ぬこさん

@tsurai

第1話

 季節は初夏、桜の時期は例年より早かったらしいが、わたしには引越しの忙しさ等でそれを楽しむ余韻もなかった。以前の家なら、こうしてベランダで寝転がっていれば、向かいの街路樹から飛んでくる花びらをうとうととした心地で鑑賞できたものだが、新居のひとつしかない窓の向こうには、古びたマンションの灰色の壁がのっぺりとそびえるのみである。

 わたしは特に所在無くこうしている。彼女が仕事に出ているときはたいていこうである。怠けているわけではなく、これは生きる活力を養うための休息である。わたしにとっては、活動していようが休息をとっていようが、日々生きること、それこそが苛烈な戦いであり、今日まで生きることが出来たのが僥倖なのである。それゆえ、おそらく彼女が必死になって働いているであろう時にこうしているのも、来るべき戦いへの備えなのだ。

 そう、わたしの体にはかつての無残な戦いの跡が刻まれている。右手は欠損しているし、左目はもうよく見えない。ちょうど襟首のところに傷跡があり、肩口、足のつけねあたりにも肉がえぐれたような跡がある。

 静かな昼下がりである。郊外の安アパートは都心の喧騒とは無縁であり、わたしの好むところのひとつである。うとうとと眠りに落ちようしたとき、

「ごめんなさい、ちょっといいかしら」

 外からそんな声と、どんどんとドアをたたく音が聞こえ、わたしは耳をぴくりとたてた。

 だれかは姿を見ずともわかる。彼女の祖母である。そういえば、町内会の旅行で近くに来るから家によるという話を、数日前から聞いていた。しかし彼女は日曜日にもかかわらず、会社からの急な呼び出しのせいで家にはいなかった。かなりあわてていたので、祖母のことも忘れていたのだろう。

 わたしは首をぐるりと廻して、ぶるぶると揺れるヒゲ先を撫でた。これは彼女の失態である。居留守をつかってもなんら支障はなかったが、祖母は覇気のない金融業者のようにずっとドアをたたいていた。彼女と祖母の田舎ではそもそも玄関にカギなどかけたこともなく、あけっぱなしのドアに隣家の知人が勝手に入って玄関先に漬物を置いて行く、といったような日常だった。つまりインターホンを押す習慣がないのである。わたしははるばる遠くの田舎からやってきた祖母の、ドアの向こうで困ったような顔をしているのを想像して、いささか不憫に思った。

「あら」

 出迎えたわたしの顔を、祖母はひざをかがめて覗き込んだ。

「あらあら、はんなちゃんは留守なの」

 はんなというのはわたしと同居している彼女の名前である。ええ、ただもう少しで帰るでしょうから、よろしければ中でお待ちください。お茶菓子ぐらいだしますので。

「すまないねえ、ここに来るのに迷って迷って、道はせまいしごちゃごちゃしてて、何か空気も悪いし、言葉も通じないみたいで」

 祖母からは疲労の色がありありと見えた。言葉は田舎の方言が強いため、道を聞こうにもなかなかうまくいかなかったのだろう。煩雑に入り組んだ駅の路線や見知らぬ道、そもそも今までほとんど故郷もでたことがないのである。疲労ももっともだった。そして田舎を出たことがなかったのは孫も同じであったので、はんなへの心配も尋常ではなかった。

 粗茶ですがどうぞ。

「ありがとう、まあ器用ね」

 それはおそらく、頭上におぼんと粗茶を載せたわたしの妙技をさしてのことだろう。わたしには手を使うより、物を運ぶにはこのほうが都合がよかった。

「あのこはちゃんとやっているのかしらねえ」

 祖母は一度曲げた膝をすっとのばした。あまりに雑然とした部屋の様子に、腰を下ろすことも遠慮しているようだったが、とりあえずといったふうに、まずぬぎっぱなしになっていた服をたたんだ。散乱していたゴミを袋に集めて、風呂と流し場とトイレの掃除をし、部屋に掃除機までかけだした。最後に一万円と手紙を入れた封筒をテーブルの上に置いて、静かに手を合わせた。手紙は両親かららしい。祖母も親も、いまだに携帯さえ持っていない田舎者で、おそらく祖母の来訪は両親の意も含んでいるのだろう。

