鬼と桜と男

 昔々、大きな桜の木がある小山の麓に小さな村がありました。




   ***




 ぼきり。何とも小気味良い音がした。

 其れは少し大きかったもので、喰いやすいようにと思って千切ってみた。千切った割りに硬質な音が響いたのは、軸と為って其れを支えていた硬いものがあったからだろう。硬いと言っても他に比べて硬いだけで、其れも十分脆かった。

 未だ生温い千切った其れに噛り付いて、白くて硬いものまで噛み砕く。ぼたぼたと零れる液体が口元と着物を濡らして行くが、気にはならなかった。何時ものことだ。

 美味いとは思わない。不味いとも思わない。其のような感覚は不要だった。只腹を満たすために手を伸ばし、口へ運び、噛り付いて、噛み砕いて、粉々にして、体の奥に納めて行く。其れは本能だった。好きも嫌いも無かった。そうして生きるものだと知っているからこその行為だった。

 味覚はある。美味いものは知っている。不味いものも知っている。其れでも、其れを好き若しくは嫌いに分類することは出来なかった。

 滓一欠片も残さずに喰いくして、一息吐く。口の周りに付着した液体を右手の甲で拭う。炎に照らされて見えた甲に付着した色は、見慣れた赤い色だった。

 久方振りに喰った。そろそろ潮時か、と暗闇を見上げる。

 此処暫らくは此の場を縄張りにして、迷い込んで来た其れを喰っていた。当初は辟易しそうに為る程大漁に飛び込んで来た其れは、次第に数を減らして行った。足を踏み入れた仲間たちが帰って来ないのだ。其の異常に気づかぬ程、又其の異常に自ら飛び込む程馬鹿ではないらしい。

 次に行こう。そう決めて、暫しの間居座った縄張りを放棄した。次と言っても、宛てがあるわけでは無い。適当に移動して、適当に気に入る場所を探して、適当に居座る。今までもそうして生きて来たのだから、此れからもそうして生きて行くのだろうと、何となく思っていた。

 移動しながら思い返す。彼処に居座る前は何処に居たか。記憶違いでなければ、何処ぞの大きな屋敷に潜り込み、適当に目に付いた彼れらを喰っていた。其処でも日に日に減って行く仲間たちに気付き、其の異常を恐れ、最後には酷い騒ぎに為っていた。其の騒ぎに乗じて抜け出したのだったと、記憶を辿る。

 彼処で食った饅頭は美味かったと懐かしむ。彼れで腹が満たせるなら言うことは無いのだが、如何も此の体の空腹感を満たせるのは、饅頭では無く、つい先程も喰っていた彼れだけのようだ。

 厄介な体だ、と嘆息する。

 とん、と地面を蹴り、背のある木に登る。何処へ行くか、大まかな方角でも決めようと思った。

 見上げた暗闇には朧気に丸い光が浮かんでいた。其の周囲には小さな光の粒が散らばっていた。其れらが何なのかということは考えたことが無い。興味も無い。適当に喰って、適当に寝て、敵が来たら殺されないよう反撃する。生きるというのはそういうことだと思っていた。其れが全てだと考えていた。

 其れなのに。

 ああ、其れなのに。

 一体如何したと言うのだろうか。

 上に遣っていた視線を下に向けた其の途端、視界に映った其れに意識が固定された。目が離せなく為るという状態を今まさに体感している。瞬きをする時間すら惜しく為る。彼れは何だ、と考えるより先に、自らの状態を理解した。

 魅せられた。

 囚われた。

 逃げる術は、知らなかった。




   ***




 此の春で十六歳に為った小太郎は、村の直ぐ傍にある小山を登る。日はとっくに暮れ、空には月が輝き、星が瞬いている。村の者たちも既に寝入っているような頃。小太郎はひとり、小山を登る。月も星もあるとは言え暗い夜道なのだが、小太郎は迷わず怯えず進んで行く。既に通い慣れた道だった。

 小太郎が生まれ育った村には、特別なところはひとつも無い。恐らく、何処にでもあるような普通の小さな村だ。

 そんな村だけれど、村の直ぐ近くにある此の小山は特別だと、小太郎は思っている。周囲が如何思っているかは知らないし、興味も無い。

 小山の一番高いところに、一本だけ、大きな桜の木があるのだ。此れが此の時期、見事な花を咲かせる。小太郎以外の村人たちも、小山の上に桜の木があることは知っている。だが、其れを愛でることは殆ど無い。彼らは日々の生活だけで手一杯なのだ。もちろん、小太郎も、幼い頃は朝だろうが昼間だろうが関係無く足を向けていたが、十六ともなれば立派な働き手として重宝される。昼間に小山に出向くような余裕は無く為った。代わりに、少々の夜更かしが出来るように為ったので、夜に小山に出向くように為った。だから此処数年、此の時期は、斯うして皆が寝静まった頃に寝床を抜け出して来ている。

 幼い頃は知らなかったが、夜に見る桜も美しいものだ。特に、今日みたいに月が大きくて輝いている晩は、とても美しく映る。暗く灯りも無いので、花の色は残念ながら見えないが、他よりも白い其れは闇の中に沈むこと無く浮かんでいる。昼間とはまるで世界が違うかのような其の光景に、最初は恐怖に近いものも覚えたが、今ではすっかり虜だ。

 小山の上に出る。近づくにつれて、桜の木の姿がだんだんと明確に為る。其れは、幾らか違和感を覚える程に鮮明な姿だったが、其の美しさに違和感も霧散する。小さな花びらが風に舞い踊る様子が分かるように為る。木の根元まで視界に納まるように為る。

 其処には、女が居た。

 裕福な家の娘が身に纏うような、とても鮮やかな色の着物を華奢な身に纏い、長く伸ばされた艶やかな黒髪が風を受けて踊っている。其の黒髪に、風に散った桜の花びらが重なる。

