第2話

 わたしの年齢は今年で二十を越す。猫としてはかなり高齢である。彼女、椎木はんなの幼いころからの飼い猫であり、その縁もあって、こうして上京のときにも、本人たっての希望により一緒に暮らすこととなる。

 理由はといえばそれまで田舎から旅行以外では出たことがない彼女の、さびしさをまぎらわすためとしかいいようがないのだろう。ときに彼女はわたしにそういう愛玩具的な役割以上を求めることがあり、わたしにはそれが少々うっとうしく思うこともあった。

 さびしいなどと、人間が言う資格はないだろう。老いた猫であるわたしには故郷に置いてきた同胞たちに会うすべもない。互いの距離はあまりに遠く、わたしに残された寿命を考えると、もう二度と会うことはないのだろう。ちぎれ雲の奥から漏れるかすかな月明かりの下で、餌を分けあった彼らのやつれた顔、ばらばらにほつれた毛並み、ぎざぎざのしっぽが、まるで昨日のことのように思い返される。

 そしてなぜか、はんなも同じように思うことがあるらしい。数時間で故郷に帰る手段があるくせに、彼女はときおり、月がはっきりと明るい夜、窓辺にわたしを抱えながら、故郷を思い涙を流すときがある。とても軽薄で澄んだ涙である。

「ねえ、ぬこ。聞いてよ」

 その日、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。会社にいやなやつがいる、と。

 何かにつけて彼女にケチをつけるというか、いやみったらしいことを口にしてくるらしい。頬が風穴でも貫通させたようにこけた、目のつりあがった女で、強い香水のにおいをふりまいているとかなんとか。

 わたしにはそんなはんなの愚痴を聞くよりも重大な使命がある。それは日当たりのいい窓辺で眠っていることである。この使命の重要性、そして彼女の相手をすることの徒労さなどは、語る必要もないだろう。ただ、日当たりのいいのは午前中だけで、午後は向かいの新築マンションの影に包まれる。それゆえ周囲を散策してより日当たりのいい場所を探すこともあった。

 翌日、そんな日課で運よく見つけた場所のひとつの、とある屋根で日光浴をしていると、体がぬっと大きな影に包まれた。眠りが浅かったのが幸いし、とっさに飛び退くことができたが、人間の女が軒下から、わたしに向かって虫取り網を振っていた。中年の恰幅のいい女で、この家の住人といったところだろうか。屋根の上の、網が届かないところに退いたわたしを苦々しくにらみつけていた。

 実はその家の壁に、昨日まではなかった張り紙があることに気づいてはいた。内容はどこにでもあるような陳腐なものである。野良猫にエサを与えないでください、糞尿や鳴き声の被害にこまっていますとかなんとか。最近ではそういった餌付けに対する取り締まりが厳しくなり、住人たちが自治的に愚にもつかない厚顔な対策をたてていた。

 人間の都合でエサをやったり、やらなかったり、勝手なものである。そのうえわたしを捕獲して保健所に連れて行こうというのか。尿の一リットルでも浴びせてやりたいが、わたしの品性がそれをかろうじてこらえさせた。

 このように、高い知性と品性を持つわたしには彼らをいなすことなど造作はないが、気がかりなのは、そういう人間の自分勝手の被害をこうむる同胞が、確かに存在するということである。

 この家は比較的古く、敷地の広い家屋だが、その隅に居を定めていた親子がこのたび、同じく虫取り網の餌食となるのをかろうじて逃れていた。

 その同胞の顔ぐらいはわたしも知っていた。つねに親子二匹のみで行動をしており、他猫と関わることもなく静かな生活を送っていた。母猫のほうはもはや老齢で、目も鼻もよくきかないようだった。

 子供はまだ幼いながら体は母親ほどの大きさがあった。息を荒らげると垂れた耳がぶるぶると揺れ、長い舌が伸びるのが特徴的だった。ヒゲはなく、歯も異様に鋭角さであり、鳴き声もひときわ大きく、野太かった。そう、傍らにいる子供は、実は犬という種族だった。