「もうそろそろ帰らないと、せめてひと目でも会いたかったわね」

 そんな調子で小一時間ほども待っていた祖母は、なごりおしそうに言った。

 今日訪れることを前もって言っているのに所在のわからない孫、普段の生活の程がうかがえる乱雑な部屋の様子。祖母にはひょっとしたら、都会という見知らぬ街に、よく知った孫が染まり、飲み込まれ、まったくの別人に変貌するさまが想像されたのかもしれない。せめて孫の顔を見てすこしでも安心したいと思っていたもくろみは、もろくも崩れた。

 何度も言うが、わたしには関係のない話である。祖母や両親がこのまま不安を募らせ続けるとしても、わたしの生活において何か影響があるわけではない。

 思わず腕を組んだ。われながら醜い腕である。以前に事故で手首から肉球にかけてが切断されたので左右の長さが違う。これでは腕を組みにくいし、沈思黙考というわたしのスタイルを十分に表現しきれない。同情をひこうと思われるのもしゃくである。

 かわいいこには旅をさせろという言葉もあるが、どうもこの家族ははんなに対して甘いようである。この世界に多数渦巻く絶望、失望といったものを、彼女とはまったく無縁のものにしたがっている理想主義者らしい。

 わたしはテーブルの上におきっぱなしのそれを手にとった。普段ははんなが出かけるときに持ち歩いているのだが、今日はたまたま忘れていったらしい。以前に彼女に怒られたことがあった。わたしが触ると、画面が爪で傷がつくからと。それを口に銜えて祖母に渡した。

「こういうのよくわからないわ」

 わたしはあれこれ画面をさしながら使い方を教えた。数十分の悪戦苦闘ののち、タブレットPCの画面にははんなと、会社の同僚たちの画像が写しだされていた。

 画像は新人研修の合宿所で撮影されたものや、友人と遊びにいったときのがいくつかあった。祖母が指でさっとなでると、今度は見慣れないスーツ姿のはんなが現れた。髪を後ろにしっかりとむすんで、化粧もどこか大人びていた。

 愁眉に曇っていた表情に少し光が差したようだった。孫が元気にやっている。その一端をようやくかいまみれた瞬間だった。今度はタブレットをぐるぐるとまわし、画面にぐいと目を近づけて、中を見通すかのように覗き込んだ。まさかはんながこの中にいるとまでは思っていないだろうが、祖母はやがて、何かに思い至ったようタブレットを置いた。わたしはそのときの祖母の表情に、何故か違和感を覚えた。

「面白いわねえ、もっとないのかしら」

 祖母はしばらくタブレットPCを操作していたが、写真はたぶんそれで全部である。姿を見るだけでは飽き足らず声が聞きたい、声が聞ければ話がしたい、話が出来れば手をつなぎたい、抱き合いたいと、欲望をエスカレートさせるのは鼠がチーズの次にミルクを欲しがるがごとき動物の業だろうか。わたしの手首のない手はむなしく祖母の前で漂っていた。

「今日は初めて会社を休みました。熱が四十度ぐらいあるって。嘘つきました。ええ、でも本当に仕事がしんどくて、目が覚めても体が起き上がらなくて、吐き気とかもあったので仕方なかったんです。でも嘘ついたのはかなりショックで、昔、おばあちゃんに怒られたことがあるんですけど。学校の勉強ができなくてもいいけど、嘘はつかない子になってほしいって。それを思い出すと、本当に、申し訳なくて、でもこんなこと誰にも言えないので、ねえ聞いてるの?ぬこ」

 今のはタブレットPCに記録されていた動画の音声だった。寝巻き姿で、目の下にどんよりと黒ずんだ隈をまとわせて、普段の仕事メイクからようやく解放された頬を、涙で濡らしていた。

 はんなが帰ってきたのは日が暮れてからだった。仕事の疲れが溜まっていた彼女はすっかり片付いた部屋の変化にも気づかず、スーツ姿のままべッドに倒れこんだ。

「あー疲れた」

 器用に寝転がりながら上着を脱いで、ブラウスのボタンをはずした。ほぼ同時に、ベッドの上で脱ぎっぱなしになっていたジャージのズボンを足の指先で器用に拾った。

「あ、やっぱり家に忘れたんだ」

 寝転がったままベットの端ぎりぎりまで体を寄せて、目いっぱい手を伸ばしている。テーブルの上に置いたタブレットPCをとりたいが、意地でも起き上がりたくないらしい。当然届くわけもなく、そのまま情けないうなり声をあげてベッドから落ちた。うらめしそうに、手伝おうともしないわたしのほうを見ているが、あえて気づかないふりをして体をまるめた。

