第3話 人魚姫投身自殺事件

 その日私は全身を湯に浸らせていた。つまりはお風呂で、つまりは癒しの空間だ。何時でも何処でも妹が現れては場を引っ掻き回す故に、私はこういったプライベートな時間が無い身分だった。だからこそ、一人の時間は大切だ。体だけでなく心も洗わなくては。

 そうやって心穏やかお風呂に浸かっていると、突如ドアが開いた。

 妹である。

 当然の様に扉の前で仁王立ちするは私の妹である。

 私は何時ものごとく無視を選択するべきだったのだろうが、さすがにその姿を無視は出来なかった。前にも言ったように、妹の裸なんてただの嫌がらせだ。その光景を見た瞬間、私の表情筋は苦笑いを形成した。その苦笑いをみて、しかし妹はにっこり笑う。

 どこか嘲笑っている様にも見えるのは、何故だろう。

「サービスシーンで御座いますお兄様!やはり、同人誌には必須かと考えました。そもそも童話というのはエロスティックなものに御座います。故にこれを読んでいる皆ざまも当然エロスの権化。エロは望まれたものなのです!まあ、とはいえエロは世間から冷たい目で見られるものですから、童話もそういうエロは削除されてしまった訳ですが。おそらく私の裸体も読者の皆様には十全には見えないのでしょうね。ざーんねん」

 読者とやらは全くわからないし、そんなもの存在する訳ないと思うのだが、しかし今だけはその読者という立場の人間が羨ましく思えた。十全に見せられている私の立場と入れ替えて欲しい。

「おい、妹よ。いいから外に………」

「お兄様、人魚姫が死んでしまったのです。ナイフではなく、落下死で」

「………」

 このままだと、お風呂場のままに妹が話し始めかねない。そうなると、全裸の彼女を見続けるハメになるだろう。本気で嫌だ。全力で拒否だ。私は久しぶりに脳みそをフル回転させて、どうにか妹を外に弾き出す策を考える。

「………………あれだ、妹よ。人魚姫でヌードが出るのは、声を失った人魚が陸に打ち上げられる所だけだ。お前は一言も話せなくなるが、それでいいか」

「駄目ですわ!?」

 くっ、成長なさいましたねお兄様、という捨てセリフを吐いて―――今の状況だと私のヌードを見て成長云々を言っている様で嫌だ―――すごすごと去っていった。危機は去った。けれど人魚姫はまだ残されている。やれやれとしか言えない。また折り合いをつけないといけないのだろうな。リフレッシュの機会を捨てて、私もまたすごすごとお風呂場から退出するのだった。

 ところ変わって風呂場前の廊下、妹はきちんと服を着て体操座りで待っていた。

「よくいい子にしていたな」

「水に潜って貞子ごっこをしたかったですわ………」

「いや、貞子は知らないが」

 また妹の頭の中にある世界だけの話をしているらしい。ご苦労な事である。

「もう、お兄様。人魚姫が自殺したんです」

 童話の登場人物が突然死にました!というのはもはやうちの妹のお決まりのパターンだが、今回は少しおかしい。そもそも人魚姫は自殺するものだ。どんなお話でも、それは変わらない。故に、何もおかしくはない。何もおかしくないから、おかしい。

「いえ、ですから、ナイフで首を刺したとかではなく、投身自殺。つまる所は、飛び降りです」

 私が適当な事を考えていると、その考えを読んだのか妹はすぐに訂正した。そういえばそんな事を言っていた様な。

「どちらにしろ、人魚姫がやるとやけに絵になるな」

「ええ、それはつまり、彼女が悲運を望まれているという事です。作者からも、読者からも、誰からも」

 自殺という運命にある人魚姫だが、私がそのお話を読む限りでは、実の所、彼女が死ぬ意味は薄い。王子様の血があれば人魚に戻れる。そう言われてナイフを渡されるが、しかし彼女は王子を殺せないので死を選んだ。ここで死を選ぶ意味、それはただの彼女の絶望。愛されない悲しみにしかない。

 狂っているのだ。実に。人魚姫は狂っている。

 わが妹の様に、狂している。

「人魚姫の気持ちが痛い程に分かってしまいます。お兄様。王子様に見向きもされない絶望に比べれば、ナイフなんて、これは全く痛くないのです。泡になっても、構わないのです。ですが、今回はまた少し違ったお話、飛び降り自殺なのです………人魚姫は王子を刺しました」

「え?」

「ですから、刺しました。刺したのです。王子様を。魔法のナイフで。そして、人魚に戻れるとわかった彼女は大きな崖から海に飛び込んだのです。そして頭部を強く打ち、死にました」

 どうやら今回の人魚姫は中々に思い切った女性らしい。まさか刺すとは。これもまた愛の形とでも言うのだろうか。いや、完全に自己保身の為に刺している。愛は愛でも自己愛だ。

