第25話 長いの、猫に凄まれる

愛宕山あたごやまの、仙人修行に明け暮れる楽士で、白月追儺しらづきのついなという」


 この世のものとは思えぬ姿から目を引き剥がすことができず、食い入るように見つめたまま、おゆきは「はぁ……」と曖昧な返事を寄越す。

「お前、今まで追儺様に気づかなかったなんて、どうかしちまったんじゃないのかい?」


 板場から、おそのが忙しくじゃがたら芋の皮を剥きながら放ってくる声は、どこか誇らしげである。


「本当に妙だわ。こんなに華やかな方に気づかないなんて、わたしどうしたのかしら」


 小首を傾げつつ、お雪は追儺の注文を待った。


「そうだね」追儺は、雅寿丸がじゅまるが嬉しげに指差す品書きを眺めやる。「まろは戒律があるから、あいにく口にできるものが限られているんだ。漬物かくだものがあれば、もらおうかな」


 これを聞きつけたお園は、隣で鶏の仕込みをしている久兵衛きゅうべえに声をかけた。


「おまえさん、昨日仕入れたくだものはなんだったかしらね?」

「ちょうど柿がいい具合に食べ頃になっていたと思ったなあ。あとはおまえ、今朝漬けていた瓜はどうなってんだい?」

「そうでしたねぇ」大きな木の氷室を覗き込み、お園が明るい声で娘を呼ぶ。「そろそろ味が染みてきた頃合じゃないかしら。お雪、これをお出ししてちょうだいな」

「はあい」


 声を張って流しへ入っていったお雪と入れ替わりで、今度は片手に鶏をぶら下げた久兵衛が顔を覗かせて挨拶する。


「気の利かない娘ですみませんねぇ。どうせ気もそぞろになるんだから、奥で明日の用意でもしてろって言ったんですがね、今日で仕事納めだって、聞きゃあしないんですよ」

「ご息女が気づかなかったのは無理もないこと。仙道に生きるがゆえさ、気になさらずに」


 外したばかりの狐面を狩衣の前身にしまいながら、追儺は品のよい笑みを浮かべた。


 横では雅寿丸が、壊れたからくり人形さながらに「うまい」を連呼して、箸を動かしていた。磨かれた碁石の如き目は、輝きをいっそう増しながら鍋の中を見つめ、椀から肉や野菜が口の中に運ばれると静かに閉じられる。舌先に集中し、味わっているのだ。


 そのはす向かい。お雪が一瞬なりとも追儺に心奪われたのが面白くないのは、慶吾けいごである。心に渦巻く憤りを、すべて鍋にぶつけると思い決めたようだ。目の前の大男が悠長な様子で舌鼓を打つのを尻目に、猛然と鍋を食い散らしはじめた。


 ところが、食べごろに煮えた肉や野菜を片っ端から横取りされても、雅寿丸の顔つきは変わらない。新たな具を鍋に入れ、「まだ下のほうにあったぞ」と嬉しげに、慶吾の空になった椀へ煮えた肉をよそう始末。食って掛かってこられればいい気晴らしになると思った狸の思わくは、とんだ肩透かしに終わってしまった。


「むう。かたじけない」


 仕方がないので三十六みそろの慶吾、口の中で小さく言って、以降は仲良く譲り合った。


 奥から再び盆を持って現れたお雪は、「お待ち遠さま」と言い、そこだけ空いたままになっている追儺の前に、手際よく皿を並べた。湯がいた筍、白瓜の浅漬、ちしゃの葉に胡椒と塩を振ったもの、皮を剥いて種を取り除いた柿の実。追いかけるようにして出てきた母親のお園が、それに番茶を添える。少しばかり妙な取り合わせにはなったが、追儺は丁寧に礼を述べた。


