若宮様の疑問

久世 空気

第1話

 十一月、朝の空気が冷たい日が増えた。白い息を吐きながら私、坂木幸一郎は国道一六九号を、奈良ホテルを左手に走っている。日曜日の早朝は観光地といえど人が少なくランニングに最適だ。

 走り出してから二十分ほど経ち体はだいぶ温まってきた。ペース配分も始めたころよりずいぶんうまくなってきたと思う。それでも十二月のはじめに出場を控えている奈良マラソンのことを思うと興奮と同時に不安がよぎる。

 私は社会人になってマラソンを始めるまでまったく運動には無縁の生活をしていた。中学のときは帰宅部、高校は茶道部、大学に入ってからは研究に没頭して結局サークル活動はしなかった。社会に出てからやっと健康を考えて運動をしなければと思った私に同僚はマラソンを勧めてくれた。マラソンは一人でいつでも始められるし、自分のペースで行うことができると。勧められるままはじめてみたが、私はいつの間にか走ることにはまっていた。

 一昨年、その同僚がホノルルマラソンに参加し、私もいつかフルマラソンを走ってみたいと思うようになった。昨年は一〇キロマラソンとハーフマラソンに同僚と参加し、ついに今年、フルマラソンの参加を決めたのだ。

「どうせならホノルルに行けばいいのに」

 と同僚は笑っていたが、小心な私は初めての地で初めてのことに挑戦することを躊躇した。もし途中でギブアップしてしまった場合、見知らぬ地で独り枕を濡らすなんてことになるんじゃないか。それなら故郷の奈良で。もし失敗しても同窓の友人を集めてやけ酒だってできる。

 調べてみたところ、奈良マラソンは奈良の観光地をめぐるコースになっていた。大学入学時に奈良を離れ、そのまま就職したものの転職して再び故郷に帰ってきた私にとって懐かしい場所ばかりだった。子供のころから親しんだ景色を見ながら走るのも悪くないんじゃないだろうか。そう思い私は奈良でフルマラソンに挑戦することを決め、今に至るのである。

 両親や姉、姉の夫は大弾幕をつくって応援してくれるらしい。恥ずかしいがうれしいことだ。中学生のときの同級生も参加すると聞きモチベーションはあがっていた。

 荒池を越え、春日大社の一の鳥居に差し掛かったところで信号に引っかかった。私はいつも一の鳥居や興福寺を通り越し、県庁に向かって西に左折し国道三六九号を走る。できれば足を止めたくないので、途中、一の鳥居前の信号が赤のときは先に左折して三条通りに向かうことにしていた。

しかし今日はなんとなく赤信号を見て立ち止まってしまった。自分でもよくわからない。ストレッチをして信号が変わるのを待つことにした。そしてふと、春日大社に向かってみようかと思いついた。ただの思い付きだ。

 横断歩道を渡り、鳥居をくぐったとき、いつもと違うシューズから伝わる感触に戸惑った。参道は砂利道なのだ。少し後悔したものの引き返す気にもならず私はそのまま走り続けた。

 境内は外界より空気が澄んでいる。呼吸がとても軽くなった気がする。参道の外にはいたるところに鹿がいて私が通り過ぎるたびにビイイイイと鳴いた。神様の使いといわれる彼らが私の来訪を神様に伝えているような気がした。

二の鳥居をくぐり御本殿に近づくにつれ、鹿の姿がなくなり道も徐々に勾配が出てきた。さすがにこのまま御本殿に入るわけにはいかないだろう。御本殿に入るには突き当たりを左に上がり南門を通るが、今日は右折する。こちら側には若宮神社など摂社・末社が集まっている。私も数えるほどしか参ったことがない。正月に参拝するのも御本殿だけだ。

 両脇に石灯籠が立ち並ぶ小道を百メートルほど駆けると木々の間から朱色の鮮やかな鳥居と社が見えてくる。若宮神社は人一人おらずひっそりとしていた。

 若宮神社には本殿の前に石畳の敷かれた拝舎があり、さらに拝舎の前には左右に長い細殿・神楽殿の連なった檜皮葺き屋根の建物がある。若宮神社の前を通るにはこの細長い細殿・神楽殿と拝舎に設置された賽銭箱の一メートルほどの隙間を行く以外道はなかった。しかし賽銭箱のすぐ前を走り去るのはさすがに神様に失礼ではないだろうか。私はいったん足を止め、形だけでも参拝することにした。ウエストポーチから小銭をだしながらふと右手の立て札に目をやる。そこにはこう書かれていた。

