第6話 楽しき農夫

 アップライトピアノの上に長年積み重ねたままにしていた箱や書類の封筒はすっかり片付けられていた。教室に通い出した喜美恵のために思いきって買った。三十年も前の話だ。高い買い物だった。

 家に来た日のことをはっきりと覚えている。玄関の前に停められたトラックの横に書いてあるピアノ運送専門という文字。狭い玄関を通るのか、そんな心配は無用だった。体格のいい二人の若者が手馴れた様子で持ち上げ、気がつくと居間の一角に鎮座していた。

 調律師もやってきた。素人には聞き分けられない違いがわかるのだろうか。何度も鍵盤を叩きながら少しずつ音が調整されていく。

 傍らに、真新しい鍵盤に触るのを楽しみにして目を輝かせている喜美恵がいた。若かった妻の悦子が目を細めている。

 懐かしい光景だ。あの頃はとても幸せだった。未来は間違いなく輝いていた。




 高校を卒業してすぐに父さんとは一緒に暮らしたくないと言って家を出た喜美恵がようやく帰ってきた。小柄な女の子の手をひいていた。何歳と聞くと、九歳と答える。同い年の子どもと比べても小さく見えた。父親は来なかった。一緒に暮らしてもいないし元から結婚してもいなかったからと煙草の煙を吐き出しながら自嘲気味に笑う。髪の毛は金色で、ところどころが紫だ。細かった昔の面影が見当たらないほど太っている。情けない。

 家族のためだけに人生を過ごしてきたつもりだった。裏切られた気がする。ぶくぶく太った金髪の後姿を見ていると、可愛らしかった頃の記憶がただただ悲しい。娘がこんな情けない姿になるなどと想像したこともなかった。しかも、定年を迎えるこの歳になって。

 そう、自分はもうすぐ定年を迎える。仕事がなくなる。

 会社に行けなくなることが恐ろしくてたまらなかった。開放感や達成感など感じることはない。ただひたすらに、通勤する朝が来なくなることに怯えている。会社に人生を捧げたつもりは無いが、結果的に、仕事の中身は変わっても、会社は人生そのものだった。

 妻からは意外な言葉を告げられた。もう充分あなたのお世話はしたから私も引退します。別れてください。何を言われたのかよくわからなかった。目の前にいるのは長年見慣れた妻ではない。知らない人が、年老いた女性がそこにいる。裏切られた。怒りが湧き上がっていた。

 お前たちのためだけに生きてきたというのに裏切るのか。そんなことが許されるとでも思っているのか。誰のおかげで飯を食えてきたんだ。俺はお前たちに人生を捧げた。お前たちは俺に何を捧げたというのだ。俺に何も捧げずに、俺をただ捨てると言うのか。悶々としながら深酒をした次の日、血を吐いて倒れた。

 妻も一緒に呼び出された病院で胃腸の良性の腫瘍の可能性について簡単な説明を聞いた。妻だけを残して外に出るように言われた。待ってる間、身体の震えが止まらなかった。

 妻の目が赤かった。昔から隠し事のできない性格だ。覚悟はしているつもりだった。きちんとした告知を受けたいと願っていたはずだった。今ここで事実を聞きたいのかと問われると迷う。もうすぐ定年なのだ。せめて定年まではなんとかならないだろうか。娘にも妻にも疎まれ、そのうえ会社にも捨てられてしまうのか。何をしたって言うんだ。人生がこんなことで終わっていいのか。定年になったら今まで家族に捧げてきた人生を取り戻して好きなことだけして老後を過ごすのではなかったのか。

 その老後はもうない。何の意味も無い馬鹿馬鹿しい人生だった。つまらない一生、無駄な人生。あえて告知を受けることもない。どうせ死ぬのなら事実を聞こうが聞くまいがそんなことはどうでもいいじゃないか。世の中は公平じゃない。俺ばかりが不幸だ。

 自分の予感が間違っていることだけに一縷の望みをかけ、医師と向かい合った。

「余命は半年、もって一年です」

 四十前後にしか見えない若い医者が淡々と言った。

 頭に血が上る。気がつくと叫んでいた。急に目の前が暗くなった。 

 目が覚めるとベッドで横になっていた。悦子が椅子に座っているのがぼんやりと見える。泣いているのだろうか、鼻をすすっている。

 ああ、じゃあ、あれは本当の話だったんだ。

 何もかもが夢であって欲しかった。目が覚めたら、今より幸せな本当の人生が待っている。そう思って目を開けたり閉じたりしても、事態は何も変わらない。歳をとり衰え髪も薄くなった妻の傍らで、病いに侵されもうすぐ死んでしまう哀れな自分が横たわっている。

 涙がこぼれ落ちた。

「すまんな」

 妻にかけた声はかすれていた。

 その言葉がきっかけになったのか、悦子が大きな声を上げて泣き出した。

「私のほうこそ、ごめんなさい」

 何のことを謝っているのかわかった。離婚の話だ。どうせ死ぬんだ。俺を放り出したりはしない。悦子はそんな人間ではない。そう思いたい。

 起きあがるのも辛かった。結果を聞くまでは健康だったのに、医者の余計な話のせいで一気に病人になってしまった。医者に殺されるんだ俺は。

 住み慣れたはずの家に戻ってもどこか違って見える。俺が死んでいくのとは無関係に世界は続いていく。俺にとって世界が終わるというのに、世界の全てが俺を見殺しにしやがる。俺なんか無視だ。何もかもが俺から目を逸らしている。いや、気づいてさえいない。孤独だった。死んでいくのはひとりだけだ。自分が死んだ後も皆は生きていくのだろう。嫌気がさしてくる。

 悦子が用意した食事はうまく喉を通らなかった。

 どうせ死ぬんだ。食べたって無駄だ。酒を飲んでも酔えない。風呂に入っても身体の芯が冷たい。電気を消して布団に入ろうとする。急に暗闇が恐ろしくなって電気を点ける。蛍光灯の明かりが部屋を寒々と照らす。

 どうしてこんな目にあわなければいけないのか。

 気がつくと、布団に突っ伏して泣いていた。泣き疲れたのか、いつもより深く眠った。夢は見なかった。

 目が覚めても何も変わっていないことが忌々しい。朝になって欠勤の連絡を入れるのは三十年、いや、四十年ぶりだろうか。喜美恵が生まれるより前か、それとも後か。

 結局、会社への電話は悦子に頼んだ。何か頼んでも必ず小言をひと言ふた言返してくる悦子が、今日は何も言わずに電話してくれた。

 それも気に食わなかった。

 もう一度寝ようと横になったが眠れない。自分が哀れだ。ひとり死にゆく老人。仕事の定年がそのまま人生の定年になってしまうとは。

 定年後の幸せな人生を空想しなかったことが無いと言えば嘘になる。色々あったが妻と二人でのんびり過ごす、そんな老後を漠然と思い描いていた。

 そんな未来は俺には訪れないのだ。これで終わりだ。

 会社に病気のことは伝えなかった。会社の無情さは身に沁みている。どうせ定年だ。入院するとしても退職後の話だ。今さらどうこう言うのも馬鹿げている。残り僅かな時間を何事もなく過ごし、それでおさらばだ。

 中学を卒業後に上京した。田舎で農業を続ける両親や同級生達と比べて都会の工場で働く自分が誇らしく思えた。都会にあると聞いていた工場は狸の出てくる雑木林を切り開いた淋しい場所にあり、最寄の駅までは歩いて二時間以上もかかった。田舎と変わらない。しかも、工場の隣に立つ独身寮は汚く狭くいつも饐えた匂いが漂っている。夏は蒸し風呂並の暑さにうだり、冬は防ぎきれない隙間風の寒さで震えた。

 文句も言わず一所懸命に働いた。僅かな賃金から仕送りもした。野良仕事に明け暮れる実家の両親よりも工場で働いて給料をもらう自分のほうが恵まれている。心の底からそう思っていた。

