を緩めないよう気を張りながら将太はゼンマイ仕掛けのロボット人形のような早歩きになりました。


(どうしてこんなことに……。平和を愛する人畜無害な一介の高校生に神よ、何故かくも酷い試練を与えたもうのかー!)


すると、将太の心の叫びに怒りを掻き立てられた腹中の魔獣がお腹から再び唸りを上げました。


(オウフ! すいません! 許して下さい! 調子ぶっこいて生意気言いましたッ! 今度トイレ掃除の当番が来たらちゃんと綺麗にします。だから助けてトイレの神様ー!)


脳内で神様をののしったり土下座したりてんやわんやしながらも将太はトイレへ向かって一路驀進してゆきました。




一方、彼が後にした教室では将太に続いて手を挙げた人がいました。


「先生、もしかしたら保健室に先生がいないかも知れません。職員室に呼びに行こうと思ったんですけどいいですか?」

「ん? ああ、そうだな。保健の先生がいなくて風間を職員室まで行かせるのは可哀想だしな。よし、じゃあ頼んでいいか?」

「わかりました」


そう言ってスッと立ち上がった人影。

その口元に、この世のものとは思えぬ不気味な笑みが浮かんでいたことに……教室の中の誰ひとり、気がついた者はいませんでした。






「ゼェゼェ……。た、助かった」


間一髪で破滅の危機を脱した将太は腰掛けた便座の上でホッと息をつきました。

レバーを回して轟々と流れる水の音が耳に心地よく響きます。


「入学早々お腹を壊すとは参ったぜ……。それにしても今日何かヘンなもん食ったっけ?」


安心すると、そんな疑問が心に浮かびました。


「まぁいい、詮索は後にしよう。とにかく用を足したら保健室に行ってアリバイ作らないと……」


ブツブツ独り言を呟きながら将太はトイレットペーパーに手を伸ばそうとして……思わず凍りつきました。

ない! ないのです! トイレットペーパーが! 


壁に備え付けられたホルダーに、トイレットペーパーの姿はどこにもなく、ロールの芯の両端を掛ける三角形のフックがただむなしく虚空を支えていました。

慌てて周囲を見回しますが、予備のトイレットペーパーは影も形も見当たりません。

将太は、思わず呻きました。


「嘘だろ……」


まさに絶体絶命。便座の上に座り込んだまま将太は頭を抱えました。


「あああああ何てこった……」


将太が途方にくれたとき、ふいにドアを隔てたトイレの外からフッフッフッフッ……という不気味な笑い声が聞こえてきました。


「だ、誰かそこにいるのか!?」

「フフフ……1年B組、風間将太。緑ヶ丘高校1年校舎のトイレへようこそ」


トイレの入口に立っていた声の主はコツコツコツ……と靴音を立てて歩み寄ると、将太のいる個室の扉の前で立ち止まりました。


「誰だ、お前は!?」

「フフフ……オレ様は、お前を地獄から迎えに来た悪魔の使いだ」

「悪魔の使いだと? 」

「オレ様のことはトイレの魔人とでも呼んでもらおうか、クックックッ」


(なんだコイツ、電波の入った厨二病のイカれぽんちか? )


トイレの中でドン引きした将太でしたが、魔人の次の言葉に思わず色めき立ちました。


「風間将太、授業中に不意に襲い掛かった下痢を巧みに隠蔽しつつ教室を抜け出し、間一髪トイレに間に合って良かったな。だが、今、何かお困りではないかな?」

「何っ?」

「そこにトイレットペーパーはおありかな? クックックッ……」

「き、貴様……さては前もって隠しておいたな! 」

「クックックッ、飛んで火にいる夏の虫とはまさにお前のことよ」

「おい、悪ふざけはよせッ! トイレットペーパーを寄越すんだ!」

「断る」

「何っ!?」

「紙がなくては動けまい。その状態であと19分が経過すればどうなると思う」


将太はハッとしました。


「授業が終わる。そうなったら……」

「トイレに来た他の生徒どもにお前の醜態は知れ渡るだろう。そのブザマな話はたちまち校内に広がり、お前は『紙に見捨てられた哀れな男』と後ろ指を指され暗闇に彩られた不遇な高校生活を送ることになるだろう、クックックッ……アーハハハハハハ!」

