第2話 黒野と九頭、夜の公園にて
黒野が死んでいると知って驚きこそしたものの、その事実を知ったところで目の前の黒野はやはり黒野でしかなく、何がとうなるとういうものでもないので、そのことで私たちの関係に変化はなかった。
噂の不幸も、まあ、今のところなりを潜めていると言っていい。
変化をしいて上げるなら、遠慮が少し減った黒野が、時折に私の手を触ってくるようになったことだろうか。
脈を測るためらしい。
理由を要約すると、「他人が本当に生きているのか、不安になることがあるから」という。
分からないではない。
駅で電車を待っている時、ふと周囲の人間がみな意思なき人形なのではないだろうか、となんとなしに思うことは私にもある。
だからといって周囲の人間に、「あなた生きてますよね」などと聞くわけにもいかず、普通その妄想は電車の到来と共にすぐさま振りはらわれるわけなのだが。
黒野のそれは、私の妄想より根の深いものらしい。
自分以外が、いや、自分も、それ以外も、何もかも死んでいるのに動いているのではという不安。
誰も使うことの無い自販機が、中身も空のままに夜ぼぅと光っているような、上っ面だけは正常で、その実なんの意味もないガラクタ同然の世界。そこに囚われ、一部であるという錯覚。
誰もが思い描いて、誰もが否定できるはずの妄執。
なのに死んでいながら動いているという矛盾した現実を内包している黒野だけは、その不安から逃れることは出来ないということだろうか。
であれば、親友を自称する私が黒野の不安を払う手伝いを断る理由はない。
阿と言えば吽というように、黒野が望むがまま、好きなタイミングで脈を測らせるようになった。
黒野の不安がこの程度で晴れるなら喜ばしいことだと、私は本気で思っていたのだが……。
私と黒野が付き合っているという噂が流れ始めたのはそんな習慣に慣れてきた頃だった。
「最近、お前と付き合ってんのかってよく聞かれる」
「奇遇だな、私もちょうど今日、黒野と付き合ってるのかときかれたよ」
夜、いつもの公園のランニングコースを、いつものペースで黒野と周回している時だった。
家に帰りたくない系学生で、夜周りな先生に補導されそうな我々は、かと言って夜通し遊ぶタイプでもなく、せっかくなら健康なことが良いよねという老製した健康志向から、気まぐれに夜のランニングを実施していた。
公園に作られた貯水池が静かに月を映しだし、その横を二人走る時の何とも言えない高揚感が癖になる。
「……なんて答えた?」
「意外と可愛いところもあるぞ、って冗談で答えたら、『何であんたなんかとッ!』とカッターで刺されそうになった」
昼休みにまさかあんな修羅場が待っているとは。人生は冒険である。
「ああ――昼休み、俺のとこに来なかった時か?」
「そう。黒野を昼ご飯を誘いに行く前に呼びとめられてな。ほいほい空き教室について行ってそのザマよ。私の説得が決まらなければ大ごとになっていた」
「……相手は誰だ? 恵美か、京子か?」
「そこで即複数の女の名前が出てくるとか、黒野は凄いな。マジリスペクトっす」
「うるさいクズ……昔から、変な女に惚れられやすいんだよ」
「音が同じだからって人の名字をそのまま悪口に使うのはやめたまえ」
黒野がカッター女子の名前を知りたがったので、わざと茶化して濁す。
ハンムラビ法典よろしく、目には目を、歯には歯を、の精神を受け継ぐ黒野に迂闊に加害者の名前を教えれば、次の日の朝刊に黒野の方が載りかねない。
私は少し走るペースを早めて黒野を追い抜き、この話題を切り替える意思を示した。
黒野もそれが分かったようで、私の2歩分ほど後ろを追走する。
走る私と黒野の間には規則的なテンポの呼吸と足音、そして学校指定のダサジャージがこすれる音だけが響くようになった。
貯水池を横断する橋を踏みしめながら、黒野はそういう女にもてるか、と私は納得していた。
黒野は、この池に映る月と同じなのだろう。
静かで、綺麗で、近くて、遠い。
そこにあるが決して触れることはできず、人はその美しさをただ眺めることしかできない。
それでもと手を伸ばしても、水面の月が揺れるだけである。
他者と距離を置き、心を明かさない黒野はまさにそれ。
涼しげな美系なのも相まって、ミステリアスにも見える。
つまり、黒野は特別なのだ。
そしてその綺麗な『特別』は、ある種の人間を惹きつける。
自分は普通でしかないと、蛹から蝶へと変わるような変化は出来ぬと諦めているつもり。
でも、『特別』に選ばれさえすれば、もしかしたら……とそんな人間を。
そんな人間は、特別な魅力を持つ『他者』に認められることで変身願望を補おうとする。
カッター女子もきっとそんな風に、黒野にその存在を認められたかったのではないだろうか。
だが、自分の価値の全てを他人にゆだねるというのはきっと――。
「……ばっかみたいだ」
