この街で
松谷恒樹
第1話
時が経つのは早いもので、気が付けば十一月も半ばだった。今年は冷え込むのが早くて、僕は風の冷たさに指先を冷たくしながら自転車をこいでいた。
予備校の帰り、気分は最悪だった。今日、一月程前に受けた模試の結果が届いたのだ。結果は散々だった。志望校の判定はE判定か、良くてD判定。唯一B判定だったのは、お金のかかる私立大だった。ため息も出なかった。
こうなるのは、仕方のないことだ。勉強してこなかったんだから、どうしようもない。自分のせいなのだ。だからこそ、ため息の出ないほど僕は落ち込んでいるのだ。風邪でもひいたんじゃないかって心配されるくらい落ち込んでいるのだ。
時間はまだ夕方。いつもなら予備校で講義を聞いているころ。そんな時間に僕がこうして居るのは、体調が悪いと言ってサボったからだ。気分はすこぶる悪かった。だから百パーセント嘘だった訳じゃない。でもその気分の悪さも、結局は模試の判定のせいで、自分のせいだ。
もうセンターまで二月も無い。四十度近い熱が出ていたって机に噛り付いている人だっているのかもしれない。特に僕のように結果が芳しくない奴は、椅子に縛り付けられてでも勉強しなくちゃいけない――気がする。
そんなことは、分かってるつもりだった。分かった上で僕は逃げ出したかった。どこまでも走り去ってしまいたかった。そうしたかったけれど、僕にはまだそんな勇気も度胸もなかった。
行き場のない僕は、お気に入りの場所に向かった。駅前にあるショッピングモールのスカイガーデン。その場所の、西側の隅。その場所から景色を眺めると、街を見渡せる気がして、気分が晴れるのだ。
無料駐輪場に自転車を停めて、自動ドアを潜る。冷えてきたのは最近だったけれど、店内は暖房が効いていた。僕は少しだけほっとして、歩調を緩めた。
中の装飾は、ほんのりとクリスマスムードだった。もうすぐクリスマスだけど、今はまだ用意は早いかな、くらいの様子だ。
エスカレーターを昇っていって、四階。再びドアを潜ると、冷気の歓迎を受けた。スカイガーデンでは、ちびっこたちが元気に走り回っていた。子供は風の子、と言う言葉を直接見たようだった。寒さに震えながら、ちびっこたちの無邪気な笑顔を見た。背負った鞄が重たかった。
広場を横切って、お気に入りの場所に向かった。人が集まるのは広場か、喫茶店のテラスの方なので、ベンチすらない西側に人が居ることはあまりなかった。特に僕のお気に入りの場所は、人が居ることはまずなかった。
それなのに、今日は先客がいた。柵に肘をついて、僕がいつもそうしているように、どこか遠くを見つめている女の子の姿があった。
当たり前だけれど、知らない人だった。見た目から判断すれば、僕と同い年かも知れない。綺麗な女の子だった。
はっとして、僕は戸惑った。あの場所でしばらくぼーっとして、自分を慰めるつもりだったが、それだけでは済まなくなったような気がした。
右を見て、左を見て、気分だけでは文字通り右往左往して、それから僕は女の子に声を掛けてみることにした。自分でも意外なことだ。別にナンパしようっていうわけでは無かった。もしかしたら僕のように受験に頭を悩ませてるのかもしれない、そしたら互いに慰め合うくらいはできるかも――そう思ったのは彼女が制服を着ていたからだ。僕の知らないデザインの服だった。
まず、僕は柵に近づいた。女の子からは少し離れた場所だ。そして、出来るだけ好青年の風を目指して、声をかけた。知らない人に話しかけるということは、たとえその相手が異性でなかったとしても、それなりに勇気のいることだ。
出づらそうにしている第一声を、無理矢理押し出した。少し声が震えたかもしれない。
「や、やあ。こんにちは……」
結局出たのはそんな感じの声だった。女の子は、目を丸くして僕を見た。知らない人から、しかも何とも情けない声をかけられれば誰だって「なんだこいつ」くらいは思うだろう。
