かのひめ ~彼女な俺と光翼の夢姫(レーヴァテイン)~

乾 碧

第1話


 二〇一六年。四月一日。

 その日、世界は終焉を迎えた。戦争が起きたとか、そんなちっぽけなものではない。予想だにしていなかった攻撃によって、世界は破壊されたのだ。

 形容しがたい怪物が、一体、二体、三体と空を割って出現し、それらは瞬く間に全世界へと広がった。東京など、世界それぞれの都市部にあたる街が一番の被害を受け、日本は、そして世界は、この未曽有の災害により、終わった。



 風が流れていく。どんよりとした天気と同じ空気。当然、心地の良いものではない。雨の影響もあってか、街をすり抜ける風は冷ややかであり、一刻も早く家に戻るべきだと身体が警告している。

 「さむい……………………」

 もう四月だというのに、暖かさなど全く感じられない。春の訪れが待ち遠しくなってくる気温だ。

 「………………はぁ」

 手に息を。だからといって、身体の冷えが止まるわけではない。見るだけで何日も使い回されていることが分かる薄汚れた服を着ている少年。名は、朝霧あさぎり春太はるた

 何も、このような格好をしているのはこの春太だけではない。全体的に目立つ。そういう街。復興が遅れ、スラム街と成り果てた街。不思議ではない。

 「本日…………忌々しい………………………十年が………………す……………………」

 復興に成功し過去より繁栄している本物・・の街の方から、機械的な音声が流れてくる。音声の全てを捉えることは不可能だが、途切れ途切れに聞こえてくる単語だけで、何を伝えようとしているのか、簡単に理解することが出来る。

 理解したくない。忘れてしまいたい。だが、その行為は全く許されない。忘れることが出来ない事件が十年前に起きたのだから。

 「十年……………………」

 十年前。日本を壊滅させ、全世界をも崩壊させ、混乱に陥れた事件があった。

 【宇宙生命体グレッツァ襲来事件】

 その日、空から未確認生物が地球に襲来した。言い表すことができない惨事が、その宇宙生命体グレッツァによって引き起こされたのだ。

 この世の終わりだと、その当時を生きていた皆がそう思った。全てが破壊され、希望が絶たれたのだから。

 「……………………ぉぇ…………っ」

 春太の、過去の悲劇が蘇る。思い出したくもない過去が。

 


 「さてさて……………………」

 廃れた街に一際目立つ少女がいた。身長はそれほど高くないが、髪色は綺麗に光り輝く金髪で、それは大人びた印象を通行人に与える。だが、そのイメージは後ろ姿を見た時だけに限られる。

 「ここ……、昔はどんな街だったのかしら…………」

 復興から取り残されてしまった街。可哀想。少女はこの街を歩いてみて、そういう感情を抱いた。

 「………………あ」

 肩に、ドンッ、と衝撃がくる。謝らなくては。そう思った時の事だった。




 「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 「きゃゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ」

 春太は二つの悲鳴を聞いた。男の野太い声と金切り声。

 (はぁ……………………)

 だからといって、春太は狼狽えたりはしない。何故なら、聞きなれているからだ。悲鳴を。

 「……………………」

 宇宙生命体グレッツァに世界が壊されてから数ヶ月。一つの噂が広まったことがあった。

 年端もいかない女の子・・・宇宙生命体グレッツァに唯一対抗出来る。という、根も葉もない噂が広まったのだ。

 それを受け、政府推進の復興委員会から、新委員会である研究委員会が発足した。研究対象は、宇宙生命体グレッツァが地球に落としていった遺物レリヴィオや、女性。その結果、その噂はすぐに嘘だということになった。

 が、こういうスラム街には、この噂がまだ残っている。いくらスラム街といえども、そこにいる皆、教養がないわけではない。街と通じているものもいる。そういう人間は駒を用意し、それにわざと女を攫わせる。そういう影響もあり、これまでに何百人という女性が攫われた。もう、皆分かっている。噂は噂であり、真実ではないことを。

 (お金か)

 "奴隷"とまではいかないが、それに近い存在として売り払われていることは、容易に想像出来る。

 ということは、だ。さっきの悲鳴の後者はその連れ去られようとしている女の悲鳴となる。その前に聞こえてきた男の悲鳴。おそらく、巻き込まれてしまった者の悲鳴だろう。可哀想に。もう命はないかもしれない。

 だとしても、それは春太には関係のないことだ。

 「そこどけやああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」

 関係ない。関係ないはずだった。

 (やめてくれ……)

