Encounter Under The Blue Sky
第18話 Epilogue: I LOVE YOU
研究所の外には先程と変わらない青空が広がり、焼け付く太陽が照っていた。出てきた九重とアヤメを見つけたユリは声をあげて手を振る。
「二人とも!無事だったの!?」
その傍らには、大河峰が荒い息をつきながら横たわっていた。体を起こし、何とか出てきた二人を見て安心した様に溜息をつきながら仰向けに寝転がる。
「出てきたか……心配したぜ」
銅像の居並ぶ敷地の端、倉庫の日陰になっているところで休んでいたユリ達に九重は近づく。大河峰は、九重の顔に浮かぶ涙の跡を見た時、あまり多くを聞かないようにしようと思った。何を聞いたところで自分にどうにかできる話ではないと知っていたからだ。
すっかり崩れたオールバックをぐしゃぐしゃにかき毟りながら、九重は煙草を取り出す。
「もう終わったんだ。……大河峰とユリ、お前らには感謝している。ありがとうな。あとは戻って、お前の手当てをして帰るだけだ」
「何だよ急に。まあ、終わったって言うんだったらどうでも良いがな」
わざとらしく大河峰は悪態づいて見せる。だが九重は何の反応も見せず、静かに紫煙をくゆらせていた。
「そういえばよ、アヤメはどこ行ったんだよ。九重と一緒に出てきたけど見当たらねえじゃねえか」
九重は振り向くが、一緒に出て来た彼女の姿は見当たらない。ほんの数十秒前まで一緒に居たのに、忽然と姿を消していた。
「アヤメちゃん……どうしたのかしら。ねえ、九重さん……」
ユリが心配そうに呟いた時、既に九重は煙草を捨てて駆けだしていた。ユリは何も言わず、走り去る彼の後姿を見送る。ふと、足元にまだ火のついている煙草が転がっているのに気付き、そっと拾い上げた。
「……大河峰さん、吸う?」
「いらねえ。そいつは俺の好きなヤツじゃねえんだ。ってか、落ちてる煙草吸わせようとすんなよな……」
「うふふっ、冗談よ」
九重は東京湾に向かって走っていた。何故そこに行こうとしたのか、はっきりとした理由があった訳じゃない。ただ、そこならばアヤメがいると思ったからだ。直感には意味があると知った今の九重にとって、それだけで十分だった。
廃墟と化した倉庫やビルを抜け、港湾に設置されたクレーンを横切り、やがてかつての港へと出る。
朽ち果てて崖の様になった防波堤に、アヤメは立っていた。
乾き切り、深い谷底を見せる東京湾から吹き上げる熱風を受け、アヤメの黒く長い髪が風に流れる。彼女は遠い景色を見つめていた。
「ここにいたのか、アヤメ」
分かり切っていながらも、あえて九重はそう切り出す。
「うん。栄一郎、アタシね、ここに水があったのを見ているんだよ。本当に大きくて、青くて、沢山の人がいて賑わって、皆優しくて……」
九重は何も言わず、そっとアヤメの傍に立つ。そして一緒に、何もない乾いた東京湾を見つめた。
「アタシは、アタシの中にある記憶も人格も、体すらも全部自分のものだと思って生きてきた。でも、それは全部自分のものじゃないってわかった時、どうしたらいいのか分かんなくなっちゃった。全部誰か別の人の借り物だったなんて。それも、栄一郎の奥さんの物だったなんて。思いもしなかった」
「……俺もさ」
九重は再び煙草を取り出し、火をつける。だが吹き荒れる熱風にあおられ、なかなかライターが付かない。東京湾から背ける様にライターを隠し、ようやく火をつけることが出来た。
「さっき戦ったあの子……栄一郎の娘さんだよね?」
「……ああ。雛って言うんだ」
「あの子を見た時にさ、『ああ、きっとこの子は栄一郎の娘さんで――私の子なんだ』って、すぐに分かったんだよ。何でだろうね?」
目尻を潤ませながらアヤメは笑う。吹き付ける風は零れ落ちる雫を舞い上げた。
「理由なんて後からつけるもんさ。お前がそうだと思ったんなら、きっとそうなんだろう。間違っちゃいないよ」
「でもさ……それでも私は偽物なんだ。栄一郎の思い出を横取りしてるだけなんだ。だから――」
アヤメは悲しそうに笑いながら続ける。
「だからさ。借りた物は返さなきゃいけないのかな、って思ったんだ」
「返さなくていい」
「えっ……」
九重は煙を吐き出すが、すぐに九重の顔に吹き返される。熱風は火をあおり、瞬く間に煙草を短くさせた。
「返さなくていいんだ。それはもう、お前のものだ」
「でも……でも、栄一郎はそれで良いの?」
「良いんだ。もう、美奈はこの世にいない」
「栄一郎は……アタシが憎くないの?奥さんのクローンで、奥さんの記憶を持って、奥さんの体を化け物のようにして、奥さんの様に……栄一郎の事を……」
「馬鹿なことを言うな」
「……馬鹿なこと」
「ああ、馬鹿だ。俺はお前に助けられた。一年前のあの日も言ったな。『どこの世界に命を救ってくれた奴を殺す馬鹿がいるんだ』って。それと同じで、お前を憎む理由なんかないさ。あの日からずっとな」
九重はあっという間に短くなった煙草を錆びた携帯灰皿に放り込む。そして惜しむ様にまた煙を吐き出した。
アヤメはずっと東京湾の向こうの景色を眺めている。果てしなく続く、乾いた海底を。
「……じゃあ、さ」
まっすぐ前を見据えたまま、アヤメは震えるように声を絞り出した。
「アタシが『愛してる』って言ったら……アタシの……事を……」
アヤメの赤い瞳は、涙で潤んでいた。絶え間なく吹く風が、その涙を再び宙へと散らす。乾いたコンクリートに落ちた涙は、吸い込まれるように消えていった。
「……お前は、美奈じゃない」
九重もまた、目の前の東京湾を見つめたまま呟く。
――奇妙に交わった、荒れ果てた人生と偽りの人生。そこで芽生えた直感と感情。それを信じて、二人はここまでやって来た。
運命や直感と言った便利で曖昧なものには案外しっかりとした理由があって、それを知らずに人は導かれるのかもしれない。
――その理由を知ることが出来たのならば、運命に従うことに迷いなど無く、知らなければこそ思い悩むのだろう。
それはきっと、青空と太陽によって作られたこの乾いた世界でも同じなはずだ。
故に今、九重に迷う道理などなかった。自分の感じた直感を、運命を信じた。
「お前はアヤメだ。俺の好きな、他の誰でもない、この世に一人しかいないアヤメだ」
「……うん」
「だから俺はお前を――アヤメを、愛してる」
九重は前を見つめたまま、すっかりぼろぼろになったアヤメの白いカーディガンの袖を握る。血と泥で汚れたその奥から固い金属の感触が伝わる。ただ、今だけは温かい様な気がした。
「――ありがとう、栄一郎」
アヤメの見せた笑顔は、誰かの模倣ではない、彼女だけの笑顔だった。
――酷い夏だった。どこまでも突き抜ける青空は今なお果てしなく広がり、我が物顔で鎮座する太陽は容赦なく陽光を地上に浴びせる。雨が降ったことなどここしばらく無く、雲は遥か彼方で僅かに見えるだけだ。
そんな容赦のない青空を見ていると何故か泣きそうになる。
でも二人は、案外そんな青空も悪くないな、と思った。
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(完)
熱砂東京、愛を告げる ユーラシア大陸 @zuben2062
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