「十五社巡第一番納札社

 若宮(わかみや)

 御祭神 天押雲根命様

 御神徳 智恵と生命の神様」

 智恵と生命か……。マラソンも走るだけではない。コースによって走り方を変え、考えながら進む。そしてそれを実現させるのは日々の鍛錬なのだ。だからこの神様はマラソンの祈祷にするにはもってこいだと無理矢理な理屈をこねて百円玉を賽銭箱に投下し、手を合わせた。

『フルマラソンを完走できますように』

 そう願掛けをして顔を上げた瞬間だった。

 突然ガクッとひざが折れ、私はその場に崩れ落ちた。マラソンを始めたばかりのとき、疲労で足に力が入らなくなりこのような形でこけかけたことはあったが、それとは違う。目の前に何かが飛んできたら目を瞑る。熱い物に触れたとき手を引っ込める。それと同じように、私は反射的に跪いた、ように思えた。

 そして今しがた百円を入れたはずの賽銭箱は煙のように消え、拝舎の中央いる青年が目に飛び込んだ。青年は綿のたっぷり入った分厚い座布団に胡坐をかいている。服装は平安時代の貴族が着てそうな袖がゆったりと広い和服で、春日大社の神主かと思ったがそれにしては薄い紫の金糸でも使っているのかと思うくらいきらきらと光るその衣装は派手だった。それに烏帽子をかぶっておらず、黒々とした髪はい本一本糊付けしたようにまっすぐ、乱れず地面に向かってたれている。そしてその容貌は恐ろしく整っていた。まるで作り物である。

 ――人間じゃない。

 ドクドクと心臓がなる。恐怖が体中に広がり指先がぴりぴりとしびれる。いや、これは畏怖だ。目の前の存在は私を厳かな気持ちにさせる。反射的に跪いてしまったことと、この場所のことを考えると、つまり、この方は……。

「坂木、幸一郎」

 口紅を塗ったかと思うくらい赤い唇が私の名前を呼んだ。

「……はい」

 返事をした。声が出たことに、内心ほっとする。

「我は、天押雲根命。人々には若宮と呼ばれているな」

 やっぱり……神様。一体何が起こっているのだろう。まさか参道を走ったことで神罰が下るのか。神罰とは何だろう。私は子供のころ絵本で読んだ牛にされた男の物語を思い出した。

「そんなに堅くなる必要はない。少々、おぬしに聞きたいことがあって呼び止めた。良い か?」

 聞きたいこと? 神様が人間に聞きたいこと? 神様なら何でもわかるのではないのか? それとも人間にしかわからないこと、たとえば『お前たち人間はこの地球をどうしたいのだ? 自然破壊ばかりしおって!』とか。いや、これは質問ではないな。

「わ、私にわかることでしたら、何でもお答えいたします」

 どもりながらも何とか返事をする。するとこれまで無表情だった若宮様は口の両端を上げ、満足そうに微笑んだ。

「それでは、答えてもらおう」

 私は両手の親指を拳の中に握りこんだ。

「奈良マラソンに出場するにはどうすればいい?」

 ……ん? マラソン? マラソンに出場といったか、この神様は。

 あまりのギャップにパニックに陥った私が答えられずにいると、若宮様は軽く首をかしげ、今度は大きく口を開いた。

「なーらーまーらーそーんーにー」

「聞こえています。すみません、聞こえていました。奈良マラソンの出場の仕方ですね」

「人の言葉を使うのは数百年ぶりだから間違えたかと思ったぞ。わかっているならさっさと答えよ」

 私は半年ほど前の申し込み時の記憶を必死で呼び起こした。

「えーっと、まず五月の終わりにインターネットでの申し込み受付があります。これは先着順で受け付けられるので定員に達した時点で締め切られます。ちなみにこれは事前にランネット会員登録が必要でした。郵便申し込みもありますがネット申し込みよりも定員は少ないですね。こちらも先着順で受付されて、消印が同じだと抽選でした。結果は郵便通知……だったかなぁ」

