第10話 閉じたる日常
人間が頑張らなくても時間は流れるし、日本にいる限り四季は巡る。そんな当たり前といえる環境に、どれだけの人が感謝の念をいだけるのだろう? 別に私が感受性豊かだとか、そういった方面に鋭い方だとは言わないけれど、あまりにも鈍い人が増え過ぎているんじゃないかと、最近思え始めた。日常に落とし込まれてしまったものは、特別性を失い軽視されてしまう。幸せというものに、手が届いていないときは焦がれていた人も、幸せを手にしてしまえばより大きなものを求めるようになる。
晴れの日も、雨の日も、雪の日だって相談者は窓口に現れる。暑くても、寒くても、陽気な日だって窓口には誰かが来る。日常に問題を抱えてしまった人が、相談に来てみたり、愚痴をこぼしに来たり、文句を言いに来てみたり。正直、良く飽きないものだ。
確かにこの市民の相談窓口はそういった役割を持った場所だし、そこに配置されている私達は話を聞くためにいるのだけれど、少しくらい季節を感じられるような話題があってもいいと思わないかい? 1年中同じような話ばかりを聞かされていると、飽きてくるよ。
「それでね、お義母さんがひどいんですよ。私の作った料理なんて食べられないって、必ず文句を言いながら食べるんです。ちゃっかりおかわりまでするんだから、黙って食べればいいのに、何考えてるか分かりませんよ」
「そうですね。せっかくの食事ですから、感謝をしながら美味しくいただきたいですよね」
誰かの作ったご飯に対して、ケチをつけるのは良くない。食べられないような味付けの食事が出てきてしまったのであれば、まだ多少のアドバイスは許されるのかもしれないけれど、作ってもらったことに感謝しながら食べている人であれば、そのような行為には及ばないはずですよね。本来、姑さんというのはそういった道徳的なところも含めて、お嫁さんを指導するものだと思っていましたが、そういった理想論が通る家庭の方が、現実には少ないのかもしれないね。姑として、とりあえず文句を言いたい人もいるみたい。
家族と呼ばれる集団のあり方も変わっているし、其々の家族には独自のルールがあることだって珍しくはない。だから、あんまり深くは関わりたくないのですが、難しいかな? この人、姑さんに関する愚痴だけで、結構な時間が経過しているよね。市の職員だからといって、暇ではないですよ? 私にもやらなければいけない仕事があるんだよ?
「ねぇ、職員さん聞いてる?」
「ええ、もちろん。お姉さんのお話、ちゃんと聞いていますよ」
ぐだぐだという擬音語が似合うよう、脈絡のない愚痴の数々。どのような返事をしたところで、吐き出すことに満足をしなければ止まらないでしょうし、返事をするのも疲れてきました。その上、時々こちらの対応を確認するかのように言葉を投げてくるものだから、タチが悪いですね。うなずいて、分かりますよって同調だけしていれば済むような感じにしてくれれば、私も一緒に考えるような真似をしなくていいのに。面倒なことこの上ない。幸いにして会話は分かりやすい人だから、会話として進めるのは良いんだけどね。
「ま、今まで家族の料理を一手に引き受けていたから、プライドがあるんでしょう。姑として、口を出してみたいというのも分からないわけじゃないの。やること全てに文句を言ってくるわけでもないし、その内仲良く出来るじゃないかとは思うけど、イラっとするものはするのよ。でも、ここで文句を言うようでは、私のお嫁さん像に傷がつくの。この葛藤、お嬢さんに分かる? ねぇ、分かる?」
「残念ながら、今の私には分かりません。恋愛もしたことありません、結婚する予定もありませんから。分かるのは、いいお嫁さんを目指されているということだけです」
自分のやったことに文句を言われて、その上で向こうの立場も分かるといえるのは、随分と大人だと思うけど。話を聞いているだけの私でも、若干イラっとするのに。当人が言えるのは、大人だからでしょう。それなのに恋愛という熱を忘れることはなく、目指すべきお嫁さん像がある。これが愛と呼ばれるものでしょうか? その想いを持って、ご家族と話し合いの場を持ったほうが、早く解決できると思いますよ。
こういった人には、分からないことでうなずくような真似は止めた方がいいようですね。聞いているというポーズだけで乗り切ろうとすると、話を聞いていないと騒ぎ出してしまう。そうなってしまったら、話がまた最初の位置に戻ってしい、姑さんに関する愚痴があふれ出てくる。
「そっか。まぁ、いいわ。ごめんなさいね、相談に来たつもりだったのに、愚痴ばかりになっちゃって」
「問題ありませんよ。市民のみなさまのお話を聞くのが、私達の仕事ですから」
愚痴ばかりこぼしていたのは事実だけれど、相手の悪口を永遠と聞かされていたわけでもない。会話の端々からは仲良くしようと努力していることと、姑さんが軟化してきそうな雰囲気が見えているから、このままで終わる心配もないでしょう。
どちらにしても、午前中の受付時間はそろそろ終わるし、午後になれば梅原さんと再度の打ち合わせが待っています。お姉さんには悪いけれど、私としてはそちらの方が余程気になるから、早めに昼食を終わらせて梅原さんが戻ってくるのを待ちたいところです。そろそろ、終わってもらえないでしょうか?