 猫と犬と奇妙な親子は、少なくても数ヶ月はその関係が続いていた。当初、猫の母親が犬の子供を育ているという珍事は人間の好奇を集めており、エサを与えられることも多かったが、あの張り紙によってそれも少なくなった。それどころか最近は動物の害における象徴とされ、捕獲の手も多くなっていた。

 母猫が犬の子を育てるようになった経緯は不明である。考えうる理由としては、母猫はあまり目鼻がきかないため、何かの理由でいなくなった本来の子と犬を勘違いしているといったところだろうか。相容れないはずの犬と猫がこういった形で共生しているというのも皮肉である。わたしにはそんな偏見はないが、これが犬からも猫からも、親子が孤立するようになった原因であろう。犬のほうは汚れた首輪をしているので、もとは人間の飼い犬のはずである。何らかの理由で捨てられたのだろうか。

 体に不具合を持つ母猫には、人間の施しなしで育ち盛りの犬を育てる力はなかった。奇妙な親子はこのまま死を待つだけなのか。しかしいままでエサを与えていた人間には、それを知るすべもない。犬を捨てた人間もしかりである。わたしはその無知を嘆きながら、久方ぶりに母猫と子犬をはんなのマンション付近で見かけた。かなり衰弱しており、お互いによりそうようぐったりとしばらく動かなかった。

「ぬこ、今日は遅かったね」

 帰宅したころにはだいぶ夜も更けていた。はんなはすっかり飲酒がすすんでいるようで、頬が赤く蒸気していた。部屋にはもう一人、見知らぬ人間がいた。

「いま、ドア、かちゃって」

「ああ、カギを自分であけれるのよ、このこ。だから会社に行くときに預けてるの」

 見知らぬ女はわたしが首からぶらさげている鍵と、自分で鍵を開けるということに驚いたようである。確かに普通の猫には少々難しい芸当なのだろう。

「ほおらぬこちゃん、こっちおいで」

 昼間の中年女とはちがって、多少は猫に対する敬意というものをもっているようである。女ははんなからこうちゃんと呼ばれていた。こうちゃんがわたしを抱こうと手招いているが、すこし閉口ものだった。年老いたわたしには日課の散策もそれなりの負担であり、つまり疲れていたので、人間に愛嬌を売るような労働を果たすのはかなりつらい状況だった。しかもわたしは張り紙と中年女の件で、多少人間に反感を抱いており、人間の相手などしたくないというのがこのときの気分だった。

「よく見るとキズがけっこうあるね、白髪もまじっている」

 人間は往々にして年をとることに異様な抵抗があるらしいが、わたしにはそんなものはなかった。体のキズ、固くなった毛、白髪は、わたしの生きてきた長く重畳な道程の象徴である。わたしにとって若さとはおろかさと過ち、未熟と失望の塊でしかない。こうちゃんはわたしのキズ跡や白毛のあたりを特によく撫でていた。わたしは右目の瞳も白化していてよく見えないのだが、それを掌でつつむように、まぶたをそっと撫でた。その表情は愛玩具のやわらかな感触を楽しむというよりも、痛々しさを抱える同類をあわれむようだった。

 こうちゃんははんなと深夜まで話しこみ、翌朝目を覚ますなりあわてて帰っていった。基本的にわたしは夜行性ゆえ、夜は寝ていても多少の物音にすぐ目を覚ます。二人とも気づいていなかったが、寝ている間に携帯が何度か鳴っていた。こうちゃんはその着信履歴に朝気づき、帰りを急いでいたのだろう。ちなみにわたしはというと、こうちゃんが帰った直後に、その先を制すよう窓から家を出ていた。宵の風に乗って鼻腔をつく臭いのためだった。辿っていくと道端に血の跡が続いており、そこからあの母猫と子犬の臭いがした。

 建物の隙間で母猫は生気なくぐったりと横たわり、犬はその腹に牙をたてていた。出血は子犬が母猫の出ない乳首を強く吸い、噛みちぎっていたためだった。母猫はもう慣れてしまったのか、それともそんな力も残っていないのか、痛がる様子がまったくなかった。乳は出ないが、子犬はその血でわずかに空腹をまぎらわせていた。