 小型のナイフを持ち、こちらに突っ込んでくる一人の薄汚い太った男の姿を、春太は視界にいれてしまった。

 「はぁ……………………」

 ため息をつく。二度目だ。

 もし、見ていないだけなら、声を聞いただけだったら、無視をすることが出来た。巻き込まれたくない。当然、その思いは今もある。

 このまま視界外に消え去ればいいだけのことなのに。

 身体が自然と動いてしまう。

 相手がナイフで向かってくるのなら、春太も同じもので対峙する。体格から考えて、相手の方が有利なのは当然のことだが、男は担ぐように女を持っていて、ナイフは左手に持たれている。勝機があるならここ。男が左利きだったら終わりだが。

 「どけろと言ってるだろうがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 注目を浴び、切羽詰っている様子が見て取れる。焦っている。

 避ける気は全くない。相手は、こちらが避けるのを待っている。そのまま突っ込む構えだ。

 (なら)

 春太は右側にステップする。捕らえられてしまっている少女を気付けないようにするため。うっかり刃物でバッサリ、なんてことは避けておきたい。

 「はぁぁぁぁっっ!!!!!!」

 柄にもなく声を張り上げ、左手にナイフを持ち替え、そのまま男の腕に差し込む。

 「ぎゃああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 綺麗に決まった。そのまま春太は背後を回り込み、少女の側へ。

 (いいか)

 男の腕にナイフは刺さったまま。回収することは諦める。この先自分の身を守る手段が一つ減ってしまったわけだが、気にしないことにする。

 (ふぅ)

 助けた少女をおんぶする形で、春太はそのまま逃走することに成功した。



 (ええええええぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!?)

 日本に来てすぐ、人攫いに会ってしまった。生まれ故郷でもあまりされたことがなかったのに。

 (思ったより、うちの家系って有名?)

 それならそれで嬉しいことである。

 だが今は、そんなことを考えている場合ではないし、誘拐されたことを喜んでいる場合でもない。

 「この辺でいいかな……………………」

 「助かったわ。とりあえず感謝する」

 「どういたしまして」

 助けてもらえた。否、不服にも助けられてしまった。不覚。日本に来ることが出来て、亡命が成功して、少し浮かれていたのかもしれない。

 「助けてくれたお礼にあたしの名前を教えてあげる」

 一息。

 「キーファ・ベルハルト・アスタロッテよ。お姫様なんだから、もっと丁重に扱ってほしかったけど」

 「それはそれは……………………」

 「それで? あんたは?」

 「朝霧春太」

 「そう、ハルタね」

 よし、ここで疑問を一つ解消しておこう。

 「ねぇ」

 「ん?」

 「あたしが属するアスタロッテの家系って、日本でも有名なの?」

 「いや。まったく」

 間、なんてものはなかった。即答。

 「…………………………そうなの?」

 なんということだ。一瞬でもそう思ってしまった自分を殴りたくなる。

 「こういう時代だし、家系がどうとか、誰も気にしてない。俺もそう」

 「そう……………………」

 残念。残念。ということなら、もう一つの問題が生まれてくる。

 「じゃぁ、あたしはなんでさらわれたの?」

 「分からない? お姫様が女の子だからだよ」

 「それだけの理由で?」

 「うん」

 女の子だから。汚らわしい。

 (そんなことより)

 「今、お姫様、って言った?」

 「嫌だった? なら普通に呼ぶけど」

 「いやいやいやいや。大丈夫。それで大丈夫だから。助けてくれたお礼。そう呼ぶことを許可するわ。なんなら、名前でもいいけどね」

 (ま、それくらいなら)

 本当なら呼ばせたくないが、仕方ない。一応、このキーファを助けてくれた。お姫様を助けてくれた。そこだけは評価に値する。

 「お嬢様、にしておくよ」



 (さてと……)

 他愛もない話はここまでにして。

 ゆっくりしている時間はあまりない。大通りから少し離れた路地裏に隠れている春太とキーファだが、あの男が戻ってこないとは断定が出来ない。仲間を連れて帰ってくる可能性だってある。もし、そんなことになってしまえば、それに対抗する手立てはない。お姫様を救った意味がなくなってしまう。

 「ねぇ、ハルタ。いつまでここにいるの?」

 「分かってる。もう大丈夫?」

 「当たり前じゃない。これでも、身体は丈夫な方なんだから」

 「了解」

 聞きたいことは山のようにある。が、それは歩きながらでも問題ない。いつでも出来ることだ。

 