「うわああああああああああ!」


将太は、嘲るように哄笑を続ける戸外の男に「助けてくれっ!」と泣きつきました。


「まぁ落ち着け。貴様が破滅を迎えるまでまだ19分の猶予がある。その間にオレからひとつ話をしてやろう」

「話?」

「まずは種明かしをしてやる。お前の腹痛だがな、フフフ……昼休みの間に貴様の机の中に入っていたクッキーがその仕掛けだったのだ」

「何ぃ!?」


将太は思い出しました。

学生食堂で昼休みを過ごし、教室に戻ってみると自分の机の中にかわいらしいリボンでラッピングされたクッキーの小さな包みが置いてあったのです。

包みを解くと美味しそうなクッキーと『風間くんへ、生菓子なので今すぐ食べて下さい』と書かれたカードが出てきました。将太は(もしかして俺のことを好きな女の子がこのクラスにいるのかな?)とニヤけ顔でクッキーを口に放り込んだのでした。

それが、まさか罠だったとは……将太は唇を噛み締めました。


「貴様……何の為にそんな卑怯な真似を!」

「おっと、オレ様にそんな生意気な口が利けるのか? お前を破滅から救うトイレットペーパーは今、オレ様の手にあるのだがな」

「お、おのれ……」


将太は怒りに身を震わせましたが、我が身を破滅から救う唯一の手段を握られている以上、手も足も出ません。


「クックック……大人しくなったな。では話を始めるとしよう」

「……」

「まず、お前をこの窮地に追い込んだ理由は他でもない。制裁を与えるためだ!」

「制裁だと? 」

「お前は昨日、1年B組の女子、涼美ヶ原瑠璃にラブレターを出したそうだな」

「ん? ああ、それは確かに出したが……」

「何故そんな真似をした? 」


いきなり妙なことを聞き出したな、と思ったものの将太は神妙に答えました。


「ああ、実は始業式の日にクラスの担任が男か女かで友達と賭けをして負けてしまったんだ。で、罰ゲームの約束が涼美ヶ原さんに告白するということだった」

「何故、涼美ヶ原だったのだ?」

「たまたま髪が長くて綺麗な娘だなって友達と噂してたからな。まあ、突然付き合ってくれなんて引かれるだけだと思って手紙にした。昨日の放課後下駄箱に入れたが返事はなかったから無視されたんじゃないかな。でも、これで罰ゲームはちゃんと果たし……」


言い終わらないうちに

「たわけーー!!」

と、雷鳴にも似た怒号がトイレの中に響き渡りました。


「愚かなり、風間将太! 涼美ヶ原瑠璃は先日行われたミス1年B組の人気投票で堂々1位に輝いた美貌の持ち主。彼女に対して期待もしないラブレターなど不届き千万! その罪は万死に値する! 身の程を思い知れぃ!」

「ま、待てよ。そりゃいい加減なのは悪かったけどさ、手紙にはこれは罰ゲームで出した奴だから本気にしないでねってちゃんと書いて謝ったよ。そこまで怒ることないだろ? それに、せっかく高校生になったんだから出来たら彼氏彼女の一人ぐらいやっぱり欲しいじゃないか。フラれたところで、それも青春の蹉跌のひとつってことで」


怒号を浴びた将太は平均的な高校生の一般論で反論しましたが、ドアの向こうに立った謎の人物は怯むけぶりすらありません。


「ホザけ小僧! 世の中にはな、ちょっとした不注意が巡り巡ってトンでもない大惨事になってしまうことがあるのだ。貴様、将来サウジアラビアでタバコをポイ捨てして油田を燃やすようなことにでもなったらどうする? そしてそれが地球温暖化に拍車を掛け、世界を滅亡させる結果へと続いたら……。うむ、やはり未来に禍根を生む災いの芽は早いうちに摘み取っておかねばならん」

