鬼のさくら

KOUMI

鬼のさくら

 昔々、大きな桜の木がある小山の麓に小さな村がありました。

 其の村は、とても美しい鬼に守られていると言われています。

 村人たちは、其の美しい鬼を《鬼姫》と呼び、慕い敬います。

 鬼姫は刀を手に、村人たちを害悪から守り続けています。


 けれど、鬼姫が村を守り続ける理由を、村人たちは誰も知らないままなのでした。


   ***


 そこは田舎にある町だ。それなりの数の民家があり、それなりに道路が整備されており、それなりに店舗等の施設が充実している。ど田舎と呼ばれるほど田舎ではないが、田んぼや畑が目と心を休めるその景色は、やはり都会と呼ばれる世界からは遠くかけ離れたものに感じられる。

 そんな町――姫護(きご)という名前の町の中を、大崎虎太郎は父親が運転する車の後部座席から眺めていた。

「いいところね」

「そうだな。のどかで、心が落ち着く」

 助手席の母親と運転席の父親が、無邪気に駆けまわる子供の姿を見てほのぼのと言葉を交わした。虎太郎は二人の言葉に相槌一つ打たず、ただ横で流れていく景色を眺めた。

 後部座席の虎太郎からは両親の顔は見えない。けれど、穏やかな声調と内容とは裏腹に、二人がとてもくたびれていることは容易く想像できた。だって彼らは車に乗り込むずっと前からくたびれていたのだから。そしてその原因は、虎太郎なのだから。

 車ののんびりしたスピードは、歩行者を気遣っているだけではない。そうやって慎重に運転しなければ、運転している側も危ないと理解しているからだ。並ではない疲労を抱えている身で車を暴走させた場合の結果など、火を見るよりも明らかだ。

 交代で車を運転する両親の姿に後ろめたさを感じながら、虎太郎は道中何度か意識を飛ばしていた。

 虎太郎に運転する能力があれば、代わるのに。けれどそれはできないのだ。虎太郎はまだ十三歳の子どもなのだから。

 そして両親はもしかしたら、たとえ虎太郎が十八歳以上で運転免許を取得していたとしても、運転を任せたりしないかもしれない。

 自分の体質を考えて、自然胸の中心が鉛のように重くなる。それを振り払うこともできず、前方を見つめる勇気も持てず、虎太郎はじっと横の窓の外を眺めた。

 道端で遊ぶ子どもたちから少し離れた場所でぼんやり立っている存在が見える。

 ぼんやりした様子で立っているのではない。存在自体がぼんやりとしているのだ。希薄だ。害がなさそうだとしか言えない。

 自分とは違う存在なのだと、はっきりわかる。あれは《人間ではない》と明確に言える。虎太郎が目に留めたのは、そういうものだった。

 大崎一家は姫護の住人ではない。車で高速道路を使って移動し、それでも二時間以上かかるほど離れた土地で生活している。旅行で来たのかと言えば、そうだとも言えるし、そうでないとも言える。大崎一家はこの町に数日泊まり込む予定だが、娯楽のためにやってきたのではない。虎太郎に日々付きまとう問題の解決策を求めてやってきたのだ。


 大崎虎太郎の母親の血筋は、代々霊感のようなものを備えて生まれてくるそうだ。それを聞いたのはいつだったか……。たしか小学生の頃だったと思うのだが、はっきりとは思い出せない。ただ、その時母親が浮かべていたとてつもなく申し訳なさそうな顔は、虎太郎の記憶にしっかり刻み込まれている。母親がそんな顔をしたのは、虎太郎が持つ霊感が一族の想像以上に強いものだったためだ。

 霊感を備えていると言っても、その程度はたかが知れているはずだった。現に、母親も、母親の兄弟も、母親の両親も、そのまた両親も、多少妖怪と呼ばれるような存在を見るのだが、見るだけだ。他の人よりほんの少し多くのものが見えるだけなのだ。ふとした瞬間、たとえばすれ違った瞬間に見えたとして、気付いて慌てて振り返ってみれば何も見えない、なんてことが多々ある。

 万が一の時のために多少身を守る手段を身につけているとはいえ、彼らに絡まれることなどほとんどなかったらしい。

 けれど、虎太郎は違った。常に彼らが見えた。

 先ほど見かけたように希薄な存在であれば、あるいは人の形をしていなければ「これは自分とは違うモノだ」と理解できるが、人と変わらない姿をしているものも多くいる。虎太郎はそれを瞬時に見抜くことができず、人前で話しかけたりして、周囲に気味悪がられていた。

 それだけならばまだ救いがあったかもしれないが、虎太郎は彼らに狙われることが圧倒的に多かった。よく「肝を食わせろ」などと叫んでいるので、虎太郎の肝――つまり内臓がほしいということなのだろう。

 冗談ではない。

 なぜそんな理由で命を狙われなければならないのか。しかも虎太郎ばっかり。理不尽だ。

 この危険から逃れるには、彼らより強くならなくてはならない。けれど、まだ十三歳の虎太郎には、大事な人たちを守る力どころか、自分自身を守るだけの力もない。

 素質はある。あるにはあるし、それなりの場所で戦い方を学ぼうとしたこともある。しかし上手くいかず、結局虎太郎は戦い方を会得できなかった。虎太郎にできるのは、ただひたすらに逃げることだけだった。

 ただの民俗学の教授である父親はともかく、多少の危険は仕方がないと割り切っていた母親ですら、「これはいけない」と強い危機感を抱いたほどだ。虎太郎の状況はとてもではないが「どうにかなる」と楽観視できるものではなかったのだろう。

 母親は親族の伝手を頼り、専門家を頼ることにした。除霊師だとか、陰陽師の血筋だとか、そんな胡散臭い連中だ。けれど、胡散臭いのは響きだけで、彼らはきちんとそれなりの力を有していた。

 母親も母親の親族もみんな霊感があるのだから、口先だけの偽物は看破してしまえるということなのかもしれない。

 とにかく彼らは、時には虎太郎の護衛をしくれたり、時には大崎家に結界を施したりとしてくれた。けれど、どれも一時しのぎでしかなく、永続的な解決は望めなかった。

 ある日――今日より一ヶ月ほど前のことだ。やはり一時的に虎太郎を命の危機から救いに来てくれた術師が、虎太郎の状況を見かねて言った。

「うちの本家に頼ってみないか。お前のこの状態は異常だし、これだけの力があって戦う術がないなんてむちゃくちゃだ。うまくすれば本家で戦い方を教えてもらえるかもしれないし、それは無理でもなにか助言はいただけるだろう」

 両親はそれに飛びついた。このままではいつか一人息子を失ってしまうかもしれないというのだから、それも仕方がないと言える。

 術師にその本家とやら――《高天(たかま)》というらしい――を仲介してもらい、今より二週間ほど前にお邪魔してきた。本家で一番偉い当主という立場の男性に面会し、本家で一番占いが達者だという女性が虎太郎のことを占ってくれた。

 虎太郎を占った女性は、虎太郎と両親にこう言った。

「姫護という町に向かいなさい。そこで出逢いが待っています。それは、君を守る力になるでしょう」

 当主の男性はそれに渋い顔をした。姫護という町に、あまりいい印象を抱いていない様子だった。あそこは危険ではないか、と占いを担当した女性に言ったが、女性はしかし、自分の占いに間違いはないと言い張った。

 そして両親も虎太郎も、占いの結果を信じることにした。

 ほかに縋れるものがないのだ。可能性のあるのならば、その全てを試すしかない。それだけ、現状を打開する術は少なく、そしてそれを強く求めていた。

 当人たちの強い意志に負け、当主は虎太郎たちを止めることはしなかった。

「……姫護にはうちの分家がある。彼らに連絡を入れておこう」

 そうして本日、占いによって示された姫護にやってきたというわけだ。


   ***


 四月の半ばにさしかかろうという頃。

 学校はすでに新学期を迎えている。けれども今日は金曜日。

 虎太郎は両親公認で学校をサボって姫護にやってきていた。父親はもともと金曜日は担当の講義がない。月曜日にはあるらしいが、あらかじめ休講の手続きを取っているらしいので、姫護にいられるリミットは月曜日まで。

 高天本家でもらった地図を頼りに辿り着いたのは神社だった。妙に響く物音や人の声が、ほんの少しだけ開けられた車の窓から滑りこんでくる。

 専用の駐車場に車を置き、砂利の上に立った大崎一家を、巫女装束の女性が迎えた。

「大崎様ですね。ようこそ、姫護へ。わたくし、桜木千世と申します。桜木家当主のもとへご案内させていただきます。こちらへどうぞ」

 案内されて境内に入ると、町の規模に見合わないような大きさの神社であることがわかり、また妙な賑わいがあった。準備中の屋台が参道の両脇に並んでいる。桜木千世と名乗った女性が、奥へと案内しながら説明してくれる。

「すみません、驚かれたでしょう。この週末は祭りがあるもので」

「お祭り、ですか?」

「ええ。桜祭りというんです。うちでまつっている神様が大の桜好きでしてね。桜が咲き始めるこの時期に、毎年祭りを催すんです」

「へぇ……」

 すい、と桜木千世が本殿の向こうを指差す。

「特に……見えますか? 丘の上に一際大きな桜が一本あるんですが」

「ああ、見えますね。ここからでも十分見事です」

「神様はあの桜が一番のお気に入りなんだそうですよ。桜が咲いている間は、あそこでお花見してらっしゃるという話なんです。夜は立ち入り禁止なので、興味がお有りでしたら、明日の朝にでもご案内しますよ」

「ああ、そうなんですか。それはぜひ、お願いしたいですね。なあ、母さん」

「そうねぇ」

 準備中とはいえ、祭りによる独特な空気に引っ張られたのか、くたびれていたはずの両親の声にも活気がいくらか戻っているような気がした。

 虎太郎も、できるものなら花見をしたいと思う。

 体質による被害が明確になると、虎太郎は必要以上に外出しなくなってしまった。両親もまた、虎太郎が必要以上に外出することを快く思わなかった。花見も祭りも、ずっと避けてきたものだ。クラスメートたちが楽しそうにその話をするのを、教室の隅でじっと聞き耳だけ立てて、少しだけ羨ましく思ったりもした。

 けれど、そんな虎太郎の望みは、この土地の人に迷惑になりはしないだろうか。

 不安げにちらりと先頭を歩く女性を見ると、気付いた彼女が安心させるようににっこりと微笑んだ。女性らしい、柔らかな表情に、虎太郎の顔がほんの少し赤く染まる。相手は決して若くはない、むしろ虎太郎の母とそう変わらないように思えるが、親類以外にそんな表情を向けられたことのない虎太郎はつい照れしまう。

「そう緊張しなくても大丈夫ですよ。ここは、他の土地よりずっと安全ですから」

 どうも彼女は、虎太郎の体質を見抜いているらしい。それは、この場で虎太郎を見て看破したことなのか、事前に資料でも出回っていたのか、どちらかはわからない。どちらもありえそうだ。

 しかし、ふとおかしなことに気付いて、虎太郎は軽く首をかしげた。本家の当主だという男性は、この土地を危険ではないかと懸念して渋い顔をしていたのに、彼女は自信ありげにここを安全だと言う。少なくとも、他の土地よりは安全だと確信している様子だ。

「ここは、高天家の分家なんですよね?」

「ええ。……あまりいい話は聞かなかったでしょう。うちは本家にも他の分家にも煙たがられていますから」

 桜木ちよは、虎太郎の母が発した一言から、相手がどんな気持ちを抱いているのかをしっかり見抜いてしまった。これは慣れもあるのかもしれない。本家のもの、また他の分家のものに会うたびに何かしら言われているのだろうか。

「この神社でまつられている方のことが、みなさんお気に召さないみたいで」

「どんな神様なんですか?」

 父の質問に、質問された彼女は困ったように苦笑した。

「その方はご自身を《神》と呼ばれるのは不本意なようですので、私たちは普段その方を神様とは呼びません。よその方には、神様だと説明した方が受け入れられやすいのでそうしています。どんな方かといえば、戦いに秀でた方です。その方は私たちに恵みをもたらしてくれるわけではありませんし、災害から守ってくださることもありません。けれど、それが人災、または霊的なものであれば、私たちを助けてくださるんです」


