第26話 長いの、白いのと語る

「やはりおまえは月を見るんだな」


 縁側に、張りのある明朗な声が響いた。縁側を、湿った足音を忍ばせる素振りもなく歩く雅寿丸がじゅまるの声である。

 宴がお開きになり、物の怪三匹は順に、店の裏手にある温泉に浸かった。風呂あがりで上機嫌なのは結構だが、この大男、帯の締め方が拙かったか、またしても足さばきがぞんざいすぎたか、すでに浴衣は無残にもはだけてしまっていた。これでは、いくらなんでも傾きすぎである。


 板敷に座して空を見上げる白い姿は、大男を一瞥しただけですぐに赤い目を戻し、言う。


「今宵は十六夜だ」

「ほう。月というのはいつも、知らん間に形が変わっているような気がするが、順序があるのか?」

「当たり前だろ。三日月から急に望月になったら、怖いよ」


 そうかそうか、と笑い、雅寿丸は追儺ついなから一間ほど離れたところで腰を降ろした――のだろうか。尻餅をついたように見えなくもなかったが、痛がる素振りもなくくつろいでいるので、追儺はそう解釈してやることにした。


 空にはわずかに欠けた月。それだけを見ていればときが止まったかのように思えてくるが、よくよく目を凝らせば、ただ黒いだけの夜空にも、次から次へと雲が流れてゆくのがわかる。空の彼方の風は強い。


 三日月の翌日に夜空を照らすのが望月ではないように、一足飛びに美玉びぎょくへ迫ろうと思うのは、やめだ。


「この地には、何かあるね」

「なにかって、なんだ?」

「望月は終わってしまったから、おぼろげにしか見えてこない」


 月読の儀は、作法に則って迎えた望月の晩にのみ行なえる秘術である。いつでも、ただ水面に映った月を眺めて答えが得られるのであれば、狐は誰も迷ったりなどしない。


小栞こじおり侯あるいは惣士たち、召抱えられたという物の怪たち、そして寧君ねいくん。これらが繋がりそうなのだけれど、決め手がなにもないというところだね」

「なあなあ、ネイクンというのは……」

「忘れていたよ」昨夜の調子を思い出し、白い手を上げて制する。「寧君というのはつまり、かの妖狐美玉のことさ。あの雌狐はたしかにこの国を我が物にしたけれど、廓の決まりごとを改めて遊女たちを厚く遇したり、女――とくに身重や子連れの女が心安らかに働ける場を多く作ったりしただろう。だから女には人気がある。美玉をありがたがる女たちは、『姉さん』をもじって寧君と呼ぶのさ」

「ほほう。おまえは物知りだなあ」


 知らないことを知るというのも、この物見高い物の怪を大いに満足させるらしい。雅寿丸は、真新しい黒石さながらに目を輝かせて唸る。一頻り唸ると、今度は「まてよ」というように面持ちを改めた。


「そう呼ぶということは、おまえも美玉が必ずしも悪だとは思っていないんだな?」


 さすがに顔色を変えることこそなかったが、追儺は絶句した。よもやこの雅寿丸に、そう鋭く切り返されようとは思わなかったのだ。ひとまず月を愛でる振りをしつつ胸の内を片づけて、あらかた答えができあがったころにようやく口を開いた。


「狐同士だからね、まろには美玉の思いがわかるような気がするときがある」


 言葉を切って横目を使う。雅寿丸は頷いてはいるものの、それで終わりとはつゆも思っていないらしく、ほんの少し首を傾けて見せた。


「これは当て推量だけれど、美玉には恐らく、この世の行く末が見えているんじゃないかな。何千年も生きている大妖だから、その通力も尋常じゃない。まろが見るよりも、いっそうありありと先のことが見えていても、不思議ではないよ」

「ふうむ。するとその行く末があまりにも拙いから、自ら手を下してよくしてやろうというのが美玉の魂胆なんだろうか?」

「人はね、強いよ、雅寿丸」大男の童子めいた顔を、正面から見据えて言う。「氷室で食べ物を冷やしたり、季節外れの作物を育てたり、今は妖怪の力を借りて行なっている。でも人は、放っておいてももう間もなく、それらの術を我が物としていたはずなんだ」

「それはまるで……魔法だな」

「そう、人は魔法のような力を手に入れる。野山の獣はいうに及ばず、世のあらゆる妖怪すら太刀打ちできないほどの力をね」


 あるとき、月は狐に後の世を見せた。



 引く牛のない車を連ね、人は一夜で千里を駆ける

 鋼の鳥に穴を穿ち、いつしか人は天を舞う

 人は……月に手が届く



 そうなれば人は、この世の――万物の頂点に立つことになろう。


「人が強いのは、弱みのないことだよ。どんなに強い妖でも弱みはある。いや、強ければ強いほど多くの弱みを持つといってもいいかもしれないね」

「ううむ。どういうことだ?」

「そうだね……」と追儺、形のよい指を顎に当てる。「西の国に血吸い鬼という妖がいるそうだ。怪力で頑丈な体をもち、蝙蝠になって空を飛び、霧になってごくわずかな隙間からでも入り込んでくる鬼だ。どうにかして倒せたとしても、並の殺し方では節操もなく蘇ってくるとか。おまけに相手の心を捉えて意のままに操る術を使うともいわれている」

「それは強そうだな。手も足も出る気がしない」


 なかなか考え深いところを見せる雅寿丸に、追儺は頷く。


「そう。長所だけ挙げれば、この妖にかなうものはいないかもしれない。けれども、この血吸い鬼には弱みもまた多いんだ」

「ほほう?」

「銀によって受けた傷は塞がらず、切支丹の印である十字や祈り言葉に怯み、聖なる水に身を焼かれる。そして、日の光を浴びればたちどころに灰となって死んでしまう」

「日の光とはな。それでは朝が来るのが怖くて、おちおち寝ることもできんだろうなあ」

「そう。どれほど強い力をもった妖にも、弱みはある。だから、たとえ道に外れたことをしでかしても、誰かがそれを正してやれるのさ。もしも正すことができなくとも、取り除くことはできる。ぬしがやるんだよ」

「うむ」

「人は弱みを持たないまま、この先さらに強くなるだろう。では、人が道を踏み外したとき、誰がそれを正してやれる? もし正せなくば、誰が……」


 強い風が駆け抜けたせいで、中庭の木が物悲しげな悲鳴を上げた。


「寧君は、そうさせたくないのだろうと、まろは思うよ」

「うむ、そうだな」


 示し合わせたわけでもあるまいに、二人はまた月を見上げた。

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世直し鼬 雅寿丸 Ryo @Ryo_Echigoya

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