「おい、勝手に一人で納得してるんじゃねえ。オレが涼美ヶ原さんにフラれたところでクラスの笑い者になるだけの話だろ。それがなんで世界が滅亡する未来に飛躍するんだ」


強引な理論展開に思わず反発した将太でしたが、魔人は逆ギレのように吼えました。


「ええい、黙れ黙れっ! お前の軽はずみな行動は、お前の知らないところでこの高校内の人間関係に亀裂をもたらしかねんのだ。断じて看過出来ん。そこでだ、お前の出したラブレターはオレ様の手で揉み消し工作をさせてもらった!」

「ええっ! でもどうやって? 」

「フフフ……実はオレ様がお前に成り代わって手紙を書いておいたのだ。『僕は実は夢遊病で、授業中居眠りしている間に勝手に君に手紙を書いて出しました、すみません。今度グーで殴って下さい』という文面でな」

「人を勝手に夢遊病なんかにすんなよ! しょっぱい言い訳までしやがって」

「罰ゲームで軽薄なラブレターなど書きおるハナタレ小僧が偉そうに抜かすでないわ! むぅ、反省する様子もないようなら、やはりトイレットペーパーのお慈悲など貴様に必要ないということだな!」

「うわぁいけねぇ、忘れてた!」


将太は真っ青になりました。


「すみません魔人様、オレが悪うございました! だからどうかトイレットペーパーを恵んで下さい!」


将太が必死に謝ると、扉の向こうで魔人が満足そうに笑いました。


「クックックッ……己の立場をようやくわきまえたようだな、風間将太!」

「ひーーっ!」


人を罠にかけて脅迫するわ、屁理屈で説教するわ、ラブレターに酷いアフターフォローするわ、ムチャクチャですが今はひたすら下手に出るしかありません。

ところが、魔人は笑いを納めると、また妙なことを言い出しました。


「だがな、せっかくの高校生活、青春を謳歌したいというお前の主張は共感出来ないこともない」

「そ、そうか?」

「うむ。そこでだ、涼美ヶ原瑠璃という緑ヶ丘高校有数の美少女を彼女になどと身分をわきまえぬ振る舞いこそ断じて許さんが、代わりに良い縁を紹介してやろう」

「良い縁とはトイレットペーパーですか? トイレットペーパーがいいです。トイレットペーパーを恵んで下さい。涼美ヶ原さんは諦めますからどうかトイレットペーパーを……」


言い終わらないうちに

「たわけーー! ! 」

雷鳴にも似た怒号が再びトイレの中にこだましました。


「愚かなり、風間将太! 目先の欲に駆られて幸運を自ら手放すとはとんだ浅はか者。トイレの洗浄水で顔でも洗って我が身を恥じるが良いわ! 」

「ひ、ひでえ、そこまで言うか! そりゃ青春したいとは言ったけど今オレが欲しいのは彼女じゃなくてトイレットペーパーなんだってば。現に紙がなくてここから動けないんだし、そうしたのはあんたじゃないか。本当に困ってるんだからさ、頼むよ魔人様ぁ」