「ふーん、実に人間的じゃないか」

「そうでしょうかお兄様。殺すのと、死ぬの、どっちが狂っているのか、お兄様には分かりますか?いいえ、これは関係のないお話でした。ええ、人魚姫です。人魚に戻ったはずなのに、海に飛び込んで、しかし死んだのです。王子様の血は潤沢にナイフに通っていたというのに」

 人魚になった彼女は、海がいわば住処だ。それなのに、海に飛び込んで死ぬというのは、些か奇妙だ。今まで変な話しばかり聞かされてきた私だが、今回は何やら不気味な奇妙さがある。

「海にある岩礁にでもぶつかったんじゃないか」

「『岩に激突した訳ではありません』人魚姫はちゃんとそれを確認していました」

「さっきからやけに計画性のある人魚様だ………魔法のナイフって言ったけれど、どんな魔法が?」

「それは三つ『姿の消える消失魔法』『身を守るバリアー魔法』『火をつける魔法』。消える魔法は足の先から頭の先まで、においも気配も姿も完全完璧に消して、見えなくなります。まるで裸の王様の服の様に。バリアー魔法は優しい防壁となって空間に張り付いて姫を守ります。まるで雪の女王の氷壁の様に。火をつける魔法は彼女の情念を持って燃え続けるでしょう。まるでマッチ売りの少女のマッチの様に」

 裸の王様。雪の女王。マッチ売りの少女。

 妹の例えるそれらの童話達は全てハンス・クリスチャン・アンデルセンの作品だ。彼の作風は彼の生い立ちに。生き方に、強く影響されている。貧しい家に生まれたアンデルセンは、その後も目指した夢を幾度となく挫折する。ようやく詩人として世間から認められたとき、彼は三十だった。彼の作品はそんな屈折の人生をそのままに投影した様なものばかりだ。どれもよく共通している事柄、それは嘆きからの脱出は死しかありえないという事。ただそれだけ。

 アンデルセン、彼は誰のために本を書いているのでもなく、まるで自分の為だけに本を書いている様な作家だった。

「かの作家は、そして最後、初恋の相手からの手紙を握り締めて死んだそうです。お兄様、童話の結末が変わるという事だけはありえないのですね。どんな悲劇だって、作家の答えがあるから、変え様がありませんもの。人魚姫も必ず自殺します。喜劇は悲劇を覆せません。けれど、少しでもいいから、お兄様、優しい答えを、人魚姫に与えてあげてください」

 いつになく妹は真剣な眼差しでそういった。

 ふと、思った。

 もしかして妹は悲劇が嫌いなのではないかと。悲劇が嫌いで、悲しい事が嫌いだから、彼女の妄想の中の童話は何処か喜劇的なのではないかと、そう思った。だとすると、彼女の狂気、それは優しいものなのかもしれない。悲しい程に優しいものなのかもしれない。

 ならばせめて、せめて彼女の異常が何よりも優しいものであります様にと、私は願わずにはいられなかった。






「今回は特に抽出する様なものはない。注目すべき点は魔法のナイフだけだからだ」

 私が推理を始めると、妹は輝くような瞳で私を見つめる。実に爛々としていて、こんな目で見られながら推理をする探偵も珍しいのだろうなと私は思った。

「それぞれの魔法の特性が重要になってくる………訳ではない。それぞれのアンデルセンをモチーフにした魔法はその三分の二が只のブラフに過ぎないからだ。なら、どれが彼女を死に至らしめたものなのか、透明、これで岩が見えなくなっていたというのはどうだ?これは却下だ。『岩が一つもない』と言ったのではなく、妹は『岩に激突していない』と言ったのだから。なら、炎か?これも違う、頭を打って死んだと、お前は言っているからだ」


「答えは守る為の魔法、バリアーだ。彼女は空中で守られるべき壁に、激突した」


「あら、何ともおまぬけな死に方ですわ!」

 妹はクスクスと笑いながら言う。死んだ人魚の方としては溜まったものではないだろうに。彼女は面白そうだ。もしかしたら人魚姫が嫌いなのだろうか。それとも、好きだから?

「でもお兄様、守るべきバリアーに激突するなんておかしくありません?」

「おかしくはないさ。空間に張り付く、という事は人魚主体ではないんだ。移動する物体がこの魔法を使った場合、移動する物体にではなく、発動した場所、発動した空間に張り付く、だから、激突するんだ」

 守るべきものに殺される、なんて悲劇もいいところで、私はすこしこの推理をした事を後悔していた。妹の望みには答えられなかったからだ。

「あまり、優しい推理ではなくてすまなかったな」

 私はそう小さく呟く様に謝ったが、妹はそんな私を見もせずに、何かを考えているように、うんうんと唸っていた。私は彼女のそんな様子をみて、暫し何を悩んでいるのか考えたが、その答えは簡単に出た。私は言う。

「無理に上手い事を言おうとしなくていいんだぞ」

 そう言ってもまだ妹はだってぇと考え続けるので、私は彼女の頭を撫でてやった。

 妹はそれを嫌がったが、私はそれを無視した。

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トロイカ 兄妹は推理の夢(童話)に微睡む UMA @UMAUZIMUSI

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