第7話 花の歌
午前中のステージ練習が終わり、楽屋では三人が急いで弁当を食べていた。本番開始まで時間もない。
「今年は調律で思ったより時間かかったな」
良明がお茶でご飯を流しこむ。
「去年よりちょっとね。これでも無理言って随分早くやってもらってるんだけど、今年はなんだろ、乾燥してるのかなあ。このホール、乾燥気味よね。毎年鍵盤かっさかさ」
「まあ、なんとかかんとか昼飯食べる時間は確保できたからよかったよ」
「みっちゃん、ただでさえ食べるの遅いんだから、キャベツ一本ずつ食べてる場合じゃないわよ」
「はーい」
三人で同時に食べ始めたのに、娘の美智子だけが食べ終わっていない。
「さっきなんかえらい恐縮して話してたの、あれ、なんだったの?」
「ああ、あれ? 愛ちゃんちのおじいちゃんがピアノ習いたいって。でもね、遠いのよお。東村山だって。それじゃ通ってもらうのも厳しいし、無理よねえ、いくらなんでも」
「東村山か、そりゃ江戸川区に通うのは無理だな」
「そう。でもすごく残念そうで。なんかちょっと悪いことしたみたいな気になっちゃった」
「いやまあ、そりゃしょうがないだろ。あれ、でも愛ちゃんってついこの前始めたばかりの子だっけか」
「そうなのよ。でね、連弾したいって急に言うから、けっこう困っちゃったのよね」
「ああ、あれか、『楽しき農夫』の連弾」
「そう、あれ。意外と大変だったんだから」
「まあ、そうだよな。ひとりで弾く曲だからな」
「でもね、お母さんがバイエル程度ですって謙遜してたけど普通に弾けるのよ。だからそっちはそれほど簡単にしなくていいから、助かった。前にパパに聞いてもらった時より最終的にゴージャスに仕上がってるから。期待してて」
「そりゃ楽しみだな」
「さて、と。じゃ、歯磨いてくるね」
「俺はビデオの確認してから受付のほうに行くか」
「悪いわね。今年は幸子が二人めで手伝いに来れなくって。うちの母親呼んでもうるさいだけでちっとも手伝ってくれないから」
「いやいや、義妹さん、もうすぐ生まれるんだからしょうがないよ。お義母さんは、まあ、あれだな」
「アレって何よ」
「あれだよあれ」
「何よそれ。でもね、いいの、これでもしっかりやってるほうだから」
「ああ、今年も集合写真、皆いい顔なんだろうなあ」
「不思議よね。発表会に出てる子たち、ステージの上でライト浴びるなんて、もしかしたら一生で何度もないことかもしれないの。だから、少しでもちゃんとした発表会にしてあげないと」
「わかるよ。まあ、俺も恥ずかしくないよう、ちゃんとするよ」
「よろしくね」
ポーチを抱えた美紗子は楽屋から慌てて出ていった。
「ママ、今年ちょっと緊張してるみたい。講師演奏のベートーヴェン、有名な曲だから大丈夫かなって」
「ああ、『悲愴』のことか。みんなが知ってる曲のほうが失敗するとばれるから緊張するって言ってたよな。まあでも、練習の時に散々聞いたけど、大丈夫だろ。それより美智子は大丈夫か」
「『子供の領分』だし、転ばなかったら大丈夫だと思うよ」
「なんだったっけ、あの曲のタイトル、何回聞いても覚えられない」
「『グラドゥス・アド・パルナッスム博士』」
「それだ、それ。ママがいつも言ってるじゃん、間違えても絶対に止まらないで平気な顔で最後まで弾けって。大丈夫?」
「わかってるよ。パパに言われたくない。受付に行かなくていいの」
「なんだよ。じゃ、行ってくる」
入場時刻を過ぎ、徐々に座席が埋まっていく。入口の看板の前やロビーで記念写真を撮っている家族たち。ステージに立つ子どもたちの表情は胸を高鳴らせているように見える。どの子もこの日のために用意した衣装をまとい、主役の顔をしている。
発表会が始まろうとしている。
舞台袖でモニターを確認している美紗子に良明が声をかけた。
「ビデオカメラの確認した。あとはスイッチ押すだけ」
「去年はスイッチ押し忘れたのよね。今年はよろしくね」
「わかってるよ」
「今年は美智子にアナウンスお願いすることにしたから、私は子どもたちを元気づけてステージに送り出すだけ」
「講師演奏は?」
「言わないでよ、緊張するじゃない」
「悪い、悪い。それにしても今年も子どもたちの衣装すごいねえ。なんかティアラだっけ、付けてる子いたね」
「緑ちゃん、毎年すごくかわいいドレスなのよね」