 自動車の時代は加速していた。工場のラインで組み立てた車は、まさに飛ぶように売れていた。寮の駐車場にも先輩社員達の車が並んでいた。いつの日か自分の車もそこに並べるつもりで頑張った。その車に乗ってあちこち走り回り、自分の組み立てた車ですと胸を張るのが夢だった。

 工場で支給された作業着が普段着で、工場の食堂が日々の食事だった。仕送りを送った後の僅かな賃金を貯めて夢のマイカーの頭金にした。残りは会社で用意してくれたローンだ。入社して三年めに同じ年齢の高卒が入社してきた。中卒の連中は古株の面持ちで先輩風を吹かせた。しばらくしたら打ち解けた。さらに四年後、大卒の社員がやってきた。先輩風は吹かせられなかった。最初から本社や管理の仕事に入った彼らとの接点はあまりなかった。別の世界の住人として敬遠するしかなかった。

 会社の年中行事が本当に楽しみだった。夏の海水浴、秋の社員旅行、泊り込みの忘年会。同僚が首から下げたカメラで写真を撮りまくった。集合写真は真剣な面持ちで、宴席では笑って。海にも山にもでかけた。親と孫ほど歳が離れた工場長や本部のお偉方とも宴席では無礼講だった。そうして過ごす時間に夢中で、家族や故郷と離れて暮らす寂しさを思い出すことはあまりなかった。

 同じ工場に入社してきた悦子と初めて話したのも社員旅行でのことだ。品質管理の仕事で本社から派遣された大卒エリート社員の木下とも酒を交わした。現場の環境と取り組みについて朝まで熱く語り合った。想い出の詰まったアルバムには木下と肩を組んで笑っている写真があったはずだ。

 今では本社で副社長になった、同い年の木下。

 もう何年もあのアルバムを見ていない。




 いつの間にか眠ってしまっていた。

 ふすまを隔てた隣から声が小さく聞こえる。

 頭に血が上った。オレのことを言っているのか。

 激しくふすまを開けた。怒りの表情だったに違いない。思いがけないことに隣の部屋にいた三人は楽しげだった。

「あら、お父さん、起きたの」

 悦子は嬉しそうだった。

 怒りの矛先を納めるのにとまどう。

「お父さん、お茶でも飲む? それとも朝も食べてないからお腹も空いたでしょう。何か用意しますか」

 悦子はのんびりとしていた。

「ああ、そういえば私たちも食べてなかったじゃない」

「ママ、私、おなか減っちゃった」

「あらあら、ちょっと待っててね、おばあちゃんがおうどん用意してあげるから」

「愛、おうどん食べれるよ」

 孫の愛の舌足らずな口ぶりに心が和む。

「おばあちゃんのうどんはね、醤油をかけて食べる太いうどんなのよ。愛は食べたこと無いけど。美味しいのよ」

 喜美恵が言っているのは悦子が作るさぬきうどんのことだった。

「食べる!」

 愛が目を輝かせた。

 そうだ。あのうどんは悦子のふるさとの味だ。

「お父さんもおうどんでいい? それともお茶漬けか何かにする?」

「ああ、そうだな、うどんでいい」

 何を怒っていたのか、一瞬すっかり忘れていた。そうだ、オレのことを話していたんじゃなかったのか。

「お父さん、ちょっと聞いて」

 最近は不機嫌な顔しか見なかった喜美恵が、珍しく上機嫌で話しかけてきた。

「愛がピアノの発表会に出るの」

 発表会?

 記憶がゆっくりと蘇ってくる。

 まだ小さかった喜美恵が一所懸命にピアノを弾いていた。初めての発表会の曲は、そうだ、「チューリップ」だった。

「お父さんも聞きに来てくれるでしょ」

 言葉に詰まった。なんと言えばいいのか。

「ピアノ、いつから、習わせてたんだ?」

 声がかすれた。喜美恵から愛のことはほとんど聞いていない。

「昨日からだよ」

 愛は自慢げだった。

「昨日から? それで発表会?」

 よくわからない。

「違うのよ。前に住んでいたところで、同じクラスの子どもで通ってるこの話を聞いて、それで愛も行きたいって言って。しばらく、しばらくって言っても二年だけど、通ってたのよ、ピアノ教室に。こっちに来てからそんな余裕なかったんだけど、たまたま近所にいい先生がいるってパート先で聞いたから、それならって連れてってみたの。そしたら愛もすぐに気に入ったみたいだし、お金もそんなに高くないって言うから、その場でお願いしますって決めてきちゃった」

「おまえ、そんな金」

「お金のことは大丈夫よ」

 キッチンから悦子の声が聞こえてきた。

 なるほど、そういうことか。

「で、いつだ、発表会」

「それがね、来月なのよ」

「来月って、なに弾くんだ」

「当日のお楽しみ。愛ね、習ってたのは短かったけど、その後も学校のピアノ弾かせてもらってたのよね。だから、意外と弾けるのよ」

 喜美恵は愛と顔を見合わせた。

 怒りはどこかに消えていた。

 いつもより暖房が効いていたがそれでも肌寒く感じる。ここ数年愛用している半纏を羽織る。そのタイミングに合わせて悦子が湯気の立つうどんを運んでくる。

 妻と娘と孫と一緒に食卓を囲んでいる。孫が美味しい美味しいと言いながら妻の作ったうどんを食べている。妻も娘も笑顔だ。

 ささやかな幸せとはこういうことなのだろうか。

「お父さん」

 喜美恵が子どもの頃を思い出させる邪気の無い顔で話しかけてきた

「今度から昼間に愛にピアノ練習させたいの。ウチのピアノ、使っていい?」

「もちろん。いいに決まってる」

「でも、あのピアノ、何年も使ってないわよ」

 悦子が心配そうに言った。

「調律を頼めばいい」

「じゃ、いいの?」

「いいに決まってる」

「やったー」

 愛が飛び上がった。

 喜美恵のために買ったのに、喜美恵が弾かなくなってから誰も弾かなかったピアノ。

 そうか、愛が弾いてくれるのか。

 病気のことを聞いてから心が重く閉ざされていた。嬉しいとか楽しいとか、そんな気持ちは二度と感じないのではと思っていた。

 孫がピアノを弾いてくれる。それだけのことが嬉しい。ピアノが家に来た頃の、あのまぶしいほどの未来をほんの少しだけ思い出す。

 慌てて立ち上がった悦子は目を押さえながらキッチンに戻った。あらやだと言いながら小さく鼻をすすった。

「母さん、早速、調律師に電話しよう。名刺はどこだ。そうだ、あれだ、あの、ピアノを拭くあの布に、調律師の名前と電話番号が書いてあった。あれだあれだ。母さん、あれだ」

「はいはい、テーブルの上を片付けたら探しますから」

「愛、喜美恵、どうする、今日はピアノの上を片付けたら弾いていくか」

「ダメよ、発表会まで曲は秘密だから。それに、すぐには片付かないだろうし。それと、私、今日はこれからパートなのよ」

「この前言ってたスーパーのレジか」

「あそこの他に、夕方から近所のファミレスの厨房で週に三回働くことにしたの」

「大丈夫か、おまえ、そんなに働いて」

「いいのよ。お母さんに甘えるわけにもいかないから」

 離婚した亭主からの養育費は当てにならない。愛を習い事に通わせる余裕などないはずだ。悦子が出しているのだろう。それならそれで構わない。いや、それでよかった。

「それにしても、もっと近所に住んでれば気軽に愛も連れてこれるのに、なあ」

「いいのよ、江戸川区は子ども手当てとかも充実してるし。家にあんまり近くてお父さんやお母さんにしょっちゅう来られるより気楽だし」

「そんなことを言うな」

「いいのよ。じゃ、お父さん、またね」

「おじいちゃん、発表会、楽しみにしててね」

「ああ、ピアノ、練習できるようにちゃんと片付けておくからな」

「約束だよ」

「愛、そんなに言わないの。お父さん、お母さん、じゃ、またね」




 悦子と二人でピアノの上の雑多な荷物を片付けた。途中で何度も手を止めてしまうのはひとつひとつに残された想い出の痕跡を味わうためだ。何もかもが懐かしい。何もかもが、もう要らない。