「鬼のように強く、夢のように美しい。私たちは彼女を、《鬼姫様》と呼ばせていただいているんです」


 それを聞いて、虎太郎の両親が口ごもった。説明した彼女は察して、やはり苦笑した。

「だから、私たちは本家にはよく思われていないんです」

 閉口する両親の一歩後ろを歩きながら虎太郎は、鬼をまつってる神社なんてあるんだなぁ、と暢気に考えていた。


   ***


 大崎一家は神社の奥の方に立っている家の中に案内された。それは民家などと呼べるような規模ではなく、大人が十人以上余裕で暮らせるのではないかという広さの平屋だった。もちろん、高天本家に比べればずっと小規模だ。胡散臭い家業の割に儲かっているのかもしれないなぁ、と虎太郎は考えた。その儲けが真っ当なものなら文句はない。

 高天の分家にあたるこの家は、高天の名前を冠しておらず、桜木と名乗っているらしい。つまり虎太郎たちをここまで案内してくれた女性も、桜木の家の者だ。

 詳しい系図は虎太郎たちには聞かされなかったが、大昔に高天の家の者がこの地で結婚したために高天からは分家として扱われているだけらしく、この家のものには本家がどうの分家がどうのという意識はほとんどないらしい。

 おそらく、高天としてもこの家を分家として扱うのは不本意なのだろうが、この地を放っておくよりは分家として掌握しておいた方がいいと考えたのだろう、とは桜木の当主(ようするに宮司)である男、桜木直人の言だ。虎太郎がそれを聞くのも、理解するのも、これより少しばかり後の話になる。

 桜木の家の外観は明らかな和風建築で、その雰囲気を壊さないためか玄関のドアは引き戸を用いている。桜木千世がそのドアを上品な仕草で開けると、虎太郎と同じ年頃かと思われる少女と少年がいた。二人の姿を認めて、桜木千世が「あら」と声をかける。

「おかえり。今から準備のお手伝い?」

「そ」

 そっけなく答えたのは少女の方だった。不機嫌そうな顔で靴ひもを慣れた仕草で結んでいく。少年の方はぼんやりとした目で虎太郎を見ていた。それに気付いて、虎太郎は無意識に肩に力を入れた。

「まったく! この忙しい時にお客とか、なに考えてんの?」

「さ、沙世……」

 桜木千世が困ったように呼んだのは、おそらく少女の名前なのだろう。

 ぶつくさと文句を言われているその原因は、もしかしなくても自分のせいだろうか。虎太郎は居たたまれない気持ちに襲われて顔を下に向ける。

「……沙世」

「なによ、沙月」

「……お客様」

「……え」

 少年が虎太郎たちの存在を視線だけで示す。虎太郎たちに気付いていなかったらしく、少女はものすごく驚いた顔をしてから、少しバツの悪そうな顔を見せた。

「……行ってきます!」

「行ってらっしゃい」

 少女は虎太郎たちの横を走り抜けて、そのあとを追うように少年が歩いて通り抜け、その際にぺこりと会釈をされた。虎太郎も慌てて会釈を返した。

「……すみません、娘が」

「ああ、いいえ。お忙しいところにお邪魔したのはこちらですし」

 申し訳なさそうに頭を下げた桜木千世に対し、虎太郎の母も申し訳なさそうに返す。

「ようこそおいでくださいました、大崎様」

 そう言って柔和な笑みとともに家の奥から出てきて大崎一家を迎えた男がいた。にこにことしている彼の横に桜木千世が立ち、上品に彼を紹介する。

「こちらがわたくしの夫の桜木直人、桜木家の現当主です。当主なんて言いますけど、ようするに大黒柱ってことなんですけどね」

「遠いところからいらっしゃって、さぞお疲れでしょう。部屋を用意させていただきましたので、今日はゆっくり休まれてください」

 二人並んで微笑まれると柔和さが二倍になった。空気までほやんと柔らかくなったような気がしてしまう。

 現在桜木の家を支えているという桜木直人は、虎太郎の父より少しばかり年が上に見える。虎太郎の父は相当柔和な顔をしているが、対する桜木直人も負けず劣らず人好きしそうな顔をしている。当主と言うには少し頼りない印象を受けた。

 彼は自ら大崎一家を客室として使用している和室へと案内すると申し出た。当主直々になんてそんな、と虎太郎の両親は遠慮しようとしたが、それよりも先に彼の妻が「じゃあお願いしますね」と放り投げてしまったので、結局恐縮しながら彼の後ろを辿って廊下を歩くことになった。

「いやはや、申し訳ありませんね。祭りの準備やらなにやらありまして、詳しいお話は明日の夜以降になってしまうんですが……」

 それ自体は構わなかった。もともと、なにかしら行事があると言う話は事前に聞いていたのだ。さすがに祭りだとは思わなかったが。それを知っていたとしても、やはり日程をずらすことはなかっただろう。

 大崎一家がこの時期にこの土地を訪れたのは、それなりに腕の立つ術者が何人もいると聞いたからだ。田舎の町だということもあり、それならばゆっくりするには最適だと考えた。最近では、三人とも気の休まる時と言うものがなかった。そんな話を父がぽろりと聞かせ、すると桜木直人は穏やかに笑い返した。

「見たところ、虎太郎くんのその力ではのんびり祭りを楽しんだこともないでしょう。祭りの最中も、あちこちにうちの術者を配置しています。明日の祭り、見に行かれてはどうですか?」

 それを聞き、「どうする?」と窺ってくる両親に、虎太郎は頷いて答えた。祭りに楽しい思い出があるわけではない。けれど、祭りだ屋台だという単語はどうしてか心をくすぐってくるのだ。


   ***


 大崎一家が姫護に着いた時にはもう夕方だったので、三人は夕食をごちそうになり、風呂を貸してもらい、用意されていた布団を三人分並べて敷いて、すぐさま就寝を選んだ。

 虎太郎は両親の寝息を耳に入れながら、とうに灯りの消えた部屋でしばらく天井を眺めていた。眠くないわけではないが、実際に車を運転していた両親に比べれば疲労はずっと少ない。それに、両親の疲労は、今日までの積み重ねの分も間違いなくあるはずだ。

 高天本家の占い師は言った。ここで出逢いがある。それが、虎太郎を守る力となる。

 それを頼るのは、他力本願のような気がして、本当はあまり気分はよくない。けれど、虎太郎はまずなにをおいても、両親の負担を少しでも軽くしたいのだ。虎太郎が強い力を持ってしまったせいで、二人には本来なら不要なほどの苦労をさせてきた。あったはずの平和な幸せを、握り潰してきた。そのくせ、当人はなにもできないときた。そんな自分が情けなく、とても歯がゆい。

 両親は虎太郎を見捨てない。それが嬉しくて、とても心苦しい。

 占い師の言葉は、正直なところいまひとつぴんとこない。

 だからこそ、不安になり、同時に期待を抱く。

(どんな出逢いがあるんだろう、ここで)

 それとも、もう出逢っているのか。


   ***


 朝になって、目が覚めて、布団を抜けて、大きく伸びをした。やけに心地がいい。こんなにすがすがしい気分で朝を迎えたのはいつ以来だろうか。

 両親も、まだ少し眠たそうではあったが、ずいぶんとすっきりしたような顔をしていた。久しぶりにぐっすり眠れたのだろう。

 寝巻から着替えて、洗面所を借りて、朝食をごちそうになった。家の外観は和風だったが、朝食の内容は思いっきり洋風だった。昨日の夕飯の方が和風メニューが多かった気がする。

 少し休んだあと、桜木千世が声をかけてきた。桜の元へご案内します、ということだった。言われて、そういえば昨日ここに着いてすぐにそんな話をしたことを思い出した。

 件の桜の木は、神社裏の丘の上にある。山登りほど厳しくはないが、やはり少々距離があるということで、お茶を入れた水筒と、なぜかおにぎりを一人ひとつ渡された。軽いピクニックのような雰囲気だ。

 桜木の家を出て、丘へと向かう。途中ちらりと参道が目に入ると、縁日の準備は着々と進んでいるようだった。

 道中、民俗学者である父が興味津々とこの町の歴史、神社や《鬼姫様》について尋ねた。虎太郎はそれに特別の興味は抱いていなかったが、他に聞くものもないので父と桜木千世の会話に耳を傾ける。

「文書として残っているもので一番古いのは、高天の方がこの土地の娘と結婚したあたりですね。昨日お話しましたとおり、それが桜木家の元となります。その時点ですでに《鬼姫様》は存在してらしたようです。この辺りは元々は小さな村だったのですが、高天の方と結婚した娘というのが、巫女のような扱いだったそうなんです」

「つまり、《鬼姫様》と村の者を繋ぐ存在である、と?」

「そんな大層なものじゃありませんよ。言ってしまえばお世話係のようなものです」

「お世話……」

「ただ、村にとって《鬼姫様》は神様同然でしたから、その娘は村の中心だったんです。神社が形成されたのは、高天本家の指示だったとされています」

「なるほど」

 変な感じだな、と虎太郎はぼんやり考えた。《鬼姫様》という信仰対象について巫女がいる、というのはわかる。だが、世話係という表現を用いられると、なんだか妙な気がした。

 まるで《鬼姫様》が実在しているみたいだ。

「《鬼姫様》の起源などは、文献に残っていたりはしないんですか?」

「そうですね、そのあたりはさっぱり。口伝ですら残っていないんです」

「……ということは……」

「いつ、どんな経緯があってこの地にやってきたのか、なにを思ってこの地を守っているのか。本当の名前も含め、《鬼姫様》がこの地を守っているという事実以外、現代には一つも伝えられていないんです」

 桜木千世が、寂しげにくすりと笑った。

「もしかしたら、昔から誰も知らないのかもしれませんね」


   ***


 丘の上で花を咲かせている桜の木は、大きかった。虎太郎も父も母も、それを見上げてだらしなく口をぽっかり開いた。

「これは……見事ですねぇ」

「姫護のシンボルなんですよ、これ」

 木の周りには、木製の棒と縄で作った囲いがある。子供でも乗り越えられそうな低さだが、虎太郎はわざわざそれを乗り越えようとは思わなかった。きっと姫護の誰もが同じことを考えるのだろう。

「樹齢は何年くらいですかね」

「さあ……それもよくわからないんですよね」

「相当古そうですよね」

「そうですね。少なくとも、文献が残っている限りでは触れられていないので、それ以前からかと」

 両親と桜木千世の声を耳に入れながら、虎太郎はじっと桜を見上げていた。時折吹く風に枝が揺らされて、ちらちらと花弁が降ってくる。見たところ、満開までには至っていないようだ。

 きれいだなぁ、と何気ない当たり前の感想を持った。本日は晴天。澄んだ水色を背景に花びらの色がよく映える。

「お社ですか?」

「ええ。本当に、形だけなんですけど」

 視線を動かす。見れば、桜木千世が屈んで、持ってきていたおにぎりを小さな社に供えていた。虎太郎も桜から離れて社に近づく。社の周りは、供え物らしき果物やら饅頭やら酒やらで溢れていた。

「随分たくさん供えられていますね」

「ええ。《鬼姫様》はなくても怒られはしないのですけど、あると喜ばれるので。みなさんもどうぞ」

 出掛けに持たされたおにぎりはこのためだったらしい。両親は少し敬うように、虎太郎はよくわからないので無造作に、持ってきていたおにぎりを供えた。

 しばらく桜を堪能してから、四人は丘を降りた。

 帰る道すがら、虎太郎は、あの供えたものはいつ誰が処理するのだろうかと考えた。


   ***


 虎太郎は溢れかえる人々を、参道からはずれた場所で眺めた。その傍らに両親はいない。はぐれてしまったのだ。

 午前中は桜木千世の好意と案内で神社の裏にある丘の桜を見物し、昼食を取った後は両親が少し寝ると言いだしたので、虎太郎はごろごろしたり、本を読んだりして過ごし、日が暮れ始めたところで三人は縁日に繰り出してみた。