「インターネットの場合は結果の通知が来ないのか」

「先着順なんで定員になった時点で申し込めなくなります。申込できましたら十一月にナンバーカード引換券と参加案内が届きます」

 若宮様はいつの間にか紙と筆を持ち、神妙な顔でメモを取っている。

「マラソン前日にランナー受付があり、ナンバーカードを受け取ってください」

「そのナンバーカードはどうすればいいのだ」

「当日にウェアに貼り付けます。私も実はまだ実物を見たことがないんですがゼッケンみたいなものでしょう」

 何しろ初参加だ。突っ込んだことを聞かれたら答えられないかもしれない。

「あ、申し込みが受け付けられたらすぐに参加料を入金しないといけないんですが」

「何?」

 メモから上げた視線が鋭く背筋がひやりとした。

「どう、されましたか」

「参加料とはなんだ」

「え、マラソンに、参加するための、費用ですが……」

 質問の意味を図りかねごく当たり前のことを答えたが若宮様は眉をしかめて「うーん」とうなり始めた。

「しまったな。金がかかるとは思わなかった」

「えっ?」

「我は金を持っていない」

 思わず「今入れましたよ」といいかけたがその賽銭箱はどこかに消えてしまっている。それでも若宮様は私の言わんとすることがわかったらしく

「賽銭は我の懐には入らないのだよ。通貨というものは人の世界でめぐることで機能するものだ。我々のような神仏がそれに干渉すると不都合が生じてしまうのだ」

 丁寧に説明をしてくれた。

話しているうちにはじめの張り詰めた気持ちは次第に解けていった。想像していた神様と違ってずっと親しみやすい。今度は私から問いかけてみた。

「あの、やっぱり奈良マラソンに参加を考えているのは若宮様ということですよね」

「ああ、そうだ。楽しそうだからな」

「そうですね、楽しいですよ。走るのは」

「愉快な格好の者もいるしな」

 若宮様は口元を袖で隠してくすくすと思い出し笑いをした。マラソンには愉快なコスプレをして走る参加者も多い。私は初参加でコスプレする勇気はないが、そのような走者と一緒に走るのは楽しみの一つだった。

「ご覧になったことがあるんですね」

「近くを走っているときは見えるのだよ。それでもあまり傍には寄れないがな」

 奈良マラソンは当然、春日大社や東大寺のすぐそばにコースがとってある。まさか神様が応援してくれるとは主催者も想定していなかっただろうけど。

「だから我が社の前を通るように変更させるよう働きかけようと思ったのだが、直前でばれて怒られてしまったよ」

 通貨は使えないと言ったのにコース変更はいとわないらしい。めちゃくちゃな話だ。

「誰に怒られたんですか?」

「もちろん武甕槌命様だ」

「タケ……あ、春日大社の主祭神の……」

「武甕槌命様は怒られると怖いのだ。経津主命様も天児屋根命様もご立腹されていた。比売神様は笑っておられたが賛成はしてくださらなかったな」

 悲しそうに若宮様はおっしゃったが話に出てきたのは春日大社の四柱神、そうそうたるメンバーである。

「た、確かに怖そうですね」

「ああ、雷が落ちた。先月雷雨の日があっただろう。それにまぎれて落とされた」

 神様の雷は比喩ではないらしい。神様の関係も人間社会のように上下があって難しいのだろう。しょんぼりしている若宮様に少し同情してしまう。

「参加料くらいなら、私が出しますよ」

「いや、人間と個人的な交流を持ってしまうとまた武甕槌命様に怒られてしまう。本殿に雷を落とされては敵わない」

 と自ら肩を抱いてぶるぶる震えている。相当怖かったようだ。

 しかし一万人くらい参加するマラソンだ。一人ぐらい神様が混ざっても気づかれないのではないだろうか。もちろんマラソン選手を差し置いてトップになったり、逆に集団からおいていかれて一番遅くならない限りは。