 とても美しい女だった。

 とても美しい光景だった。

 ふらりと一歩踏み出せば、足音が聞こえたのだろう、女が小太郎を振り返った。

 少々つり目気味ではあるが、大きな瞳。小さくて赤い唇。白い肌。

 とても美しい女だった。左右のこめかみから生える鋭い角も、気にならない程に。


「……何じゃ、ひとの子か」


 其の言葉が、女が自分と同じ人間では無いことを後押しした。よくよく見れば、桜の木の周囲には火の玉が浮いている。女の仕業だろう。道理で違和感を覚える程に色彩が鮮明に認識出来る筈だと、小太郎は納得した。

 小太郎は他よりも少し、所謂霊感というものが強いらしく、物の怪の類を度々目にしている。村には、小太郎と同じく物の怪を目にし、関わった為に命を落とした者も居る。小太郎自身も、何事も無く平穏無事に過ごして来た、とは言い難い。だからか、小太郎を含む村人たちは皆、そういった存在は極力無視することにしていた。以前、此の場所で出会った旅の法師にも相談してみたら、矢張り其れが一番だと言われた。法師は念のためだと言って、簡単な退魔法や使役法を教えてくれた。おかげで、小太郎は今も何とか無事に生きている。


「……え、っと……お前、ナニ?」

「吾は《鬼》じゃ」


 此の美しい女は、鬼だと言う。角があるじゃろう、見えんのか。面倒くさそうに続けられた。わざわざ前髪を其の白く細い指で流し、角の存在を強調する。鬼の話は知っていたが、実際に遭遇したのは初めてのことだった。鬼とは角があるものらしい。

 鬼と言えば、物の怪たちの中でも最低最悪の相手だ。鬼は、神のように強く、人間を喰らうものだ。鬼に会ったら兎に角逃げろ、でなくば喰われて終いだと、件の法師が言っていた。

 其のことを思い出し、小太郎は心持ち身構えた。然し、逃げようという選択肢は浮かんで来なかった。何故かと考えるような余裕は無かった。只、其の場に縫い付けられたように、足が動かなかった。