 探していた布がやっと出てきた。記憶の通り、調律師の電話番号が印刷されている。二十三区内の局番は三桁だ。

「母さん、これはまだ通じるのかな」

「さあ、頭に3を付けるんでしたっけか」

「確かそうだ」

「いいですよ、お父さん。私がかけますよ」

「いや、いい。俺がかける」

 呼び出し音が何度か鳴った後、老人の声が聞こえてきた。

「調律師の森田さんですか」

「え? ああ、はい、最近はもうやっておりませんが、確かに調律の森田です」

 老人の声は随分とゆっくりと聞こえた。

「もう、調律はやっていられないんですか」

 少し間があった。

「しばらく前から足を患っておりまして、出張は行なっておりませんが」

「そうだったんですか」

「こちらの電話番号はどちらで?」

「実は、二十年ほど前に何度かお願いしておりまして」

「二十年前ですか」

「はい。そのピアノを孫が弾きたいと言っているんですが」

「それはそれは」

「長いこと使っていなかったものですから、調律をお願いしないといけないと思いまして」

「はあはあ」

「以前、お願いしたことがあったので、あの、なんと言うんですかね、ピアノを拭く黄色い布にお宅の電話番号があったのを拝見しまして」

「なるほど、そちらをご覧になってお電話いただいたんですね」

「はい、そうです」

「お名前を伺っておりませんでした。失礼ですが」

「坂田です。坂田弘明と申します」

「少々お待ちいただけますか」

 電話から保留音が流れてきた。

「お父さん、どうでした」

 受話器を覆い、ちょっと待ってろと首を振る。

「えー、東村山のほうにお住まいの坂田さんですか?」

 受話器の向こうで手帳か何かをめくっている音が聞こえた

「はい、そうです」

「えー、っと、これはぁ、確かに、二十年ほど前に楽器店の紹介で何度かお伺いしてますね。アップライトのピアノでした」

「間違いありません」

「そのピアノを今度はお孫さんが?」

「まあ、なんというか、孫が弾きに来ると言っておりまして」

「ピアノは、その後、使われていらっしゃらない?」

「お恥ずかしい話ですが、まったく触っておりませんでした」

「そうですか。そうすると調律だけでなく、弦やピアノそのものの状態を確認するところから始めないといけませんね。ひょっとするとメカニカルの交換なども必要になるかもしれません」

「私にはよくわかりませんが、なんとかお願いできればと思うのですが」

「私はもう歳ですし足の調子もあまりよろしくないのでお受けするのはいかがかとも思いましたが、そういうお話であればなんとかお伺いいたします。ご自宅は小学校の傍で郵便局の並びの一軒家でしたね」

 どうやら弘明の家を思い出している。

「はい、そうです」

 弘明も調律師のことを思い出していた。一回り年上に見える物静かな男性だった。

「私一人ではお伺いできませんのでやはり調律をやっております孫の都合と合わせることになりますが、よろしゅうございますか」

「かまいません。よろしくお願いいたします」

 電話番号を告げた。本日中に返事をくれるとのことだ。

 夕方になってようやくキレイになったピアノの蓋を開けた。鍵盤を見るのは何年ぶりだろうか。人差し指でそっと白鍵を押してみる。力強い音に驚いた。適当に何箇所か、弾ける気分で叩いてみる。心地よかった。

「一通り見てくれるそうだ。もしかしたら部品の交換もあるかも知れないな」

「どれぐらいかかりますか?」

「ああ、金か?」

 急に現実に引き戻される。これから治療を受けるのにかかる費用のことを心配しているのだろう。愛のピアノ代は出すと言っていたくせに。

「大丈夫だ。保険が下りるはずだ」

 ガン保険には高度医療の治療費に対応した補償だけでなく余命宣告をされた場合の特約がついているはずだ。近いうちに調べておこう。

「このお洋服、愛ちゃんに合うかしら」

 いつの間に探したのか、見覚えのある小さなドレスを悦子が両手で広げていた。

「喜美恵が着てた発表会のドレスじゃないか。とっておいてあったのか」

「何も捨ててませんよ」

 悦子は笑っていた。

「道理で家の中が片付かないわけだ」

 弘明も笑った。

 これから残った時間、色々なものを片付けていかなければならない。

「喜美恵のドレスもいいけど、愛の初めての発表会だ。新しいドレスはどうだ」

「そうね。今風のお洋服のほうが喜ぶわね」

「今度の土日にデパートにでも行くか」

「あら、いいわね。じゃ、どこに行こうかしらね」

 まだ覚悟は生まれていない。忘れてもいない。それでも、少しだけ、ほんの少しだけ、受け入れ始めている。



 

 次の日曜、すっかり中味を入れ換え新品同様になったピアノに愛が向かっていた。

「教室に通っていた時にバイエルの下巻まで進んでたの。進むの早かったから、辞める時に先生にもったいないって散々言われて。もうちょっと通わせてあげたかったけど色々あって。それでも学校のピアノでひとりで練習したりしてずいぶん上手になったのよね」

 愛が弾いている曲には聞き覚えがあった。

「これを発表会で弾くのか?」

「ん? アラベスク? ううん、これは弾かない。発表会で弾くのは別の曲。ね、愛」

 愛はピアノを弾きながらうなずいた。

「発表会の曲は練習しなくていいのか」

「練習するわよ。でも、お父さんがいないときにね」

「ねー」

 愛がピアノを弾く手を止め、母親に向かって笑った。

「そうか。それにしても、確かに上手だ。昔のお前よりうまいんじゃないか?」

「やだ、まだ全然そんなことないわよ。私、いちおうバイエルはちゃんと終わってソナチネ程度まで弾いてたわよ。あの頃、お父さん色々忙しかったし、私のピアノなんて聞いてなかったんじゃない? 発表会にも来なかったし」

「悪かった。色々と忙しかったからな」

「もういいわよ、その話は。それより、私も愛のピアノけっこう上手だと思ってたけど、新しい先生が意外と厳しくって、やっぱり先生についてなかったから癖ついてるって」

「そんなことがわかるのか」

「わかるのよお。それと、全然気がついてなかったんだけど、愛、右と左、よく間違えるって」

「大丈夫なのか?」

「大丈夫だって。けっこう多いみたいなの、瞬間的に左右がパッと出てこない子ども。幼稚園児はたいていそう。小学生でもけっこう間違えるって。ていうか、中学生とか大人でも左右ピンと来ない人いるみたいよ」

「そう言われてみるとそんな気もするな」

「それだけじゃなくて、指に番号振って覚えるんだけど、数が駄目な子も多いって。もっと小さい子だと黒と白の違いとか。幼稚園児にはそんなことから教えますって先生が言ってた」

「黒と白か。そうか、子どもだからな、わからないのか」

「そう、子どもって大人が思ってる以上にわかってないことが沢山あるから、何がわからないのか確認しながらひとつずつ進めていきますって、そう言ってた」

「なるほどなあ。ピアノの先生も大変だな」

「本当。自分が習ってる時はそんなこと全然思ってなかった。ピアノの先生なんて、綺麗にしててお手本弾いて練習怠けた子を叱るだけ、そう思ってたな」

「お前は練習嫌いだったからなあ」

「なに言ってるのよ。アタシ、実はピアノ嫌いじゃなかったし練習もいっぱいしてたよ。お父さんが知らなかっただけよ」

「そうなのか。練習嫌いだから辞めたと思ってたぞ」

「せっかくピアノ買ってやったのに、でしょ。あーあ、また昔みたいに愚痴られるの、もうやだよ」

「いや、そういうつもりじゃない。でもな、急に辞めただろ、あれが父さん、腑に落ちなくてな」

「アタシだってそうよ。なんかすっきりしなかった」

「でも、お前が辞めたいって言い出したんじゃないか」

「もういいよ、その話」

 喜美恵が顔を背けた。

「すまん」

 責めるつもりは無かった。

「ううん。いいよ、もう」

「そうか」

「でもね」

 喜美恵は口ごもった。

「どうしようかな、本当のこと、話したほうがいいかな」

「本当のこと?」

 いったい何を言い出すんだ?