顔から火が出そうになっても、僕は目を逸らさず、顔を女の子に向けたままでいた。僕のちっぽけなプライドが、ここで目を逸らしたら負けだ、と言っていた。
女の子は、くすっと笑ったように息を吐いて、「こんばんは」と挨拶を返した。それだけで、僕はなんだか安心した。
次に、何を言おう? 僕はそれをまったく考えてなかった。別に仲良くなりたいと思ったわけでもなく――正直言えば少し期待はしていたけれど――ただ、気まぐれで話しかけただけだったから、ここで沈黙して気まずくなったとしても、それだけの事なのだけれど。
僕はどうしようもなく狼狽えた。人付き合いが苦手なわけじゃなかった。でも、適当な言葉は出てこなかった。寒いのに、一瞬で背中に汗が滲んだ。
「ここの学校の人?」
「ああ、うん」
「そっかー」
彼女は、それだけ言ってまた景色を眺め始めた。なんだか淋しそうだ。僕からは何も言えなかった。彼女の横顔を少しの間眺めて、僕も景色を眺めた。丁度日が沈み始めていて、獏らを、この街を赤く照らしていた。
どのくらいだろうか。長くても一分くらい。僕たちは太陽が沈んでいくのを黙って見送った。沈みきると、突然夜になった。暗闇の中、街の明かりが結構ロマンチックな雰囲気を演出していた。
僕にもしも彼女が居たら――そう、丁度今、名前すら知らない女の子が居る、その場所に、僕が世界で一番大切な――そう言うのは少し照れくさいけど――そんな人が居たとしたら。僕はプロポーズとかしちゃったり、するんだろうか。
突然湧き出た妄想は、途方もない未来の事だった。きっと、本当になるのなら、すごく幸せな時なんだろう。僕の妄想はすぐに描き消えた。ほんの数か月後の事すらままならない僕が、一生なんて果てしない未来を約束することは、滑稽に思えた。
「じゃあね」
女の子は、それだけ言って回れ右をして帰ってしまった。僕は一人残されて、しばらく夜景を眺め続けた。
僕の気分は今日も悪いことこの上なかった。昨日に引き続き、模試の結果が帰って来たのだ。今度は学校で受けさせられたマークもしだった。結果はもちろん、E判定。ため息なんて出ないで、情けない空気がのどを通り抜けるばかりだった。
いつもなら、学校からまっすぐに予備校に向かう。今日はそうしなかった。最初からサボるつもりで、僕はお気に入りの場所に向かった。
今日も冷たい風は正面から吹いてきて、僕を冷やしていく。なかなか強い風で、目を細めて、一生懸命にペダルを回した。呻くほどに漕いでも、自転車はゆっくりと進むばかりだ。
なんだか無性に腹が立った。
僕はめちゃくちゃに自転車を飛ばして、ショッピングモールに着くころには息が上がっていた。体力には自信が無い方だけれど、こんな風に息が乱れることは今までなかった。
ああ、参ってるんだな。体は全体が暑くなっていたけれど、頭の芯みたいな部分は冷え切ったままだった。
僕はふらふらと自動ドアを潜った。今日も暖房は、効いていた。むしろ効きすぎるくらいだった。
エスカレーターを上がっていく。ゆっくりと、ゆっくりと。いつもは昇っていくからたいてい上の階に上がるのに時間はかからない。でも今日は、手すりにつかまって、エスカレーターに運ばれていった。
エスカレーターのスピードはそんなに速くない。むしろ遅いくらいだと思う。今はこのスピードが気分を落ち着けるには丁度良かった。
ゆっくり、ゆっくりと上へ行くにしたがって、頭が確かに冷えていくのが分かった。熱さが抜けて、残ったのは沈殿した自己嫌悪にも似た気持ちだった。
エスカレーターが四階に達するころには、僕のテンションはすっかり下がっていた。もともと高くもなかったけれど、さっきとは別のベクトルで気分は良くなかった。