またもや魔人を激昂させてしまった将太は、切々と訴えましたが、魔人にはこれっぽっちも通じませんでした。


「ふん、情けない奴め、貴様の泣き言など聞く耳持たぬわ。話は最後まで聞けぃ!」

「ううっ……」


魔人は一方的に話を進めてゆきます。


「さて風間将太。この緑ヶ丘高校の入学試験の日のことを思い出してみるがいい」

「うん?」

「貴様はあの日試験に遅れそうだったらしいな」

「あ、ああ。実は緊張してさっきみたいにお腹を壊してな、家を出るのがすっかり遅れてタクシーを拾って何とか間に合った。だがそれがどうかしたのか?」


まだ中学生だった貴様がタクシーとは何様だ! と、怒号を覚悟した将太でしたが、意外にも魔人は穏やかに尋ねました。


「そのときお前は、同じように試験に遅れそうだった女生徒を助けてやったそうだな」

「ああ、そういえば……」


将太は思い出しました。

あのとき、タクシーの後部座席でソワソワしていた彼は、道路脇の歩道を泣きながら歩いている中学生らしい女の子を見つけ、もしやと思ってタクシーを止めさせたのです。


『あのさぁ! もしかして緑ヶ丘高校の試験を受けに行くの?』


タクシーのウィンドウを下げて大声で呼びかけると、女の子は涙を袖で拭って頷きました。


『じゃあ、急いで乗って! 多分まだ間に合うよ!』


将太はタクシーのドアを開けさせると女の子を手招きして乗せたのです。

そして……



「うん、確かにそんなことがあった。あの娘、タクシーの中でガクガク震えていたから見かねて自分のお守りまであげたっけなぁ」

「それからどうした」

「時間ギリギリでタクシーが間に合って、そのまま試験会場へ走って席に着いたよ」

「娘はどうした」

「どうって……名前は知らないし、合格したかも分からないからそれっきり……」


言い終わらないうちに

「たわけーー!!」

と、雷鳴にも似た怒号が三たびトイレの中に響き渡りました。


「愚かなり、風間将太! どこまで愚かなのだ貴様は! それほどの恩を受けた娘だぞ。貴様の好意を無駄にしまいと試験に必死に挑み、合格したと想像出来ただろうが!」

「ま、待てよ。普通そこまで想像出来ねえってば! そりゃ、せっかく間に合ったからお互い合格出来たらいいなーぐらいは思ったけどさ……」


ドアの向こうから呆れたようなため息が聞こえました。


「お前は知るまい。その娘はな、この緑ヶ丘高校に合格した後もお前のことが忘れられず、ずっと探していたのだぞ」

「え……?」


思いがけないことを告げられ、将太は驚きました。


「放課後になると正門の脇に立ってな、下校する生徒達の中にお前がいないかと探していたのだ」

「……」

「毎日、日が暮れるまでな……」

「そ、そうだったのか……」


さすがに将太も気の毒になりました。


「それは……知らなかったとはいえ、かわいそうなことをした。すまない」

「オレ様に謝っても仕方あるまい。それにしても彼女は何故お前を見つけられなかったのだろう?」

「オレは毎日裏門を通って通学してるんだ。正門からだと少しだけ遠回りになるからさ。だから出会えなかったんだ」

「そ、そうか……そういうことなら、これはお前が悪いとは言えんな」


魔人は少し毒気を抜かれたようでしたが、咳払いをして気を取り直すと「それでだ」と続けました。


「青春を謳歌したいというならその娘を彼女にしろ。その娘以外は許さん。いいな」

「ま、待て待て、勝手に決めるな。向こうが迷惑するかも知れないだろ。それこそ涼美ヶ原さんのことと同じじゃないか。第一オレはその娘の名前も知らないんだし」

「……砂河優理。北中学出身で1年D組。身長147センチ、体重および3サイズは公開不可、血液型B型」

「その娘のこと知ってるのか? へえ、名前は砂河さんと言うのか……」

「趣味はお菓子作りとサイクリング、得意科目は古文、不得手科目は化学、1年D組での女子人気投票順位は20人中3位、彼氏あり。東中出身1年B組、風間将太」

「勝手に決めるなよ!」

「小僧、この期に及んで何を遠慮している、フハハハハハ!」

「してねえって! 人の話を少しは聞けよ!」

「貴様の話など聞く気はさらさらない。で、オレ様が貴様に成り代わって今朝手紙を出しておいた。『君はきっと試験に合格したと信じていました。実はタクシーから君に声を掛けた時からずっと君のことが気になっていたのです。どうか、僕の彼女になって下さい。放課後に正門脇で待っています』という文面でな」