「今日おばあちゃん来る日だった~、でも仕事だったしなあ」

 すでにわたしは眠りに落ちようとしていたので、彼女の言葉などうつつでしか聞いていなかった。やがて悲鳴のような歓声のような、やたら耳障りな叫びが聞こえてきた。

「おばあちゃん来たの?、ねえねえ」

 寝ているところに体を揺らされたので、わたしは不機嫌そうにあくびをひとつ返して、また体を丸めた。

「はんなちゃん。いつもお疲れ様。お仕事大変なのね。疲れたらいつもで帰って来てもいいのよ。おばあちゃんも、お父さんも、お母さんも、あなたが元気でいることが一番なんだから。あなたはいつも真面目で一生懸命だから、慣れない場所でも、まわりのみなさんがそんなあなたを、きっとみてくれているわ。つらいのはいつまでも続かない。またおばあちゃんに、はんなちゃんのお話を聞かせてね」

 再生した動画にはたどたどしく話す祖母とわたしが映っていた。わたしは泣きじゃくる彼女をしり目に、祖母とのやりとりを思い出していた。

 祖母が彼女の動画をみたとき、祖母ははじめは少しおどろいたような顔を見せたが、すぐに何か得心がいったような微笑を浮かべた。

 小さな家をでて、広い世間に一人羽ばたいていった未熟者がいる。未熟ゆえ困難にぶちあたるのは当然のことである。世間は彼女に苦難を伴う成長を求めるだろう。家族はそんな世間に感謝し、同時に家族という小さな世界の中だけでは、成長を求めない甘く安らかな場所を提供する。いつまでたっても、ただ昔のままの笑顔だけを求め続ける。社会と家族のはんなに求めるものはあまりにかけ離れているが、わたしは祖母の微笑に、彼女のためなら世間の何をも敵とすることをいとわず、彼女に弱さと甘さを提供し続ける人間の愛というものを垣間見た気がした。

「あのこはつらいことがあったけど、元気でやっているのね。よくわかったわ。そしてそれに耐えられたのも、あなたのおかげなのね、いつもありがとう」

 動画を撮影し終えると、祖母がそう言ってわたしの頭を撫でた。

「あなたと一緒にこっちへ来ることをあんなに言ってた理由がわかった気がするわ。いつもこんなふうにささえてくれてたのね」

 帰っていった祖母の後姿はこころなしか、来たときより背筋が伸びたような気がした。

 わたしもまたその甘き汁を与える徒党に、暗に加えられたようである。祖母を甘いなどと批判する気はまったくない。甘かろうが辛かろうが苦かろうが、生きることができればそれでよいのだ。

 このように、彼らは実に平凡な存在である。とくに秀でた能力を持たず、とくに大きな幸福も、目を覆いたくなるような災厄に出会うこともない。広い世界の片隅で、とても小さなコミュニティを形成しながら、それでも必死に生きている。平凡だから、小さい世間だからラクというわけでもなく、つらいこともたくさんある。

 同胞たちはときおり、彼女たちと自分の境遇の差について怨嗟の声を放つことがある。たしかに、居住空間、食料の豊富さなどにおいては、格段の違いがあるのだろう。が、わたしは長年近くで彼らを見てきたが、実は両者にそれほどの違いがあるとも思えなかった。彼らは豊かさと引き換えに、われわれとは無縁の、想像もつかないような苦しみを味わっているのだから。

 翌日の朝早く、彼女はしわをのばしたスーツを着こんで家を出た。

 わたしは澄み渡る青空に降る淡い光を浴びながら、同じようなスーツに身を包んだ人間たちの行きかう間を闊歩していた。彼らの多くは死人のような土色の顔をしていた。あるいはのっぺりとした真っ白か、赤黒いかである。わたしはこういうとき、きまって空腹と寒さ、冷たい雨に打たれた日々を思い出し、少しく湧き出た優越感を魚とし、心地よい光の下にあくびをかく。

 彼女たちには恩がある。わたしはつらい道を歩む彼女の生を、力不足ながらささえていこうと思う。この短い余生において。

「にゃあ」

 わたしの決意をこめたこの声が、どれほど届くのか。どうでもいいことである。

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