スカイガーデンには、今日もちびっこ達が遊んでいた。走り回っているだけのように見えたけれど、みんな高い声で笑っている。屈託のない表情を昨日よりもよく見ることができたのは、今はまだ時間が早いからだ。
腕時計を見た。高校の入学祝に親が買ってくれたものだ。五千円くらいのものだったけれど、高校生が使うには十分。余計な装飾がされているような上等なものより、この時計のシンプルさは気に入っていた。時計の短針は四時近くを指していた。
ちびっこ達の駆けていく中を横切って、お気に入りの場所を目指した。昨日見かけた女の子が、昨日と同じ制服姿で、昨日と同じ姿勢でそこに居た。
少しもためらわないで、僕は女の子の横に立った。昨日より少し近くだ。
「また会ったね」
今度は彼女の方から話しかけてきた。僕は「うん」とそっけなく返した。
それから、しばらく沈黙。気まずい、なんてちっとも思わなかった。昨日、日が沈んでいくのを見つめていたみたいに、じっとどこかを見つめていた。ずっと、こうしていられたら、すごく楽だろうな。そんなことを考えた。
先に口を開いたのは僕だった。
「もうさ、嫌ンなっちゃうよな」
愚痴ってやろうと思った。どうせ、赤の他人だ。なんだこいつって思われるだろうけど、どうでもいいや。
「進路? 大学?」
女の子はひどく落ち着いた声だった。僕はちょっと怯んだ。
「ああ、そうだよ」
「どこ受けるの?」
「うーん、とりあえず県外のとこかな。自宅からは通えないとこ」
「大変じゃん。一人暮らししたいの?」
「そういうわけじゃあ、無いんだ。たぶん」
「じゃあ、どうして?」
どうして? どうしてだろう。はっきりとは考えたことが無かった。今になって初めて考えてみた。たぶん、この街から離れてみたいんだ。昔、田舎の子供が東京に憧れたのと、似たようなものなんじゃないだろうか。
それでもいいと思った。くだらない理由でも、知らないところに行ってみたかった。今住んでいるこの街は、ベッドタウンとして発展していった街で、結構何でもある。ショッピングモールだって二つあるし、映画館もある。そこそこ品揃えが充実した本屋もいくつかあるし、何も不自由はなかった。でも、このままずっと居ることには違和感があった。
田舎だから嫌とか、そういうわけじゃない。東京とか大阪には及ばないかも知れないけれど、ここだって十分都会だ。
何でこの街から離れてみたいんだろう。たぶん、理由なんてなかったんだ。だから僕は正直に言った。
「なんとなくかな」
「なんとなく、かぁ」
よく分かっていないような、納得したような、間の抜けた声が女の子の口から出た。
「うん、なんとなく。でも、そんな人って結構いるんじゃないかな。俺みたいにどこか、じゃなくて、たとえば東京とか、地元から離れたい奴って」
「そうかなあ」
「そうだよ。おんなじ風景を見続けて、もう飽き飽き、なんて思ってんだ。きっと」
「うーん」
今度は、納得がいかないという呻りだった。
「ねぇ」
呼びかけられて、僕は女の子を見た。彼女は、体の正面を僕に向けて、言った。
「この街は嫌い?」
戸惑った。そんな事、考えもしなかった。
「わたしはねぇ、好きだよ」
恥ずかしげもなく彼女はそう言い放つ。その眼は、僕をまっすぐに見ているような気がした。僕は唾をのみ込んで、彼女と向き合った。彼女は、本当にこの街が好きなんだろう。ドキッとした。
「わたしはさ、今はここに住んでないんだ。こっちに住んでるおじいちゃんの葬式に来てるの」
ああ、それでか。僕は妙に納得してしまった。喪服としての制服だったんだ。
「小学生の時までは住んでたんだけどね。お父さんの転勤が決まって、みんなでお引越し。新しい街も、ここに良く似たところだったよ。でもなんでだろうねぇ。わたしはあんまり好きになれなかった。向こうでも友達はできたし、向こうの暮らしが嫌ってわけじゃなかったんだけど、帰省でここに戻ってくるのが本当に楽しみだったよ。うん、だから……じゃなくて、なんていうか、今住んでる場所からどこかへっていうのは、分かるよ」