「勝手に手紙を偽造すんなよ! しょっぱい告白までしやがって」

「これから青春を謳歌しようとする男子高校生が細かいことをいちいち気にするな」


あまりの傍若無人ぶりに、将太は半ば怒りを通り越して呆れてしまいました。


「お、お前はどこまで自分勝手に話を進めりゃ気が済むんだ!」

「ほう、どこまでもオレ様に逆らうというのか? いい度胸だ、クックックッ……だが、いつまでも悠長なことを言っていられるのかな? 終業のタイムリミットまであと5分を切ったぞ」

「げえっ!」


腕時計を見た将太は驚愕しました。

ムキになって魔人と対決しているうちに、すっかり時間を忘れていたのです。


「やはりトイレットペーパーのお慈悲など貴様には必要なかったか。ま、それもよかろう。これも貴様の言う青春の蹉跌のひとつという奴か。クハハハハ!」


高らかな哄笑と共に、魔人の声は次第に遠ざかってゆきます。

いよいよ人生の崖っぷちに立った将太は、慌てて呼びかけました。


「お、おい待て魔人! 待ってくれ!」

「待たぬ。助けなど必要ないならオレ様の話はこれで終わりだ。運命にその身を委ね、緑ヶ丘高校に青春の虚しきあだ花を咲かせるがいい。さらばだ、風間将太……」


その声を聞いた将太は、遂に叫びました。


「わかった! ……放課後に正門脇に行けばいいんだろ! 何でも言うことを聞くから助けてくれ! オレにトイレットペーパーを恵んでくれぇぇぇぇ!」


脅迫に屈した彼の哀願に対し、ドアの向こうからは勝ち誇ったような悪魔のような笑い声がひとしきり響き渡りました。


「クックックッ……わかったか、貴様に最初から選択肢や拒否権などないのだ!」


もはや反駁する気力もなく将太ががっくりうなだれていると「ちょっと待ってろ」という声がして何やらゴソゴソと音がしました。

見上げると、トイレ掃除のモップに引っ掛けられたビニール袋が、トイレのドアと天井の隙間からそろそろと差し入れられてきます。


「ああ……」


受け取って検めたビニール袋の中には、喉から手が出るほど欲しかったトイレットペーパーが2つ、それに小さな消臭スプレーと正露丸の詰まった小瓶までもがご丁寧に入っています。


憤懣やるかたない将太でしたが、かくして地獄のような修羅場にようやく終止符を打つことが出来たのでした。

扉を開けトイレの個室から出たとき、魔人の姿はもはやどこにもありませんでした。


(一体奴は何者だったんだろう。まるで悪夢でも見ていたような気がする)