「ところで若宮様はどれくらい走れるんですか」

 若宮様がぽんとひざを打った。

「そう、それも問題だ。依り代を準備しなくてはいけないのだ」

「ヨリシロって、なんでしょうか?」

 走れないから話をそらされたかと思ったがそうではなかった。

「依り代というのは我が入る器のようなものだ。我がこのまま出場すると今のおぬしのように周りの人々に影響を与えてしまうのだ。器にわれ自身を閉じ込め、神としての力を抑制しなくてはいけない。入るだけならまあ、それなりの手順を踏んでいれば何でもいいのだが、今回は走らなくてはいけないからな」

 つまり若宮様のジョガーとしての実力はともかく、依り代になる人間は必ず走れなければいけないらしい。

「ただ走れればよいというものでもない。俗世で生活している人間に入ってもその人間は壊れてしまうだろう。容量以上に詰め込める器などないからな。依り代も同じだ」

「つまり、えっと、神主さんとか巫女さんとか?」

「その通り。まったく制限がないというわけではないが神職なら問題ないだろう」

 しかし、と若宮様が再び苦い顔をした。

「怒られますか」

 武甕槌命様に。私の問いかけに若宮様は二回うなずいた。

「まだ提案すらしていないが目に見えておる。その時期は忙しいしな。我も気安くは依り代にはできない」

「年末ですからね」

「祭りもあるからな」

 なるほど確かにと返事を仕掛けてふと思い出した。十二月の中ごろにある奈良の祭りといえば……。

「……おん祭りですよね。若宮様のお祭りですよね」

 若宮様は気まずそうに袖で顔を隠した。十二月のはじめにマラソンがありその後に大きな祭り。しかも自分が祭られているのである。神様がどんな準備があるかは知らないが、春日大社の神職の方々が忙しいのは想像に難くない。

「そりゃ武甕槌命様も怒りますよ」

「……いいではないか。一回くらい。ちょっと愉快な格好をしたものたちとマラソンを楽しみたいだけではないか」

 少し話しただけで神様のことがわかったなんて、そんな恐れ多いことはいえないが、若宮様が何をされたいのかは見えてきた。

 とにかく楽しいことがしたい、面白いものがあるとそばに寄りたい、一緒に楽しみたい。

若宮おん祭りは要所要所で古典芸能が奉納される。私は深夜に行われる暁祭こそ見たことはないがお渡り式は小学生のとき何度も見ていた。友達が参加して踊っているのも見た。見た後は綿菓子やらイカ焼きを食べ、くじ引きを引きはずれをみせあい友達と笑いあったものだ。競馬や稚児流鏑馬もニュースでみたことがある。あれはすべておん祭りだ。そして今でも私の中で祭りといえばこのおん祭り。奈良を離れて大学の学園祭やその地方の祭りなど参加したことはあったけど、私にとっての「楽しい祭り」の根本にはやっぱりおん祭りがあった。白い息を吐きながら見るお渡りも、こっそり聞こえてくる暁祭の様子も私の祭りだ。

 その「楽しいこと」を所望している若宮様が奈良マラソンを楽しそうとおっしゃるなら、それはもうおん祭りの一部と考えていいのではないだろうか。ならば何とかして若宮様にマラソンに参加してもらいたい。打開策はないだろうか。参加料とジョガーの依り代というハードルをクリアする方法は。

 そのとき「ビイイイイイ」という鳴き声が私の耳によみがえった。

「鹿だ!」

 思わず大げさに叫んでしまい、若宮様は驚いて目を丸くされた。

「なんだ騒々しい」

「す、すみません。ただ、その、鹿を依り代にできないかと思いまして」

 若宮様は憮然としたまま口を開かない。私はもしかして見当違いのことを言ってしまったのかと言い訳がましく言葉をつないだ。

「奈良の鹿って、あの、神様の使いじゃないですか。いえ、実際に神様に聞いたわけではなく、昔から言われていることなんで。それなら依り代にならないのかなと。鹿は走るの速いですし。そう、参加料もかかりませんよ」