 けれど、目の前の美しい鬼は、小太郎を襲おうという素振りを一切見せなかった。じっと小太郎を見ていたかと思うと、ふいと視線を外し、風に揺れる桜の花を向く。

 暫らく立ち尽くして待ってみたが、其れ以上の動きは無かった。


「……喰わないのか?」

「喰ってほしいのか?」

「そうじゃないけど」


 問い返されて、小太郎は曖昧に返す。それに対し、鬼はくつくつと笑う。


「今は其のような気分では無い。見逃してやるから、早う寝床にお帰り」


 鬼の視線は一切動かなかった。小太郎からは鬼の横顔しか見えなかった。

 小太郎は、笑う様も又美しいと思った。


「……桜を、見ていたのか?」

「ああ」


 鬼の視線は矢張り動かない。然し、鬼は律儀にも小太郎の問いに答えを返した。

 逡巡。其れから小太郎は、覚悟を決めてみた。


「俺も一緒に見ていいか?」

「……お前、話を聞いておったか」


 鬼の視線が動いた。呆れた表情を小太郎に向けた。

 美しい顔が振り向いたことを内心で喜び、表面上は平然と受け止め、小太郎は笑った。


「夜に此処で花見をするの、俺の日課なんだ」

「吾は鬼ぞ」

「でも、今は喰わないでいてくれるんだろ?」


 言い返せば、鬼は暫し言葉に詰まった様子だった。其れから訝しげに小太郎を見ていたが、やがて視線が再び桜に移された。


「……おかしなひとの子じゃな。まあ良い。好きにせい」

「ありがとう」


 小太郎と鬼は、少し間をあけて、並んで桜の木を見上げた。小太郎が隣に立っても、鬼は何も言わなかった。

 小太郎は、ちらちらと視線を鬼にやった。鬼は桜に夢中で、小太郎の視線には気付いていない。其れをいいことに、小太郎は何度も鬼の横顔を盗み見た。

 其のうちに、口元の色や着物の色が不自然なことに気が付いた。気が付いたが、其れらは鬼の美しさを少しも損なわなかった。

 桜は、満開には未だ遠いが、とても美しかった。


 小太郎は何時も通り、適当な頃合に小山を下って村へと帰った。小太郎のことなど気にも留めないで、鬼は只じっと桜を見上げていた。




   ***




 気が付けば空は明るく為っていた。何時の間にか日が昇っていたらしい。其処に立って居た筈のひとの子は姿を消していた。

 はて、彼のひとの子は本当に存在していたのかと、首を捻る。

 ふらりと現れて、ふらりと消えて行った。そう思えた。思えただけで、気付かなかっただけなのだということは分かり切っていたが。

 独り桜の木を見上げる。薄青に染まった背景に薄桃が揺れる。

 闇の中のほうがよく映えるな、と思った。

 然し、薄青と薄桃の組み合わせも其れなりに美しいと思ったので、鬼は飽きるまで、其れを眺めることにした。

 決めてから、わらう。

 さて、飽きる日というのは何時だろうか。




   ***




 其の晩も、小太郎は小山の上に向かった。鬼は既に其処に居た。


「あ、今日も居たんだ」

「何じゃ、今日も来たのか」


 其の言葉から、小太郎の存在が鬼の意識の外にあるわけではないことが知れる。顔を覚えていてくれたことは、少しばかり意外だった。


「隣、いいかい?」

「好きにせい」


 昨日の遣り取りを短縮したような遣り取りをして、昨日のように少し間を空けて並んで桜を見上げる。時々鬼の横顔を盗み見たりする。

 暫らく其の儘花見をしていたが、小太郎はふと、鬼に問いかけた。


「なあ、お前、花が好きなのか?」

「何じゃ、藪から棒に」


 小太郎は、鬼から返事があったことに安堵して、続けた。


「何だか随分熱心に見ているから。そんなに花が好きなのかと思って。鬼が花を愛でるってのは少し意外だった」


 素直に言葉にすれば、鬼は小太郎のほうを向いて憮然とした。


「……此の桜は特別だ。此れまで、花など愛でたことが無い」

「そっか」

「何じゃ、にやにやと。気色の悪い」

「嬉しいんだよ。俺にとっても、此の桜は特別なんだ。一等美しいと思う。お前が同じ気持ちだというのは、とても嬉しい」


 小太郎は腹の底から本音で言った。

 鬼が腹の底から盛大なため息をこぼした。


「……鬼を怖がらず、しかも鬼と並んで花見をすることを喜ぶようなひとの子が居るとは。世も末じゃな」

「其れを言ったら、手を伸ばせば届く距離に居るのに俺を喰わないお前も、十分変わり者だ」

「……違いない」


 楽しげに笑って、小太郎と鬼は、それぞれ花を愛でた。




   ***




 又気が付くと朝に為っていた。隣に居た筈のひとの子は矢張り何時の間にか姿を消していた。

 二日連続で全く気付かなかった己に苦い思いが込み上げる。何れだけ見惚れていれば気が済むのか、自らのことだというのに見当もつかない。今敵が遣って来たら間違い無く殺される。来ないことを切に願う。ひとの子のように祈る相手など持ち合わせてはいないが。

 其れにしても、と桜を見上げて、己の様に呆れる。

 桜を見るのは、決して初めてでは無い筈だった。確か、以前居座っていた何処ぞの屋敷の庭にも桜は植わっていた。ちょうど咲き頃にも居合わせた。ひとの子たちは桜の下で嬉しそうに花見をしていた。其れを眺めながら、何が其れ程までに嬉しいのかと思っていた。

 彼の桜には、此れ程までに囚われることは無かった。此処の桜は、何かが特別なのだろうか。

 ……ああ、特別だ。此れが只の桜の木ではないことはとっくに気が付いていた。只美しいだけではないことに気づいていた。然し、其れに気が付いたところで如何することもできない。其れほどまでに、此の桜は己を惹き付ける。理由など如何でも良いと思うほどに、己は此の桜に魅了されている。

 真実、囚われている、と表現することが正しい。毒のようでもあるが、不快感は一切ない。此れまでの日々に比べれば何とも安らかな心地がする。

 鬼が安らかさを求めるなど、笑い話にもならないが、あまりにも落ち着いてしまう。

 其の是非については、考えることすら馬鹿らしい。不満が無いのだから、其れで良いではないか。

 以前の記憶を引っ張り出していくと、屋敷で行われていた花見の光景が浮かんだ。ひとの子たちは、花を愛でてもいたが、飲み食いもしていた。美味そうに飲み食いするものだと思っていたことを思い出した。確かに美味いのだろうが、彼れ程までに高揚する程美味いものでは無いと思っていた。誘われたこともあったが、そういえば面倒だからと断ってばかりで、其れに参加したことは一度も無かった。

 鬼は暫し考えて、桜から離れた。




   ***




 其の晩も、小太郎は小山の上に向かった。鬼は既に其処に居た。


「又居たな」

「又来たか」

「……もしかして一日中此処に居るのか?」

「……今日は違う」


 鬼の答えに、では昨日は一日中居たのか、と思ったが声に出すことは無かった。


「隣、いいかい?」

「もう聞くな。いちいち鬱陶しい」

「じゃあ好きにするよ」


 二人は並んで桜を見上げた。間の空間は少し狭く為ったが、鬼は何も言わなかった。

 暫らくして、今日は鬼が小太郎に問いかけた。


「おい、もう寝床に帰るか?」

「え? ……いや、もう一寸居ようかな」


 明日も生きていかなければならないから、そう遅くまでは居られない。けれど、少しでも長い時間、小太郎は此処で斯うしていたいと思った。

 そんな小太郎の心境など知らぬ鬼は、本の少し赤い唇を歪めた。


「ならば付き合え」

「え?」


 ごそごそと、着物の袖から取り出されたものを見て、小太郎はきょとんとした。滑らかな輪郭の、壺のような物だ。鬼が其れを掲げて見せると、ちゃぷんと水の音がした。


「……其れは?」

「酒だ。知らんか?」

「酒……」


 当然、知らないわけではない。酒は嗜好品だが、小太郎のように大して豊かでも無い村で生まれ育っていても、酒を飲む機会くらいはある。ただ、小太郎は飲んだことがなかった。以前、領主の命令で戦に出て行った村人が持ち帰ったことがあったが、特に興味はなかったので、小太郎にと分けられた分は父と母に譲ったのだ。

 基本的に、酒と言うのは高貴な方々が飲むものだと小太郎は認識している。戦に出て行けば褒美の一環として下々の者にも振舞われるそうだが、小太郎はまだ戦に借り出されたことはない。

 詰まり何が言いたいかと言うと、酒というものは其処らで手軽に調達できる代物ではないということだ。


「如何したんだい、其れ」

「何処ぞの屋敷から頂戴して来た」


 悪びれない様子で告げられた鬼の言葉に、軽く眩暈がした。

 詰まり鬼は、武家か公家の屋敷から其れを盗んで来たらしい。盗みは罪。相手が悪ければ死罪にもなり得る。そう説いたところで、意味は無いだろう。何せ相手は鬼なのだから。そもそも死罪を言い渡されたからと言って、鬼を死罪に出来るものか。言い渡したほうが喰われて終いだろう。


「ひとの子が桜の下で美味そうに飲んでいたのを見たことがあってな。試してみたく為った。帰らぬなら付き合え」


 鬼は、其の美しい顔を子供の様に輝かせて、小太郎を見た。其れに小太郎が逆らえる筈が無かった。そもそも鬼の言葉は命令形だった。

 選択肢が用意されていたとしても、お断りだ。


「いいよ。俺も酒とやら、飲んでみたいし」


 二人は桜の木に寄り添うように腰を下ろし、鬼が用意していた盃に注がれた酒を飲む。

 生まれて初めて酒を口にした小太郎は、先ず其の苦みに顔を顰めて、次いで体中を蝕むように熱が渦巻く感覚に大きく息を吐き出した。


「うわぁ……」

「くくっ、真っ赤じゃな。まあ、初めてならそんなものじゃろ」

「酒って、こんななんだ……」

「そうとも」

「……あんまり好きじゃないかも」

「慣れれば美味いと思うように為る」

「ううぅ~……」


 顔を真っ赤にして唸る小太郎を、鬼は楽しそうに眺めていた。

 気持ちが良いのか、それとも悪いのか、そんな単純なことすら判断不可能。視界がゆらゆらと揺れているような気がする。今立ち上がったら、まともに歩くことは出来そうにない。