 わたしがこの光景を見たのは、実は初めてではなかった。母子にはときおり自分のエサを分けていたが、二匹を養うには到底及ばなかったのだ。それは母が、子の空腹を満たすための痛々しい苦肉の策だった。

 そのときちょうどはんなのマンションンから出てきたこうちゃんが側を通りかかった。母猫の血に牙を濡らした子犬を偶然みつけ、しばらく言葉を失っていた。わたしはとっさに、彼女のポケットにむかってぴょんぴょんと飛び跳ねながら、前足をかいた。

「え、これ?」

 ポケットに入っていた酒のつまみのカルパスを二匹に投げた。子犬はようやく乳首から口を離してカルパスに鼻を近づけるが、おそるおそるにおいをかぐだけで、口をつけようとしなかった。母猫がわたしの意図を察したのか、それを口に入れ、もぐもぐと噛んで吐き出した。すると子犬はようやくそれに口をつけた。

 初見の食べ物は母親が口をつけたものでないと口にしないようである。おそらく生まれたときから過保護な人間に飼われていたのだろう。彼は人間なり猫なり、何かに依存をしないと生きていけなくなっていた。

 母猫はなぜ血を流してまで子犬を養おうとするのか。自分より子を優先するという、生物に課せられた種の保存という本能故か、それとも親として子を満足に育てられない自責の念ゆえか。やがて母猫はふらふらとたちあがり、おぼつかない足取りで黎明の空気にきえていった。血を流しながら子犬を従えるその姿は、衰弱しているはずなのに、力強ささえ感じられた。疲れやか細さ、弱さといったものはみじんもなかったのだ。

 わたしはこの日から毎日、風に乗る母の血と子の唾の臭いに目を覚まさねばならなかった。犬は乳のかわり母猫の血をぴちゃぴちゃと舐め続け、そのたびわたしは彼らのエサを用意しなければならなかった。

 母猫は本当に子を犬と気づかずに育てているのか。わたしは血を滴らせながらも悠然とさえいえる挙止で佇む母猫を見て、そんな疑惑を抱いた。もしそうでないなら、なぜ犬の子などを育てているのか。母猫には聞けなかった。イエスであれノーであれ、わたしは母猫の答えに二の句をつなぐことが出来ないような気がした。母猫はエサ探しに奔走するわたしをさえ、何か遠くを見るような目で見ていた。彼女にとってはエサを探すというわたしの行為さえ、感謝するようなことでも、よけいなことでもないようだった。誰かにエサをもらおうがもらうまいが、どちらにしても母猫は子犬に血を与え続ける、そんな決意を感じた。直後に人間どもの偽善的なエサを与える際の笑みがうかんで、思わず爪をたてた。

 しかしわたしが一番驚いたのは、母親が犬を育てる理由を、あろうことか人間の女、こうちゃんの言葉から導き出したということだった。

 彼女もまたはんなの家に来るたび、この親子の様子をうかがい、エサをやるようになっていたのだが、あるとき、出血した母親の乳首をテッシュで抑えながらこう言った。

「この子を愛しているから、きっと平気なんだろうね」

 わたしはこの言葉の行き着く先はどこなのかを考えた。彼女が母猫のことを詳しく知るはずはないので、それは推論でしかないはずだった。いや、ただの美化された空想と言ったほうが近かった。しかし、その言葉は真理といったものとは別次元の重みをもって、わたしの耳に残っていた。わたしはその理由を、愛という言葉の意味を考えるというまるで思春期の青少年のような幼稚な考察に逃れるしか導くすべを持たなかった。

「本当の子供は、きっとどこかで幸せに暮らしているよ」

 単純に言うと、こうちゃんも、そしてわたしも、そう信じたいだけかもしれなかった。そして事実を確認するすべがない以上、信じたことが真実となることは、甘言でも妄言でもないのではないか。例えば母猫の本当の子が、名前も顔も知らない野良犬に実は育てられているとしたら、それこそファンタジーである。ただ彼女の言葉には、童話の世界を現実に引き込もうとする力さえ感じられた。