彼女も何を言えばいいのか分かってないみたいだった。言葉を選ぶのに困っているのは仕草に出るくらい明らかだった。それでも彼女は僕を向いたままでいた。
「何年振りか、今度の事でこっちに来たら、びっくりしちゃった。こんな大きい建物が出来て、駅前も改装されてるし。ここ、昔は野球場だったんだよね。全然来たことなんてなかったんだけど。でも、なんでだろうね、街って変わっちゃうんだろうなあ。なんか、おじいちゃんの気持ちが分かっちゃった」
えへへ、なんて可愛らしく、笑う。僕には眩しかった。
「きっとこれは、運命なんだと思うな。自分で言っといてちょっと恥ずかしいんだけど。うん、きっとそんな感じ。私はずっとこの街で住んでいたい。だから、なんていうか――君も、そんな街に出会えるといいね」
そう言って、女の子は最初と同じように街を見渡す姿勢に戻った。照れ隠しもあるのかもしれない。
日がだいぶ傾き始めていた。冬ってのは、昼が短い。ずっと前から知っていたし、分かっていたことだ。
「たぶん、君も受験生だろ? 大学どうするか決めたの? やっぱりこっちの大学?」
「うん。そうだよ。都市工学科。実はもう推薦で決まってるんだ」
「えー。いいなあ」
「いいでしょう。君も頑張って」
「うん」
悪い気はしなかった。頑張って、何度も言われたことがある。今の一言くらい励みになったことは無かった。
「頑張れる……かな。うん、やってみるよ」
「弱気だねえ」
「自慢じゃないけど今のところE判定だから」
「あちゃー。自慢にはならないねえ」
「うん……そうなんだ」
「元気だしなって」
ははは、力なく僕は笑った。でも、情けない笑い声ではなかったと思う。
くだらない話をしながら、僕らはこの街を見つめ続けた。太陽はどんどん低くなっていって、どこかのガラス窓が反射する光が眩しい。いまは輝いているように見えた。
女の子は、自分がいなかった間のこの街の事を知りたがった。全部知っているわけではなかったけれど、僕は一つ一つ、教えていった。
一通り話し終えると、太陽は沈みかけていた。昨日見た風景と似たものが広がっていた。
「暗くなったね」
「うん」
「もうすっかり冬だね」
「そうだなあ」
月も見え始めていた。満月にはちょっと足りないくらいの月だった。
「わたし、明日には向こうに帰るんだ」
「そうなんだ」
「本当はもうちょっと居たいんだけどね」
本当に寂しそうに聞こえた。僕は月を見つめて、視線を動かさなかった。
「でも来年からはこっちに住むんだろ。ちょっとの我慢だよ」
「うん。そうだね」
太陽は半分くらい、沈んでいた。夜が訪れるまで、もう間もない。
「話せてよかったよ?」
「俺もそう思うよ」
「最初はなんだコイツって思ったけどね」
「あー。やっぱり」
ははは。二人で笑った。
それからは、ただ友達と別れるみたいに別れた。さようなら、また会えるといいね。あ、でも君はどこかへ行っちゃうんだっけ。分かんないよ。一浪くらいするかも知れないし。それじゃあね。うん、じゃあね。たったそれだけだった。
次の日、あの子は帰ってしまった後だろうけれど、僕は学校が終わるとまっすぐにお気に入りの場所に向かった。
今日は風もなく、自転車はすいすい進んだ。無料駐輪場に自転車を止めて、自動ドアを潜った。外が寒いのは相変わらずだったから、暖房が身に染みた。
いつものようにエスカレーターを昇っていく。あっという間に、四階。再び屋外に出ると、やっぱり寒かった。
一昨日と同じように、昨日と同じように、今日もちびっこたちは走り回っている。本当に楽しそうだ。楽しくて楽しくて仕方ないんだろう。ただ走り回っているのことが、本当に楽しいんだ。じゃなきゃあんな風に笑えない。こっちまで気分がよくなるようだった。