 でもスタート地点に鹿がいたら普通はびっくりするよな、なんてしゃべりながら考えていたら若宮様がすくっと立ち上がった。

 反射的に頭をかばってしまったのは武甕槌命様の雷の話を聞いていたからだ。しかし若宮様は「でかしたぞ坂木幸一郎!」叫んだ。

「そうか、その手があったか。思いつかなかったぞ。主は菅原道真の加護でも受けているのか」

「ないです。それはないです」

「そんなことはどうでもいい。この案を早速煮詰めよう。心当たりの鹿にも声をかけてみるか」

 くるりと私に背を向け本殿に歩き出した。自ずと鳥居の下の扉が開く。石段を上がる前に、若宮様は肩越しに私を振り返った。

「必ず礼はしよう」

 その小さな本殿に入られるんですか、と疑問を持った瞬間視界がぐらりと揺れ、突然目の前に大きな木の箱と仕切のような木の横棒が現れた。

なんだこれはと手で触ってみる。さらさらと砂が手のひらについた。

「あなた、大丈夫」

 左側から女性の声がした。振り返ると六十才前後のご婦人が二人、心配そうに私を見下ろしている。

「貧血かしら。この先の夫婦神社に社務所があるから、休ませてもらったら?」

 貧血? ぼんやりとした意識が、霧が晴れるように鮮明になっていく。今触れているのは先ほど消えたと思った賽銭箱だ。私は賽銭箱の前に座り込んでぼんやりしていたようだ。慌てて立ち上がる。ご婦人達の手が私を支えようとしてくれたが礼を言って辞退した。

貧血など起こしていない。深い眠りから覚めたときのようにすがすがしい気分だった。肺の中にきれいな空気が満たされている。

 不安げなご婦人達にジョギングの途中で休憩していたと弁解し、その場を急いで立ち去った。

 春日大社は変わらず鹿の鳴き声がし、参拝客の姿がちらほら見え始めた。

 夢だったんだろうか。かの若宮神社の神様が私に声をかけるなど夢物語もいいところだ。あんなに目鼻がくっきりしていると思った若宮様のお顔も映像処理がされたかのようにはっきり思い出せない。

 だけど今、湧き上がるすがすがしい力、これは生命力というのだろうか、これは本物だ。これならいくら走っても大丈夫な気がする。

「よし!」

 私は再び気合を入れなおし、太ももを高く上げて走り出した。


 さて、後日談を少し。

 奈良マラソンの当日は快晴で、度も気温もランナーにとっては申し分ないものだった。大きなトラブルもなく、ランナーやボランティアで参加した市民にもとてもいい日となった。

 ただしちょっとしたハプニングが一件。フルマラソンの先頭グループが県庁前を過ぎたときだ。どこからともなく現れた一頭の牡鹿が、ランナーを次々と抜いて単独トップに躍り出た。呆然とする人々を尻目に牡鹿はまるでコースを知っているかのように、スピードを落とさず東大寺前を右折した。そして登場したときと同様、忽然と姿を消したのである。

 この事件は奈良新聞にちょっとしたエピソードとして記事になっていたが、それほど話題にはならなかった。一瞬のことだし、奈良に鹿がいるのは当たり前である。

 次にその日の晩に起こった不思議なこと。春日大社の方角から「ドーン」という雷が落ちたような音が聞こえたと近隣の住民から通報があった。警察が確認したが特に変わったこともなく、聞いたという人とそんな音まったく聞こえなかったという住民もいて、結局これも事件にもならなかった。

 そしてこれは奈良マラソン以降、年末までの少しの間、若者の間でささやかれた噂なのだが、春日大社の本殿の前で誰かのすすり泣く声が聞こえてきたらしい。本殿に入ったら聞こえなくなるとのことだ。この噂もすぐに消えてしまった。

 以上の三つの出来事をつなげて考えられるのは、おそらく私ぐらいのものだろう。ちなみに私はあの日のコンディションのまま奈良マラソンに参加し、念願のフルマラソン完走を達成したのである。きっと若宮様の言っていた礼とはこのことなのだろう。

 私は参拝者が多い三が日が終わるを待って、再び次のマラソンに向けてトレーニングを始めた。今日はまた、あの日のコースで走ろう。そして若宮様にマラソンの結果報告をしてこよう。

 私は軽くストレッチをして大きく息をい吸い込む。

 今日も鹿の鳴き声が奈良公園に響き渡っている。

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