 「見失ってしまいました……………………。どうしましょう…………」

 あわあわ。あたふたあたふた。

 「ど、どこですかぁ? お嬢様ぁ………………」

 人がいない。前を見てみても、後ろを振り返ってみても、この通路には自分しかない。

 「コルネリア……。もう怖いです………………」

 当然だ。内緒でお嬢様に付いてきて、こうして見失ってしまった。さっきまではきらびやかな街にいたはずなのに、今歩いているところは閑散としていて汚く、人があまり住んでいなさそうな所だ。恐怖という感情が先走ってしまうのは仕方のないこと。

 「ふぇぇぇ…………………………………………」

 付き人としてしっかりしないといけないのに。こんなことではいけないのに。

 



 「観察終了」

 (……………………)

 『お疲れ様。零乃愛れのあ

 定時の報告を終わらせると、珍しく労いの言葉が返ってくる。どういう心境の変化であろうか。理解することが出来ない。

 「……………………」

 『どうかしたの?』

 「なんでもない」

 『そう。今日は早く戻ってきなさいよ』

 「なぜ?」

 『なぜ、って言われても……………………。困るわね……』

 「善処する」

 『はいはい。期待しておくわ』

 通話終了。報告だけのはずだったのに。面倒だ。

 戻ったところで何かすることがあるわけではない。戻らない選択肢をとったとしても、もう本日の観察は終わってしまっているので、特別に何かやるべきことがあるわけではない。零乃愛の気分次第。

 「ん…………………………………………」

 冷たくて、激しくて、思わず顔を伏せてしまいそうになるほどの風が吹く。長く綺麗に整えられていた髪が、その風によって乱れてしまう。高台に登って眼下を観察していたから余計に。

 (寒い)

 四月なのに。もう春なのに。今にも雨が降りそうな天候も関係しているだろうが、そろそろ暖かくなってもいいんじゃないか、と思ってしまう。寒いのは嫌いだ。着込めば良いだけだが、個人的には夏の方が好きだ。

 (…………?)

 奇妙な二人組を発見した。それも、二つ。合計で四人。零乃愛が見ることのできる範囲にいる。

 (……? あれ……?)

 一つは、成人男性二人のペア。確認できる範囲では一人が腕から血を流していて、もう一人がそれの介護をしている。何か事件に巻き込まれたか、自業自得によるものか。零乃愛に分かるものではない。

 そして、もう一つのペア。若く、自分達と同じくらいの年齢の男女。片方はその服装からこのスラム街に住んでいるものだということがはっきりと分かるが、残りの少女。この地域に釣り合っていない格好。廃れて、壊れてしまったこの街に合っていない。

 「面倒…………?」

 見つけてしまった。今日の観察は終わっているのに。気になるものも見つけてしまった。仕事が増えてしまう。続行だ。

 (まぁ……)

 これを理由にすれば、帰らなくてもよい。いつもみたいに遅くても、何ら問題がないということになる。ラッキーだ。

 「あ……………………」

 呑気に構えている場合ではなかった。動きがあった。傷を負っている男は辛そうではあるが、もう片方はもちろんそうではない。鬼の形相で、今にでも何かやらかしそうな顔をしている。

 (危ない)

 二人の二組のペア。零乃愛の中で謎が解ける。



 「ねぇ、ハルタ」

 「うん。つけられてる」

 「あたしの勘違いじゃなかったのね。良かったわ」

 (誰だ……?)

 視線を後ろに飛ばしてみても、人影を見つけることは出来ない。だが、明らかに、視線を感じる。気配を感じる。見られている気がする。

 キーファがいるから、珍しさからつけている可能性もなくはない。

 「どうする? ハルタ」

 「お姫様はどうしたい?」

 「ちょっとっ! 質問で返さないでよ」

 「ごめんごめん」

 「こんなくだらないことをしてる場合ではない気がするんだけど。ねぇ、ハルタ?」

 (そうだね)

 ふざけてはいけない。

 「ちょっとだけ、速く歩いてみよう」

 


 「む」

 気付かれた。だかしかし、零乃愛の存在がバレたわけではない。その前を行く、小太りの男の方に気付いたのだろう。零乃愛はその男よりも後ろにいる。

 男は完全に前しか見ていない。二人の少年少女に危害を加えることしか考えていない。零乃愛の存在は、双方にバレていない。

 (……ん)

 ペースがあがった。もちろん、零乃愛もそれに合わせる。



 (ビンゴだわ……)

 ハルタと一緒に逃げる。逃げるといっても、怖いから逃げているわけではない。その気になれば返り討ちにすることが出来る。

 (ここからどうするか、よね)

