第17話 サヨナラ

 アヤメの右腕にかかっていた圧力は、糸が切れたかのようにふっと消えて無くなった。ヒナは、未だに涙を浮かべながらアヤメを見つめている。


「もう終わりだ。終わりにしよう」


 九重はただそれだけ呟くと、ヒナの背中に突き立てた刀を引き抜く。ヒナはゆっくりと振り向き、肩越しに九重を見上げると崩れ落ちる様にアヤメの横へ仰向けに寝転がった。

 ヒナの左胸から血が止まることなく湧き上がる。


「終わったんだよ。もう、何もしなくていいんだ」


 九重は血を流し続ける我が子の傍へと屈みこんだ。その顔には、優しい微笑みが浮かんでいる。


「ヒナ――雛、痛かったよな……。ごめんなあ、これじゃ父さん失格だよなあ……」


 雛の頭を撫でながら、九重は呟いた。雛もまた、九重の顔を見るとニヤッと笑って見せた。一年前のあの日、家族でいた時と変わらない笑顔だ。


「なんだ、お父さんいたんじゃん……。お母さんだけかと思ってた……」


 アヤメは体を起こし、何も言わず雛の横顔を見つめた。雛は顔をアヤメの方へと向けると、またニヤッと笑って見せる。


「お母さん、何だか今日は可愛い感じだね……。そういや私、お母さんの昔の写真とか見たことないかも。今みたいな感じなのかなあ……」


 九重とアヤメはただ黙って雛の言葉に耳を傾ける。


「そういえばさ……ここはどこなの?なんだか気が付いたらここにいたんだけど……。私、眠っちゃってたのかなあ」

「……東京だよ。旅行中に寝ちゃったんだな」


 九重は優しく呟く。


「そっかあ、東京かあ。そういえばさ……こないだ皆でカレー食べてた時にさ、約束したよね」

「何をだい?お父さん、ちょっと忘れちゃったかもな……」

「もー、そんなんだから私も学校で習ったこと忘れちゃうんだよ……遺伝って奴だね……」


 雛は血を吐きながら、楽しそうに語った。まるで幸せな家族に包まれているかの様に。

「言ってたじゃん。『いつか家族で、お母さんの生まれた東京に行こう』って」

「……ああ、そうだったな」


 九重の頬を温かい滴が伝っていた。それはぽたりと零れ落ち、雛の頬に伝う。血で濡れた彼女の頬が、少しだけ綺麗になった。


「お父さん、泣いてるじゃん……そんなに東京に来れたの嬉しかったんだ……。ね、お母さん。お母さんがいた時の東京って、どんな場所だったんだっけ……?」

「……そう、ね。いつも賑やかで、皆が笑顔と自信に溢れていて、誰もが助け合う街だったわ」


 アヤメもにこやかに笑って返した。彼女もまた、いつの間にか涙が留処なく溢れ出ているのに気付いた。冷たく乾いた室内に、一つ、また一つと温もりが零れる。

 雛は満足そうに微笑むと、ゆっくりと目を閉じる。それから一つ、深く深呼吸をした。呼吸に呼応する様に胸から血が吹き上がる。


「そっか……。良かった。皆で、家族で東京に来れて。家族旅行の思い出が出来たね……私は東京の街並みを見れなかったのが残念だったけど……」


 少しずつ、少しずつ雛の声が小さくなる。それは、彼らに別れを告げる合図の様だった。

 血を吹き零しながら雛は弱々しく微笑んだ。雛の頬に際限なく、温かく優しい滴がこぼれ続ける。その温かさに、雛の心の内もまた穏やかになった。


「雛、足痛くないか……?」

「ううん、大丈夫。すぐに直してさ、ソフトボールのレギュラーとして頑張らなきゃ……今度試合があるんだ……」

「ああ、そうだな。父さんも見に行かないとな」


 禍々しく歪められた雛の両脚は僅かに動くのみだった。しかし九重は、鋼鉄に塗り固められたその足を優しく撫でてやる。それ以外にしてやれることなど無かった。


「いつも思うんだけどさ、二人とも本当にラブラブだよね……いつも一緒に居てさ。娘の私が見てもびっくりするくらい……。だからさ、帰っても仲良くしててよね……」

「……うん」

「あー、何だか眠くなってきたかも……。折角東京に家族で来たのになあ……。ちょっと寝るから、後で起こしてね……」

「ああ」

「――あとさ、お父さん、お母さん」

「何だい、雛」

「さっきまで眠ってたのに、ちゃんと起こしてくれてありがとう……。見ていた夢の続きが今も見れてさ、私、けっこー幸せだよ……」




 そう言いながら微笑むと、雛は静かに眠りへと落ちた。夢の続きを見に。

 九重は眠った雛の体を静かに抱き起す。もう、胸から血が流れ出ることは無い。彼女が微笑みながら、ゆっくりと眠ることが出来たのは何よりの幸せだと思った。


 九重は傍にいたアヤメの肩に手を回し、眠る雛と一緒に抱きしめる。大きな手が二人を包む。冷え切ったアヤメの肩は、にわかに温かくなった。

 アヤメもまた、左腕の医療用マニュピレーターを伸ばし、支える様に雛の肩に手を回す。


「ごめんな」


 九重はそう告げるだけで精一杯だった。

 貧しくも幸せだった家族は、いびつで暖かな再開を交わし、別れを告げた。

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