 そんな小太郎の隣で、鬼は平然と酒を飲み干して行く。


「ふふっ……成る程、只飲むよりも気分が良い。不思議なものじゃ」


 白い筈の鬼の頬も、ほんのり赤みをさしているように見えた。

 少し視線を上に移せば、桜が空を覆っていた。




   ***




 未だ闇が深い頃に、ひとの子はふらふらと立ち上がり、赤い顔の儘「又明日な」という言葉を残して、覚束無い足取りで小山を下って行った。寝床に帰って行くひとの子を初めて見送った。

 其れから朝まで、鬼は独りで盃を傾けていた。

 美味い酒だ。以前屋敷に居座っていた頃に口にし、気に入ったものだった。

 酒の為にぼんやりとする頭で頭上の桜を見上げた。矢張り、薄青よりも濃い闇によく映える。美しい。酒も美味い。

 美味い筈、なのに。

 何故か高揚感は萎んで行く。先程までは確かに気持ちが高ぶっていたというのに、すっかり冷めてしまった。

 何が違うのか、と少しばかり考えて。

 ふつりとその思考を切断した。

 空を見上げれば真っ青な空。すっかり日は昇り、朝を通り過ぎて昼に為る。酒の酔いなど綺麗さっぱり抜けた頭で桜を見上げながら、今晩も来るのだろうかと考える。「又明日」などと残して行ったからには、来るつもりなのだろう。

 ぼんやり考える。

 ひとの子が酒に酔って真っ赤に為る様は面白かった。彼れの不本意そうな顔はなかなか好ましかった。なかなか良い酒の肴だった。

 昨晩は振ればたぷんと音を奏でた酒が入っていた瓶子は、今はもう何も鳴らさない。酒も美味いが、他の味も欲しく為って来た。

 鬼は無言で立ち上がり、桜の下を離れた。




   ***




 其の晩も、小太郎は小山の上に向かった。鬼は未だ其処に居た。

 昨日までは立って花見をしていた筈の鬼は、今日は既に木に体を預けて腰を下ろしていた。其の手には昨日と同じ盃があった。


「又来たか」

「気に入ったのかい?」

「まあな」


 鬼の傍らに立ち、其の手元を覗き込む。盃には既に酒が注がれており、酒の上に桜の花びらが浮かんでいる。酒の良さは小太郎にはさっぱり分からないが、其の様子は美しいと思った。

 断りも入れずに、小太郎は鬼の横に腰を下ろす。鬼はちらりと小太郎とを見たが、文句は出て来なかった。代わりに、何やら包みを差し出された。


「やる」


 受け取って、包みを開いてみる。白くて丸くて柔らかいものが其の姿を見せた。


「……此れは?」

「饅頭じゃ。其れなら、問題無いであろう? 遠慮無く食え」

「遠慮って……此れもどっかから頂いて来たんだろ?」

「当然じゃ」


 小太郎は溜息をこぼしてから、祈りを捧げて、有難く頂くことにした。

 元が何処の誰のものであろうと、一度鬼が盗んで来たものならばもう鬼のものだ。その鬼が小太郎にくれると言うのだから、頂かないわけにはいかない。開き直った、とも言う。

 一つ摘んで口に放り込む。口内に広がる程良い甘さが、胸にまで広がる。


「へぇ……美味いな、此れ」

「そうじゃろう。其れは吾の気に入りの一品じゃ」


 楽しそうに頷く鬼の言葉に、小太郎は首を傾げた。


「鬼って、人間以外も食うのか?」

「食うぞ。多少は腹の足しに為るしな」

「へぇ……」


 鬼といえば人間を喰らうもの。法師からは其のように話を聞かされていたので、人間以外のものも食べるということは知らなかった。法師は知らなかったのか、知っていたが特筆すべきことでも無いと判断したのか。どちらでもいいか、と小太郎は又一つ饅頭を摘む。


「尤も、鬼はお前たちひとの子と違い、暫らく喰わんからと言って飢え死にするものでも無いようじゃがな」

「無いようだって……まさかお前、……」


 鬼の口ぶりに、嫌な予感がした。


「此処に来て以来喰っておらんな。其の饅頭は先程幾つか食ったが。此処で花を見てばかりおる。ああ、あと、近くの屋敷に忍び込んだりな」


 強張る声を顔を向ける小太郎に対し、鬼はけろりと言い放ち、たぷんと音が鳴る壺のような入れ物を振って見せた。

 小太郎は呆気にとられ、次第にふつふつと焦りのような、怒りのようなものが腹の底から這い上がって来るのを感じた。


「取り敢えずお前も此れ食え!」

「むぐっ……」


 小太郎は鬼の口に饅頭を一つ突っ込んだ。第三者が居れば、何て命知らずな男だろうと驚きの目で小太郎を見たことだろう。

 当の鬼は目を白黒させてから、口に詰め込まれたのが饅頭だと気付くと、其れをもむもむと咀嚼して行く。口の中から饅頭が消えて、鬼は漸く言葉を発する。


「突然何をする」

「暫らく食ってないとか聞いたら、誰だって吃驚するだろ」

「だから、暫らく喰わずとも飢えはせんと言っておるじゃろう。まあ、饅頭は美味いから食うが」

「そうしろそうしろ」


 小太郎は又一つ饅頭を鬼に渡す。鬼は其れを受け取り、実に美味そうに其れを食う。小太郎も美味いと思いながら食う。

 二人で饅頭を食べながら、小太郎が疑問を口にする。


「お前さ、何でそんなに此処の桜が好きなんだ?」

「お前も好きだろう」

「そうだけど。お前、今まで花を愛でたこと無かったんだろ?」


 小太郎の問いに、鬼は暫し考えた。小太郎はじっと答えを待った。

 考えていた鬼は、やがて小さな吐息を落として、思考の終了を告げた。


「……特別な理由など、無い。只視界に入った瞬間、魅せられた。其れだけのことじゃ」

「……ふぅん」

「納得いかんか?」

「いや。ごちゃごちゃ理由並べ立てられるより、よっぽど納得行った」

「そうか」


 小難しいことを言われても、小太郎には分からなかっただろう。だが、単に魅せられた、というのなら、小太郎にも分かる話だった。

 小太郎も、わけも無く魅せられた一人なのだから。


「……やっぱさ、酒、一寸貰えるか?」

「何じゃ、苦手なのだろう?」

「慣れれば美味いと思うようになるんだろう?」

「……ふふ、好きにせい。ほれ」


 酒を飲んで、饅頭を食って、花を愛でる。其れはまさに、花見だった。




   ***




 本当は、饅頭は自分だけで全て食ってしまうつもりでいた。だが、一つ口に放り込んで、其の美味さに満足しながら腹の中に納めると、浮かんだのはひとの子の顔だった。

 此の美味い饅頭を食わせたら、彼れはどんな顔をするだろう。どんな言葉を漏らすだろう。

 味覚というものは其々違うらしいので、若しかしたら彼れにとっては不味いものなのかも知れない。そう考えると、何となく詰まらない気分に為った。

 そういえば、酒は気に召さなかったようだった。美味い酒なのに。此れもやっぱり詰まらない気分に為った。

 美味いと言わせてみたかった。だから残しておいて、彼れが遣って来るのを待っていた。

 饅頭を食ったひとの子は、美味い、と言った。其れだけでやたらと気分が高揚した。何やら愉快で、無性に笑いだしたくなった。酒が既に入っていたので、其の所為だということにしておく。

 一緒に食うと、元々美味い饅頭が、更に美味いもののように錯覚した。

 慣れれば美味く思うように為るのだろう、と言って酒を飲む姿に、心が躍った。

 おかしい、と思ってみたが、そう思うこと自体をもう放棄してしまうべきなのかも知れない。

 だって、今更だろう。

 此の桜を目にした其の時から、おかしくないことなど一つとしてありはしなかった。




   ***




 くあ、と小太郎は大きく口を開けて欠伸をした。


「小太郎でっけーあくび!」

「うるせー」

「ねむいの、小太郎?」

「あー、うん、一寸な」


 日が昇って暫らく。青く広がる空に見下ろされている小太郎は、足元に纏わりつくように歩く子供たちを見下ろした。

 夜中、花見を切り上げて家に帰り、家族を起こさぬように静かに寝床に戻って少し寝て、家族と共に起きて一日の仕事を始める。

 軽く朝食を取って、家を出て、小太郎が先ずすることは、六つほど年の離れた弟を含む元気盛りの小さな子供たちの世話だった。子供たちを起こし、食事の面倒を見、昼からは両親と共に畑仕事をする。

 各自母親が面倒を見れば良いものを、何故小太郎が子供たちの世話をしなければならないのか。其れは単に小太郎が、村の中で一番物の怪共についての知識が深かったからだ。

 何故か此の村には、小太郎程ではないにしても、霊感の類が強く現れる子供が多く生まれる。大人にも多い。そして其れも、矢張り小太郎程強い力は持っていない。昔、法師が言っていたように、小太郎は特別其の分野に長けてしまっているらしい。そんな特徴は欲しく無かった、と思っていたのは少し前までの話だ。我ながら現金だ、と反省したのは最初の二日位だった。

 詰まりそういうことであるから、小太郎は子供たちに、法師に教えてもらった退魔法を子供たちに教え、其の練習に付き合っているのだ。此れは其々の両親には難しいことだったので、何時の間にか小太郎専用の仕事として定着してしまっていた。そしてついでとばかりに其の他諸々の世話まで押し付けられるように為った。


「あんちゃん、夜中にぬけ出してるんだよ」

「げ、何で知ってんの」


 弟の言葉に驚く。教えてたことはなかったはずだ。弟はことも無げに続ける。


「母ちゃんが言ってた」

「うちの母ちゃんも言ってたぜ」

「……あぁー……」


 小太郎が夜中に家を抜け出し村を飛び出し直ぐ其処にある小山の桜を見に行っているということは、大人たちの間では周知の事実と言っても過言ではない。起こさないように心掛けているのは、翌日の彼らの日常を邪魔しないためであって、決して其の事実を隠したいから、というわけではないのだ。


「小太郎、私たちには夜更かし駄目って言ってるのにー」

「俺はいいんだよ、もう大人だから」

「小太郎ずるいー!」

「あんちゃんずるいよなー」

「はいはい」


 ふと、そういえば此の子供たちは小太郎が畑仕事に向かった後、何のようにして時間を過ごしているのだろうか。嘗てと表現する程遠くもない過去、小太郎は大人も子供も呆れる位に小山の上ばかり遊んでいた気がした。彼の頃はあまり周囲に馴染めなかったのだ。力が強過ぎる小太郎は、時には小太郎を襲う危険に、他の人間まで巻き込んでしまう。だから小太郎が独りで小山で時間を過ごすことが多く為っていた。家族以外の他者と上手に関係を築けるように為ったのは、法師に出会って退魔法を覚えてからのことだった。それでも、小山にはよく遊びに行っていた。そして現在進行中。