 こうちゃんはしばらく、週末ごとにはんなの部屋を訪れた。何をしているかといえば、はんなが一方的に仕事の愚痴を話し、こうちゃんが苦笑してうなずくという形が大半だった。こうちゃんにはたびたび電話がきており、眠りかけのわたしにも電話口から響く野太い声が聞こえていた。

 深夜、わたしは犬の遠吠えで目を覚ました。それは確かに子犬のものだったが、それにしては声が低いような気もした。部屋ではんなと枕をならべて寝ているこうちゃんも、聞きなれた鳴き声への違和感に同じく目を覚ましていた。わたしはこうちゃんと目をあわせ、互いにうなずいた。首にかかっていた鍵が中空を舞い、月明かりをきらりとはじいた。

 母猫は体を丸めてうずくまり、子犬は少しはなれたところで吼えていた。血の臭いはしなかった。わたしには子犬の声が、自分が親を傷つけていたことに気づいた悲鳴のように聞こえた。

 子犬がいままで母親の血に気付かなかったのは、その過保護に慣れた性格と幼さ故である。かれは成長していくにつれて、自分と母親の違いに気付くようになった。幸か不幸か、血というもの、自分以外の傷みというものに気付くようになってしまっていた。

 母猫の足元にはぼろぼろになった猫のぬいぐるみが落ちていた。誰かが捨てたのではなく、子犬が拾ってきたものである。自分は母猫の子ではない、それに気づいたからこその、つまり彼が出来ること、かわりの用意した子供だった。

「これはあなたの代わりにはならないよ」

 子犬はもう母猫に寄り添うことはなく、それでも母猫から目を離すことはなかった。母猫の自身の牙の痛みに耐え、血を流しても平然としていたその意味に、強さに気づいたとき、体に走る震えと絶望とともに、子犬ははるかな成長を遂げていた。

「そうだね、今度はきみが守る番、だよね」

 わたしはすっかりやせ細った母猫にエサを与え、傷の手当をした。衰弱はいつも以上で、子犬が吼えて我々が気づかなかったら、最悪の結末を迎えていたかもしれなかった。

「四半期しんどかったなあ、また今月も予算いかなくて肩身せまい」

 それから数週間後、はんなはいつものように愚痴って、こうちゃんはいつものように苦笑しながら聞いていた。

「ちょっと散歩してくるね、ぬこちゃん、つれてっていい?」

「でも、ぬこは人間と散歩なんか」

 わたしは尻尾を上下に二,三大きく振った。はんなは何かをさぐるようにわたしの目をじっと見て、両手でわたしの頬をぎゅっとはさんだ。

「夜道はあぶないから、ちゃんとこうちゃんを守るんだよ」

 わたしは苦笑せざるを得なかった。やはりはんなはこの散歩の意味を、直感的に理解しているらしい。すべての道程ではなく、暗闇のなかにぽつんと落ちる外灯のように、肝心の一部分のみを照らしていて、しかもそれをわたしに察知されないような無意識の配慮さえあるかのようだった。

「おいで、ぬこちゃん。キズをなでてあげる」

 こうちゃんはわたしの切断された前足に触れた。このあいだもそうだが、そのとき彼女は目じりをさげ、すこしもの悲しそうな顔をした。傷跡のなんともいえない感触が、彼女に何かを想起させているようだった。

「撫でるとよく治るんだよ」

 二人はマンションを出て、一人残っているはんなの部屋の明かりを見上げた。

「今日で会社を辞めるわ。はんなちゃんにはまだ言ってないけど、戻ったら言わないとね」

 はんなにとっての悲報を抱えているということは、彼女の様子から想像がついた。はんなの嘆きぶりが目に浮かぶが、わたしが思わずこの小さな瞳を開いたのは、彼女がおもむろに服のすそをまくった白い肌に、強く打ち込まれた黒いあざだった。わたしは肉球のない手をそのあざに置いた。あっと、彼女はくぐったような声を出した。わたしはにゃあと鳴いた。

 …愛するものを傷つけるという習性は、どうやら犬も人間もいっしょらしい。

 こうちゃんは自分を殴る男を、あの母猫と子犬の姿に重ねていた。親子ゆえに、母への甘えゆえに知らずに傷つけていた子犬と、そしてこれから父親となる男を、である。

「カレはやさしいけど、ときどきとても怖くなる。わたしが泣いて謝ると、正気にかえったみたいに、泣いて謝ってくる。そんなことが何度かあって、子供が出来て、結婚するしかなくなって。カレの地元に今度ひっこすのよ」