「マーマー」

 愛が喜美恵を呼んだ。

「何よ、もっと練習しなくていいの」

「もう疲れた」

「まだ始めたばっかじゃない」

「だってえ、先生の言う通り弾こうと思うと、うまく弾けないんだもん」

「先生が言ってたでしょ。なんとなく弾くんじゃなくて先生がしるしをつけてくれたところを注意して練習してくださいって」

「だってー」

「ほら、ここ、右手の指がくぐるところ。弾いて」

「こう?」

「そうそう、右手だけなら先生が言ってた通りにひっかからないで弾けるでしょ」

「うん」

「じゃ、今度は左手」

「こっちの手はうまく弾けないよー」

「練習しなくていきなりうまく弾ける子はいないって先生言ってたじゃない。練習しないとうまく弾けないよって」

「でもお。そうだ、ママ弾いてみて」

「はいはい」

 愛に代わって喜美恵がピアノに向かった。

「弾けるじゃないか」

 弘明はすっかり感心していた。もう、ピアノの弾き方など忘れてしまったかと思っていたというのに。

「発表会、ママと一緒に弾くの、連弾」

「ダメじゃない、言っちゃ」

 愛がしまったという顔をした。

「連弾するのか」

「もう、愛ったら。せっかく秘密にしようって言ってたのに」

「ごめんなさーい」

「連弾か」

「そうなのよ。先生が、お母さんも一緒にどうですかって言うから」

「そうか。ところで、さっき言ってたピアノを辞めた理由だがな」

「ああ、その話……」

 喜美恵は何かを言い出そうとした。

「キミちゃーん、玄関まで取りに来てー」

 買い物に出ていた悦子が帰ってきた。

 玄関に向かおうとした喜美恵は立ち止まり振り返った。

「お父さん、その話は、また今度ね」

「そうか」

 それ以上は聞けなかった。




 母親と並んで流しに立つ父親の姿を喜美江は不思議な思いで眺めていた。食卓に並べられた食事をうまいともまずいとも言わずに食べている姿を思い出す。家族で鍋を囲んでも、母親に任せて自分は食べるだけ。ずっとそうだった。だから、父親が母親と並んで食事の支度をしているのが不思議でならなかった。

「俺も定年になったら料理でも作るかと思ってな。最近になって母さんに教わってる」

 それも全部無駄になってしまったと思っているのだろうか。喜美恵には父親の気持ちはわからなかった。仕事のことも、定年のことも、病気のことも。

 高校生の頃は父親と食卓を囲むことがイヤでイヤでたまらなかった。

 この家を離れてから一度だけ、当時の結婚相手を連れてきたことがある。誰とでも合わせられる調子のいい奴だったはずなのに、父親とはとことん合わなかった。あの時は奮発して寿司を取ってくれた。桶に盛られた寿司に手を伸ばすのは喜美恵の夫だけで、父親も母親も喜美恵もいつまでも手を伸ばそうとはしなかった。

 桶に寿司を残したまま家を出た。なかなか捕まらないタクシーを待つ間に酔っ払った当時の夫に殴られた。辛気臭い連中のところに連れてくんじゃねえよ、とか、何かそんなことを言われた。黙ったまま電車に乗り安アパートに帰る。そこでも殴られた。小さな声で痛いと言ったらまた殴られた。前歯が折れた。血塗れになりながら謝り続けた。近所の人に通報されるのが怖くて大きな声を立てることができなかった。

 つまらなさそうに眠ってしまった夫の横で声を出さずに泣いた。親や友達と過ごした子供の頃の懐かしい思い出、楽しかった日々、そんなものが全部涙と一緒に溶けて流れ出てしまう。このまま涙を止めないと、何もかもが手の届かないところに消え去ってしまう。涙を止めなきゃ。でも、止められない。どうしても止められない。うるせえ、と言って蹴られた。我慢できずに大きく口を開けたら中に溜まっていた血が折れた歯と一緒にどっと溢れてきた。それでも声を立てなかった。

 今、こうして両親と娘と楽しく食卓を囲んでいることが不思議だった。もっと前にこんな時間を作ることができたらどれだけ幸せだったか。

 今さらかな、とも思う。

 結局、最初の夫とは愛が生まれて半年もせずに別れた。愛を蹴り飛ばそうとしたのを必死で止めたその日、泣きじゃくる愛を抱えて区役所に向かった。サンダルのままだった。離婚届をもらって家に帰ると夫はいなかった。翌日、酔っ払って帰ってきた夫に頭を下げて離婚届にハンコを押してもらった。その時も殴られた。何度も殴られた。それで気が済むのなら、もうどうでもよかった。

 とにかく部屋を探すのが先決だった。顔の腫れた子連れの若い女に貸してくれる不動産屋はそうそうない。下町の外れ、風呂もついていない一間のアパートがようやく借りられた。仕事も探さなければならなかった。風俗にも面接にいった。顔の腫れた子連れの女は門前払いだった。何件も面接に回ったあげく、同情してくれたファミレスの女性店長が客の前に出ない厨房の仕事ならと、アルバイトで採用してくれた。子供も連れてきていいと言ってくれた。以前にもよく似た話があったそうだ。

 店のアルバイトは喜美恵と似た境遇、夫の暴力から逃げて子供と暮らしている若い女性が多かった。みんな明るく、面倒見もよかった。従業員のロッカーの片隅に置かれたベビーベッドで寝ている愛の面倒はバイト仲間が交代で見てくれた。涙が出るほど嬉しかった。

 束の間の幸せだった。

 深夜勤務を終え、愛をおんぶしてファミレスを出た。別れたはずの夫が立っていた。

「オレのダチがコレから聞いたって言って教えてくれたんだよ、キサマがあそこのファミレスで働いてやがるってな」

 ひどく殴られた。また、口の中が切れた。

 夫は喜美恵のアルバイト代をあてにしていた。その日、無理矢理部屋までついてきた夫は嫌がる喜美恵を押さえつけ、自分だけ満足してしまうと、いびきをたてて寝てしまった。この部屋に転がり込むつもりなのがよく分かった。

 アルバイト先では何もなかったふりをした。この中の誰かが告げ口したのかと思うと、もう誰も信用できなかった。それがとても悲しかった。

 一週間後、バイト代を受け取ってから誰にも何も告げずに逃げ出した。

 どこにも行くあてはなかった。愛と一緒に死んでしまおうかとも思った。それはあまりに悔しくて、そうではなく、何とかして幸せになりたかった。恥とか外聞とか、そんなことはもうとっくにどうでもよかった。