「去年もお姫様みたいな格好で弾いてた子か」
「そう。気合の入り方が違うのよね。でも、本当にやさしそうで素敵なお母さんって感じで親子の仲もすごくいいの。でも、この発表会でやめちゃうのよね」
「え、そうなんだ」
「お父様のお仕事の都合で引っ越すのよね。残念だけど」
「そうなんだ。お父さんって何やってるの?」
「よく知らないけど、大学の先生みたい。残念よねえ、ホント。でも引越しはしょうがないわね」
「そうだな」
「そういえば、受付、美智子ひとりで大丈夫? 様子見に行ってあげて。それと、美智子にそろそろこっちに来てアナウンスの準備するように言ってくれる?」
「はいはい、わかりましたよ」
パラパラと遅れてくる観客もいるが、受付はそろそろ暇になっていた。
「パパ、じゃワタシ、アナウンスに行くから」
「遅れてくるって言ってたのって、えーっと、優希ちゃん、だっけか?」
「熱出たから病院で診てもらうって。でも、インフルエンザじゃなかったってさっきママが電話で話してたから、もうすぐ来ると思うよ」
「出演には間に合うのかな?」
「大丈夫、優希ちゃん、後のほうだから」
「優希ちゃんのお母さん、すごい美人だよな」
「あ、ママに言っちゃうよ」
「それはやめて。頼む」
「言わないよ」
「頼む。じゃ、行っといで」
「じゃね」
数分後、美智子の声がスピーカーから流れてきた。ロビーで走り回っていた小さな子どもたちが慌ててホールの中に消えていく。
楽屋から舞台袖に通じる通路に並べられた椅子には、出番を待つ子どもたちが緊張した面持ちで神妙に座っている。その傍らで気を揉む親たちが行ったり来たりを繰り返す。開演のベルまではもうすぐだ。
遅れてきた優希ちゃんとその家族を通してしまうと、受付の仕事はおしまいだった。今年もプログラムは随分と余ってしまった。カウンターの上に綺麗に揃えて並べ直す。裏のスタッフルームに置いてある記念品を確認する。終わってから花束と一緒に配ることになっている。いつも手伝ってくれる義妹がいないと心細い。なんとなく心もとない。
ロビーに設置された大型モニターにステージの様子が映し出されていた。ガチガチに緊張してうまくお辞儀もできない子もいれば満面の笑みを浮かべて主役気分の子もいる。スピーカーから小さく流れてくる演奏も、練習の時と同じように弾ける子もいればいつもなら考えられないところでミスをして真っ白になってしまう子もいる。
去年の自分を思い出して冷や汗が出てくる。ステージに立つ気分を味わってみたいと思っていた。終わった直後は昂揚した気分だったのに、しばらくすると二度とやりたくないと思う。そして、一年経ってステージに立つ子どもたちの姿を見ると、また羨ましくなってくる。来年はまた乗ろうかなどと考えている自分に苦笑する。
「すみません、こちらは栗本音楽教室の発表会の会場でしょうか」
ジャケットの男性が受付の良明に声をかけてきた。
見事なまでに陽に焼けていた。思わず顔をまじまじと見つめてしまう。皺に覆われた表情を見るとそれ相応の年齢だということは分かる。それにしても焼けている。
「はい、そうです。出演のお子さんのご家族の方ですか?」
不審者では無さそうだが念の為に確認する。
「北村美幸の祖父です」
ゴツゴツと骨ばったしみだらけの手で帽子を取った。
「ああ、美幸ちゃんの。そうですか。美幸ちゃん、今年はランゲの『花の歌』ですね。いい曲です」
そう言いながら、美幸ちゃんのお父さんを発表会で見たことが無いことを思い出す。ずいぶん遠くからわざわざ車で通ってきているからだろうか。
「間に合いましたか」
「大丈夫ですよ。美幸ちゃんの演奏はまだ先です」
「そうですか」
「今はまだ他の子が演奏中ですから、こちらで少々お待ちください」
「わかりました」
演奏の切れ目をモニターで確認してからホールへの扉をそっと開ける。
演奏を終えた奏者に向けた拍手の音がホールの中から溢れてきた。
「ありがとうございます」
男性は深く下げた頭を上げた。
そして、ゆっくりと、まだ拍手の続くホールの中に足を踏み入れた。
終わり
ピアノ 発表会で、なに弾こう? 澄川三郎 @sumikawa_saburo
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