彼の目的も正体も、すべては謎のまま。

ぼう然となって立ち尽くす将太を現実に引き戻すかのように、やがて終業の鐘が厳かに鳴り響いたのでした……





放課後。将太は帰り支度を済ませて正門へと向かいました。

魔人の思い通りになどしたくありません。だけど約束を守らないとどんな報復が待っているのか考えると、しぶしぶ従うしかなかったのです。


しょんぼりして教室を出ようとする将太の姿を見て、クラスメイト達からは「頭痛そんなに酷いのか?」「大丈夫?」と心配されました。

そんな中、涼美ヶ原瑠璃がつと彼に近寄ると小声で話し掛けました。


「風間くん、わたし手紙のことなら気にしてないし、夢遊病のことは誰にも言わないから心配しないでね」


しかし、どこかで魔人が聞き耳を立てているようで下手に誤解も解けません。

力なく笑って「ありがとう」と当たり障りなく言うと、涼美ヶ原瑠璃は親指をビッと立てて「頑張れ!」と笑いかけてくれました。

が、それは作り笑顔だったのか「ニコッ」というより「ニタァ」という擬音が似合いそうな不気味な笑顔で、思わずギョッとなってしまいました。

そして、その笑顔の意味に、このとき将太が気づくはずもありませんでした……。




肩を落とし、ため息をつきながら玄関の下駄箱で靴に履き替えていると、みかん色をした夕焼けの光がやさしく差し込んできます。

将太はトボトボと正門まで歩いてくると門柱の脇に背中をもたれて、約束通り、待ち始めました。

目の前を同じ緑ヶ丘高の生徒たちが三々五々と帰宅してゆきます。

背後からは、校庭で部活動をしている生徒たちの元気な掛け声がしていました。


(今日はさんざんな一日だったな……)


ぼんやりしながら将太が大きくため息をついた、その時でした。


「あっ、あの……風間さんですか?」


かわいらしい声に振り向くと、見覚えのある女の子が立っていました。


「あ、キミは確かあの時の……」


トイレの中で魔人に言われていたので、将太はすぐに見当がつきました。

栗色でサラサラの髪に可愛らしい目鼻立ち。カバンには、彼があげたお守りが付いて揺れています。

あの時は試験に間に合うかどうかの瀬戸際でそれどころではありませんでしたが、こうして落ち着いて見ると、とてもかわいい女の子です。


「砂河優理です。お手紙ありがとうございます! とても嬉しかったです。私もずっと風間くんを探していました」

「いや、あの……」


実はあの手紙は偽造されたもので書いた奴は……とモゴモゴ言いかけた将太は突然ハッとなりました。


(そういえば魔人の奴、この娘にやたら詳しかったぞ)