 人ごみに飛び込んだのはとてつもなく久しぶりだったこともあり、思いのほか気持ちが浮かれてしまったこともあり――おそらく両親も――、あっさりとはぐれてしまったのだ。

 両親は虎太郎の姿がないことに気付いているだろうか。

 ハーフパンツのポケットから携帯電話を取り出す。

 同級生のほとんどが持っていないものだが、学校の登下校ですら危険に晒されることがある虎太郎は、緊急連絡用にと両親から持たされているのだ。アドレス帳には両親の携帯電話と自宅電話の番号くらいしか登録されていない。

 画面を見ても、着信はない。両親はまだ気づいていないのかもしれない。またはいまだ人ごみの中を泳いでいて、携帯電話を取り出す余裕がないのかもしれない。

 ちらりと参道を見やる。何度見ても、この田舎町にこんなに人が住んでいるのかと驚いてしまう光景だ。

 とにかく一度連絡を入れてみよう。虎太郎はアドレス帳から父の番号へ呼び出しを掛けようとした。

「…………」

 ふいに、ぞわりと冷たい空気が背中をはいずる。春の半ば、夜の風はまだまだ冷たい。けれど、これはそういった類のものではない。

 もっと、別のもの。


 ざわ    ざわ ざわ  うま ざわざわざわ    うまそう うまそう ざわ

 うれしや    ざわざわ

     ざわざわ    うまそう ざわ ざわ ざわ きも 

       うれしやざわうまそうざわ くいたいざわくいたいくいたい

ざわきもざわきもきもきもざわきもきもざわざわざわきもざわざわざわきもきもきもきもきも


 く わ せ ろ


「っ!!」

 まずいと思った時には、手の中にあった携帯電話を細長い何かで叩き落とされていた。虎太郎はそれを理解してすぐさま駆けだした。この時、神社の人間に助けを求めればいいということに思い至らなかった。やばいと思ったらとにかく逃げる。ずっとそうしてきた虎太郎にとって、それは条件反射でしかなかった。

 知らない土地で、宛てなく走り回り、虎太郎は神社の奥へ、奥へと入り込んでいった。うっそうと茂る木々の間をすり抜け、時に木の根や石に躓きながらもとにかく逃げた。当然、自分がどこを走っているかなんて理解する余裕はない。

 逃げる。それが唯一、虎太郎にできる防衛手段だった。


   ***


 散々走って、切れ切れの息で、それでもまだ逃げようと重たい足を動かす。先ほどの存在がまだ虎太郎を追いかけているのか、それともとうに諦めたのか、それもわからない。虎太郎の頭の中は逃げることでいっぱいだった。

 我が物顔で視界を遮る木々が唐突に途切れた。その先にある大きな桜の木が目に入って初めて、ここはどこなのだろうと回りきらない頭で考えた。

「何者だ」

 とてもよく通る、凛とした、きれいな声が問いかけた。

 桜の木の下には人の姿があった。女性だとすぐにわかった。

 風にさらさらと流れる髪は長く、夜そのもののような黒さ。対象的なほど白い肌に、時代錯誤なきらびやかな着物をまとっている。大きく輝く双眸は、しっかりと虎太郎を捉えていた。

「えっ、と……?」

 誰だろう。考えたところで、先に問われたのは自分の方だと気がついた。

「す、すみません! ぼ、ぼく、大崎虎太郎っていいます!」

「……こたろう?」

「は、はい!」

 彼女はゆったりとした歩みで虎太郎に向かってきた。近づけば近づくほど、彼女がとてつもない美人であることがわかる。

 虎太郎の目の前までやってきた彼女は、虎太郎よりいくらか背が高かった。虎太郎は学級の中でも背が低いほうで、それを少しコンプレックスだと思っている。しかし、今はその劣等感を意識する余裕もない。

 彼女は虎太郎をじっと、髪と同じように黒く、星を散らしたように小さな光を映す瞳で見つめてくる。見入っていると、形のいい唇がゆっくりと動いた。

「……追われているのか?」

「え?」

「ぼろぼろだ」

「あ……あはは……」

 相手の言葉に自分の姿を確認すれば、服にも肌には葉っぱや土が付着している。形振り構わず逃げたし、その途中で転んだりもしたのだから、当然の結果だった。

 虎太郎はごまかすように笑った。愛想笑いは得意だった。

 虎太郎はその体質のせいで周囲に気味悪がられることが多かった。それはどうしようもないにしても、できるだけそれ以上の不快感を周囲に与えないように努力してきた。それが実を結んでいるかどうかはわからない。

 彼女が着物の懐から長方形の紙を取り出した。それは見る間に鳥のような形をとり、彼女の手から飛び立っていく。虎太郎はじっと、その姿が見えなくなるまで目で追いかけた。

「下に知らせをやった。直に迎えが来るだろう」

「え……」

「一人で戻るのは危険だ。迎えが来るまでここで待つといい」

 彼女が虎太郎に背中を向ける。黒髪が目の前でさらりと泳いだ。

 ぼんやりその光景を見ていると、数歩進んでから彼女が虎太郎を振り返った。

「なにをしている」

「へ?」

「来い。ただ待つのは退屈だろう」

「は、はい……」

 誘われるままに、虎太郎は足を進めた。二人の足が止まったのは、大きな桜の木の下だった。

「そこに座れ」

「は、はい」

 指示されるまま、桜の木の根元に腰を下ろした。その隣に彼女も落ち着く。さらに彼女は背中を木の幹に預け、空を見上げるように顔を斜め上に向ける。虎太郎も指示を待たずにそれに倣ってみた。

 そうして見上げた世界は、まるで違う世界のようだった。

「う、わぁっ……」

 ライトアップされているために夜でもはっきりとわかる桜の花弁の淡い色彩。風で枝が揺らされて、花と花の隙間からのぞく夜の闇。なによりも濃いはずの闇の色を、桜の淡い色が塗りつぶしているような光景。

 きれいだ。感想なんてその一言で十分だと思った。それ以外の言葉なんて余計なおまけとしか思えない。昼間にも桜を下から眺めたし、それをきれいだと思いもした。けれど、それとは比にならない、この光景は。

「すごい、きれい……」

「だろう。この景色は吾のお気に入りでな。いつもは一人で静かに眺めるのだが」

「え……あ、あの、ぼく、見せてもらってよかったんですか?」

「かまわん。今日は気分がいい」

 彼女は満足そうな顔でただ世界を見上げていたので、虎太郎は安心した。

「そ、そっか。えっと、あの、ありがとうございます」

「饅頭もあるぞ。食うか? ああ、だが喉が渇いているだろう」

 彼女は少しばかり体を捻って瓶を取って見せた。それを掲げて、揺らして、ちゃぷんと音をさせて、難しい顔をして虎太郎を振り返った。

「お前、年はいくつだ」

「え、えっと……十三」

「……そうか。小さいな」

「……ほっといてください」

 背が低いのは、虎太郎のコンプレックスだ。相手はそんなつもりで言ったのではないかもしれないが、面と向かって言われれば条件反射的に卑屈になってしまう。

「それだと、やはりこれはまずいだろうか」

「あの、なんなんですか、それ」

 その瓶はどこかで見たことがあるような気がしたが、その中身までは虎太郎には見抜けない。彼女が再び瓶を揺らした。ちゃぷちゃぷと水音が遊ぶ。

「酒だ」

「無理です」

 思わず即答した。普通、十三歳の子供に酒など勧めるだろうか。そもそも、勧めようとする相手もまだ未成年のように思うのだが。十代半ばから後半くらい、二十歳は超えていないように見える。しかしそう見えるだけなのかもしれないので、口に出すのはやめておいた。

「無理か」

「無理です」

 繰り返すと、彼女は楽しそうに笑った。

「では、これならどうだ?」

 代わりに差し出されたのは、赤くて、つぶつぶがいっぱいついていて、三角形に近い形をしていて、緑色のヘタがついていて。

「……いちご?」

「これなら食えるだろう。喉も潤う」

「はい……」

 返事をして受け取ったものの、本当にもらってしまっていいのだろうかと不安にかられる。ちらりと隣を窺えば、彼女はじっと虎太郎を見ていた。その視線が、早く食えと催促しているように思えた。

 虎太郎はそろりとひとつ手にとって、その先っぽをかじる。じゅわっと口の中に軽い酸味とさわやかな甘味が広がり、いちご味の水分が染みわたっていく。

「……おいしい」

「そうか」

 穏やかな声にちらりと視線を向ければ、彼女は声によく合う穏やかな顔で虎太郎を見ていた。なんだかそれに言い知れぬ気恥ずかしさを覚えて、虎太郎はその顔を見なかったことにして、意識しないようにして、無言でいちごを口の中に放り込んだ。

 最後の一つまで食べてしまってから、うっかり全部食べてしまったことに気付いた。

「す、すみません! ぼく、全部食べちゃって……!」

「かまわん。それはお前にやったのだ。それに、吾はこれがあればよい」

 慌てて向き直って頭を下げれば、彼女はいつの間にか手に持っていた盃を掲げて見せた。中身は問うまでもないだろう。

「……お酒、好きなんですか?」

「まあな」

 虎太郎は彼女がアルコール中毒だったりしないかと心配してしまった。そんな虎太郎の胸のうちなど知らず、彼女は饅頭を一つ、手のひらに載せて虎太郎に差し出した。

「食うか?」

「……いただきます」

 二度目の勧め。どうやらよほど虎太郎に饅頭を食わせたらしい。なぜかはわからない。

 素直に受け取って、かぶりつく。皮に包まれたあんこは程よい甘さで、じわりと胃に染みわたったような錯覚がした。

「美味いか?」

「はい」

「そうか」

 やはり彼女は穏やかな、満足そうな顔で虎太郎を見ていた。それはまるで……。

 まるで、なんだろう。なにかを考えたはずなのに、表現できる言葉が浮かんでこなくて、虎太郎は首を傾げるだけに留めた。

「お前、この土地の者ではないな」

「あ、はい……その、桜木の方に用があって……」

「ああ……なるほど。千世と直人の客か」

「お知り合いですか?」

「まあな。……ああ、迎えが来たようだ」

「え……」

 彼女は盃を地面においてから立ち上がり、虎太郎に手を差し伸べた。虎太郎は逡巡してから、その手を取るために己の手を伸ばす。彼女は虎太郎の手を握って引っ張って立たせ、虎太郎の手を離さないまま桜の木の下を離れる。

 導かれた先には、道があった。下り坂になっていて、ほのかな明かりだけに照らされるその道は、先がよく見えない。

 手が離され、白く細い指が闇の向こうを指し示す。

「一本道だ。転ばぬよう、足元には気をつけてな」

「は、はい……」

「それと、これを持って行け」

 彼女は懐から紙切れを一枚引き出して、虎太郎に手渡した。模様のような、文字のようなものが黒で描かれている。まるでお札のようだ。

「これは……?」

「お守りのようなものだ。肌身離さず持っているといい」

「は、はあ……えっと、ありがとうございます」

 虎太郎はそれを受け取り、頭を下げる。

 頭を上げて、くるりと彼女に背中を向けて、彼女が指し示してくれた一本道に踏み出す。

「こたろう」

 呼ばれて、一度足を止めて振り返った。おかしなことに、そんなに距離は離れていないはずなのに、彼女の表情がよく見えなかった。

「お前、桜は好きか?」

「えっと……はい」

 まあ普通に、とは心の中だけで付け足した。口元だけ、嬉しそうに弧を描いているのが見えたので、それでよかったのだと思う。


   ***


 丘の上。

 いつもどおりの独りに戻っても、ただ道の先を眺めていた。夜を押し込めて出来上がったような瞳で、あるべき世界、あるべき場所へ戻っていく少年の背中の残像を追いかけていた。