 回顧を終えて、問い掛けてみる。


「なあ、お前らは小山に行ったりしないのか?」

「小山ー?」

「しないよ。お母ちゃんたちが、勝手に村から出ちゃいけませんって言ってるもん」

「……そっか」


 其れもそうだ、と小太郎は納得して頭を上下に動かした。

 外には危険が多い。此の村では未だ無いが、風の噂によると人を襲って食物や金品を奪うような輩が居るらしい。中には人を殺すことに愉悦を見出してしまうような奴も居るという話だ。何処かで戦があるという話も聞いた。更に、此の村にとっての脅威は人間だけでは無く、物の怪も含まれる。以前此処に立ち寄った法師が何かしら術を施して行ったらしく、村の中にそういった連中が入り込んで悪さをすることは昔程では無く為ったが、其れは詰まり、未だ自衛すらまともに出来ない子供たちを外に出すのは大層危険を伴うということを、村の者たちは正しく理解している。だからこその退魔法教育であり、言い付けだった。


「小山がどうかしたの?」

「いや、何でも無い。ほら、練習始めるぞ」

「はーい!」


 子供たちが小山に遊びに行っていないことは、聞くまでもなく分かり切っていることだった。

 若しも子供たちが小山に遊びに行っていたならば、彼の鬼のことは既に村中に広まっているだろう。彼処にある桜に魅了されてしまった鬼は、もう其れ以外のことにはあまり関心が無い様子なので、子供たちが遣って来ても気付かない可能性が高い。少し前まで、小太郎が帰ることにも無関心だったので、大いに有り得るように思えた。

 小山を見上げる。此処からでは見えないが、美しい花を求めて見上げる。

 桜はそろそろ満開だ。後三日もすれば散って行くだろう。

 桜に魅了された鬼は、其の桜が無く為った時、一体如何するのだろう。

 何処へ、行ってしまうのだろう。




   ***




 其の晩も、小太郎は丘の上に向かった。鬼は未だ其処に居た。

 鬼は昨日同様に酒と饅頭を用意していて、隣に腰を下ろした小太郎に渡した。小太郎も礼を言ってそれを当然のように受け取った。

 小太郎と鬼は、まったりと花を見上げて楽しむ。


「なあ、お前。名前何て言うんだ?」

「名前?」

「何かさ、《お前》って呼ぶのも、《鬼》って呼ぶのも、呼んでる気がしないんだ。あ、俺は小太郎」

「無い」

「……え?」


 小太郎は驚いた。鬼は其れを何とも思わぬ様子で、平然と、小太郎の質問に答える。


「名前など必要だと思ったことが無いからな。吾は《鬼》じゃ。其れ以上でも其れ以下でも無い」

「でも其れ、俺が《人間》だって言うのと同じじゃ……」

「そうじゃ。ひとの子は群れるから個を識別する為に其々名が必要じゃろうが、鬼は群れないからの。名など必要無い」

「……俺、前に、物の怪も人間と同じように名前を持ってるものだって教わったんだけど」

「らしいな」


 小太郎に植え付けられた物の怪の知識に間違いは無いようだ。では、此の美しい鬼は例外だとでも言うのだろうか。


「なのに、お前は名前が無いのか」

「無い。生まれた時に分からなかったから、無いのだろう」


 何故、と考えたいところだったが、其れはお預けにしておく。


「じゃあ俺が勝手に付ける!」

「は?」


 鬼が驚いた顔を小太郎に向けた。

 貴重な表情だったが、小太郎は其れを無視する。


「うーん、そうだなぁ……何が良いかなぁ……」

「お、おい、……」

「あ、じゃあ《さくら》は如何だ?」

「っ…………」


 ぴいん、と二人の間にあった空気が変わった。鬼が驚いている横で、小太郎は何食わぬ顔で笑う。


「……《さくら》。お前、桜が好きだろう。俺も、桜が一番好きだから。如何だ?」

「如何って、……お前、……」


 鬼が探るように、訝しげに小太郎の顔を覗き込む。小太郎はにこにこと笑い続けた。

 暫らくして、鬼が溜息とともに力を抜いた。


「……好きにせい」

「……ありがとう、さくら」


 そして二人は、何事も無かったかのように、花見を再開した。




   ***




「お前、筋が良いなぁ」

「そうかな」

「私に付いて来る気は無いか?」

「ない」

「……きっぱり即決だったな。まあ良いが。いや然し、勿体無いなぁ。其の年頃で其れだけ退魔法が使えるようなら、修行すればさぞ立派な術師になれるだろうに」

「きょーみないもん」

「分かっているさ。だからもう誘わん」

「うん」

「其の分、此の先は面倒を見てやれないからな。何かあっても、自分の力で如何にかしなくてはならない」

「うん」

「退魔法が其れだけ使えるなら先ず問題は無いと思うがな。一応、もう一つ別の手段を教えておいてやろう。保険には為るだろう」

「べつの?」

「そうだ。此れはある程度力が無ければ使えないんだが……まあ、お前なら大丈夫だろう。いいか、若し退魔法が効かない物の怪に出逢ったら、兎に角逃げろ。此れは教えたな?」

「うん」

「逃げられん、と思ったら、《名前》で《支配》してみろ」

「……なまえ?」

「《名前》ってのはな、特別なんだ。其の存在の本質を捉える……って、そんな難しい話しても分からないだろうな。分からない儘で良い。兎に角、《名前》は特別なんだ。物の怪共も私たち同様、《名前》を持っている。持っていない奴も存在するかも知れんが、少なくとも私は名前を持たない物の怪を知らんからな、まあ大抵の奴は持っていると考えて良いだろう。其れを知ることさえ出来れば其の物の怪を《支配》することが出来るんだ」

「それって、なまえをおしえてもらわなきゃいけないってことなんでしょう? むずかしいよ」

「そうだ、難しい。なのに何故、こんなことをお前に教えていると思う?」

「わかんない」

「少しは考えろ。ったく……良いか? お前は他の奴より強い力を持っているってのは、もう分かってるな?」

「うん」

「お前は未だ小さいから未知数だが……私から見ても相当な力の持ち主だと思う。そういう人間は、力技が有効なんだ」

「ちからわざ?」

「無理矢理だ」

「むりやり……」

「物の怪に、本来の名前とは違う、《新しい名前》を付けることが出来るんだ」

「……そんなこと、おれにできるの?」

「出来るかも知れないから、斯うして教えているんだ。いいか、小太郎。力ある者にとって《名前》は特別なものなんだ。《名前》で相手を縛り、支配することが出来る。お前の力で何の程度の物の怪を支配出来るかは私にも分からないが……。若し如何しても逃げられないと思ったなら、試してみろ。案外支配出来るかも知れんぞ」