「私、本当にお義母さんと仲良く出来るのかしら? 今の関係が十年と続いてしまったら、自信がないわ」
ここでもう一周されると困るんですけど。まぁ、愚痴ではなく相談モードに入ったみたいだし、そこまで時間を取られることもないとは思いますが、姑と嫁の関係性について、恋愛経験もないような小娘が相談に乗れると勘違いしてはいけませんよ。
「お話を聞く限りですが、そこまで時間がかかるものだとは思えませんよ。その内、お料理も喜んで食べてくれるようになりますよ」
まだまだ新婚だと聞いているし、子供もいないと聞いている。そして、姑としての経験も浅いから、口を出してみたいのでしょう。相談を受けている私の立場としては、面倒事でしかないありませんが、当人達にとってみれば、手探りで関係を築こうとしている期間とも見れます。そんな状態で、必要のないアドバイスをしてしまうと、良い方向へ向こうとしているのを台無しにしてしまう可能性があるので悩みますね。
悩んでいるお姉さんにとっては酷なことかもしれないけれど、このまま地道に歩み寄ってもらうのが一番スマートな方法だと思えます。部外者が口を出すべきでない相談というのも、存在するんだよね。体上部だよ、お姉さんなら多少の問題が起きたとしても、乗り越えられるはずだから。
「今後も良い関係を築いていきたいと、その気持ちをお持ちであれば遠い将来の話にはなりませんよ」
こういった問題に関しては外部からどうこういったところで、改善されないことの方が多いから。場合によっては旦那さんに参加してもらったりしつつ、将来的な話も決めていく方が良いのでは? 一緒に問題を乗り越えていくことにより、深まる仲もあるでしょう。それは、家族の間で共有すべきことだから、家族ではない私が参加しないほうが丸く収まると思いますよ。
「そういうものなのかしら? 私には分からないけれど、沢山の人を見てきた職員さんがいうのなら、間違いないんでしょうね」
「百戦錬磨とはいきませんが、見た目の割には相談を頂いていますので。お姉さんのように努力されている方でしたら、まず心配はいらないと思えますよ」
こちらの言うことを全て信じ込まれても困るけれど、ある程度は信用してもらえるように振る舞わなければいけない。そのバランスというのは難しく、時には失敗してしまうこともあるけれど、ある程度の謙遜を見せると、人間というのは口にしている言葉以上の実力があるように思い込んでくれるものらしい。それを悪用するような真似は避けるべきですが、こういった相談事のように信頼されることが前提にある場合については、許して欲しいです。別に、信用してもらったのをいいことに、何か悪いことをしようとしているわけではないのですから。
「そこまで言ってもらえると、自信が出てきたわ。ありがとう、若い職員さん」
「はい。また、何かありましたら、ご利用下さい」
若い職員さんか。まぁ、こんなふうに言われるのはけして悪いことではないよね。最終的にお姉さんの信頼は得られたみたいだし、結果的に問題にはならないのだから。良い対応が出来たと思うことにしましょう。
そんなことを考えていると、お姉さんはすっきりとした顔で窓口から去っていく。うん、本来はこのスタイルが良いんだよね。こちらから出向いていかなければいけない案件なんて、出来る限り避けたいよ。
他の窓口へ回ってもらうよう記載されている札を置きながら、自分の仕事状況を整理する。いくつか報告書を提出する必要があり、それらの作成に取り掛かる時間を確保しなければいけない。内容的には難しいものがなく、そこまでこだわるべきものでもないけれど、楽そうに見える作業ほど誤字脱字など、初歩的なミスを誘ってくるから厄介だ。
それに、そろそろ彼もくる頃でしょう。
「天野さん、よろしければ食堂に行きませんか?」