ちびっこ達の間を抜けて、お気に入りの場所へ。誰も居なかった。僕だけの場所だった。
柵にもたれて、街を思いっきり見渡した。うん、いつもの景色だ。昨日と、あまり変わりない。
「寒いなあ」
完全に独り言だった。寒いのは間違いない。天気予報によれば、例年の十二月中旬程度には寒いらしい。完全に冬だ。
はぁー、と長いため息を吐く。受験なんて、きっとあっという間だ。ぼーっとしてたら、身動きもとらないうちに過ぎてしまうんだろう。
頑張れるかなぁ、頑張らなきゃなぁ。そんな感じの事をつぶやいた。もし近くに誰かが居て聞いていたら、思い悩んで飛んでしまうんじゃないかと心配されるような声だった。大丈夫。僕しかいない。
僕は頬杖をついて、空を眺めた。傍から見たら十分変な奴だったと思う。それでも良かった。たぶん、当分僕はここには来ない。
あの女の子、可愛かったな。名前くらい聞いとけばよかった。できるならメアドくらい……まあ、それはハードルが高いだろうな。でもきっといい友達くらいにはなれたと思う。だって、彼女もこの場所が良い場所だって気づいていたんだ。
たぶん、この場所の良さを知っているのは僕とあの子の二人だけ――。
そう考えると、うれしいような、恥ずかしいような、むずがゆい気持ちになった。
そう、ここはとっておきの場所なんだ。別に街全体を見渡せるような場所じゃない。高さも足りないし、駅前なだけあってビルもあるから、むしろ眺めは良くない。
でもビルが密集しているわけでもないから、その間から見える街が、何かいいのだ。心が開放的になると言えばちょっと違う。良い意味で、何もかもどうでもよくなる。そんな感じがする。
僕がこの場所を見つけた時、まだこのショッピングモールは開店したてで、人がとても多かった。あっちこっち混んでばっかりで、暇潰しにもならないくらいだった。
人の波に飲まれて辛うじてたどり着いたのがこのスカイガーデンで、まだ建物の中を把握していなかった僕は、すっかり迷子だった。戻るにもちょっと覚悟が要るし、スカイガーデンですら人が多かった。あっちにも人、そっちにも人、そんな状況で唯一空いていたのがここだった。
どこにも行き場所がないから、僕はそこへ向かった。そして街を眺めた。すべてどうでもよくなった。人ごみに揉まれた疲労も、そのせいでなんとなく機嫌が悪かったのも、全部吹き飛んだ。
運命なんだと思うな、照れながら、確信をもってあの子はそう言った。じゃあきっとこれもそうだ。僕が今場所を見つけたのも、運命だったのだ。
まあそれもどうでもいいか。僕は深呼吸をした。深く深く息を吸って、吐いた。
あの女の子は、こっちの大学に進学すると言っていた。きっと、だからなんだと思う。僕も無理に県外の大学に行かなくてもいい気がしてきたのは。かわいい子だったし、性格もよさそうだったと思う。そんな子と少しでも話せたから、ちょっとあの子の事が気になってるんだ。だから彼女の言うことも一理あるかなって、思っちゃったんだ。
だから、僕が知らない街で暮らしているところを想像した時に、ほんの少しだけ、寂しいかも、と思ったんだ。あの子は運命なんて言ったけれど、もしかしたら一種の呪いなんじゃないか、ちょこっとだけそんな考えが浮かんだ。
風が吹いた。今年で一番冷たい風だった。日が暮れるにはまだかなり時間がある。できたら今日も日没を見送りたかったけれど、長い間こんなところに居たら風邪をひいてしまうかもしれない。
帰ろう。帰って、勉強しよう。そう思ったけれど、僕の体はなかなか動かなかった。
ただ、この街を、彼女が愛しているであろうこの街を、もう少しだけ眺めていたかった。
この街で 松谷恒樹 @ST0723
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