もしかしたら何か手がかりが掴めるかも知れない、と思った将太は尋ねてみました。


「砂河さん、いきなりヘンなこと聞いてゴメンね。友達にさ、屁理屈を捏ねるのが上手で強引で人の話を聞かない人って……いる?」

「ええっ!? うーん……」


優理は眉を寄せ、鼻の上に人差し指を乗せてしばらく考え込みましたが


「あ、でもどうしてそんなこと聞くんですか?」


と、逆に尋ねられました。


「あーいや……その、実は」


午後の授業中に下痢に襲われてトイレで紙がなくてソイツに脅迫されて……と、情けない出来事を洗いざらい話す訳にもいきません。

将太は「実は、あの手紙は知らない奴がオレに代わって出したんだけど、ソイツが誰か分からなくってね」と取り繕いました。


「気になるんですか? その人が誰なのか」

「うん。その……とても強引で人の話を聞かないような奴だったんでね」


優理は誰かの顔を思い出したのか、「むむっ」と虚空をかわいらしく睨みましたが、目の前の将太に気がつくと慌てて


「べ、別にいいじゃないですか!」


笑顔になって将太の手を取りました。


「その人のおかげでこうやって会わせてもらえたんだもの。それに、風間くんの気持ちも聞くことも出来ました。とっても嬉しいです」

「そ、そう? 」

「ええ。とりあえず彼女として、これからお付き合いよろしくお願いします!」

「う、うん……」


成り行きとはいえ、かわいい女の子にそう言われて嬉しくないはずがありません。

いろいろ酷い目には遭ったけれどこれで良かったのかもな、と思った将太は、だんだん魔人の正体はこの際どうでもいいかという気持ちになってきました。


「じゃあ、とりあえず一緒に帰ろうか」


将太が話していると突然、砂河優理の胸から「ヴーッ、ヴーッ」とバイブの振動音がして、彼女は胸ポケットから携帯電話を取り出しました。


「あっ、ち、ちょっと待ってて下さいね!」


携帯の画面を見た優理は、何やら狼狽した様子で将太に手を振ると少し離れた場所で携帯を耳に当てました。


『あ、優理ぃ。どう? 上手くいった?』

「う、うん……風間くん確かに来てくれたけど」

『え、何かマズいことでもあった?』

「いや、そうじゃなくて……瑠璃ちゃん、あの手紙はあなたが勝手に書いたでしょ。風間くん、すごく困ってるみたいだったよ」


電話の向こう側はギクッとなったらしく、気まずい沈黙の後“スヒュ~ヒュ~♪”というわざとらしい口笛が聴こえてきました。


「瑠璃ちゃん!」

『ハイ、ゴメンナサイ』

「もうっ、ゴメンナサイじゃなーい! それでわたしが風間くんに嫌われたらどうするの!」

『いやぁ、ハッハッハッ……で、風間くん怒ってる様子なかった?』

「怒る? 瑠璃ちゃん、まさか風間くんを何か怒らせるようなことまでしたの!?」

『し、してないしてない。これっぽっちもしてない!』

「……本当でしょうね」

『ほ、本当だよ! 本当だってばぁ! だからその……私の正体がバレないように扉越しに話をしてさ、手紙勝手に書いたけど悪気はなかったんだよーとか説明したの』

「……それで風間くんが怒ったらどうするつもりだったの?」

『そ、それは……そんなことよりもっと大事なことがあるじゃないの!』

「……」


電話を掛けて来た中学時代からの親友、涼美ヶ原瑠璃があからさまに話題を変えてきたのを聞きながら、優理は大きなため息をつきました。


『いやぁ、風間くんから手紙もらったって優理に話した時に、コイツだよって隠し撮りした写メをあなたに見せたらさぁ、あのとき優理を助けてくれた人って言うじゃないの。びっくりしたわよ』

「う、うん」

『優理が一目惚れした王子様だし、これは何としても彼をその気にさせて出会わせなきゃって私、頑張ったんだよ! 怒らないでよ。むしろ感謝してよー』

「それは本当に感謝してるけど……瑠璃ちゃん、風間くんに何かひどいことしなかった? 渋い顔で誰か心当たりないかって聞かれたわよ」


電話の向こう側はまたもやギクッとなったらしく、気まずい沈黙の後“スヒュ~ヒュ~♪”というわざとらしい口笛が再び聴こえてきました。


「瑠璃ちゃん!」

『ハイ、ゴメンナサイ』

「もう、しょうがないなぁ……。でも瑠璃ちゃんすごいね。風間くん、瑠璃ちゃんの声を聞いても誰かわからなかったみたいだよ」

『へへへ、あたぼうよ! 伊達に演劇部で七色ボイスのルーキーなんて呼ばれてないぜ!』

「うん。本当にありがとう」

『おう、優理のスィートカップルをこれからも熱烈応援してやるぜ! よーし、じゃあさっそく……』

「余計なことしないでいいから! もう充分だから! ありがとじゃあねっ」


携帯電話を慌てて切ると、優理は頭を振りました。


(瑠璃ちゃんってば、何でコイバナを聞くと青春だぜヒャッハーって突っ走っちゃうんだろ。黙って大人しくしてたら清楚なお嬢様なのに……)

(あの様子じゃ何かやっちゃったみたいだし、瑠璃ちゃんのことは風間くんに話せないなぁ)


ため息をつくと優理は気を取り直し、将太の元に駆け戻りました。


「風間くん、お待たせ!」

「電話、もういいの?」

「うん」

「じゃあ、帰ろうか」


将太は照れながら手を差し出し、優理は頬を赤らめると手を繋ごうとした――そのときでした。


『こんぐらちゅれーしょんっ、風間将太ァ!!』


校庭に、忘れもしないあの声が響き渡り、びっくり仰天した将太は「どわぁーーーーっ!」 と、奇声を上げて飛び上がりました。

振り返ると、緑ヶ丘高校の野外スピーカーからあの悪魔のような魔人の笑い声が聞こえてくるではありませんか!

