マッチョ売りの少女

空牙セロリ

マッチョ売りの少女


「マッチョはいりませんか。マッチョは……マッチョいりませんか」



 体を貫くような冷たい雪が降る夜だった。

 暖かくおいしい夕飯が待っている自宅へ帰るべく足早にすぎ去っていく路地に小さな女の子の声が響く。この寒さの中、ひどく汚れた薄着の彼女の片足には靴がない。彼女は浮浪児、もしくはストリートチルドレンのような風貌だ。

 小さな彼女は少しでも誰かの耳に届くように声を張るも誰も耳を傾ける人はいない。


「マッチョはいりませんか。マッチョは……あぁっ!」


 ふらふらとさまようように声をかけている少女は、案の定通行人とぶつかって冷たい地面へなぎ倒されてしまった。それでも街行く人々は気にも留めることはない。

 それもそのはずだろう。この街にストリートチルドレンは珍しくない。どこにでも目にすることができ、社会問題になるほどだ。また、そういった身寄りのない子供は人身売買の標的になる。ゆえに政府も対策を練っているが改善される見込みはなかった。

 そんな無数にいるストリートチルドレンに一般の人が手を差し伸べるようなことがあれば、どこからともなく表れる彼らに囲まれて良いカモになることだろう。それでも手を差し伸べる物好きとも偽善者とも言える人は存在する。


「お嬢さん、大丈夫かい」


 彼もその物好きとも偽善者とも言える人の一人だ。

 人好きのするやさしい笑みを携える初老の紳士は小さな彼女に手を差し伸べる。彼女にとって、その姿はまさに救世主に見えることだろう。


「はいだいじょうぶです、おじさま」


 舌足らずな彼女はだいぶ衰弱しているようで目の焦点はなかなか合わない。歳に合わない細く、今にも折れてしまう小枝のような小さな手は戸惑いがちにけれどすがるように紳士の腕へと添えられた。同じ歳ほどの孫がいる紳士にとって、彼女のその健気で痛ましい姿に胸が切り裂かれるような痛みに今は眉をひそめることしかできない。


「おじさまおじさま、やさしく紳士なおじさま」

「何だい、おじょうさん」

「おじさま、マッチョはいりませんか」


 道行く人々に声をかけた時と同じ言葉を彼女は投げかけた。今にも凍え死にそうな彼女はそれでも必死のようでただただ「マッチョはいりませんか」と口を開く。


「マッチョ、かい?」

「はいマッチョです」

「マッチ、じゃあないのかい?」

「はいマッチではありません。マッチョです」

「マッチョ、かい」

「はいマッチョです」


 紳士は混乱した。

よくある童話では小さな女の子が寒い大晦日の日にマッチを売る話しがあるのだが、彼女が売っているのは『マッチ』ではなく『マッチョ』だった。

 困惑する老紳士をよそに、彼女は必死にマッチョの良さを説いている。


「マッチョはすばらしいのです! 暖かくてなんでも守ってくれてすごいのです!」

「君はマッチョを売っているのかい?」

「はいわたしはマッチョ売りです」

「なぜ君はマッチョを売っているのだい?」

「それは……。それはマッチョを売らないとおうちに帰れないからです。さいごのマッチョを売るまではおうちに帰ってきちゃだめって大家さんに言われているのです」


 大きな瞳を縁取るように生えたまつ毛が下がり目を伏せる彼女の姿はとても痛ましい。もしも、この老紳士が人さらいであれば彼女はすぐさま連れ去られていただろう。老紳士は可憐で健気な小さな彼女は悲しみで涙がこぼれないように肩を震わす姿に再び心が痛み出す。もしかしたら本当はマッチョではなくマッチなのかもしれない。それに少しでも買って彼女を早く家へ帰そう。老紳士はそう思い彼女へ再び手を差し伸べた。


「ではマッチョを一つ、貰えるかな」


 老紳士の言葉に小さな彼女は大きく目を見開いた。寒さのために青白く生気のなかった彼女の顔に赤みが差し、まるで初めて大好きなおもちゃを買ってもらった子供のように顔から笑みが零れおちる。年相応のその笑顔に老紳士も顔を綻ばせた。


「おじさまおじさま、やさしくすてきな紳士のおじさま! ありがとうございます! さあケルベロス」


 小さいながらも聖母のような微笑みを背後の狭く暗い路地裏へと彼女は投げかけた。

 するとどうだろうか。大きな岩が一定感覚に落ちてくるような振動が辺りを恐怖のどん底に突き落とすように響き始めた。


 どすん、どすん。

 どすん、どすん。


 小さな彼女の顔が楽園へやってきたイヴのように綻ばせるのと反比例して、老紳士の顔はサタンに地獄行きを宣言されたアダムのように絶望の表情が張り付く。


 どすん、どすん。

 どすん、どすん。


 路地裏から現れたのは三メートルはあろうかという巨体に、筋肉ダルマという言葉はまさにこいつのためにあると思わせるほどについた禍々しいまでの筋肉。いささか興奮しているのか鼻息は荒く目は血走っている。

 そいつは小さな彼女のようにみすぼらしい格好をし、靴ははいていなかった。だが深々と降り続ける雪はそいつに触れた途端水蒸気となって蒸発してしまう。


「ケルベロス、おまえはもう自由だよ。新しいご主人さまのもとで幸せになりなさい」


 彼女の言葉にケルベロスと呼ばれたそいつはさらに鼻息を荒くして老紳士を見つめた。その巨体に似合わず頬を赤く染めるさまは、まるで初恋をした少女のようだ。初恋をした少女のわりには目がかなり血走っているが、それほど純粋な目で老紳士を見つめ続けていたのだった。


 老紳士は知らなかった。彼女はこの地域でも有名な『マッチョ売りの幼女』であることも、そのマッチョはその巨体で今までに数十人もの人を屠ってきたことも、この二人に関わると命はないということも。


 老紳士は最期にケルベロスの目を真っ直ぐに見つめてこう言った。



「チェンジ」

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