 母猫はきっと、もし子犬が気づかなければ、自身が死ぬまでその牙に耐え続けるのだろう。彼女はそこまで強くはなれないと自分で気づいていた。男はいつ、あの子犬のようにかわってくれるのか。それが彼女の気がかりだった。

「わたしはいつまで血を流さないといけないんだろ。どうしたらいいかな、ぬこちゃん」

 嘆息をつくしかなかった。猫よりか弱い女に犬より愚かな男、人間は知能を得て犬猫よりはるかに高い地位にいる気になったようだが、現実はこんなものである。ただ、彼女のほうは弱くとも、誰かを傷つけるということは決してなかった。そしてわたしに、母猫と子犬の進むべき道を暗にではあるが示してくれたのは事実だった。すくなくてもその恩があった。

「ぬこちゃんが守ってくれるの?って、はんなちゃんがいるもんね」

 わたしははんなの保護者などになったつもりはないが、事実上そうなってしまっているのは否めなかった。

「はんなちゃんのこと、よろしくね。わたしは何もしてあげられなかった」

 何もということはない。少なくてもはんなは、この週末を楽しみにしていた。いつもは仕事から帰ると疲れて寝るだけだったのが、週末に近づくと掃除をし、酒やつまみを何にしようかと楽しげに選んでいた。会社勤めで疲れた数少ない娯楽であったはずだ。

 わたしは人間と動物の関係について少しく考えている。エサ、住みか、同胞、病院、もし人間が一方的に与える側であると、完全に上下関係にあると思っているのなら、われわれとの共生などありえない。お互いが何かしらの重大な影響を与えているのは確かである。

 わたしはゴミ箱から雑誌を銜えてきた。表紙には若い男が気取った様子で写っていた。

「カレはそんなイケメンじゃないよ」

 わたしはおもむろに腕を構えた。肉球からにょきりと爪がのび、その切っ先がぎらりと光った、直後、研ぎ澄まされた爪が写真の男をずさずさに切り裂き、わたしはふんと鼻をならして紙くずとなった男を足蹴にした。

「ぬこちゃん、怒ってくれてるの」

「にゃあ」

「カレに襲われたらこういうふうにしろって?」

 彼女に同情をしたわけではない。思いあがった人間にこの爪をたてるのはわたしの重大な使命である。というか、言葉が使えないというのはやはり不便だった。意思を伝えるのに、わざわざこんな大仰なことをしなければならない。

 こうちゃんは先にはんなの待つ部屋に戻った。今頃ははんなに会社を辞めることを伝えているのだろう。はんなの鳴き声、いや泣き声が外まで聞こえてきそうである。

 わたしは母猫と対峙していた。子犬はいつものように、少しはなれたところにいた。最近はじめた慣れないエサ探しに疲労しきっており、足取りもおぼつかないようだった。

 孤独に生きるわたしにもようやくこうちゃんと同じものが見てえてきた。母猫は愛するものを遠ざけ、こうちゃんは愛するものに近寄ったのだ。同じくキズを伴う愛情ゆえに。彼女はそんな母猫に敬意を表し、母猫は彼女に羨望の念を抱いた。

 本当にいいのか、とわたしは言った。母猫は小さくうなずくだけだった。子犬はただじっとこちらを見ているばかりだった。子犬に事情を説明し終えたころ、振り返ると母猫はもう夜の闇に消えていた。

 後日、はんなの携帯にこうちゃんと、数週間で見違えるほど大きくなった子犬の写真が送られてきた。

 われわれは所詮か弱い動物である。凶刃をふるう人間にはかなわない。あるいはその小さな体に内包した母猫の強さが、子犬を通して彼女に受け継がれていくのかもしれない。

 はんなはそれを見るとすこしさびしそうに笑い、濃紺のスーツを羽織って、早朝、輝くような日差しの差し込む部屋を後にした。

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ぬこさん @tsurai

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