 少し強い風が吹き、長く伸びた黒髪が踊る。

 手の中の鞘つきの刀をきつく握りしめた。その鞘の細工は決して華美なものではないが、丁寧な造りになっており、見る人が見れば名工の作であると見抜くだろう。

 立ち上がる時はこうして手にあり、座っている時も傍らに置いてあったが、少年はその存在についぞ気付かなかった。

「……なるほど」

 くっと口の端が上がる。闇色の瞳が闇の向こうに潜むものを嗤う。

「嗅ぎつけて追ってきおったか、雑魚めが」


  ***


 しばらく歩くと、薄暗かった道が急に明るくなって、ふと気がつけばすぐそこに女性が立っていて、虎太郎に笑顔を向けてきた。

「よかったわ、無事で。さあ、戻りましょう。ご両親が心配されていましたよ」

 よくよく見てみれば、相手はこの地に着いたばかりの虎太郎たちを桜木の家に案内してくれた桜木千世だった。相変わらず巫女装束だ。

「す、すみません、ご迷惑おかけして!」

「あらあら。こちらこそ、ごめんなさいね。すぐに異常に気づけなくて。ふふっ、どろどろになっちゃいましたね。お風呂、用意してありますから、すぐに入れますよ」

「あ、ありがとうございます……。……?」

 桜木ちよの影に隠れて見えなかったが、彼女のそばにもうひとり、虎太郎より少し背丈の高い女の子が不機嫌そうに立っていた。桜木千世の娘、桜木沙世が、母親と同じ巫女装束を纏っている。

 どうしてここにいるのだろうかと思いながら見ていると、じろりと睨まれてしまう。

「あなた、へたれも大概にしなさいよね! 男でしょう!」

 びしっ、と指をさされて、怒られてしまった。突然のことに、虎太郎は目を白黒させるしかない。

「まったく、余計な手間かけさせないでほしいわ。じゃ、お母さん、わたし戻るから」

 そう言って、その子はすたすたと先に歩いて行ってしまった。桜木千世は手を振って彼女を送り出した。

「もう、あの子ったら。ごめんなさいね、虎太郎くん」

「あの、ぼく、沙世さんになにか……?」

「お友達と遊んでいたところに召集かけちゃったから、そのせいかも」

「……そうですか」

 次に会ったらちゃんと謝っておこう。

 虎太郎は桜木千世に促されるまま歩いて、祭りの喧騒を抜けて、桜木の家に戻った。道中にも家の中にも、先に行ったはずの桜木沙世の姿はなかった。元々一緒にいたという友達のところに戻ったのかもしれない。

「コタ!」

「よかった、コタ!」

 泣きそうな母と泣いている父に無事を喜ばれ抱きしめられ何度も何度も名前を愛称で呼ばれ、虎太郎はようやく帰ってきた、と実感する。

 風呂に案内され、そこで土ぼこりを落として体から緊張を取り除き、宛がわれた客室に敷かれていた布団の上に寝転んだ。両親は桜木の人に呼ばれたらしく不在だ。少しの間、なにをするでもなくなにを見るでもなくぼんやりして、ふと思い出して、ズボンのポケットに入れていたお札を引きずり出した。少しよれてしまっている。

 元々着ていた服は、桜木の家で洗濯してくれると言うので、甘えることにした。お願いする際、忘れないようにパーカーのポケットから例のお守りを抜き取っておいた。肌身離さず持っていろとは言われたが、さすがに風呂の中にまで持っては入れなかったので、入浴中は洗面所に置いておき、さっぱりしたら着替えに持ってきていた服を着て、忘れずにしっかりズボンのポケットに入れてここまで持ってきた。

 布団の上で仰向けになって、今日の出来事を振り返る。

 朝からの自分の行動をたどり、たどり、たどり――今手にしているお守りをくれた彼女と出逢ったあたりで、それがぷっつり途切れた。

 まるで夢のような記憶だが、視覚がとらえるお守りの存在が記憶の正当性を主張している。

 しかし、こうして後になって思い返してみると、彼女と過ごしたほんの少しの時間は実に奇妙なものだった。冗談でなく夢を見ているようにふわふわとした心地、地に足がついていない感覚が思い出される。夢ではない。それはわかっているのだけれど、現実感というものがなかったのだ。

 変な感じだ。

 あの時、あの場所で、虎太郎の感覚はことごとく狂わされていた気がしてならない。普段なら絶対気にかかるだろうことが、その時はほとんど頭を過らなかった。

 たとえば、彼女は何者なのか、とか。

 その根本的なところをまったく気にしなかった、危機意識が大幅に欠け落ちていた自分を振り返って、虎太郎は苦笑する。結局無事だったのだから、とりあえずよしとしよう。

 さて、こうして思い返すと気になることはいろいろとある。

 まず筆頭となるのは彼女の正体。おそらく人間ではないだろう、と推測する。手を握られたときの感覚から、そんな気がした。幽霊か、妖怪か。

 妖怪の多くは人間からはずれた外見をしているが、人間そっくりに化ける妖怪もいるので判断はし辛い。けれど、彼女からもらったいちごや饅頭は間違いなく本物だった。幽霊は現実に存在する物に触れることができないはずだから、おそらく妖怪の類なのだろう。本来なら警戒すべき相手だったはずだ。なのに、彼女と一緒にいる間、虎太郎は警戒するということを忘れ去ってしまっていた。

 そういえば、彼女の言葉づかいはどこか古臭さがあった。一人称が「吾」だという時点で彼女が普通ではないことがわかるというのに、その時の虎太郎はそのことを一切気にしなかった。

 そういえば、彼女が飛ばした鳥のようなものはなんだったのだろう。人間の、陰陽師だという人たちが似たような同じように札を鳥に変化させているのを見たことがある。あれと同じ類の術なのだろうか。妖怪の間にもそんな術があるのだろうか。

 そういえば、彼女は虎太郎がなにに追われているかなどということは聞かなかった。彼女が妖怪の類ならば、見ただけで虎太郎の強い力に気付いただろうに、彼女はそれについてすら何も言わなかった。

 そういえば――

「……名前、聞きそびれちゃったな」

 彼女はどうして、虎太郎を助けてくれたのだろうか。


   ***


 夢を見た。

 彼女が一人、大きな桜の木の下でたたずんでいる。

 ただそれだけの夢。


   ***


 走り回った疲れから、虎太郎はぐっすりと眠って夜を過ごした。桜木の家が用意してくれた朝食をとりながら、なにか事件があっても――たとえば、性質の悪い妖怪なんかが襲ってきたりとか――起き上がれなかっただろう自分を振り返り、肝が冷える。そのくらい、熟睡というのは虎太郎にとっては危険な行為であり、ここ数年は眠って気分をリフレッシュなんてことには縁遠かった。結果として、虎太郎は無事に朝日を拝み、こうして朝食にありついているのだが。

 よくよく考えれば、この桜木の家は陰陽師の分家なのだ。こんなところにわざわざ乗り込んでくる妖怪なんてそうそういないわけだ。

 朝食が終わった後、虎太郎と両親は大部屋に通された。当然ながら、ここも和室だ。

 床の間の前にずらりと正装した男女が並んで正座しており、さらに彼らの前には桜木直人と桜木千世が正座して虎太郎たちを迎えた。

 彼らと対面するように座布団が三つ用意されており、彼らと座布団の間には横に長い卓が鎮座している。虎太郎たちは座布団の上に腰を下ろした。こちらも正座だ。虎太郎は、おそらく同年代の子供よりは正座に慣れているが、好きではない。それでも、向かい合う相手が正座をしていると、自分も正座をして向き合わなくては失礼になるような気がしてしまう。

 全員が位置につくと、桜木直人が切りだした。

「まずは、昨夜のこと、改めてお詫び申し上げます」

 桜木直人をはじめ、桜木ちよと彼の後ろに控えている者全員が深々と頭を下げた。虎太郎は驚いて上半身を心持ち後ろへ逃がしてしまう。虎太郎の両親も慌ててしまう。

「顔を上げてください、桜木さん!」

「そうです! 昨日散々謝っていただきましたし!」

 虎太郎にとっては初耳だったが、昨晩にも深々と頭を下げて謝罪されたのだろう。思えば、虎太郎の両親は、謝ることには慣れているが謝られることにはあまり慣れていなかった。それもすべて、虎太郎のせいなのだけど。

「昨晩は、虎太郎くんには言えませんでしたからね」

 顔を上げて苦しそうに微笑んだ桜木直人の姿に、虎太郎はぎゅうっと罪悪感で胸を締め付けられた。彼のこの表情も、虎太郎のせいだ。

「すまなかった、虎太郎くん」

「い、いえ……その、ぼくのほうこそ。すぐに神社の人を探せばよかったんですけど、その、ちょっと、頭から飛んじゃって……。ご迷惑おかけして、すみませんでした」

 桜木の人たちに負けないくらい頭を深々と下げて、どうして自分はこうなのだろうと虎太郎は思う。

 生まれて持った力。年々強くなっていく力。けれど虎太郎は、それをどう使っていいかわからない。自分の身を守ることも、周囲の人を守ることもできない。弱い存在だ。本当ならとっくに命を落としていてもおかしくなかっただろうに、両親が、親戚が、周囲の人たちが必死になって守ってきてくれた。自分ではなにもできなくて、たくさんたくさん迷惑をかけながら、それでも望まれて、生きてきた。

 ここでもまた、同じだ。

「いや。今回のことはこちらの不手際だよ。こちらから祭りをすすめておきながら……気の緩み、とでも言うのかな。この土地の妖怪はむやみやたらに人間を襲ったりしないからと、慢心がなかったとは言い切れない」

「え……?」

「あの、それはいったいどういう……?」

 虎太郎が顔を上げ、母が身を乗り出して尋ねた。問われた桜木直人は、穏やかに微笑んだまま答える。

「この土地に住み着いている妖怪ならば、そうそう人間に手出しはしません。《鬼姫様》はこの土地の人間を守るもの。ゆえに人間に害をなす行為は《鬼姫様》と敵対することと同意なのです」

 また、《鬼姫様》。この神社でまつられている神様。

 なんだか彼の口ぶりは、《鬼姫様》がこの世に存在しているように聞こえてくる。

 きょとんとする大崎一家に対してそれ以上鬼姫様の説明はされず、昨晩虎太郎を襲った妖怪の話へと進む。

「しかし、余所者ならば話は別です。《鬼姫様》を恐れぬもの、知らぬものも多いでしょう。おそらく、移動中の虎太郎くんに目をつけ、どこぞから追いかけてきたのだと思います」

 ぐっと桜木直人の眉間にしわが寄る。自然、相対している虎太郎たちにも緊張が走る。

「これより桜木の総力を持って大崎虎太郎殿の警護、および問題の妖怪の退治に努めます。少々騒がしくなるかと思いますが、ご了承ください」

「よ、よろしくお願いします……!」


   ***


 虎太郎は桜木所有の道場でぽつねんと座りこんでいた。あまり大きな道場ではないが、虎太郎一人には広すぎる。

 桜木は家の敷地に結界を張った。それにより、周辺には並の妖怪や悪霊の類は近寄れなくなった。ただし、並以上の相手だった場合はそれだけでは安全を保障できない。もしもの場合に備え、万全の態勢で臨もうという流れになった。

 早い話が、虎太郎はここに隔離されたのだ。

 隔離と言うと言葉のイメージはよくないが、虎太郎は特に抵抗を覚えなかった。相手がどんなものかもわからない以上、両親や関係ないひとを巻き込まないためには、これが一番いいのだと理解できたからだ。

 お腹が空いたら食べるようにと弁当を渡されているし、飲み物も用意されている。道場という設備の性質上、トイレも内部に設置されている。

 ただ、退屈だけはどうしようもなかった。暇つぶしにと持ってきた本は読み終わってしまい、閉じた状態で虎太郎のそばに放り出されている。

 床に直に座り続けていたら臀部が鈍い痛みを訴え出したので、虎太郎は床の上に体を横たえた。常より高い天井を見上げてぼんやりする。今の虎太郎にできることなんて、そんな程度だった。

 虎太郎が動かなければ物音ひとつしない。道場の外では風が吹き、草木が揺れて、鳥も鳴く。道場の中にも届くそれによって外にも世界があるとわかるのに、まるでこの道場の中だけで世界が完結しているような錯覚。さびしいのに、妙な心地よさがある。

 さすがにこの状況で寝るのはまずいかなぁ、と思いながらうとうとしていたら、静かで小さな世界はいとも簡単に破壊されてしまう。

「ったく……あなた、暢気にもほどがあるわよ!」

「おじゃましまーす」

 犯人は、道場のドアを開け放った、同じ年頃の二人の子供だった。少女が一人に、少年が一人。少女の方は、桜木千世の娘、桜木沙世だ。少年の方も見覚えがある。一日目に桜木沙世と一緒に桜木の家の玄関にいた少年だ。