「お母さん、喜美恵。うん、うん、元気。あのね、お願いがあるんだ」

 実家に電話していた。母親に金を無心した。高校生の頃、バイト代を貯金しておくのに作った口座、夫には教えていなかった口座に金を振り込んでもらった。

 お父さんには言わないからねと繰り返す母親の声はとても遠く聞こえた。

「うん」

 返事をしながら泣いていた。親以外に頼る人間はもう誰もいなかった。

 別れた夫から実家にまでひどい電話がかかってきたことを告げる母親も声を震わせていた。

「ごめん」

 受話器を持ったまま頭を下げた。

 帰ってこなくて大丈夫なのかと聞かれた。

「うん、大丈夫。しばらく連絡できないと思う。愛は寝てる。うん、うん。また声聞かせるね」

 もう返事ができなかった。受話器を戻してから公衆電話のボックスで泣きじゃくった。その声に驚いたのか愛も目を覚まして泣いた。二人で泣き続けた。

 電話では十万円と伝えたのに、カードで確認した残高は三十万以上になっていた。何もかも新しくやり直すつもりだった。

 新幹線に乗って仙台に向かった。東京から離れたかった。知っている人が誰もいないところでやり直したかった。中学生の頃、目立たないタイプの同級生が、お姉さんが東北大の法学部に受かったと話しだした。東北という言葉に反応して田舎じゃないと笑う同級生がほとんどだったが、飛び抜けて勉強のできる女の子が一人だけ感心して、東北大のことを色々と質問していた。横で喜美恵も聞き耳を立てていた。大きな川を渡った先の広いキャンパス。勉強のできる女の子は広いキャンパスに憧れていると目を輝かせていた。

 それを覚えていた。

 仙台についたその日に広瀬川を見に行った。普通の川だった。東北大のキャンパスにも足を伸ばした。

 本当に広いんだ。その程度の感想しか出てこなかった。

 赤ん坊を抱えた母親の姿は、その広いキャンパスには不似合いに思えてならなかった。ここにいる学生たちとさほど変わらない年齢なのに。子どもの頃は自分もいつかは大学に行くものだと思っていたのに。どこでどう間違えたのか。それを思うと涙が溢れてくる。けれど、泣いている暇は無かった。まずは住む場所を探さないと。

 片平の安いアパートが借りられた。運良く、運送会社のキーパンチャーの仕事も見つかった。愛は無認可の託児所に預けた。仕事にはすぐ慣れたが、ちょうど入ったぐらいのタイミングで運送会社自体の仕事が見る見る減っていた。働き始めて3ヶ月、入力する伝票が最初の3分の1ぐらいまで落ち込んだ日が数日続き、社長に呼び出された。

「申し訳ないけど」

 あんたが来てから景気が悪くなった。だから他の仕事を探してくれ。と、そういうことだ。どこか紹介していただけませんかと聞いたが、急に不機嫌になった社長はこっちが紹介してもらいたいぐらいだと言ってにらみつけた。

 一番町の外れにある小さな居酒屋で店員の仕事を始めた。店主夫婦は人当たりがよかった。最初の給料は説明の時より大幅に少なかった。どうしてですかと聞くと、色々天引きされるからと答えられた。厚生年金も雇用保険も入っていませんよねと言ったら、明日からもう来なくていいと告げられた。

 求人誌で見つけたピザの配達の仕事を始めた。免許だけは取っておいてよかったと思ったが、配達の収入だけでは愛を育てていくのは苦しい。母親にまた無心した。どこにいるかは伝えなかった。ファミレスの厨房の仕事を見つけ、昼は配達、夜はファミレスの生活を続けた。もう体はボロボロだった。

 ピザ屋のバイトが声をかけてきた。

「子供迎えに行くのにきつい時あったら言ってよ、俺が代わりにシフトに入るからさ」

 パッと見、さえない若者だった。大学卒業してから就職に失敗したと言っていた。

「でも馬鹿だから、しょうがないよ。今さら実家にも帰れないし」」

 大学生が馬鹿なら自分は何なのと聞いた。

「ごめん、そういうつもりじゃなかったんだけど、ごめん」

 好意を持ってくれていることはすぐにわかった。付き合ってくれと言われたわけではなかったが、何となく、そんな関係になった。愛との二人暮しで淋しかったのかもしれない。

 一緒に暮らそうかと言われても、はっきりとは返事ができなかった。何度も言われるうちに断り切れなくなった。

「結婚する?」

「結婚は……」

 昔の話はしていた。

「あ、いいよ、別に無理にって話じゃないし。結婚したくなったらいつでも言ってよ」

 一緒に暮らしてほどなく、夫はピザ屋のバイトを辞め、運送会社のサービスドライバーとして働き始めた。

「短期間で稼ぐにはこれが一番だって、学生時代のバイト先の電気屋の親父が言ってたんだ」

「でも、稼いだ後はどうするの。家でも買うの?」

「いちおう大学、工学部だったし、夜とか少しずつ勉強でもして電気工事関係の資格とか取ろうかと思って。前のバイト先の電気屋の親父の受け売りだけど、その辺の資格できちんと仕事見つけて経験積んで、もっと上の資格取れると、なんかそこそこ食っていける」

「ふーん」

 ひょろひょろの夫が少しだけ頼もしく思えた。

 サービスドライバーの仕事はきつかったが、確かに稼ぎは悪くなかった。夫が働き出して一年後には、喜美恵はピザの配達もファミレスの厨房も辞めて専業主婦になった。2LDKの賃貸マンションに引っ越した。窓を開けると広瀬川と青葉山が見えた。

 愛のことを本当に可愛がってくれた。だから、夫との子供も欲しかった。二人とも望んでいた。

 愛が小学校に上がる直前に夫はセールスドライバーを辞めた。電気工事士の資格を取り、しょっちゅう話していた昔のバイト先の電気屋で働き始めた。ドライバーに比べると給料は大したことはなかったが、実務経験積んで上の資格取るよと嬉しそうに話していた。頭金貯めて家を買おうと盛り上がった。

「家買ったら、何か欲しいものある?」

「わたし、ピアノが欲しい」

 あの頃が一番幸せだった。

 愛が三年生になった春、スクーターに乗っていた夫が事故にあった。仕事の帰りだった。二段階右折の大きな交差点で直進してきたトラックに突っ込んだ。本当にあっけない最期だった。警察から事故の様子を説明された。トラックに過失はないそうだ。自賠責はともかく、任意は入っていなかった。どうしようかと相談していた矢先だった。電気屋に労災の相談はしなかった。そもそも雇用保険も年金も、何もかもが曖昧な状態のまま雇われているのは知っていた。初めて夫の両親に会った。ほとんど言葉を交わすことも無かった。火葬場に行くことは断られた。

 また、愛と二人になってしまった。

 わずかな蓄えのことで夫の両親と揉めたくはなかった。マンションからは出て行くことにした。いい思い出ばかりのこの部屋から出ていくのは寂しい。だが、夫のいないこの部屋で過ごすのも悲しい。少し気が弱くて優しくて、愛を実の子のように可愛がって喜美恵の手料理を喜んで食べてくれて。何もかも本当にいい夫だった。いつかはきちんと籍を入れて、それからはずっと一緒に年をとっていくものだとばかり思い込んでいた。

 連絡をとっていなかった実家の母親に電話してみた。家族のことなど気にしたこともなかった父も、もうすぐ定年だそうだ。母の口から別れるという言葉を聞いて驚きながらも、やっぱりという気もしていた。

 母親から一緒に暮らそうと言われ、心が動いた。母と愛と三人でなら暮らせるかもしれない。実家に帰るのではなく、どこか、ちょっとだけ離れたところで暮らせばいい。それなら、父親とは顔を合わせなくても済むだろう。

 東京に戻る心づもりを決め遺品を整理したその日に、母親から電話がかかってきた。声がよく聞き取れない。母親は泣いていた。どうしたのと聞いた。

「お父さんが、ガンであと一年。もってあと一年だって」

 心の中が沸き立った。父が死ぬ。違う気持ちもこみ上げていた。やっと父に会う理由ができた。夫の時のように、知らせを聞いた時にはもう会えなくなっていたのとはわけが違う。まだ、会える。そう思うと急に心が落ち着いた。やるべきことがある。父親と会うのだ。ずっと会っていなかった父親に会う。愛を連れて。

 仙台で一緒に過ごした夫を自慢したかった。夫が生きているうちに会ってもらいたかった。どうしてちゃんと籍を入れて、こんないい旦那さんと結婚できたよと報告しなかったのだろう。いくら悔いても、もうどうしようもないことだ。