校庭でクラブ活動をしていた部員達も驚いて練習の手を止め、スピーカーを見ました。


『出会いは大切にするがいい! それとトイレに入るときはトイレットペーパーを忘れずにな! フハハハハハハハ!』


魔人はどうやら学校の放送室に入り込んだらしく、学校内にその不気味な笑い声が木霊していました。校舎の中に残っている生徒達の驚愕したざわめきが外にも聞こえてきます。

しかし、そんな騒ぎ声などものともせず、魔人の怒涛の演説が始まりました。


『聞け、緑ヶ丘高校のへなちょこ生徒ども! いま1組の男女がカップルとしてささやかな恋のスタートラインに立った! 讃えよ、緑ヶ丘に咲いた麗しき恋の花を!』


アゴを落とした将太は手にしたカバンをバタリと落とし、優理は「瑠璃ちゃんやりすぎだよ……」と頭を抱えてしゃがみ込みました。

しかし、ぼう然となった当の2人をよそに魔人の演説は続きます。


『諸君! この高校三年間は長い人生の中のひとときのうたかたにしか過ぎぬ。無味乾燥な勉学だけで後悔するなかれ! この学び舎は、我等が社会を背負って雄々しく立ち上がる為の修練の場。だが同時に先達を尊び、友情を育み、尊き愛なるを知る楽園なるぞ! 研鑽に邁進し戦うべし! 立てよ、緑ヶ丘高校の若き勇者たち!』


思わずあちこちから笑い声が漏れて「いいぞー!」と声援まで飛びました。


『いま、この日本社会は重大な危機に直面している! 』


声援まで受けて調子に乗った魔人の演説は絶好調、ついに社会を語り始めました! 


『非道な社会犯罪の横行、周辺国との軋轢、多大な負債の国家経済、歪んだブラック企業の跳梁跋扈、いずれ社会に出る我等を待ち受ける敵は邪悪にして巨大なり。だが、怯んではならぬ! 淀んだ社会の悪癖に正義の鉄槌を下し、未来への扉を開くは我等の崇高なる使命なのである!』


演説の途中から「こらぁ、何をしている! ここを開けろ、開けんかぁ!」という先生の叫びとコブシでドアを乱打する音がかすかに聞こえてきて、生徒達の笑いを更に誘いました。

どうやら魔人は許可も取らずに校内放送室に忍び込み、鍵を閉めて勝手に放送を始めていたようです。


『諸君、我が演説はここまでだ! 心なき教師がまもなくこの放送室に突入し、放送は終わるだろう。我が名言を未来への指標にされんことを心より願う! 緑ヶ丘高校に栄光あれ! オレたちの青春はこれからだー!』


打ち切り漫画の最終回みたいな台詞と同時に、合鍵を使って先生たちが放送室に飛び込んだらしく、物が落ちる音やマイクのハウリング音に混じって『涼美ヶ原、貴様かぁ!』『ぎゃー先生、名前を呼ばないでぇ!』『ここで何をしていた!』『こ、これには深い訳がー!』という怒鳴り声や悲鳴が聞こえてきました。

校舎の中や校庭の生徒たちは、もう誰も彼も腹を抱えて大爆笑です。


「魔人の正体って涼美ヶ原さんだったのか。それにしてもさっきの演説は一体……」


ポカンとなって突っ立っていた将太はふいに手を引っ張られて我に返りました。

見ると、顔を真っ赤にした砂河優理が、手を繋いだまま強引に学校から出ようとしています。


「将太くん、もう行きましょ」

「いや、でもさ……」

「いいからっ!」


優理はプリプリしながら将太の手を引っ張って足早に歩き出しました。

2人の背後では、生徒達の爆笑に混じってスピーカーから「どういうつもりだ!」という先生の怒号やら「優理ぃ助けてー!」という悲鳴やら……阿鼻叫喚の大騒ぎがまだ続いています。


「瑠璃ちゃんったら……もう口きいてあげない!」

「砂河さん、あの……助けを呼ばれてるみたいだけど」

「知らない! 知らないわよ、もうっ!」

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トイレに紙がなくて途方にくれてたら彼女が出来ました ニセ梶原康弘 @kaji_dasreich

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