「……こんにちは」

 虎太郎の頭は道場の出入り口に向いていた。うっかり仰向けに寝転がったまま挨拶をしてしまい、失礼に気付いてすぐに体を起こし、二人に向き直った。

 それから、桜木沙世に会ったら謝ろうと思っていたことを思い出して、彼女に向かって頭を下げる。

「昨日は迷惑かけてごめんなさい」

「は……」

 拍子抜けしたような声が返ってきた。顔を上げてみれば、ものすごく機嫌が悪そうな顔をしていた。じとりと睨まれ、気後れしてしまう。

「男が簡単に頭下げるんじゃないわよ……! どれだけへたれなのあなた!」

「え、えっと……」

「まあまあ、どうどう」

「わたしは馬じゃない!」

「とりあえず落ち着きなよ。虎太郎くん、びっくりしてるから」

 少年は桜木沙世の肩をぽんぽんと叩き、彼女より一歩前に出る。

「俺のこと、聞いてる?」

 問われたが、なにも聞いていないので、虎太郎は直に首を横に振った。少年は気を悪くすることなく、虎太郎と目線を同じにするように座り込んだ。

「おれは桜木沙月。桜木直人と桜木千世の息子で、沙世の双子の兄です。よろしく」

「あ、よ、よろしくお願いします!」

 双子の兄妹、という認識のもとに改めて二人を見る。特に似ているわけではないけど、ところどころパーツが似ている。全体的には、桜木沙月は母親似、桜木沙世は父親似のように思う。

「おれたち、護衛兼話し相手に任命されたんだ」

「え?」

「一人じゃ退屈だろ?」

「……うん」

 確かに退屈だったし、話し相手がいるのはありがたい。けれど、虎太郎は同年代の子供と仲良くおしゃべりをした経験がほとんどない。どんな話をしたらいいものかと困っていると、相手の方から切り出してくる。

「昨日のことなら、気にしなくていいぞ。お父さんかお母さんが言ったと思うけど、あれはうちの油断もあったから」

 でも、彼女は友達と一緒にいたのに。祭りを楽しんでいただろうに。そのつもりがなかっとはいえ、結果として虎太郎は彼女の邪魔をしたのだ。

「なんで甘やかすのよ、沙月」

 とげとげしい言葉が突き立てられた。

「沙世……」

「妖怪に追いかけられて、ただ逃げるしかできないなんて、情けないと思わないの? 話ちょっと聞いたけど、あなたそういうこと珍しくないんでしょう? 自分の力でどうにかしようと思わなかったの?」

「お、思った、けど」

「思うだけじゃだめに決まってるじゃない! 結果を得るためには行動が必要なのよ!」

 彼女の言葉は正しい。虎太郎は自分の不甲斐なさに俯いてしまう。

「だいたい、簡単な退魔もできない、結界も張れないなんて」

「沙世、町の外じゃできないのが普通だって、お父さんとお母さんが言ってたよ」

「知ってるわよ! でも、外にだってうちみたいにそういう専門がいるわけでしょ? 習いに行けばいいだけじゃない」

「でも、この業界って結構閉鎖的だって聞くし、伝手でもないと難しいんじゃ……」

 沙世の言葉も、沙月の言葉も、どちらも正しい。ぎゃいぎゃいと言葉の応酬を続ける双子の兄妹のすぐそばで、虎太郎は顔を上げられなくなってしまう。

「ああ、もう、沙月うるさい! あなた、ええと、大崎虎太郎! どうにかしたいと思うんなら自分で動いてみなさいよ!」

「……でも、どうしたらいいのか……」

「だ、か、らー! どっかうちみたいなところで修行して退魔の術を習得するとか、」

「や、やった、けど……」

「え、やったのか?」

「それでなんでなにもできないのよ!?」

 驚く沙月と沙世に、虎太郎はもごもごと口ごもりながらも答える。

「す、すぐ追い出されちゃって……」

「はぁ!? あんたこの業界舐めてるの!? 追い出されちゃって、じゃないわよ! どんだけ才能なかったとしても粘りなさいよねそこは!」

「ね、粘った、つもりなんだけど……」

「粘りが足りないのよ!」

 これまで遭遇したことのない言葉の勢いに、虎太郎はたじたじとしてしまう。沙月が虎太郎と沙世の間に体をはさみこんで沙世を止めようとした。しかし、沙月がなにかを言う前に、沙世の言葉の雨はぴたりと止んだ。表情とまとう空気をがらりと変え、身構え、視線は道場の出入り口すら突き抜けてその外に向けられているようだった。その理由を語ったのは、沙世ではなく沙月だった。

「妖気……」

「もう、みんななにやってるのかしら! 沙月、わたし外のやつ片づけてくるから、その軟弱男お願いね!」

「え、ちょっと沙世……」

 沙月が手を伸ばして止めようとするが、その手は沙世を捕まえることはできなかった。沙世はすぐさま駆け出し、「黒羽丸!」と叫び、それに呼応するように黒い羽根を背中から生やした人間の姿が煙とともに現れる。沙世は走って、背中に羽を生やした何者かは飛んで、道場を出て行ってしまった。力いっぱい開け放たれていった扉は、沙月が溜息を吐きながら立ち上がり、再び閉ざした。

「……二人で虎太郎くんを守れって、言いつけられてるのに……」

 外から奇怪な、断末魔めいた声が聞こえてくる。小さな爆発音に近い音も発生している。宣言どおり、やってきた妖怪を倒しているのだろうか。

 落ち着いて考えてみれば、背中に羽が生えている人間なんて存在しない。おそらく人型の妖怪なのだろうとは思うが、あの妖怪は沙世につき従っているように見えたのが不思議だった。

「あ、あの……さ、沙月、さん」

「うん? ああ、ごめん。沙世が暴走しちゃって。あいつ、両親も呆れるくらい好戦的でさ」

「だ、大丈夫……です」

「そっか。あと、おれのことは別に呼び捨てでいいぞ。同い年だから」

「え、えぇ!?」

「……おれ、変なこと言ったか?」

 虎太郎は大慌てでぶんぶんと頭を横に振った。ぽん、と沙月が虎太郎の肩をたたく。

「落ち着け。もげるぞ、頭」

「う、うぅ……す、すみません……。あの、変、じゃなくて……ぼく、ひと、呼び捨てにしたこと、なく、て……」

「…………。そっか。じゃあさん付け禁止な。くん付けは許可する」

「……さ、沙月、くん」

「うん」

 なんだか胸の奥がむずがゆい。

 くん付けでも、まったく血のつながりがない相手の名前を、名字ではなく名前を呼んだことなんて、あっただろうか。小さい頃にはあったかもしれない。けれど、もう覚えていない。気が付いたら虎太郎の周りには家族と親戚しかいなかった。

 さん付けからくん付けに変わっただけなのに、たったそれだけで親しくなれたような錯覚をする。

「あの、さっき沙世さんの後ろを飛んでったのって……」

「黒羽丸のことか?」

「くろ……?」

「うーんと……式神って知ってるか?」

「あ、えっと、陰陽師のひとが使役する……」

「そう。あいつは黒羽丸って言って、沙世と契約してる式神だ。たぶん気づいてると思うけど、妖怪だよ。烏天狗なんだって」

「よ、妖怪と、契約……?」

「ああ。妖怪って人間に害をなすイメージが強いみたいけど、実際にはそういうやつばっかじゃないんだ。人間を好いてくれるやつだっているし、人間自体はそんなに好きじゃなくても、ある個人を好きになる場合もある。そういう妖怪と契約を交わして、戦いやなんやに力を貸してもらうことができるんだ。力の強い術師なら、力にものを言わせて強制的に従わせることもできるらしいけど、危険だし難しいから、相当強くないと無理。これまで会った術師の中に、使ってるやついなかった?」

「み、見たこと、ない」

「ふぅん。黒羽丸はうちで代々受け継がれてってる式神なんだけど……外じゃあんまり使わないのかな、式神」

 人間に害をなす妖怪と、そうではない妖怪がいる。それを知らなかったわけではないが、特別気にとめたことはなかった。

 道ですれ違ってもなんのリアクションも見せない妖怪もいれば、突然現れて襲ってくる妖怪もいる。襲ってこない妖怪は、戦う力がないのだと思っていた。おそらくこの見解も大外れではないのだろうが、それだけではなかったのかもしれない。

 戦う力を持っていても、襲ってこない妖怪もいる。それは初めて聞く、新鮮な話だった。

「さ、沙月くんも、契約してるの?」

「おれは式神いないよ。向いてないみたいで。沙世はそういうの得意なんだけど」

「そういう……?」

「式神使って、ひとに害なす妖怪と戦うのとか。まだ子供だけど、桜木の立派な戦闘要員だ」

「沙月くんは、違うの?」

「おれは結界はるほうが得意なんだ。簡単な退魔法くらいは使えるけど、沙世みたいに相手を吹っ飛ばすことはできないし、……っ!」

 沙月が言葉を切り、表情を空気を変えて身構えた。まるで先ほど飛び出していった沙世のようだ。先ほどはなにも感じなかったが、今度は背筋にぞわりと冷たいものが走る。この感覚のすぐあと、虎太郎はいつも妖怪に襲われる。この探知能力がもう少し優秀ならよかったのだが、たいていの場合、気づいてからでは遅いのだった。

「さ、沙月くん……」

「……周辺に沙世の気配がない。引き離されたんだ」

 沙月の声が苛立たしげに揺れた。たしかに、気づけば爆発のような音も悲鳴もなにも聞こえなくなっていた。それどころか、鳥のさえずりすら聞こえてこない。

「……ごめん、油断した」

「う、ううん……ぼ、ぼくこそ、なにも考えないで、話しかけちゃって……」

「いいんだよ、ほら、おれたちは護衛兼話し相手なんだから。まあ、一番の油断は沙世だけど……まんまと罠にかかりやがって。あいつの猪突猛進なとこ、どうにかしないとな」

「さ、沙月くん……」

 双子の妹を静かにこき下ろす少年に、虎太郎はなんと言って返したらいいかわからなかった。

 沙月がすっと手で印を組むと、道場の中の空気ががらりと変わった。違和感にきょろきょろと周囲を見回していると、沙月が小さく笑う。

「わかった? 道場に入る前に結界の準備しておいたんだ。今それを発動させた」

「け、っかい……」

 たしかに、先ほどより禍々しい空気は薄らいでいる気がする。なら、ここでこのまま持ちこたえていれば助かるのだろうか。そのうち、誰かが駆けつけてきて、外にいる妖怪を追い払ってくれるのだろうか。

 ふいに、ぎしり、と道場がきしんだ。

「えっ……」

「大丈夫だ、虎太郎くん」

 沙月はそう言うが、道場はさらにぎしぎしときしむ。道場の外の様子はなにもわからない。それが返って気味悪さに拍車をかける。

 虎太郎は無意識に沙月の服の裾をつかんだ。沙月はそれをちらりとだけ見やって、なにも言わない。虎太郎の体が震えていることに気づいたかもしれないが、彼はなにも言わなかった。それが虎太郎を気遣ってのことか、それともただ術に集中するためだったのかはわからなかったが。

 ぎしぎし、という音の中に、ぱきり、という音が混ざるようになった。少しずつ増えていくその音に、虎太郎の震えは増す。

 壊すつもりだ。外の様子はなにも見えないが、それだけははっきりわかった。

「さ、沙月く、……」

「大丈夫」

 沙月はそう言うが、虎太郎はもう沙月の名前を呼べなかった。

 縋る相手も頼る相手も、今は沙月しかいない。けれどこれ以上沙月を頼りにしてはいけない。

 ぱしっ、と爆ぜるような音がした。いや、していたのだ、さっきから、道場がきしむような、結界が壊れるような音にまぎれて、ずっと。

 沙月の頬に、手に、赤い筋ができていた。そしてそこから赤い液体が細い筋を描きながら下に向けて流れていく。

 虎太郎は、ずっと誰かに守られてきた。だからこうして結界の中で守られることも初めてではない。これほど強力な結界は初めて見たが、今のような状況は過去にもあった。

 結界に傷が入れば、術者にもなんらかの形で影響する。沙月の体に傷が浮かんでいるのを見たことで、虎太郎は沙月の服の裾を解放した。

 このままではいけない。そんな衝動が虎太郎の中に生まれ、突き動かそうとする。

 守られるだけは嫌だった。頼るばかりなのは嫌だった。それでも甘んじてきたのは、これまでその相手が常に目上の人間だったからだ。両親、親戚のおばさんやおじさん、妖怪退治を生業とするひと、みんな虎太郎よりずっとずっと大人ばかりだった。けれど、今目の前で虎太郎を守ろうと体を張ってくれているのは、同じ年の少年だ。