 其れは、小太郎が未だ十にも満たない年の頃の話。大きな桜の木がある小山の上で出逢った旅の法師の教え。

 そして小太郎は、其れを忘れたことなど無かった。




   ***




 はて、彼のおかしなひとの子は何時頃来るのだろうか。

 鬼はふいに其れが気にかかった。日はすっかり暮れていて、其処らは闇に覆われていた。月は雲に隠れてしまっていた。今日は雲が厚い。

 桜の木に体を預け、盃を傾けながら、ふいに思い出したおかしなひとの子の存在。

 おかしなひとの子。そう言えば彼れは苦く笑うだろう。おかしなって、ひどいな、などと言って。

 然うは言うだろうが、彼れは間違い無くおかしい。鬼とひとの子が並んで花見をしていること自体が異常なことであるし、彼のひとの子は其れを喜んでいる始末だ。


「……おかしいのは吾も同じか」


 ぽつんと独り言が零れる。闇に溶けた言葉は、其の侭鬼の中に浸透して行く。

 ひとなど、鬼にとっては只の有象無象でしか無かった。腹を満たすためのものでしか無かった。

 此の花のせいだ、と鬼は頭上に広がる満開の桜を見上げる。睨んでいた筈だが、段々と憎々しい気持ちが萎んで行く。

 まったく、厄介なものだ。とんだものに魅せられてしまった、と盃を傾ける。

 此の桜に惹きつけられている理由はわかっている。《気》が宿っているからだ。

 よくよく集中してみれば、此処ら一体には《気》が満ちている。此処にいるだけで、喰って力を補うよりは緩慢にだが、力が満ちて行くのだ。此れだけの場、よくぞ此れまで無事だったものだと思う。が、妖というものは意外と鈍感に出来ている。妖特有の気配には敏感であるというのに、ひとの子が有している力については、近くに寄らなければ気づけない。此の場に満ちている《気》はひとの子に宿る物に似ている。其れよりももっと澄んでいるとは思うが、矢張り近付かなければ気付かないだろう。現に、鬼も気付かなかった。妖はこういった場を探すことに長けていない。故に、確実に力を満たせるひとの子を喰らうのだ。

 もっとも、此の麓にあるらしいひとの子の寝床が無事だったのは、何処かの誰かが結界を張って行ったからだろうが。大抵の妖は誤魔化せ、防げる程の代物だ。誰の仕業か興味がまるで無いわけではなかったが、桜を見上げれば矢張り如何でも良いことに思えた。

 此の桜の木は《気》を帯びているが故に、見る者を惹き付けて止まない程に美しい。其れが如何した。大したことではない。其の理由が如何あれ、此の桜は如何しようも無い程美しい。其の美しさが鬼を惹きつけ、同じようにひとの子を惹きつけたのだ。其れが全てだ。

 此の数日、共に花見に興じたひとの子の顔を思い浮かべる。横が妙に寒い気がした。


「……遅いな」


 彼のひとの子は、何時も此れ程までに遅かっただろうか。

 さっさと来ぬか、と念じる。彼れがいないと、美味い筈の酒も饅頭も、何だか味気無い。桜は確かに美しいのに、気持ちが高揚し切らない。

 詰まらない気分で盃を傾けていた鬼だが、ぴたりと其の動きを止めた。

 風に流されて来たらしいにおいを嗅ぎ取り、鬼は目を丸くする。嗅ぎ慣れた、然し少しばかり懐かしい気もする其のにおいに、盃を地に置いて立ち上がる。

 血のにおいだ。麓から、流れて来る。

 麓には、彼のひとの子の寝床がある。

 ふらりと桜の木から離れて、麓を見下ろすことが出来る場所まで移動する。

 そして、其処で轟々と炎が燃え盛っているのを見た。鬼は、己が目を丸くする程純粋に驚いた。其の驚愕の理由を自問自答する余裕も無かった。

 鬼は小山を駆け降りて、麓の村に立つ。何の障害も無く、立ててしまった。

 村は赤く燃えていた。冷たい筈の風が、炎の所為で熱い。

 恐らくは村の者だろう、幾人ものひとの子が赤色を流して染まって地に伏している。

 彼方此方から悲鳴が上がっている。同時に、耳障りな下卑た笑い声も。

 此の村は、襲われたのだ。

 其のようなことは、良くあることだ。鬼はひとの子を喰らうが、其れ以上にひとの子はひとの子を殺す。

 此のようなことは、良くあることだ。斯うした光景を見るのは決して初めてではない。

 良くあることだ。

 なのに、何故だ。

 息が上手く出来ない。




「こたっ……こたろう!!」




 鬼は呼んだ。

 頼んでもいないのに教えられた彼のおかしなひとの子の名を呼んだ。


「こたろう、何処じゃ! 何処におる!」


 叫んだ。

 探した。

 必死だった。

 何故などと、理由は欠片も考えなかった。

 鬼はもうすっかり狂ってしまっていたのだ。彼の桜に魅せられた時から、鬼は鬼としての道から外れてしまっていたのだ。だから、鬼らしくない此の行動を、鬼は少しも疑問に思わなかった。