 キーファは、対抗する武器などは持っていない。

 「ハルタ」

 「俺も持ってないよ。さっきので最後」

 通じ合う。このタイミングで聞くことなんて一つしかないので簡単だ。

 「それじゃぁ、仕方ないわね……………………」

 無いものは仕方ない。ハルタを責めることは出来ない。キーファを助けてくれたのだから。責めるのなら、自分自身だ。自国から逃げてきているというのに武器の一つも持ってこなかった自分を。もし持っていたなら、自分で応対することが出来、ハルタの手を借りることはなかった。だが、こうして、この日本で知り合いと呼べる人を作れたことは大きい。アテがあったわけではないから。

 「お姫様っ!!?」

 驚愕を含む声がハルタから飛んで来る。だが、キーファは気にしない。今度は自分の番だ。自分が蒔いてしまった種は自分で回収しないといけない。

 「かかってきなさい」

 挑発。相手は単純だ。必ず乗ってくるだろう。



 (………………??)

 殲滅対象の向こうにいる救済対象の男女のペアのうちの一人、金髪の少女が足を止め、こちらを振り返り、殲滅対象の男に視線を合わせた。

 逃げるのはここまでなのだろうか。自分で片付けるつもりなのだろうか。

 (どうする?)

 引き返す、という選択肢は零乃愛にはない。見守る。

 だが。

 「持ってない……」

 もう一度観察してみると、その少女は武器を持ちあわせていない。その状態で、どうやって戦うつもりなのだろう。ひ弱な少女が、肉弾戦で一回りも二回りも大きな男に勝てるわけがない。だとしても、勝機があるからこそ、少女はこの行動を選んだのだろう。

 「あ? ヤル気か?」

 「あなたみたいな低俗な人間には負けないわよ」

 「けっけっけ。後悔するなよ」

 男が。

 突撃した。



 (くる……………………っ!)

 真っ直ぐ、男が突っ込んでくる。何のひねりもない、ただの突進。速度があるだけだ。左か右に避ければいい。

 「おおぉぉぉぉぉぉっ!!」

 全く問題ない。キーファは右に一歩足を出す。

 「そんな攻撃、当たるわけないじゃない」

 「まぁまぁ……、お姫様。落ち着いて」

 「大丈夫よ」

 どこかに隠れるわけでもなく、こちらを応援するように二人の行方を見ているハルタ。狙いはキーファであり自分でないということが分かっている証拠だ。仲間に危害を加えてたハルタではあるが、その程度のことで狙いを変更したりはしないだろう。

 「そこの坊主」

 「……?」

 「そんな所でのんびりしてていいのか?」

 「俺に攻撃する気、ないだろ?」

 「けっ。間違いねぇ。男に興味はないからな」

 女だから狙われる。お姫様ということを度外視しても、女であるキーファにはそれなりの利用価値があるということだ。

 「二回目くるよ、お姫様っ! 気をつけて」

 「分かってる!!」

 同じ攻撃がくる。ならば、また、同じように避ければいいだけだ。

 「おおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」

 (同じ手は通用しないわよっ!)

 同じ対応をする。

 「ふ……………………」

 「何……………………っ?」

 男が気持ちの悪い笑みを浮かべた。

 「はああああぁぁぁぁぁぁっっ!!!!」

 突進のスピードを利用した男は、次の一手を用意する。

 完璧に背後を取られてしまったキーファは後悔するがもう遅い。いまから避けるための行動をするという選択肢があるが、そんなことをすれば間に合わず中途半端な体制で男の一撃を喰らってしまうことになる。

 (それなら……っ)

 男が再び笑みを浮かべる。寒気がする。

 「……………………くっ!」

 歯を食いしばり、来るであろう衝撃に耐えようとするキーファ。男はもちろん、手加減をするようなことはなく、重い一撃が。

 キーファに向かって放たれた。



 「お姫様…………っ!!?」

 諦めている。攻撃を受けるつもりでいる。どんな攻撃がくるか分からないのに。どれほどの威力があるのかも分からないのに。そんな攻撃を受けるのは非常に危険だ。しかも、背後からくる攻撃だ。適切な受け身すら取ることができない。

 間に割って入って代わりに攻撃を受けることは出来ない。間に合わない。

 その時。



 「……………………………………………………弱い」

 (ん………………………………)