「お母さん、私ね、東京に帰る。帰ってお父さんと会うから」

 その日のうちに新幹線に乗った。




 すき焼きで満腹になった愛は、先に風呂に入って寝た。

 見てもいないテレビをつけっ放しにしていた。弘明も喜美江もぬるいビールをすすっていた。

「ピアノやめたわけ、話しておこうかと思うんだけど、聞いてくれる?」

 聞いたほうがいいのか、弘明は迷っていた。喜美恵がピアノ教室をやめると言い出した時、自分でも驚くほど激しく怒った。おまえのためにピアノを買ってやったんだぞと言って頬を叩いた。涙を流しながら、それでもピアノはやめると咽喉から血が出るほど声を張り上げ涙を流す喜美恵を見て何かが途切れるように怒りは消えた。その日以来、喜美恵はピアノ教室には二度と行かなかった。そして、家のピアノにも二度と触らなかった。

「ずっと言えなかったから」

「理由があったのか」

「あったに決まってるじゃない」

 あの時も、それから後も、喜美恵は理由を一切話さなかった。弘明も悦子も理由を聞かなかった。

 今、聞かねばならない。そんな気がしていた。

「あの頃、近所に住んでるのは同じ会社の人ばっかりだったよね。覚えてる? 小学六年生の時のあたしのクラス、全員同じ会社のひとだった」

 確かにそうだった。働いていた自動車メーカーの関連会社が開発した住宅地に、同じ会社の従業員が集まっていた。新しい町並みなのに、ほとんど顔見知りだった。

「ああ、そうだ。今じゃ顔馴染みもすっかり少なくなったがな」

「そう。工場も無くなったし」

「工場のことは本当に残念だった。オレは工場の仕事が本当に好きだった」

「知ってる」

「いや、知らないだろ。働いているところは見たことがない」

「そうだけど、お父さんが生き生きしてたのはよく覚えてる。あの頃は組合の仕事も忙しくて、家にはほとんどいなかったけど」

「そうだったな」

「覚えてる? 父兄参観にも来なかったでしょ」

 そのことはずっと気になっていた。

「組合のことで色々あってな」

「ピアノの発表会にも来なかったんだよ。覚えてる?」

 責めるつもりは無かった。責めるつもりは無かったが、振り返るには辛すぎることが多かった。

「そうだったな。一度ぐらいお前の発表会にちゃんと行っておくべきだった」

「組合でずっと忙しかったから、でしょ」

「そうだ。組合でずっと忙しかったからな」

 思い出したくないこともある。

「私、覚えてるの」

「何をだ」

「組合の話」

「おまえと組合は関係ないだろ」

「あるのよ」

「あるったって、まだ中学生だろ」

「そう、中学二年生の時だった」

「おまえが中学二年生というと、その頃はもう工場は無かったんじゃないか」

「工場が無くなったのは中学一年生の時」

「そうね、私も覚えてるわ。喜美恵が中学生になったばかりで色々大変な頃にお父さんも工場のことで大変だったから」

 いつの間にか悦子も話に加わっていた。

「もう、その話はいいだろ」

「でもね、お父さん、私がピアノを辞めたのは、お父さんが組合から抜けた話と関係があるの」

 弘明の顔色が変わった。喜美恵に詳しい話をした記憶は無い。悦子が話したとも思えない。

 弘明がその話をしたがらない理由をよく知っている悦子は目を伏せた。

「あたし、学校で聞いたの」

「何をだ」

「お父さんが組合のストを潰したって。それで工場が無くなったって」

 弘明は言葉を失っていた。

「本当の話は知らないよ。多分、教えてくれた子だって本当にわかってたのか。今になって思うとそれもよくわからない。でも、あの時はそんなこと言われてすごくショックだった。お父さんが工場が無くなったことと関係してるのって」




 工場の撤退を最初に聞いたのは組合を通じてではなく、本社に戻っていた木下からだった。もう決まったことだからと木下はそう言った。組合が反対するのは確実だった。組合の反対を押し切ってでも移転を実現するのかと弘明は久しぶりに会った木下に詰め寄った。仕方が無いんだと木下はそう言って一気にグラスを空けた。

 それから数日後、工場長と主だった組合のメンバーが都心にある東京本社に呼び出された。二人の帰りを待つ工場内の空気は、朝から張り詰めていた。操業はしていたが、シフトから外れていた組合の幹部は朝から自主的に集まり、ゼネストを含めた対応策を検討していた。後戻りできない雰囲気の中、話し合いは紛糾していた。本当に移転は必要なのか。移転先の工場での雇用は保証されるのか。転居のための費用負担はどうなるのか。独身寮はまだしも、会社の開発した宅地に持ち家を買った従業員はどうなるのか。組合は何が何でも移転を拒絶するべきか。

 堂々巡りの輪の中に弘明の姿もあった。

 昼過ぎには総連に参加する他社の組合が応援に集まりだした。工場の敷地内に広がる駐車場には鉢巻を巻きプラカードを掲げた男たちが集まり、大きな赤い旗が何本も風に翻っていた。

 この工場の組合は他社の組合から御用組合と揶揄されるほど労使一体を貫いてきた。末期の国鉄のような大規模なゼネストなど起こるはずもないという暗黙の前提の中、誰もが次の展開を読めずにじりじりと待ち続けていた。

 工場長と組合の委員長は同じ車で戻ってきた。そのことが、まさに会社と組合との関係を象徴していた。呉越同舟。協調関係でここまでやってきたという思いがお互いにあった。

 駐車場の一角に急ごしらえで設置された壇に上がった工場長が用意された紙を淡々と読み上げた。工場の移転先は噂になっていた通り、東北地方だった。独身寮や家族寮の件、単身赴任に関する手当て等々、野次を上げるものはひとりもいなかった。皆、固唾を飲んで聞き入っていた。

 続いて組合の委員長が壇上に上がった。噂はともかく、正式に話を聞いたのは本日のことであり組合としての対応は未定であること。今までの労使協調関係を損なうことなく円満な解決を図ることが望まれること。一部、関連会社への出向が行われる可能性があること。それについても受け入れる余地があるのかないのか、これから検討したいということ。委員長の話は以上だった。

 出向の話が出たところで集まった従業員の間から思わず声が漏れた。全員が新工場に移るわけではないのか。一部出向と言うが、実際にはどれぐらいの人数なのか、対象は誰になるのか、どんな仕事を割り当てられるのか。不安は一気に伝染する。皆が浮き足立っていた。

 組合内部では、移転を前提に交渉すべきではないという意見も出ていた。今までの労使協調関係を見直すべき時が来たと主張し、移転絶対反対を叫ぶ一派もいた。外部から応援に来た他社の労組の中でも、工場の移転という大きな経営判断に雇用者側が異議を唱えられるか否か、組合運動の可能性がそこで試されていると考える一部が、この一派を後押ししていた。既に、組合は空中分解寸前だった。

 結論の出ない臨時の組合会議は世を徹して行われた。駐車場では時代遅れのアセチレンランプが用意され思わず目が眩むほどの明るさであたりを照らした。どこからともなく歌声が上がったきた。戦後の苛烈な労働運動はとっくに終わりを告げたと思われた時代でも、その残滓は確実に存在していた。歌の合間にシュプレヒコールがあがる。一角では炊き出しが始まっていた。若者たちは肩を組み、歌詞も知らぬ歌についていく。酒も入っていた。一時の昂揚感が、あたりを支配していた。

 翌日の早朝からマスコミが集まり始めた。工場の敷地の外には報道関係者がつめかけ、脚立が立ち並び、空ではヘリコプターが旋回していた。単調な羽根音の不吉な感じが不安と緊張を増幅する。

 社員通用口の前に集まったマスコミの取材班がシフトの交代でやってきた従業員達にマイクを向け、フラッシュを浴びせていた。特に緘口令が敷かれていたわけではない。誰もがほとんど何も語らずに足早に通り過ぎていく。何も言わない普通の従業員たちを悪者に仕立てようと取材班がきつい言葉を投げかける。

 組合としての結論が出ないまま、本社に対する団体交渉の要求が決議された。本社の対応は素早かった。二時間後には工場内の食堂で団体交渉が行われることになり、本社から副社長を含む一団が到着した。歓声にも聞こえる怒声を合図に食堂の扉が閉じられた。

 初めに会社側からの経営報告と工場移転の理由説明があった。年次の社内資料で配られる決算関連の書類、貸借対照表や損益計算書の説明が延々と続く。世界に車を輸出する巨大産業の実態は書類の説明だけではなかなか把握できない。呪文の如く延々と読み上げられる数字の羅列を、食堂に集まった従業員達は真剣な面持ちで聞いていた。自分達の職場が無くなってしまう理由がその数字のどこに表されているのか、その理由を見つけたいと願っていた。

 本社で労務課長の立場にあった木下は、一緒にやってきた経理の課長とともに団体交渉の矢面に立っていた。副社長は既に疲れ果て、時折目をしばたたかせながら木下の話に相槌を打つでもなく、背もたれに身体を預けている。温和な性格で従業員から慕われていた工場長は終始うつむき、額からは滝のような汗を流していた。

 当初は工場移転後の子会社への出向などについて組合からの条件交渉になるかと思われていた。が、別室で行われていた従業員集会では工場の移転そのものに反対する意見が大勢を占めた。特に工場に隣接して造営された住宅地の戸建を買った従業員たちが強く工場移転反対を主張した。工場勤務を前提としてこんな不便な場所に家を買った。会社の子会社である不動産会社から土地を購入し、会社の子会社である住宅会社が施工した。会社は工場の移転を知っていたのか。だとしたら自分達は騙されたのか。ここでずっと暮らせるはずじゃなかったのか。団交が長引けば長引くほど不信感は高まっていった。

 夕方になって、沸き起こる怒号の中、副社長が数名の男達に抱えられ退場した。すぐにドクターストップが伝えられた。決定権を持った副社長が退場したことで団交はこのまま夜を徹して続きそうな気配だった。応援に駆けつけていた他社の労組は徐々に帰り始めていた。工場を取り囲むマスコミの取材も中だるみといった状態だった。

 深夜に工場長が声を失い、うなだれた。すぐに異変に気がついた人間は誰もいなかった。工場長は長机に額がつくまで突っ伏し、それからゆっくりと体の向きを変えながら椅子から転げ落ちた。壇の上から下からわらわらと人が駆け寄った。弘明もその一人だった。工場長の顔色が違っていた。紫色をしていた。目が、白目を向いていた。口から泡が垂れていた。

「救急車を呼べェーッ!」

 誰かが叫んだ。

「担架だ、担架!」

「ダメだ。ダメだ。無理に動かすな」

「医務室だ、医務室のセンセーを呼べ」

 怒号が交錯していた。

 壇上は既にごった返していた。直接関係の無い人間は壇上から降りるようにとのアナウンスが流されたが、誰も反応できなかった。

 不測の事態に備えて詰めていた医務室の担当医と看護婦が到着した時には、工場長は時折ピクリと痙攣するだけになっていた。

「とにかくここじゃダメだ。救急病院まで運ぶぞ」

 医者の判断で工場長は担架に乗せられた。

 食堂だけでなく通路にまでびっしりと集まった従業員達をかきわけ担架はゆっくりと進んだ。弘明も担架を担いでいた。救急車が到着するであろう工場の正門をめざして担架は進んだ。しばらくすると、どこからやってきたのか、報道の腕章をつけ巨大なストロボの付いたカメラを両腕で高く掲げた男たちが群がってきた。それを押し戻そうとする男達との小競り合いが始まり、あたりは怒号に包まれた。

 工場長の予想もしなかった退場で団交は完全に中断した。厳しさを増していた組合側の雰囲気も軟化せざるを得なかった。とはいえ、組合の意見はほぼ移転中止でまとまりつつあり、このまま交渉を続けても妥協点は見つかりそうにもないのは誰の目にも明らかだった。組合から正式に団交の中断と明日の昼以降の再開が告げられ、食堂を埋めた従業員も駐車場の応援も皆、疲れ果てた表情で帰路に着いた。

 早朝、弘明の元に電話がかかってきた。木下からだった。

「今日、会えるか?」

 何の話をされるのか、薄々感づいてはいた。

 守るべきものが何か、移転の話を聞いてから組合の会議でも団交の場でも、そのことだけを考え続けていた。気持ちは木下に会う前に固まっていた。

 待ち合わせの場となった都心に向かう街道沿いのファミリーレストランには既に先客がいた。驚いたことに組合の委員長を始めとする幹部もほとんど揃っていた。その末席に弘明も参加した。弘明の後からも続々と人は集まり、店内のテーブルが埋まってもその勢いは止まらなかった。

 昼過ぎから再開された団交では冒頭に事態が急転した。会社側の提案の受け入れを表明した委員長に対し、移転に断固反対する一部から大きなどよめきが上がった。移転反対派を取りまとめる副委員長は緊急の組合会議の収集と委員長の解任動議を提案した。委員長側はこれを受け、その場での緊急の組合会議を即座に収集し、すかさず副委員長の解任動議を提出した。野次と怒号が飛び交う中、副委員長は解任され、続けて組合として社の方針を受諾する旨の動議が提案される。食堂のガラスが震えるほど圧倒的な「異議なし」の声を受け動議は可決された。反対派は実力で食堂の外に排除された。妥協はあっという間の出来事だった。

 同じ日の夕方、本社からはマスコミに向けて現在の工場の閉鎖と新工場の建設について発表が行われた。新工場は二年後に宮城県で稼動。現工場の閉鎖後の予定は未定。新工場での勤務を希望する人間は優先的に採用される。新工場への移動を希望しなかった場合は外部への出向を含む配置転換の対象となる。なお、対象を限定した早期希望退職制度の導入と募集についてもこれを実施する。終わってみれば、何もかもが会社の思惑通りだった。




「あんたのお父さん達のせいだから」

 同じ教室でピアノを習っていた三橋さんが赤い目で喜美恵をなじった。

 同じ学年だった三橋さんは学校で一番、いや、学校どころか全国のコンテストに出て賞をもらうほどの腕前だった。ピアノ教室の先生も学校の音楽の先生も三橋さんの演奏をいつも褒めちぎっていた。

「あんたのお父さんが工場移転に賛成したから、ワタシが引っ越すことになったんだから」

 三橋さんのお父さんは最後まで移転に絶対反対を叫び続けた一派に属していた。大規模な争議を恐れた会社側は移転反対派に対して個別に対応し切り崩しを図った。三橋さんの父親は早期退職に応じて会社を離れるだけでなく、この町からも出て行くことになったひとりだった。

 恨みを連ねながら町を去っていったのは三橋さんだけではなかった。外部への出向のほとんどが引越しを伴うものだった。工場で働いていたものの多くがこの町に残ることはできなかった。中学校は半年で生徒が半減した。




「工場が移転して全部変わったの、お父さん達のせいだって皆が言ってた。だからアタシも随分ひどいこと言われたんだ。我慢してたけどね」

 喜美恵の言葉に悦子もうなずいていた。悦子にも同じ思いがあったのだろうか。

 弘明自身も面と向かって裏切り者呼ばわりされた。近所付き合いはすっかり変わった。本社で勤めることになっても違和感はあった。やや遠ざけられていた。微妙な周囲との距離感は結局いつまで経っても埋まらなかった。

 それでも俺は家族のために頑張ったんだと言いたかった。家族のために裏切り者呼ばわりされる道を選んだんだ。何もかも家族のためだったんだ。

「あの時から、お父さんのことが嫌いになった。尊敬できなくなった」

「そうか」

 やり直すことなどできない。

「ごめんね、お父さん」

「何がだ」

「お父さんの思ってたみたいないい子じゃ無かったよ、アタシ」

「ああ、そうだ。俺はがっかりしたんだ。お前や悦子のために、あんなに頑張ったのに」

「そういうこと言うのが嫌だったんじゃない」

「そうだろうな。そうだろう」

「工場の話は嫌だったのよ、ワタシは」

「俺だって嫌だ。できれば思い出したくなかった」

「でも、忘れられるわけ無いじゃない。お父さん、ワタシ、何でピアノ辞めたかって言ってたよね」

「ああ、そうだった。どうしてだ。父さんが嫌になったからなのか」

「お父さん、ピアノ教室に通ってた子が皆辞めてワタシひとりになったって知らなかったでしょ」

「え?」

「皆、辞めちゃったのよ。引っ越していったの。ワタシひとりになったの。お父さん、発表会にも一度も来なかったでしょ。知らなかったでしょ。工場が無くなって、ワタシ、ピアノ教室でひとりになっちゃったのよ。皆いなくなっちゃったのよ」

 喜美恵からも悦子からも、そんな話はひとことも聞いていなかった。何を言えばいいのかわからなかった。

「ママー」

 声に驚いたのか愛が目をこすりながら起きてきた。

 喜美恵が愛を抱きしめながら布団に運んだ。

「ママ、泣いてるの?」

「ううん、大丈夫。ママも一緒に寝ていいかな」

「うん」

「じゃ、おじいちゃんとおばあちゃんにもう一回おやすみって言って」

「おじいちゃん、おばあちゃん、おやすみなさい」

 それからしばらく喜美恵が愛に話しかけている小さな声が聞こえた。やがて止んだ。




 次の日の朝、洗面所で倒れた弘明は救急車で病院に運ばれ、そのまま入院することになった。

 会社に病気のことを伝えるかどうか、まだ迷っていた。長く入院することになれば話をしないわけにはいかない。だが、今となっては何事もなくおだやかに定年を迎えたい気持ちがないわけではない。

 夕方になって、喜美恵が見舞いにやって来た。

「大丈夫、お父さん」

「ああ、大したことない。詳しく検査するそうだ。しばらくは流動食だな。昨日、調子に乗って食い過ぎたかな」

「流動食って美味しいの?」

「美味しいわけあるか。あまり味なんてしない。そうだな、昔の脱脂粉乳を思い出すな。あれより少しマシなぐらいだ」

 身体を起こさなかった。見舞いに来てくれたから話しているが、本当なら横になったまま黙って目を閉じていたかった。痛みがあるわけではない。ただ、身体が重く、だるかった。

「愛はどうした」

「一人で留守番」

「大丈夫か」

「慣れてるから」

「そうか」

 軽くめまいを感じ、思わず目を閉じる。

 目を開けると喜美恵が心配そうに弘明の顔を覗き込んでいた。

「本当に大丈夫?」

「ああ、大丈夫だ。ちょっと目を閉じる。話があれば話していいぞ」

 あらためてゆっくりと目を閉じ、大きく息を吐き出す。目の奥が回っている気がした。身体全体がベッドの布団を通り越して地球の中心に向かって落ちていく感覚に襲われる。身体の重さが忌々しかった。

「お父さん、昨日はごめんね」

「何がだ」

「工場の話」

「ああ」

「私、あれから考えたの。ピアノ辞めたの、お父さんのせいみたいなこと言っちゃって、本当にそうなのかなって。どうなのかな、本当はそうじゃなかったのかも。お父さんのせいにしたかったのかも。覚えてるよね、あの後、学校がすごく荒れたの」

 学校にパトカーがやってきたと悦子がこぼしていた記憶がある。それまでは静かな住宅地だったのに夜中に爆音をとどろかせるバイクが急に増えたのもその頃だった。

「皆、工場のことがきっかけだって思ってた。親のこと恨んでた子、けっこういっぱいいたと思う」

 親たちだって苦労してたんだという言葉を飲み込んだ。子供たちのために親たちはしなくてもいい苦労までしていたはずだ。そんなことは言われなくてもわかっているはずだろう。

 本当にそれでよかったのだろうか。

「でも、なんか考えてみると違ったのかもしれない。自分たちのこと、言い訳さがしてたのかも知れない。私、それからも誰かが悪いって思うこと沢山あったよ。最初の旦那はひどかったしね」

「あいつはひどかったな」

「ハハ。何であんなのと結婚しちゃったんだろね、アタシ。自分で決めちゃったんだよね」

「そうだ、勝手にな」

「全然相談とかしなかったからね」

「少しは相談してくれたらよかったのにな」

「仙台行ったのもね」

「あの時はもう二度と帰ってこないんじゃないかって思ったぞ」

「アタシはそのつもりだった」

「よく帰ってきた」

「ごめんね。アタシ、ずっと馬鹿だった」

「何を言ってる」

「お父さん、アタシにピアノ辞めて欲しくなかったんでしょ」

「ああ、そうだ。辞めて欲しくなかった」

「どうして?」

「どうしてだろうなあ」

 目を開けて天井を見つめた。

 居間に置いてある新品のピアノが誇らしかった。小さな喜美恵が一所懸命に弾いた曲が好きだった。バイエルの頃の曲は覚えている。だんだん忙しくなって聞けなくなってしまった。発表会にも行ってやれなかった。

「父さん、喜美恵の弾いてたピアノが好きだった」

「そうなの?」

「そうだ。子どもが生まれたら家を建ててピアノを買って。ずっとそう思ってた。子どもにはピアノを習わせて、たまの休みには車で出かけて。全部、手に入れた気がした。だから守らなきゃなって、そう思った。でも、考えてみたら、それ以外に欲しいものがあったはずなんだな。欲しいものというか、そうだなあ、やってみたいことか。そうだな、自分で、自分のためにやってみたいこと。オレの人生なんだ、オレだってやりたいことがあったはずだ。定年になったら海外旅行にでも行こうかって思ってた。母さんと一緒にな。まあ、嫌だって言ってるみたいだし、病気になってそんな気は吹っ飛んだけどな」

 弘明は大儀そうに息を吐き、また目を閉じた。

「でもな、今になって思った。もしかしたら、ずっと自分でピアノが弾きたかったのかもなってな。急にそんな気がした。父さん、いつかお前にピアノ教えてもらおうって思ってたんじゃないかってな」

「お父さん」

 喜美恵の声が震えていた。

「弾こうよ、ピアノ。一緒に弾こう」

「ああ、いいな。ピアノ、弾けたら、いいな」

「弾こう、ピアノ」

「父さんな、あの曲が好きだ。喜美恵が弾いてたバイエルの『楽しき農夫』って曲。アレはいい曲だなあ」

「アタシ、全然上手に弾けなかった」

「そんなことはない。上手だった。喜美恵のピアノがとっても上手で、父さん、少しうらやましかったんだな」

「父さん、発表会、愛とワタシで『楽しき農夫』弾くのよ。先生が連弾の楽譜起こしてくれたから、二人で弾くのよ」

 喜美恵は泣いていた。

「そうか」

 弘明は眉をちょっとしかめ、喜美恵に背を向けるように寝返りを打った。

「なあ、発表会終わったら、オレにピアノ教えてくれるか」

「私が?」

「ああ」

 喜美恵は口を手で覆った。

「なんだ、いやなのか?」

「ううん。そんなことない」

「教えてくれるか?」

「うん」

「弾けるかな」

「弾けるよ」

「弾けたらいいな」

 そう、弾けたらいい。

「ちょっと疲れた。また一眠りするから帰っていいぞ」

「うん」

 足音のあと、扉を静かに閉める音が聞こえた。

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