 このままでいいのか。

 いいわけがない。

 過去、虎太郎を守るために怪我をした大人が何人もいた。入院しなければならないほどの大怪我を負った者もいた。虎太郎に恨み言を言う者、それでも虎太郎の身を案じてくれた者、様々だったが、それは今はどうでもいいことだ。ようは、このままでいたら、沙月も彼らのように大怪我を負ってしまうのではないか、ということ。

 虎太郎は自分にできることを瞬時に弾きだした。もともと虎太郎には、それしかできることがなかった。

 衝動は消えず、そのまま虎太郎を突き動かす。

 虎太郎は立ち上がり、道場の出入り口へと向かった。

「っ、虎太郎くん!」

 沙月が後ろから呼ぶが、虎太郎は振り返らない。靴を履く時間が惜しくて靴下のまま外へ飛び出すと、結界に巻きつく太くて長いなにか、そして地面を埋め尽くすように蠢く無数の蛇が眼前に広がった。

 躊躇う時間も惜しいとばかりに虎太郎は結界の外へ出る。靴のない状態で、蛇の種類もわからないままに飛び込むのは危険だ。けれど、虎太郎はこの時、そんなことは一切考えなかった。ただこの場から逃げること、沙月から少しでも離れることだけを考えた。

 ただがむしゃらに蛇の海を走り抜けながら、一度だけ振り返った。結界に巻きついていたらしい大きななにかの目が虎太郎の姿を捉えてもぞりと動き出いていた。それだけを確認して、虎太郎は昨晩と同じように、なにも考えずにひたすら走ることに専念した。

 逃げる。逃げる。ひたすら走って逃げる。

 虎太郎はこれまでずっとそうして来たし、それだけが自分にできることなのだと理解していた。

 妖怪の狙いは虎太郎だ。どうしてかわからないが、虎太郎はこういった性質の悪そうな妖怪に好まれる。あのまま沙月に狙いを定められたらどうしようかとちらりと思ったが、太くて長い生き物のような何かが虎太郎に視線を固定しているのを見て、その心配はなくなった。

 いや、形状の表現でごまかすのはよそう。

 蛇だ。

 常識では考えられないような巨大な蛇が、沙月が張った結界にぐるりと胴体を巻きつけ、潰そうとしていたのだ。

 ずるずる、と這いずる音が聞こえる。幻聴ではなく、あの大蛇が追ってきているのだろう。徐々に音が大きくなってきているような気がする。このままだと追いつかれる。なんとかしなければと思うが、虎太郎は逃げる以外のことができない。だからとにかく、たとえ足場の悪い森の中だって走り続けるしかなかった。


「うぁ!?」

 強い力で足を引っ張られ、地面に倒れてしまう。慌てて自分の足元を見れば、赤くて細長いものが足首に巻きついていた。その先端は二つに分かれており、反対に長く伸びているその先を辿れば、大蛇が大口開けてずるりずるりと這ってくる。

 追いつかれたのだと、瞬時に理解した。

 しゅー、しゅー、と呼吸の音が近づいてきて、虎太郎の体が反射的に震える。

 もうだめだ。

 ぐい、と足をさらに引っ張られ、虎太郎はそれに逆らうことも出来ず大蛇の口に招かれる。眼前の恐怖と訪れるだろう痛みを想像して、虎太郎はかたく目を閉じた。

「《爆》!」

『ギャアアアアァァァァ!!』

 二つの声が虎太郎の鼓膜を叩き、ほぼ同時に虎太郎の足を引っ張っていた力が消えうせた。

 痛みは一向にやってこない。不思議に思っておそるおそる目を開けると、そこには、虎太郎をかばうように存在する背中があった。それは見慣れた大人の大きな背中ではなく、同じ年頃の子供の背中。

「こ、虎太郎くんっ……足、速いんだな……、はぁ、追いつけてよかった」

 汗だくで、息を切らせた沙月だった。

「さ、沙月、くん……? な、なんで……」

 道場の中に置いてきたはずの沙月が、なぜここにいるのか。先ほどの恐怖のせいか、頭がうまく回らない。

 あからさまに不思議がる虎太郎に、沙月は憮然とした顔を見せた。

「助けに来たに決まってるだろ」

「で、でも、沙月くん、怪我……」

「ああ……このくらい、なんてことないよ。妖怪を相手に戦って無傷で済むことのほうが少ないし」

「それでも!」

 沙月は平然としている。彼の体についた小さないくつかの傷は、虎太郎が想像しているよりは痛くないのかもしれない。けれど、まったく痛くないことなどないはずだ。

 守られることには慣れていた。けれど、いつまで経っても麻痺してくれない胸の痛みを、虎太郎は無視できない。

「ぼくは、嫌だ……! 誰かが、ぼくを守ろうとして怪我するなんて、嫌なんだ……ほんとはずっと、嫌だったんだ!」

「虎太郎く……、っ!」

「え……」

 沙月が顔を完全に虎太郎に向けた瞬間の出来事だった。ざしゅ、と嫌な音がして、沙月が目を丸くして表情を凍らせた。

『忌々しい小僧めが……!』

 脳を揺さぶるような声とともに、ずるりとなにかが沙月の体から離れた。虎太郎は大きく開いた目で、蛇の尾をとても太く大きくしたようなものを見た。実際、それは虎太郎を狙ってきた大蛇の尾なのだろう。

 がくん、と沙月の体が崩れた。虎太郎はとっさに彼の体を抱きとめる。

「さ、沙月くっ……!?」

「うっ……」

 沙月の顔が苦痛にゆがむ。おそるおそると視線を移動させれば、彼のわき腹部分の衣服が赤く染まっている。ざぁ、と頭から血の気が引いていく。

『ほう……まぎれてわかりづらいが、その小僧もまあまあ美味そうじゃないか』

 大蛇のものと思われる声が紡いだ内容に、ぎくりと体が強張る。がたがたと震える体でぎこちなく見上げれば、大蛇が愉快そうに赤い舌を踊らせている。

 沙月を食べる気だ。

 虎太郎は沙月の体を隠すように覆いかぶさった。視線は大蛇から逸らせないまま、恐怖は削れないまま、虎太郎は声を張り上げる。

「お、お前の狙いはぼくだろう!? だ、だったら食べるのはぼくだけにして! 沙月くんには手を出さないで!!」

 怖くて、怖くて、無意識に指に力が篭る。ぽろぽろと涙がこぼれる。それでも、せめて沙月だけは助けたいと必死だった。

 本当はずいぶん前から気づいていた、簡単な解決方法だった。虎太郎の存在が周囲に迷惑をかけるなら、虎太郎がいなくなってしまえばいい。さっさと殺されてしまえばいい。

 けれど、それはとても怖いことだった。考えるたびに呼吸さえままならないほどだった。周囲は虎太郎の生存を望んだ。その優しさに甘えてきた結果が、今出ている。同い年の少年を巻き込んで、死なせようとしている。

 それだけはだめだ。今の沙月の立場に当てはまるのがどんなに大人だったとしてもだめだ。絶対に、だめだ。

 虎太郎はなにもできない。逃げることしかできない。誰かのためになにかをすることができない。そんな虎太郎のために、誰かが死んでしまっていいわけがない。犠牲にされていいわけがない。

 死ぬのは怖い。とても怖い。本当は今すぐにも逃げ出したい。

 けれどそれ以上に、沙月を死なせるのは嫌だ。ここで自分がこの大蛇に食われることで沙月が助かるのなら、大人しく食われてやる。

 それは虎太郎のなけなしの勇気と覚悟だった。

 けれど大蛇は、そんな虎太郎を嘲笑う。

『立場というものをわかっておらんようだな。なぜわたしがお前の頼みなんぞ聞かねばならん』

「っ……」

 どうしよう。どうしよう、どうしよう、どうしようどうしようどうしようどうしよう!

 どうしたらいいのか、もうなにもわからない。

 虎太郎にできるのは逃げることだけ。けれど、負傷した沙月を担いで逃げられる自信はない。虎太郎はいつも一人で逃げていた。一人で逃げることしかできない。

「に、げろ……」

「沙月く……」

「逃げるんだ、虎太郎く、……」

 苦しげな沙月の声に、涙が止まらない。

 このままだと食べられる。虎太郎も、沙月も。

 逃げることはできない。ここで沙月を置いていけば、沙月は間違いなく食べられてしまう。それではだめなのだ。虎太郎のために犠牲になっていい命があるわけがない。

 どうしたらいい、どうしたらいい!

 どうして自分は戦えないのか。妖怪に襲われ続けてきて、なぜなにもできないままでいるのか。

 こうして沙月の体に覆いかぶさって抱え込んでいても、結果はなにも変わらない。二人とも食われる。それで終わりだ。

 それではだめなのだ。せめて沙月だけは助からなくてはいけない。助けなくてはいけない。自分のために沙月が犠牲になることなどあってはならない。

 思うのに。

 願うのに。

 祈るのに。

 それを現実にするための力が、虎太郎にはないのだ。

(誰でもいい……)

 大蛇が大きく口を開けて迫ってくる。

 助けを求めるべき相手の顔が浮かんでは消える。沙世、千世、直人、そして、……

 なぜ、今ここで、あの流れるような艶やかな黒髪と闇のような瞳が浮かぶのだろう。

 大きく開かれた大蛇の口が迫る。ぎゅっと目を閉じて、沙月の体を掻き抱く。もうそれ以外にできることが、虎太郎には思いつかなかった。

(誰か、沙月くんを助けて!!)


「やれやれ……まったく、揃いも揃って阿呆とはな……」


 澄んだ声が耳を打つ。

 おかしい。絶体絶命のピンチだったはずなのに、痛みは一向にやって来ない。

『ギャァ!!』

 思わず耳をふさぎたくなるような耳障りな悲鳴が森の中に響き渡る。

 なにが起こっているのかと、おそるおそる目を開けて、顔を上げる。

 さわりと風が吹いて、さらりと黒糸が踊る。場違いなほど赤い着物が緑と茶で埋め尽くされていた世界に浮かぶ。横に伸ばされた白くて華奢な右手には、不似合いな日本刀。

 地面に落ちている細長く赤いもの。よくよく見れば、一方の先が二手に分かれているそれは巨大な蛇の舌先だ。

 呆然とその様を見ていると、すっと《彼女》が虎太郎を振り返った。

 艶やかな黒髪も、闇のような瞳も、白い肌も、赤い着物も、澄んだ声も、すべて記憶のまま。

 違うのは、右側のこめかみから鋭い先端を持った角のようなものが伸びていること。その手には刀があり、毒々しい色に染まっていること。

「他人より己の心配をせんか。あと、呼ぶのが遅い」

 昨晩、桜の木の元で出逢った《彼女》が、虎太郎と沙月を守るように立っていた。

「……え……えっと……」

「まあよい。とにかくお前はその童を抱えておれ」

 そう言うと、彼女はまた前を向く。虎太郎から見えなくなった闇色の瞳は、おそらく眼前で睨んできている大蛇を捉えていることだろう。

 遅れて、彼女が虎太郎と同じ人間ではなく、大きな括りではそこの大蛇と同種であり、手にした刀で大蛇の下を裂いたのだということを理解した。理解したからと言って、混乱が収まるわけもない。

 虎太郎は沙月に覆いかぶさったまま、体を動かせなかった。

『おのれぇ……! 貴様、何者だ!?』

「吾は名乗るような名を持っておらんのでな。ただの《鬼》だ」

 鬼。その単語を聞いて、虎太郎は呆然とする。虎太郎の中で鬼とは、もっと荒々しい存在であるとインプットされている。目の前の彼女は、それとは真逆としか思えない。

 数秒、彼女も大蛇も動かなかった。

『くっ……くっくっく……あーっはっはっは!』

 突然大蛇が大きな声を上げて笑い出した。虎太郎は驚いて、肩が無意識に跳ね上がってしまう。

『鬼? 鬼だと!? 貴様が!? その角、もとは二本であろう! それを一本失くし、しかもその見るからにひ弱で軟弱そうな見てくれ! よくもまあ鬼を名乗れたものだ!』

 それは虎太郎も思ったことだが、口には出さない。いやに冷たい汗をだらだらと流すばかりだ。

『おまけになんだ、その得物! 刀だと!? こいつは傑作だ! わたしの知る鬼はみな豪腕自慢だ、武具に頼る者ほど弱い! よくぞまあわたしの前に出てこれたものだな! そこの人間ともども腹の足しにしてくれよう、弱き鬼よ!』

「お前がどう言おうと、どう思おうと、吾の知ったことではないがな。だが一つ教えてやろう。この刀、ただの刀ではない。吾の爪、牙、そして角を混ぜて鍛えた特注品だ」

 大蛇の嘲笑う声を、彼女は平然と静かな声で受け返した。きっとあの闇のような瞳は、揺らいですらいない。

 彼女はすらりと刀を構える。そしてきっと、悠然とした笑みを浮かべているのだろう。反対に、大蛇は様子を変えた。先ほどまで馬鹿にするだけだった刀からわずかに身を引く。ただの刃物が、それ以上の恐ろしいなにかに変貌でもしたようだった。

「先程までの威勢はどうした? この刀がそれほど恐ろしいか? 惰弱な蛇め」

『っ、貴様ァ!!』


 妖同士のその戦いは、刀のたった一振りで幕が下りた。


   ***


 桜木直人と桜木千世、そして桜木沙世が駆けつけてきた時には、もう《彼女》の姿はなくて。その場に残っていたのは呆然としている虎太郎と、虎太郎に抱えられて気絶していた沙月と、真っ二つになった蛇の妖怪の亡骸だった。

 わたわたと慌てる桜木の大人組が虎太郎と沙月を家の中に運び込み、二人の怪我の手当をした。虎太郎の怪我はほとんど擦り傷だったが、沙月はわき腹が貫通しているとかですぐさま病院に運び込まれることになった。

 入院するらしいと聞き、「沙月は大丈夫なのか」と桜木直人に尋ねると、だいぶ見慣れてきた穏やかな顔で「大丈夫大丈夫」と軽い調子で返されて、本当に大丈夫なのかと余計に不安になった。明日、一応地元に帰る予定になっているけれど、その前に沙月の見舞いに行こうと思った。

 両親は怪我をして戻ってきた虎太郎に青ざめ、桜木夫妻の息子が病院に運ばれたと聞くと、より一層血の気がひいていた。とりあえず「コタ」と「無事でよかった」を繰り返され、ぎゅうぎゅうと抱きしめられた。少し苦しかった。

 今日の出来事の詳細を知りたい、という両親の乞いに桜木夫妻が頷き、虎太郎は一人宛がわれた部屋にいた。

 いた、はずだった。

 虎太郎は今、明かりの少ない夜道を歩いていた。神社裏の丘を、一人で登る。あまり夜目が利くほうではないので、たびたび周囲の様子を確認しながら慎重に歩く。

 気がつくと桜木の家を出てきていた。そういえば、誰にもなにも言わず出てきてしまった。あんなことがあった直後なので、失敗したなあ、と思いながらも引き返す気がまったく起きない。

 明るい時間に歩くのと、日が暮れてから歩くのとでは印象が違うなあ、となんとなく考えながら一人歩いていく。そして確信していく。この道は、昨晩にも通った道だ。あの時は下りで、灯りもあったけれど。けれど間違いなく、虎太郎はこの道を下って帰ったのだ。

 丘を登りきって、大きな桜の木を見上げる。祭りは終わってしまったので、今日はライトアップされていないはずだ。しかし、桜の周辺だけ周囲よりも明るくて、暗くてよく見えないはずの桜の姿がよくわかる。桜の木のてっぺんから根元へと視線を移動させていけば、《彼女》はいた。昨晩虎太郎を誘ったときのように、根元に腰を下ろして、下から桜の花と夜空を、杯片手に見上げていた。昨晩と違って、頭の右側にだけ角があり、その傍らには鞘に収まった刀が横たわっているのが見える。

 やっぱりいた、と《彼女》をじっと眺めていると、《彼女》が虎太郎に視線を向けないまま溜息を一つ落とした。

「夜に一人出歩くのは危険だ。逢魔が時に比べればまだいいだろうが、夜は基本的に妖の領分だぞ」

「あ、ご、ごめんなさい……」

 深くは考えず、ただここに来れば逢えるだろうと思っていたら自然と足が向いていた。それがどれほど危険なことなのかと諭されて、虎太郎は恥ずかしくなる。

 そんな虎太郎を見て《彼女》はくすりと小さく笑い、昨晩と同じように、懐から出した札を鳥に変え、丘の下へと飛ばした。

「下に知らせをやった。騒ぎになることはあるまい」

「あ、ありがとうございます」

 頭を下げて、再び上げると、こいこいと彼女が手招きしていた。虎太郎は一度深く呼吸して、その誘いに応じた。

 昨晩同様に彼女の隣に腰掛けて、再び感謝の言葉を口にする。

「あの、今日は本当に、ありがとございました」

「うん? ああ、あれか。気にすることはない。怪我は平気か?」

「あ、はい……ただ、沙月君が、入院することになったみたいで……」

「桜木の息子なら問題なかろう。あやつらは人間だが、それなりに鍛えておる」

「……そうかもしれないですけど、やっぱり、嫌です」

「…………」

「ぼくは、ぼくのせいで誰かが怪我したりするのが、すごく嫌なんです。でも、ぼくにはそれをどうにかするほどの力がないんです」

 ずっと、ぐるぐると頭の中をめぐり続けた本音を、初めて外に出した。会ったばかりの相手に言ったところでどうしようもないことだったが、虎太郎は限界だった。よりにもよって、同い年の子供である沙月が怪我をして入院することになってしまったのだ。沙月が崩れたときのとこを思い出すと、今でもぞっとする。

 ぽん、と頭に手が乗っかり、そのままなでなでと撫でられた。驚いて隣を見上げると、闇のような瞳とかち合った。

「力ならある」

「え……」

「お前はただ、それをどう使えばいいのかわかっていないだけだ」

「……そんなこと、言われても……」

「強い力を持っていることは自覚しているな? それが妖から狙われるだけのものだと思っているならば、それは大間違いだ。使い方さえ覚えれば、お前はきっと望みを叶えられる」

 彼女の言うことは、桜木沙世の言い分に近かった。だからどうすれば使えるようになるのかという点がわからないのだと、言い返そうかどうしようか迷った。

「証拠に、お前は吾を呼ぶことが出来た」

「……え?」

 きょとんと隣の彼女を見上げる。彼女は虎太郎の頭に手を載せたまま、真剣な顔つきで続ける。

「吾を呼ぶには相応の力がないといけない。どの程度、と言われると説明に困るが、少なくとも桜木の者では吾を呼ぶことはできない。お前ほどになれば、まあ、余裕だな」

「よ、余裕って……え? え?」

「式神を使う。これも立派な力の使い道だ、こたろう。お前は吾を呼んだ、だから我はそれに応えることができた。今日、お前は、お前にしかできないことで、お前の命と桜木の息子の命を救ったのだよ」

「しき、がみ……」

「そうだ」

 今日、桜木沙月から聞きかじった知識が頭の中を駆け巡る。

 同時に、いくつかの予想が、確信に近づく。

「……あの!」

「うん?」

「あなたは、《鬼姫様》なんですか?」

「町の者はそう呼ぶな」

 あっさりと肯定され、少しばかり怯む。同時に、到着早々に桜木千世に聞いた《鬼姫様》の話に納得する。鬼のように強く、夢のように美しい。彼女はまさに《鬼姫様》だった。

「でも、さっき《式神》って……まさか、《鬼姫様》は式神なんですか?」

「ああ。もっとも、肝心の術者は大昔に死んだがな」

 確信が現実に肯定され、へなりと体から力が抜ける。すでに座り込んでいるので、背中が少し丸くなる程度の変化しかなかった。

「……あの、ぼくがあなたを呼んだって……どういう……」

「札を渡したろう、昨晩」

「はい……あ、ごめんなさい。あれ、気がついたらびりびりになってて……」

 桜木の家に戻ってから、ふと思い出してズボンのポケットから引っ張り出そうとしたら、それはもう元の形を保っていなかった。並べてセロハンテープかなにかで再現することもできないほど、細かいかけらになってしまっていた。

 しゅんと落ち込む虎太郎に対し、《鬼姫様》はくくっ、とのどをならして笑う。

「気にせずともよい。あれは仮札でな……使えるのは一度きりの代物だ。お前は吾を呼んだ。つまり札を使用した。用済みになった札は二度と使えないよう細かく千切れてしまう。それだけのことだ」

「そ、そうだったんですか……」

 自分の不注意ではないことが発覚して、虎太郎はほっとした。

「お前なら吾を呼べる。そう確信していたから、万が一の時のために仮札を渡しておいたのだが、正解だったようだな。お前も、よく忘れず持っていた」

「……あの、なんでぼくを助けてくれたんですか?」

「…………。吾はこの土地の者を守るという約束をした故」

「でも、ぼくは余所者です。土地の人間じゃありません。あなたに守ってもらう理由がありません」

「……。土地に踏み入った者だから、ではいかんのか」

「じゃあさっきの答えるまでの間はなんですか?」

 畳みかけると、ぐっと《鬼姫様》が言葉に詰まった。そして、虎太郎に向けられていた顔が不満げにゆがむ。まるで子供のような表情の変化に、虎太郎は内心戸惑った。

「お前、童のくせに鋭いの」

「そ、そうですか……?」

「まったく……。ああ、そうだ。別に土地がどうこうというのは関係ない。お前を助けたのは、言ってしまえば気まぐれだ」

「き……気まぐれって……」

 ある程度予想の範囲内ではあったものの、実際に言われると、どうしてか傷ついたような心境になってしまった。しかし、続く言葉に目を丸くする。

「《こたろう》……吾は昔、この名を持つ男を助けてやれなんだ」

「え……」

「吾を呼ばなんだあやつが悪いのだがな。……お前を助けることで、あの時をやり直したかったのか……。ふん、単に懐かしくなっただけかもしれんの」

 変わった。

 表情が変わった。視線が変わった。雰囲気が変わった。

 虎太郎は、《鬼姫様》を恐ろしいと感じはしなかった。美しいひとだと思った。優しいひとだと思った。ひとではなく鬼だったわけだが。今でもそれは変わらない。《鬼姫様》は美しい。そしてとても優しい。鬼なのに、彼女は虎太郎にとても優しい。

 だけど、今、彼女を目の前にして、胸が痛む。ぎゅううと締め付けられる。

「……ぼくは、あなたが知ってる《こたろう》さんじゃありません」

「ああ、わかっておる。いくつか共通項はあれど、お前はあやつではない」

「……両親は、ぼくのことよく、《コタ》って呼ぶんです」

「うん……?」

「だから、ぼくのこと、《コタ》って呼んでください」

 名前ひとつで、馬鹿馬鹿しいと思うだろうか。

 けれど、嫌だった。彼女に《こたろう》と呼ばれるのは、とても嫌だと思った。

 だって彼女が呼ぶ《こたろう》は、彼女の古い思い出の中の、虎太郎が知らない誰かのことのような気がしてしまうのだ。彼女が《こたろう》と呼んでも、それは虎太郎を呼んでいるわけではない。目の前にいるのが虎太郎でも、きっと彼女はその向こうに記憶の中の《こたろう》を見ている。

 一緒にしてしまわないでほしい、と思った。その起因となる感情がなんなのかは、わからないが。

 彼女はきょとんとして、じっと虎太郎を眺めていた。その視線を受けているうちに、だんだんと、自分はなにを言っているのかと恥ずかしくなってくる。かぁ、と熱が顔に集中して、穴があったら入りたくなった。

 俯いて、今なら取り消しがきくのではないかと考えた時だった。

「……こた」

「っ……」

 心臓が、痛い。真っ赤になっているだろう顔を上げ、彼女の白い顔をじっと見返す。

「こた」

「……はい」

 繰り返されて、返事をする。

 彼女は嬉しそうに、鬼だなんて嘘みたいに、無邪気な笑顔を見せた。

 血がさらに顔に集結してきて、頭がどうにかなってしまいそうだ。

「っ……、あ、あの!」

「なんだ?」

「な、なまえ……あなたの名前、教えてください!」

「……名前?」

「《鬼姫様》って、名前じゃないんでしょう? 千世さんが、本当の名前はわからないって……その、もしよかったら、名前、教えてもらえないかなあ……って……」

 言葉がしりすぼみになってしまった。こんな逢ったばかりの子供に教えてくれるのかと、笑みが消えた彼女の顔に不安を抱く。彼女手のひらが頭から離れていき、不安が余計に増す。

「こた」

「ふぁい!?」

「……なんだその返事は」

 緊張しすぎで変な声を上げたら、彼女はぷっと笑った。それに少し安堵する。

「知らぬようなので教えておくが、妖にとって名とは存在の本質。知られれば敵に良いようにされかねん。服従を強制されることもある。故に、妖は滅多に名乗ることがない」

「そ、そうなんですか……」

 教えられた内容に、しょんぼりと肩を落とす。

 そういえば、沙月が「強制的に支配することもできる」とか言っていた。きっとそのことなのだろう。

「というわけだから、好きに呼べ」

「……ふぇ?」

「ようは、個を識別できたらよいのだろう? 好きな名で呼ぶといい」

「え……えぇっと……」

 予想外の事態に、虎太郎は困ってしまった。

 虎太郎にしてみれば、名前とはあって当然のもの。尋ねられた場合、よっぽど信用ができない相手でない限り名乗るもの。名乗れないのであれば、自ら考えた偽名を名乗るもの。そういう認識だった。だから、まさか「好きに呼べ」と言われるなどとは思わなかったのだ。

「なにを困ることがある。ひとの子は犬猫を拾って好きに名前をつけて呼ぶだろう。それと同じ要領だ」

 その経験自体がない虎太郎からしてみれば、その要領がわからない。それを素直に口にすると、彼女はふむ、と少し考えた。

「まあ、そもそも《鬼姫》というのもこの土地の者が勝手につけた名前のようなものだ。新たに考えるのが面倒であればそれでも呼ぶのもよかろう」

「……それは……」

 それは嫌だった。

 《鬼姫》という名称は、その存在に敬意と畏怖を持って呼ばれるもの。桜木が管理している神社でまつられている神様の名前。

 その名前で呼ぶということは、彼女と自分の存在は遠く離れているものなのだと示してしまうようで嫌だった。もっと身近なものがいい。たとえば、そう、沙月のことを「沙月くん」を呼んだときに感じたような……。

 あれ、と虎太郎は気づいた。

「こた?」

「あ、だ、大丈夫です」

 心配そうに顔を覗き込んできた彼女に笑って見せて、ぽり、と左の頬を指で掻く。

 どうも自分は、彼女と対等の存在になりたいらしい。人間でない、圧倒的な強さを誇る鬼である彼女と、対等でありたいと。なんて無茶な望みだろうか。それでも、名前ひとつでその気分だけでも味わえるなら、と思ってしまう。

「小難しく考えなくてもよいぞ。そもそも、吾には生まれて持った名がないからな。遠慮はいらん」

「そ、そうなんですか……」

 とは言ったものの、犬猫に名前をつけた経験すらない虎太郎。どんな名前をつければいいのか皆目見当もつかない。

 どんな名前がいいだろうかと考えて、視線をさまよわせる。上に向ける。視界いっぱいに広がったそれに、釘付けになって、まばたきをした。


「《さくら》」


「…………」

「……なんて、どうでしょう……」

「…………」

 無言が怖い。沈黙が痛い。まるで裁判の判決を待つ罪人のような心地で、虎太郎は彼女の反応を待った。

「……なぜ?」

「え!? な、なぜって、えっと、……す、すごく安直なんですけど……ここの桜、好きなんですよね? ぼ、ぼくも、あの……ぼくは、これまであんまりゆっくり花を眺めることなんてできなくて、きれいだって思ってもそれは一般論っていうか、感動がなくて、でもあなたとここで見た桜は、どう表現していいかわかんなくて苦しくなるくらいきれいで……えっと、だからつまり、えっと……」

「……うん」

 ぽん、と再び彼女の手が頭に乗り、優しく撫でられる。

「わかった。それでいい」

「ほ、ほんとですか……?」

「ああ。好きに呼べと言うただろう」

「そ、そうでした……じゃあ、えっと……さくら、さん」

「…………」

 しかし、彼女はぷいと顔をそむけてしまった。

「あ、あの……?」

「敬称をつけて呼んだ場合は以後返事などせぬからな」

「えぇ!? ちょ、そんな、さくらさん……」

「…………」

「…………」

「…………」

「……さくら」

「なんだ、こた」

 今度は応えがあった。虎太郎は真っ赤になった顔で、ほうっと安堵の息を吐き出し、そのままかくりと首を垂れる。

「……恥ずかしいです」

「慣れることだな。あと、その丁寧な言葉遣いもやめろ。むず痒い」

「……努力します」

「しとらんだろ」

「……する、よ」

「うん」

 小さなことかもしれないが、さくらが満足そうな笑顔を見せたので、気をつけようと思った。

 だが、虎太郎は明日、地元へ帰る。そうなれば、次にいつさくらと逢えるかなどわからない。今晩はここで寝てしまおうかな、なんて馬鹿みたいなことを考えてしまう。

「こた」

「な、なに? さくら」

 慣れないなあ、と思いながら振り向くと。


「お前、ここに住め」


 唐突に、愉快そうに、そう言われた。虎太郎は目を丸くして、首を傾げるしかなかった。

「……はい?」

「この町に住め。親御には千世や直人のほうから話をつけさせる。家族揃ってすぐには難しかろうから、まずはお前だけだ。いずれ一家でここに住み着けばいい」

「で、でも……」

「ここには、他の土地よりも優秀な術師が揃っておる。有事にはすぐに対処できるぞ」

「……それは……」

 たしかにここなら、妖怪に襲われてもすぐそばに助けを求めることができる存在が大勢いる。それはたしかに魅力的な条件だ。だが、それを頼った結果が、沙月の入院だ。それが虎太郎の胸にひっかかっている。

 そんな虎太郎の不安を見透かすように、さくらは続ける。

「安心しろ。基本的にお前の護衛は吾がやる」

「……え?」

「この先、お前を守るのは我の役目だ」

「え、えぇ? あの、さくら……?」

 さくらの手が虎太郎の頭を離れ、昨晩同様懐から取り出された札を渡される。同じ札かと思ったが、描かれている内容が少し違うように思えた。

「仮札……じゃ、ない?」

「よくぞ気が付いた。それが本来の札だ。一度使ったら二度と使えぬ仮札とは違う。そうだな……仮札を仮契約と称するなら、その札は本契約、といったところか」

「…………本契約!?」

「その札は、いわばおまけの道具だ。なにか問題が発生して引き離されたとしても、その札を使えばすぐに吾を呼び出せるぞ」

「ちょ、ちょっと待ってさくら! それって、あれだよね? 式神の契約のことだよね?」

「ああ」

「ぼく、そんなのした覚えないよ!?」

「ああ、まあ自覚はないだろうとは思った」

「え…………」

「吾もうっかりしていたのだがな。失念していた。すまんな」

「な、なんの話……?」

「式神というのは、本来使役する側と使役される側の合意があって成立するものだ。だが、何事にも例外はあってな。先ほどの名前の話にも関係するのだが……。強い力を持つ者は、妖に新たな名をつけて、その存在を強制的に支配下に置くことが可能になる」

 道場で聞いた沙月の話は、そういうことだったのか。虎太郎は納得し、しかしなにかしらのリアクションを取ることは叶わなかった。

「これはそのまま式神と言えると思わんか?」

「……思い、ます」

 虎太郎は、つい先ほど、彼女に名前をつけたのだ。

 さぁ、と血の気がひく。

「……というのは冗談でだな」

「……はぁ?」

 さくらがくつくつと笑った。

「大昔に、名を持たぬ吾に名前をつけた大馬鹿者がおった。そやつがつけた名前が、《さくら》だったのさ」

「え……あ、えっと……つまり……?」

「以来、それが吾にとって一番意味のある名前でな。決めておったのさ。次にその名前で吾を呼ぶ者が現れたら、その者とともに時を過ごそうと」

「な、なんでそんなこと……」

 自分が知らず彼女を強制的に式神にしてしまったわけではないとわかってほっとしたが、結局自分のしたことが知らず彼女の今後を決定付けてしまったということに変わりはない。決めたのは彼女の勝手だが、その引き金となった身としては居たたまれない。

 虎太郎は妙に妖怪に命を狙われやすい。彼女がこの先を虎太郎とともに過ごすということは、そういった危険に否応なく彼女を巻き込むということだ。

 そんなことが、許されるのだろうか。

「たいした理由はない。気まぐれ、というか……そうだな。一番の理由は、現状に飽いたから、かな」

「……飽きた、んですか」

「ああ。だってつまらないだろう、ろくろく話をする相手もいないのは」

「……そうですね」

「言葉遣いが戻っておるぞ」

「あ!」

「ふふっ。まあ、そんなものさ、理由など。だが、お前がどうしても嫌だと言うのなら諦めよう」

「……諦めて、どうするの?」

「次のやつを待つさ」

「……いつから、ここにいるの?」

「いつからだったか……数えるのも面倒でな。少なくとも百年は経ったと思うが」

 最低百年。なら、きっとそれよりずっと長い時間なのだろう。人ひとりの人生よりも長い時間。彼女はずっと一人だったのだろうか。ずっとこの町を見守り続けてきたのか。崇められ、時にひとを助けながら、けれど隣には誰もいない時間を、ずっと。

「……さくら」

「なんだ? こた」

「……ぼくと一緒にいると、危険なこといっぱいあると思うんだ。それこそ、今日みたいに、いろんな人を巻き込んだりすると思う」

「そうだな」

「……それでも、ぼくと一緒にいてくれるの……?」

「なんだ、そんなこと」

「へ?」

 驚いてさくらを見る。愉快そうな顔をしている。それを見ていると、やはり鬼だなどとは到底思えなかった。

「吾は鬼ぞ。ひとの子よりも戦いに秀でておるし、体も頑丈だ。ちょっとやそっとでは死なん。むしろこれほどうってつけの相手もいなかろう」

「……それも、そっか」

「そうだろう」

 言いくるめられた、と言えなくもない。けれど、だからといってそれを彼女のせいにするつもりもない。

 拒絶しようと思えばできる。虎太郎にはその権利が与えられている。嫌なら断ればいいだけの話だ。断らないのは虎太郎の意思。質問をしたのは、彼女の言葉を聞くのは、むしろ断る理由を消し去りたいから。

 それが彼女への責任転嫁だということに気づき、自分の弱さが情けなくなる。そんなことを考える時点で、虎太郎の心は決まっていたのだ。

 自分で選び、自分で決める。とても簡単で、とても怖いこと。

 けれど、よく考えてみれば、大蛇に追われているときや沙月が殺されるかもしれないと思ったときのほうが、よっぽど怖かったのだ。

 自分の気持ちを受け入れる。そして言葉にする。今回はたったそれだけなのだ。彼女からの手はとっくに差し出されている状態で、これ以上なにを躊躇うというのか。

 虎太郎は深い呼吸を一度だけして、まっすぐさくらを見た。ちっぽけな覚悟をこめて。


「よ、よろしくお願いします、さくら」

「こちらこそ。よろしく頼むよ、こた」


   ***


 ――そこで出逢いが待っています。それは、君を守る力になるでしょう。

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