 男から裏拳が繰り出される前に、零乃愛は二人の間に身体を滑り込ませ、キーファに攻撃が届かないようにした。左手で、男の攻撃を受け止める。簡単。楽勝。

 「あん……?」

 「え……………………?」

 驚きの声が二人から飛んでくる。どちらも間抜けな顔をしていて、思わず笑ってしまいそうになる。我慢。

 「……邪魔」

 捻る。男の腕を。折る勢いで捻る。

 「あ……………………? ああぁぁぁぁぁぁ!!?」

 骨が砕ける音がし、少し遅れて男の気持ちの悪い悲鳴が響く。手首がおかしな方向に曲がっている。その程度。零乃愛は、その程度の攻撃しか男に与えていない。喚かないでもらいたい。うるさい。零乃愛は思わず耳を塞いでしまいそうになる。

 


 (助かった、のよね?)

 キーファを助けてくれた人がいる。当然だが、初めて見る人。ハルタが助けてくれたわけではなかった。

 手首から骨を折られてしまったその男は、キーファの前でうずくまっている。先ほどまで狂ったような表情をしていた男。自分を捕まえようとしていた男には見えない。

 「お姫様? 大丈夫?」

 「え、えぇ。大丈夫よ、あたしは」

 ハルタが心配してくれる。

 「なら良かった」

 「感謝するわ。助けてくれて」

 礼は言わないといけない。感謝先は、助けてくれた少女。今回は、さっきのとは違う。一人ではどうにもならなかった。助けてもらえたから、キーファは無傷で済んだのだ。もちろん、ハルタも。

 「いらない」

 「へ……………………?」

 「お礼はいらない」

 無愛想。面倒くさそうな表情をしている。助けたくなかった、というわけではなさそうだ。だが、助けたかった、というわけでもなかっただろう。仕方なく。そういう感じが、この少女から伝わってくる。

 「まぁ、いいわ」

 気に食わないけれど。

 「それで?」

 「なに?」

 疑問形の言葉が飛んでくる。何を問われているのか、キーファは分からない。ハルタも首を傾げている。

 「どうしてここにいる?」

 「言わないといけない?」

 この場所に自分が不釣り合いである。そういう意味だと、キーファは受け取る。その通り。このようなスラム街にいていいような人間ではない。キーファは、きらびやかな場所で光を浴び、皆からの注目を受けるべき人間だ。だけど、それはもう、過去のことになってしまった。日本にこうして逃げてきた以上、捨てなければならなかったことだ。

 「言いたくないならいい」

 「ありがと」



 無理矢理聞き出そうとは思わない。零乃愛には関係のないことだからだ。知れるのであれば知りたかっただけであり、特段興味があったわけではない。この二人がどういった理由でここにいて争いごとに巻き込まれたのかは、この先のことに影響しない。

 「ついてきて」

 ガッシリと二人の手を握る。

 「え……………………?」

 「どこに、なんだ?」

 「……………………安全な、ところ」

 いつまでもここにいるのは危ない。今はまだ大丈夫であるが、安心することは出来ない。零乃愛がいたとしても、いくら相手が人間であったとしても、大勢で来られると困る。

 「いいわ。ついていく」

 「お嬢様?」

 「安全な、と言うからには、ここからは抜けられるんでしょ?」

 「ん」

 その通りである。零乃愛だって、出来るだけ早くここから去りたい。任務で来ているだけあり、長居はしたくない。



 「ねぇ!」

 反応が返ってこない。

 (はぁ)

 キーファは、ため息をつく。後ろから声をかけているのだから、聞こえていないわけがない。だが、無視をする理由もない。無視をされる理由も見当たらない。

 (なんなのよ)

 「ねぇ、ってば!!」

 再度、より大きく声を張り上げ、声を前方向へ飛ばす。

 「…………………………ん……?」

 ビクン、と、身体が反応。どうやら気づいていなかったようだ。その足が止まる。

 「なに?」

 「名前、教えてよ」

 知らないと不便だ。話しづらい。

 「大橋おおはし零乃愛」

 「ありがと。あたしは、キーファ・ベルハルト・アスタロッテ。キーファでいいわ」

 「ん。……………………そっちは?」

 キーファからハルタに視線が移る。

 「俺は朝霧春太。さっきはお嬢様を助けてくれてありがとう」

 「ん……。別にいい……………………」

 顔を逸らした零乃愛は、再び歩きはじめる。ついていかないと。また迷ってしまう。

 (ま、別にいいんだけど)

 攫われたことは不快であるが、ハルタと出会え、この日本で知り合いが出来たのは大きな利点となる。

いつまでも一人でいるわけにはいかない。

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