 こうして、物の怪三匹のちょっとした宴がはじまった。慶吾が追儺に突っかかり、それを追儺が軽く往なし、雅寿丸が取り成す。なかなか上手い配役で、ほかに客もいない〈あわ雪〉からはひっきりなしに笑い声が漏れていた。


「むむ? あれは猫か」


 話の合間、何かを目ざとく見つけた雅寿丸が声を上げた。


 見れば、空いた席の下から、爛々と輝く一対が、ひたと一同に向けられている。暗がりに目を凝らせば、白黒茶色の毛がよい具合に混じった、器量のよい三毛猫であることがわかる。犬や猫を見ればその家の家業が自ずとわかるという諺「乳屋の猫」の意味どおりに艶やかな毛並みと比べられては、そこらの猫は気の毒であろう。金とも緑ともつかぬ色の目はしかし、蛇でも見るような目つきで一行に注がれている。


「あれは花江はなえっていうんです。お雪の姉貴分なんで、もう十五年になりますかねぇ。なかなかの器量でしょう?」


 仕込みが一段落したのだろう、ようやく話の輪に加わることができた久兵衛が、三毛猫を呼び寄せながら言った。


 追儺と慶吾は同時に「ほう」と感嘆する。


「えらい長いのう。猫は七年、と言うがなぁ」

「へい。家に置くときはちゃんと慣例どおり『七年いろ』と年季を申し渡したんですがねぇ、七年目になる前の晩だったかなぁ……」久兵衛は天井を見上げて指を折った。「こいつが挨拶にきたとき、つい情が出ちまいましてねぇ。『悪さしないんなら、いくらでもいていいぞ』って言っちまいまして。それからずっと、鼠を獲ったり虫を追ったりして、よく働いてくれてます」


 久兵衛の腕に収まり、一見機嫌よく喉を鳴らしているだけに見えるが、三毛猫は三人から目を離そうとはしない。番猫というのは聞かないが、少なくとも三人を胡乱に思っているのは明らかだった。お雪が現れると、わずかな間だけお園の頭――そこで揺れる簪を目で追うが、すぐに三人へと金の目を戻す。


 鍋の中身をいいほど腹に詰め込んだ雅寿丸だが、さらに次を椀によそいながら猫を見た。珍しいものでもあるまいに、野山で見慣れない虫を見つけた子どものように目を輝かせる。


「十五歳といえば、相当な婆さん猫だな」


 ごう。


 猫が鳴いた。瞳を縦に鋭くし、耳を後ろに倒して牙を剥く。愛らしい顔が一変して、魔性の獣へと変じたようである。


「ははは。こいつはいつまでも娘のつもりでいるんですよ。だから、歳のことを言われるとそりゃあもう、怒る怒る。歳を経た猫は人の言葉がわかるってのは、案外本当なのかもしれませんなぁ」

「そうか。いや、すまんすまん。まぁ……あれだ、見事な毛艶だな」


 取ってつけたような褒め言葉であったが、それでもう三毛猫は気分を直したらしい。再び目を細めて喉を鳴らし始める。


「そりゃそうだ。うちの商売がこれですから」雅寿丸の言葉に気をよくしたのは猫だけでなく、この店の主人も同様であった。「あんまりやると腹を下すんですが、ちょいと舐めさせればこのとおりで」


 追儺が箸を置きつつ猫を見る。赤い目と、猫の不可思議な色の目がかち合った。そのとたん、猫は久兵衛の腕から飛び降り、どこかへ駆けて行ってしまった。


 それからまた、場が盛り上がった。雅寿丸と慶吾は競い合って乳料理を食らう。追儺は静かに茶碗を傾ける。

 弥助やすけをはじめ、お雪に縁のある者たちが、続々と暖簾をくぐってやってきた。いつしか宴の主役はお雪となり、久兵衛やお園も交えてのどんちゃん騒ぎとなった。迫る別れのときを、願わくは笑って迎えられるように。そして、再び親子三人が水入らずで暮らすことができるように願った……はずだった。

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