「こたっ、……っ!」


 漸く見付けた時、ひとの子は、地面に伏して居た。

 赤い色を流して居た。

 其れを理解して、頭の中が真っ白に為る。


「こたろう!!」


 鬼は駆け寄って、ひとの子の体を抱き上げた。

 ひとの子は、重そうに瞼を上げて、濁り始めた其の瞳に鬼を映して、泣きそうな顔をした。


「……お前、来たのか……」

「っ、来たのか、ではない! 此のうつけ!」

「ははっ……怒った顔、初めて見た、な……怒っていても、美しいな、お前は……」

「何を馬鹿なことを言っておる! 何故吾を呼ばなんだ!?」


 ひとの子は驚いたように目を丸くした。其れが少し腹立たしい。


「……吾が何も気づいておらんとでも思うたかっ……」

「……だってお前、文句、言わなかったじゃ、ないか……」

「言うな! 吾とて何故かはわからぬ! じゃがっ……」


 鬼の言葉は続かなかった。続けるべき言葉が、鬼には分からなかった。

 炎は勢いを衰えさせることなく轟々を燃え続けている。ひとの子の体からはだくだくと赤色が流れ続けている。


「……死ぬのか、こたろう……」

「そう、だな……さすがに、助からないだろうなぁ……それとも、お前、此の傷を治すような力とか、あるか……?」

「……無い」

「……だよ、なあ……お前、鬼だもん、なー」

「悪かったな、鬼で」

「別に、悪かないさ。鬼でも、何でも、構いやしない、んだ」


 ひとの子が、鬼の頬に手を伸ばす。血と泥で汚れた手だったが、鬼は気にせず、其れを只受け入れた。

 すり、と頬を撫でる手は、弱々しさしか感じさせない。


「お前を、使役、したかったわけじゃ、ないんだ……」

「……そうか」

「すまなかった、な……俺、怖かった、んだ……いつか……近いうち、お前が、居なくなっちまうんじゃ、ないかって……居てほしか、ったんだ……ずっと、ここに……だから、……」

「……そうか」

「……なあ……何で、そんな、顔、してんだ……?」


 どんな顔だ、と鬼は聞かなかった。聞きたくなかった。


「……俺が死ね、ば……お前は又、自由だ、ぞ……」

「……いらぬ」


 鬼は此の時漸く、己が狂っていることを自覚した。狂っていないなら飛び出す筈の無い言葉が、何処からか溢れ出して来る。そして、其れを留める術が、鬼には分からない。


「お前に二度と会えなく為ると言うなら、自由などいらぬっ……!」

「……さくら……」


 おかしなひとの子が、其の目を精一杯丸くした。

 今日初めて呼ばれた、ひとの子が勝手に鬼に付けた名前。其れがとても心地よく、鬼の体に響く。

 すっかり虜だと、鬼は小さく自嘲した。


「……《転生》って、知ってるか……?」

「……何じゃ、其れは」

「死んだ者の、たまし、が……新たに、生まれて来る、ん、だと……」


 信仰の一種だと、鬼には直ぐに理解出来た。信仰は理想に似ている。其れは恐らく、死んだ者の魂を惜しむひとの子たちの願いが作り上げたものだ。

 神だか仏だか知らないが、信じたら、鬼でも、何でも、救ってくれるのだろうか。

 救って、くれないだろうか。


「……そうか。お前も又、生まれて来るのか?」

「かも、しれん……」


 曖昧な言葉に、相手も信じていないことを、鬼は知る。眉間に皺を刻む。


「……其れを待てと言うのか」

「其れが、嫌なら……俺を、喰らえ」

「…………」

「そしたら、ずっと、一緒だ、ろ?」


 ひとの子は笑う。苦しそうに浅い呼吸を繰り返しながら、笑う。其の間にも、赤色は流れ続けている。

 鬼は其れを見ながら、答える。


「断る」


 実にきっぱりと言い切った。ひとの子は、少しばかり驚いたようだ。其れが少しばかり、面白かった。


「……何で……?」

「お前のような不味そうなもの、願い下げじゃ」

「不味そうって……」

「だから……」


 鬼の右手が、そっとひとの子の胸に重ねられる。右手から、鼓動と温もりが伝ってくる。


「早う生まれて来い、こたろう」


 鬼の答えに、ひとの子は、苦しそうでありながらも、嬉しそうに笑った。

 ひとの子は、瞳を閉じて、然しなおも口を小さく動かす。


「……頼みが、ある」

「何じゃ」


 掠れた声を、鬼は拒絶せず、続きを促した。ひとの子は続ける。


「此の村を、守って、くれない、か……未だ、生き残って、る人が、いるかも、しれな……俺の、家族、も……もちろん、嫌なら、別にい、から」

「……其れだけか」

「此れだけ、だ」

「そうか」


 ひとの子が再び瞼を上げた。其の濁った瞳には未だ、鬼の姿が映っているだろうか。




「また、な……さくら……」




 ひとの子は笑って言って、其れきり動かなくなった。


「……こたろう?」


 呼んでも、相手はもう何も応えなかった。右手からまだ温もりは伝ってくるが、鼓動はすでに消えている。上がったままの瞼をそっと下ろし、濁った瞳を隠してやる。

 何もなかった。つい昨日に己の魂を縛り付けた糸は、解け消えた。此れ程強い力ならば残るかもしれない。何処か、其れを望んでいた己に気付き、鬼は奥の歯を噛み締めた。

 何も残らなかった。然し、鬼の気持ちは変わらなかった。縛られる前から、鬼はとうに変わってしまっていた。

 妖はひとの子を喰らうものが多い。中でも、其の体内に隠された心の臓を狙う。理由も仕組みも知ったことではないが、手足を喰らうよりも多くの力を補えるからだ。経験ではなく本能が其れを知っている。

 村を守って来た結界は何らかの理由から用を為さなくなっている。血のにおいに惹かれて様々な妖共が押し掛けて来るだろう。其の時、いの一番に狙われるのは鬼が抱えている此の体だ。


「……やれやれ」


 鬼は立ち上がり、響き上がる悲鳴の先を追いかけた。

 左の腕で、ひとの子一人を抱えたまま。




   ***




 昔々、大きな桜の木がある小山の麓に小さな村がありました。

 其の村は、とても美しい鬼に守られていると言われています。

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鬼のさくら KOUMI @koumi

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