橋の中ほど、私の独白にぴったり合うようなタイミングで、突き放すように黒野が言った。
「ずっと外側から眺めてただけだったのが突然、今までずっと好きでしたとか言うんだぜ、あいつら。そして断られるとまた外側に帰ってく。近くに居ない、居ようともしない奴をどうやって好きになるっていうんだよ?」
軽蔑したような音で、吐き出すように言った黒野の顔は、その前を走る私には見えない。
だが、月灯りに照らされ、普段より青白く見える黒野の怜悧な表情は想像できた。
「好きと畏れは似ているから、尊い物を自分で穢してしまいそうで近くにいれない、そういう好意もあるのだろうさ」
「……お前もそういう考えなのか?」
「さあ、どうだろう」
「……なんだよ、ごまかして」
黒野がグンと加速し、すぐに私と並走した。
視界に捕えた黒野の白い肌は月光を弾き、青白い燐光を纏っているようにも見えた。
「一人が良いなら、独りにしてやるよ」
更に黒野が加速する。一歩分、二歩分と黒野と私の距離が離れ始める。
私も長距離走にはかなりの自信があるが、黒野のそれは次元が違う。
痛みや疲労、苦痛を感じていないかのような、事実感じていない、人間離れした、機械的な走り。
黒野がその気になって走れば、あくまで人並みの私は置いて行かれるしかない。
必死に追いすがろうとする私を切り捨てるように、どんどんと黒野の背中は遠ざかり、橋を渡り終える頃には、黒野の姿は暗がりの中へと消えていった。
「……そういうふうに、ちょっと気にいらないとすぐに離れる質が見透かされて、皆距離をとるんじゃないかなぁ」
たとえ一時や、表面上だけでも、心を許した相手に見捨てられるというのは堪える。
端的に言えば、さびしい。
惹かれていても、いるからこそ、そういう質の物とは距離を置く。
そう言う考えは、一概に間違いとは言えない。
「まあ、私はむしろ近づくがね」
私はランニングコースを囲う目を林に目をやった。
この公園は玉子型の楕円形であり、大体楕円の頂点に池、真ん中が散策可能な林、底が駐車場やら公衆便所がある入り口となる。
まだ池を渡る橋を降りたばかりだが、真ん中の林をショートカットすれば、黒野が駐車場を走りさる前に追い付けるはずだ。
「……独りより、二人の方が良いに決まってるだろ」
黒野の去り際の言葉に独り答えながら、私は月灯りも乏しい林の暗がりの中に踏みこんだ。
林は人の手で定期的に手入れされ、散策がしやすいように木同士の幅もそれなりにある。しかしそれも昼間、明るい中で、人が通ることを想定された場所に限った話である。
私が走るのは最短のショートカット。整備もされて無ければ街灯の明かりも届かない、けもの道。
暗過ぎて木々の枝葉を避けることも叶わず、疾走する身体にバシバシと当たる。足元が定まらず、何度も転びそうになり、ジャージの引っかけた部分が裂けた感触もある。
ショートカットのつもりが、林もまだ半ばという状況で、すでに黒野に追いつけるか怪しい状態だ。
だが、私は走る、走る、走る。
まっすぐ走ることさえ困難な道のり、木が前方50センチに至るまで、薄く影しか見えない闇の濃さ。人間の放つ喧騒が遠のき、私の足音と脈打つ心音が主の世界。
そして、その先に居るはずの黒野。
全力で駆動する身体と一緒に、心が躍る。
我が身が獣に成ったかのような錯覚が全身を巡る。
行くぞ、行くぞ、行くぞ。
私はどうも、何に挑戦する時も、少し達成が難しい位が一番好きらしい。
踊る心に釣られるように、身体が闇に 慣れ、足場に慣れ、走る速度が上がって行き、前半の遅れを取り戻してゆく。
よし、このまま行けば――。
「――――助けて……」
女性の、確かに女性の声が聞こえた。
聞こえた方の茂みに飛びこむ。
バキバキと枝の折れる乾いた音と衝撃が私を叩く。
何度目かの衝撃を繰り返した後、小柄な人影が大きな影に覆いかぶされそうになっているのが見えた。
大きな影は、3mほどはあるだろうか。
枝の折れる音に反応し、顔を上げたそれと目があった。拳大ほどある、大きな、赤い目だった。
――それに私は自分の右拳を思い切り突きこんだ。それの左目がぐちゃりと潰れた。
「GAAAAAAAッ!?」
「シャアアアアアアアッ!!」
大きな影が絶叫を上げながらのけぞり、私も獣声を上げながら距離を取った。
近くで見てみれば、それは犬の頭と蝙蝠の羽と熊の身体を足したような、奇怪な生物。
「Fuuuuu……」
それが、残った右目に憎悪の籠った血走った眼で私を睨みつける。
「……いっかんな、これは」
ランニングのショートカットのつもりが、人生のショートカットをスタートしてしまったことを、背中に走る怖気と、激しく脈撃つ心臓と共に私は理解した。
これが黒野に触れた結果だとは認めないが。
緩温の距離 五番目 @5banme
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