「あら、既婚者が年下の女性を食事に誘うなんて、梅原さんも隅に置けませんねー」
お昼を知らせるチャイムが鳴る中、外回りから戻ってきた彼が声をかけてくる。その声は弾むこともなく、沈むこともなくフラットで、お薦め文書の結果がどうであったのか、読み辛いもの。相手が老齢で、私達以上に経験を積んでいる今回、一筋縄でいけたとは思えないのですが、それは聞いてからのお楽しみですね。すぐに情報を求めるのは私の悪い癖です。昼食前くらいは控えましょう。
「そんなつもりがないのは、百も承知でしょう? 後、ここでの会話に関しては、結構いろんな人に聞こえるんですから、誤解を招くような発言は、勘弁して下さい。どこからか話が伝わった場合、僕は暫く出勤出来なくなりますよ」
「おやおや、お熱いことで」
梅原さんの家は、奥さんも働きに出ていると聞いた覚えがある。他人に興味を持たず、ほとんどのことを流してきた私が覚えているのは珍しいことだけれど、後輩として後ろをついてきてくれた彼のことくらい、さすがに覚えていないと問題になりますよね? 結構、多くの人に私の頭は心配されているから、ここら辺で出来るところを見せておかないと、室長あたりに病院へ連れて行かれそうで怖い。
まぁ、その覚えている内容が奥さんが厳しいとか、梅原さんは尻に敷かれているとか、そういった割とどうでもいいことばかりだから、何かの役に立つとは思えないのですが、こういったものも雑談の為には必要でしょう?
「食事に誘ったくらいで嫉妬してもらえるのは、奥さんから愛してもらえている証拠ですよね? もっと喜びましょうよ」
食事。それも市役所の食堂で一緒にいる程度で嫉妬されるなんて、人の関係が冷めていると言われる世の中では、中々珍しいのではないでしょうか? そこまで熱心に、相手のことを見ていない夫婦も、存在しているみたいだよ?
「天野さんがどういった方々と比べられているのかは、簡単に予想がつきますが。そういった、相談者さん達を基準にされても困りますよ。僕達の夫婦仲は、いたって普通です」
「普通だと主張していられるのは、幸せな証拠ですよ。その幸せを失わないように、頑張って下さいね」
日常に埋没してしまった宝物に、人間は価値を見い出せなくなってしまう。幸せに慣れてしまった人間は、より大きな幸せを求めてしまう。どうやら梅原さんご夫妻も、この法則的な物からは脱却出来ていないようで安心しました。一般的な夫婦であるのなら、問題が起きるまでに梅原さんが対処法と、防止法を覚えてくれているはずです。
「さて、今日の日替わりランチはなんでしょうね」
「僕の記憶が確かなら、酢豚ですよ。席が埋まってしまう前に行きましょう」
どんな暮らし方をしていても、問題の一つや二つには遭遇してしまう。どれだけ注意をしていたとしても、悩み事は尽きることがない。頑張れば報われる、努力は実ると教えられてきた身にとって、この世界というのは意外なほどに生き辛い。そんな時にふと、息を抜ける場所があるとしたら、私にも存在している価値があるのでしょう。
この世界は残酷だから、私の抱えている問題は解決してくれないし、望んでいるものを与えてくれることもないでしょう。それでも生きていくのをイヤになれないのは、良い人がいることを知ってしまい、微力ながら私でも助けられる存在がいることを知っているからかもしれません。
さて、い厳しい世界の中で生き抜く為にも、まずはお昼ご飯ですね。若林さんの案件についても報告を受けなければいけないし、しっかりと聞きましょう。
踏み出した足。それがどこへ向いていたのだとしても、私の未来はそちらへと広がっていく。
市民の窓でうたた寝を 雨宮由紀 @rasa_panic
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます