第9話 新緑たる宴

 長期案件に登録するの自体は簡単。けれど、長期案件として扱うべき相談事や、非常に面倒な案件なんて、そう簡単に起きるものではない。結局、梅原さんの研修が終わるまでの短い間では、残りの案件はすべて窓口に座ったまま処理することになった。

 最初に関わった長期案件での衝撃が大きかったのもあり、梅原さん自身が長期案件というものに身構えてしまっていたし、私としても失敗した直後に、雑そうな案件を任されても困るけどね。結果的には問題なく日常業務をこなしていきたいという、梅原さんの希望が叶う形になり、相談者からの信頼を得ること、案件を処理することに心血を注いでいるみたい。その働きは随分と積極性に溢れているものらしく、なぜか私の評価にも上乗せされているような話を室長から聞きました。

 ただ、まぁ、やはりというか、そういった話をふられた後で何事もなく終われるはずはなく、同時にこの世の中で自分望んだもののみを引き寄せ続けるのは非常に難しいと理解させられる。面倒ごとは避けたいとアピールをしていても、当然のようにゼロとはいきません。

「天野さん、申し訳ありません。僕の案件をお手伝い頂く形になってしまいまして」

「別に梅原さんが気にすることではないですよ。以前は私が手伝ってもらいましたし、人員の割り振りを決めたのは室長ですから、私が一緒に対応する意味があるのでしょう?」

 熟年離婚に関する相談。梅原さんのところへ舞い込んできた案件を、少ない文字数で説明するとなればこれが妥当なところでしょう。ただし、熟年離婚で長期案件化されることは殆どないはずだから、字面通りで終われるような案件ではないということを、心にとどめておかなければいけない。

 それにしても、以前の長期案件から形を変えているとはいえ、また恋愛絡みだなんて、室長は私をいじめたいだけだったりしない? こういった仕事をしている以上、浮いた話が出てくる可能性はそもそも低いというのに、恋愛経験すらない私が何かの役に立てるのでしょうか? 今回に関しては、正直なところ全く見通しも立ちません。

 どちらかと言えば既婚者である梅原さんが、一人で担当するほうがやりやすいような気がする。私が助けてもらう立場であれば、理屈としては納得出来ますが、私の手が必要になるタイミングがあると、そんなふうには思えませんよ?

「今回の件、室長として何かひかかりを感じるところがあるみたいで、そういったものの解決には、天野さんが適任だと推薦されました。こんな機会でもないと、中々声をかけることもありませんから。お忙しい感じでしたか?」

「忙しいというほどではありませんよ。長期案件に関わるのが分かっていたので、私のところには長引きそうな案件が来ていません。おそらく、室長が手配してくれたんでしょうけれど、昨日はあまりにも暇で、何を使用かなと考えなければいけないレベルでした」

 長引きそうな案件が減るというのは、業務が楽になるので私的には大歓迎なんだけれど、窓口に座っている必要性があるから、それなりには相談を受け付けなければサボっているように見えてしまう。そうなると、相談者からクレームが入ってくる可能性があるから、時間調整で仕事をしているフリをするのも大変なんですよ? そもそも、長引くかどうかが分からないとかいって、相談者の割り振り人数自体を意図的に操作するのは正しい選択肢とは思えない。それくらいなら、窓口に座ることなく資料整理などの裏方に回っている方が私は楽なんですけどね。そもそも、その場で終わってしまうような相談が多いのだから、そこまでして集中させようとする意味が、私には分からない。梅原さんの言う通り何かに警戒をしているのか、それとも全く別の意図があるのか。そこら辺、年齢を重ねたあの顔で隠されると、情報1つ読み取るのにすら時間がかかってしまうというのに。現場に行かずに学べることを探せだなんて――なるほど、これは私の研修ですね。前回は、私が先輩として梅原さんの研修にあたった。結果的には失敗と呼ぶしかないもので、私自身も痛い目を見たから以前よりも慎重に相談者の話を聞くようにしている。マニュアル通りの対応で何かがあった時、僅かとはいえ私からも失われるものがあることを学べた。

 今回の熟年離婚というのは、正直想像すらできない心境の中で決められるものでしょう。相手の立場に立って考えるのが、相談を受け付ける時の基本だなんていうけれど、私たちは相手を選べない立場にいるのだから。時には無理矢理にでも、厳しい条件の中に放り込まなければ、成長しないと考えられても仕方がない。苦労は買ってでもしろなんてことわざを、真顔で言い切る人だから。深く考えない方が、私の精神衛生上は良いのかな?

 室長の望んでいる形になるかは分からないけれど、私がやるべきことは一つ。今回の案件を持ち込んだ相談者を知ることと、相手となるであろう奥さんのことを知ること。そして、その周りにいるであろう家族のことを知らなければ、何かを判断したり言葉を発することさえ難しいでしょう。

 つまりは、梅原さんと打ち合わせをして、情報を集めるのが必要だということ。

「案件についての資料は、現時点で可能な限りをまとめてあります。天野さんが良ければ、すぐにでも打ち合わせに入りたいのですが、如何でしょうか?」

 それにしても、梅原さんは相変わらず硬い。ウチの部署にきてそれなりの時間が経っているのだから、もう少し柔らかい感じになってくれても良いと思いますが。

「打ち合わせを始めることについて、問題はありません。ただ、もう少し砕けた喋り方になったりしませんか? 前回の時は、私が教育係みたいな立場だったので仕方ないとして、今回は梅原さんがメインです。それに、私の方が年下ですよ?」

 丁寧な態度というのは良いものですが、いつまでも他人行儀に感じてしまうような、溝を作るような喋り方をされていると、どこまで近寄っていいのかが分からなくなってしまう。何より、年齢のことを考えると今のままの喋り方では、なんだか私が偉そうで居心地が悪いです。

「ほかの皆さんにも言われるんですけど、これが中々難しくて」

「そうですか、梅原さん自身も努力されているんですね。まぁ、そのままで問題があるというわけでもありませんし、私のようになれなれしく喋っているわけでもありませんから。無理にどうこうして欲しいとまでは言えませんね。ただ、余計なお世話だと思いますが、砕けた雰囲気の演出が出来るというのも、何かと便利なので気が向けば挑戦して下さい」

 いつまでも敬語を使われていると、仲良くなるのが難しいと感じてしまう。そういった心理的な効果が人間には存在してしまうらしい。心の距離が遠いと感じてしまった場合、溝があると感じてしまった分だけ、苦手意識のようなものを抱いてしまう。もちろん、初対面からタメ口であったり、えらそうな口調で喋っている人間よりは好感度が高いけれど、分かりにくい人と警戒されてしまう可能性があります。丁寧であれば、全てが良いと言えるものではありません。梅原さんの場合は、誠実そうな人というイメージ以外を相手に与える為には、それなりに努力してもらう必要があるでしょう。そのままでは、キャラクター性が弱く、時間がたてば役所の人間だという要素が大きくなり、冷たい人かもしれないと苦手意識を持たれてしまう可能性も捨て切れません。

 私が補足するとなると、プラスに傾きそうな材料を持ち合わせていないから、梅原さん自身に努力してもらうしかありません。定時退社を望む公務員らしさとか、エリート街道に戻る為に他の部署への移動を望んでいるとか、隠し続けているほうが良いでしょう。表に出したところで、愛嬌だと受け取ってもらうのは難しいと思います。

 もちろん、今口にしたことでさえセミナーで聞いた内容であり、どこかの本に載っていた情報でしかありません。私の経験したものではありませんから、詳細を伝えるのは難しいですが。

「僕としても、もう少し距離をつめられるような話し方に変えたいんですけど、簡単にはいきませんね。今までの話し方というものもありますし、砕けた話し方をしようにもバランスをとるのが難しくて。どれくらいなら、失礼にならない話し方なんでしょうか?」

 喋り方に悩んだりするのは、私みたいな人間くらいだと思っていましたが、梅原さんでもそういったことについて悩んだりするものなんですね。この部署からの移動を願っている今までの人達みたいに、仲良くしないという選択の為に意図的にやっている部分があると思っていたのに。なにか、心境の変化でもあったのでしょうか? それとも、いる間だけでも仲良くしようという考え方でしょうか?

 どちらにしても、マイナス思考で動いている感じはしないし。なんだろう、私と一緒に仕事をしない方が、人間的にいい方向へと向かう気がしますよ? その内、爪の垢でも煎じて飲まされそうでイヤですね。

「そんなに驚かなくても良いと思うのですが。この部署の仕事も、存外悪いものではないと思いまして。移動したいという気持ち自体に変わりはありませんが、悩みを聞くというのも悪くはないですね。なんだか、公共の仕事に携わっているという気持ちになれます」

「心境の変化として良い方向へ向かわれているみたいですね。なんだか、私としても嬉しいです」

 梅原さんは年上の男性だ、私よりもずっと人生経験を積んでいる。そんな人が選んだことなのだから、私のような小娘が口を出してみたり、無闇に踏み込んで尋ねるようなことをするのは失礼にあたるでしょう。

「正直なことを言ってしまえば、変わっていないところもあります。良いことばかりではなく、嫌になることも多いです? どうしてこんな話を聞かなければいけないのかと、怒りそうになることもありますし、相談者の言っていることが全く理解出来ないレベルだったりすることもありますね」

「人間という不安定なものを経由して物事を知ろうとすれば、どうしてもそういった一面にはぶつかりますよ。感情が入っていない報告書で受け付ければ多少は改善されるかもしれませんが、それでは窓口の意味がなくなってしまいますからね? 問題があると感じて、話を聞いて欲しいと思ったから、相談者は窓口にきます」

 分かりきっていることでも、再確認は大切。無意味な希望は夢物語と変わらず、目指せるものでないのなら足かせにすらなりえる。また、どれだけ願ったとしても、冷静に案件を見つめているような相談者はいないし、それが現実です。極稀に、冷静に見ているように話している人もいるけれど、それは冷静な状態ではない。諦めているだけで、解決しようとするなら丸投げされてしまうことだって、珍しくもないですよ。私のサポートとしていた頃は、そういった案件に遭遇することはなかった。冷め切っている相談者にあたった場合は、案件がややこしくなることが多く、一人で処理をするのは大変です。仮に、このタイミングで梅原さんへそういた案件が持ち込まれた場合、誰かを補助につけなければ対応は難しいでしょう。

 ただ、年齢とともに巧妙なやり方を覚えた、年配の相談者が冷静な目で案件を見ていた場合、それ以上に厄介な相談となります。

 例えば、熟年離婚などの場合、退職金や財産の分割方法で揉めることは多い。その時に、相手への怒りという熱があってみたり、感情的になっていて相談に来てくれたりすれば、膨大な情報がもたらされる代わりに、分類と整頓さえしてしまえば、対応が出来る。

 それとは反対に、冷静な状態の相談者であった場合、作為的にこちらへ提示される情報が絞られている危険性があります。知りたい情報には手が届かず、もたらされる情報は相談者にとって有利な状況を作り出すものばかり。この場合、相手方となる奥さん等に面談が叶うのであれば、まだ対応が出来るかもしれないけれど、窓口のみで解決するような流れになった場合、我々としては割合が不都合がないように、暮らしていくのに問題がない金額となるように、調整を進める程度しか話せることがなくなってしまう。つまり、相手のやり方次第では、問題の本質となっている部分にたどり着くことさえ出来なくなる、厄介な案件へと早変わりします。

 もっとも、相談窓口に過ぎない我々の発言は、なんの強制力も持ちません。あくまで調整をお願いしてみたり、促してみたりということしか出来ない性質上、非常に弱い存在です。だからこそ、愚痴を聞くのがメインの業務のように扱われてしまい、案件として処理をしようとすれば驚かれることもある。ただし、愚痴を聞いているだけで全てが解決されるのであれば、楽な仕事ですけどね。青果物を求められることもなく、営業成績的なノルマがあるわけでもないのだから。

「天野さん、長考されているところ申し訳ないのですが、打ち合わせに戻ってもよろしいでしょうか?」

「そのですね、んというか。今回の案件って、熟年離婚でしたよね? 相談者の年齢は七十くらいでしょうか?」

「はい、その通りです。とても落ち着いた感じの男性でした」

 うん、なんか面倒なことになりそうな感じがします。いや、面倒ごとになりそうな予感しかしません。室長が私を選んだのは、離婚という縁切り関係だとか、男女の問題だからペアにしたいとか、そういったところではないですね? 相手の言葉を信じそうになくて、吐き出された言葉を疑い続けられて、そういったことに苦手意識を持っていなさそうな、図太い人間を選んだだけでしょ。

 頼りにされていると考えれば、多少の恩返しも含めて良い感じではありますが、出来ることなら面倒な案件は避けて欲しかったですよ。

「天野さんが警戒されていること、僕もそれなりには理解しているつもりです。正直なところ、話を聞いていると相談をされているというよりも、意見を補強する為に助言をして欲しいと言っているようにしか感じられなくて、こちらの話をまともに取り合うつもりはないように感じられました」

「そうなると、慰謝料という形で支払われる金額も妥当で、奥さんがこれから先を一人で生きていくことが可能な状レベルということでよろしいですか?」

「ええ。そこについても聞いている限りでは随分と、奥さんの為に離婚を選んでいるような、自ら損を取ろうとしているようにしか聞こえないんですよ」

「そうですか。それの全てが計算の上でのことなら、笑えるくらいにややこしい案件になりそうですね」

 相談者についての情報程度しか読んでいないような、やる気のなさだったから、案件としての内容はまだまだ頭に入っていない。報告書という様式である以上、どうしようもないのだけれど、読んでいて楽しいものではないから。自分の仕事を優先してしまいました。

「興味が出てきましたので、報告書の中身を再確認します。五分ほどもらっても良いですか?」

「……室長に言われていましたが、天野さん興味のないことに対しては、何もしないんですね」

「そこまで酷くないとは思いたいですが、人間なんてこんなものでしょう? 珍しい話ではないはずです」

 相談者は若林次郎さん。今年で七十になろうかという、人生の大先輩。先ほどの会話の流れとして、もしも情報が絞られている状態なら、手ごわい相手となるでしょう。彼が望んでいる本当のことが何か、それを見つけられなければ利用されるだけで終わってしまいます。

 内容としては、熟年離婚についての相談と有料老人ホームの紹介。

 んー、離婚した後の居住のことまで考えているだなんて、自分は家に残るつもりでしょうか? いや、その受け取り方は危険ですね。ここに書いてあるのは、若林さんが口にした内容を、梅原さんがまとめているに過ぎない。そのままで受け取るのも、ここに私の感想を付け加えるのも、その両方が真実を隠してしまう。

 そうなると、私に出来るのは一通り目を通して、直接会話をしている梅原さんを質問攻めにすることくらいかな? その時に、話題が転がってしまわないように、意味のない情報に気を捕らわれないよう構えておく必要がありますね。そして、梅原さんがどこまでの話を信じているのか、どの程度疑っているのか、そこについても聞いておきましょう。

「ありがとうございます。一通り目を通しましたので、質問しても良いですか?」

「早いですね。まだ3分程度しかたってませんよ?」

「こういった報告書は概要を掴む程度に留めるべきです、詳細な情報は文章よりも口頭の方が分かりやすいことが多く、またあまり細かいところまで把握してつもりになっていると、先入観を持ってしまいますからね」

 梅原さんの文章作成能力が飛びぬけて高く、何も知らない人にもその場を明確に想像させられるようなものであるなら、読み込むべきだと思いますよ? 端から端までをしっかりと理解して、その上で打ち合わせをしたほうが、効率的だと言えるでしょう。

 しかし、梅原さんの文章がそのレベルに達しているのであれば、軽く読んだだけでも違いは判るだろうし、それが私に伝わってこなかったということは、梅原さんの文章作成能力には特に光るものはなく、一般的な報告書の域を出ないものだと、理解することが出来ます。つまりのところ、報告書を読むよりも、直接的に話をした方が早いということですよ。

「今回の件で対応にあたるのは、梅原さんと私の2人でしかないけれど、極力多方面からの見方をしたほうが良いように感じます。だから、ちょっと変わった方法を低愛させて欲しいのですが。打ち合わせ、2時間くらいになっても平気ですか?」

「僕の方は問題ありません。この案件が終わるまで、窓口に座ることはないように室長に言われましたから」

「室長、イヤな力の入れようですね。そんなに心配なら、自分で担当しすればいいのに」

 相談室と略されるこの部署は、けして人数が多いわけではない。役割的にも増員する理由はなく、基本的には市役所内での窓際部署的な扱いとなっている。言ってしまえば、忙しい場所ではないけれど人員的な余裕があるほどではないという、どこにでもある慢性的な人員不足。そこから梅原さんを切り離してしまうだなんて、この案件にはそれほどの意味があるのだろうか? 書かれていないだけで、お偉いさんだったりしたら更に面倒ですよ。

「指示として下っている内容としては、対応に使える期間が短いけど。まさかこの案件、話をこの場でまとめて、市役所としてのおすすめ内容を渡すだけとか言った、そんな対応方法だったりしませんか?」

 長期案件に分類された上で、面倒なのがこの対応方法を指示された場合。基本的には相手方への面談を、正当な理由を下に時に使用される様式。相談内容に関する報告書のみをあてにし、そこにある情報だけで対応策を立てなければいけない。設定されている対応期間も短く、ある程度のところで見切りをつけるしかないから、的外れな解決策を提示することも少なくない。個人的には出来る限り避けたい方法だよ?

「いえ、その対応方法を取るように、書類報告による推奨に留めるよう指示が出ていますね」

「げっ、面倒な案件を、面倒な方法でどうにかしろなんて。私、何か怒らせるようなことしたかな? これ、根本的には解決するつもりはないでしょ」

 解決するつもりがあるのなら、情報を集めなければいけない。それを分析しようとするのなら、時間をかけるしかない。大げさなほどの経費が、その案件に消費されるから室長が良い顔をしないもの分かるけれど。それだけで納得しろというのは、難しいよ。

「放置しても命の危険があるわけではなく、長い時間を一緒に歩んだ間柄。そこに、下手な口出しをしないほうが良いだろうって、そんなことを言われました」

「もっともらしいことを並べられても、何のプラスにもならないですよ。指示されている以上は、書類に収めるようにするけれど。梅原さん、これ解決すると思わない方が良いですよ」

 解決策を提示するのではなく、推奨事項としてお知らせするだけ。いつも以上に強制力がなく、即座にゴミ箱に捨てられてしまう可能性もあるような、そんな書類。この部署の弱さが、如実に表れてしまう対応方法です。5日間と締め切りを設けられているけれど、妥当過ぎてイラっとする。打ち合わせをして、書類に情報を落とし込んでいるだけで、見事に消化されてしまう日数。

「どちらにしても、この件について、天野さんのおっしゃっていた変わった方法というのはなんですか? 打ち合わせ自体に時間をかけるように感じましたが」

「そうなりますね。短期間で感情面の情報を集めるために、簡単なロールプレイングをします」

 私の試したい方法は、こういった会議の場などでやることについて、推奨出来るものではない。。参加人数が多かった場合には、暗礁に乗り上げてしまう可能性が高くなってしまうし、何の成果も得られないような結果になることさえ、珍しくもない。

 けれど少人数で実施した場合には、意見を搾り出す為の努力が必要で。慣れていない状態だと遅々として話が進まなくなる、危険性を秘めている。

「まず最初はこの案件に対して、自分自身の意見を述べて下さい。その後、可能な限りで反対側の意見、つまり対立する意見を持つ人になりきって、弁解するかのように会議を進めます」

「なるほど。実際の人数よりも多い視点を求めようというわけですね。中々難しそうではありますが、今回は有用そうですね」

「はい、特に今回の場合は若林次郎さんという特定の人物、相談者がいるので、そこについても考慮していきましょう。ここに書かれている若林さんの意見を、全て肯定する為に主張を考えてみるのもありでしょう」

 梅原さんの意見と、私の意見、そして若林さんを肯定する為の意見。それぞれをを出した上で議論すれば、少しは多角的な見方が出来るかもしれない。そういった手順すら省略したいのであれば、対応マニュアルでも読み返して、その中から役に立ちそうな部分を引用し、報告書にまとめてしまうほうが時間もかからず、また相手も諦めがつくような内容になるでしょう。

 仮にマニュアル通りにやったとしても相手を否定する形にはなりませんから、お役所仕事だとクレームを言われることはあっても、その程度で終りでしょう。もとより強制力のない文書ですから、気に入らなければ捨ててしまえば良いだけです。

「それでは各意見を出す為にも、現状の整理と報告書に記載されている内容の再確認をしましょう」

 意見というのは、同じ場所をスタート地点として始まっていなければ、討論には使えません。一定のルールの中に収めなければ、意味のない時間が過ぎ去るだけです。終わりをどこまでで見るか、何につなげる為の意見を出すか、そういったところでこそ差をつけるべきなのだから、最初は揃えましょう。

 ただ、ここをズラすことによって、別の意見を呼び起こしてみたり、論ずる視点自体を切り替える手法もありますが、今回のような少人数でやる場合、提案した側である程度コントロールしてしまう恐れがあるから、試み自体に意味がなくなってしまうことがある。

「若林さんの話によると、今回の離婚についてのマイナス要素というのは、表立っては存在しないと。お見合いによる結婚だったこと、夫婦仲が悪くはない程度であること、子供が独り立ちしていること。主にこの3つを理由にして、離婚という考えに至ったようですね」

「はい、僕もその認識です。会話としては、今まで頑張ってくれた奥さんを自由にしてあげたいとか、離婚により息子夫婦を呼び戻す話もしているみたいで、お孫さんと一緒に暮らせるのはプラスだろうと話されていましたね」

「その話し方だと老人ホームへは、自分が入所するつもりのようですね。家を守ってきたのは妻だと……この報告書の通りだとすれば、随分と人のいい旦那さんにしか思えませんが、室長が警戒しているのならそれだけではなさそうですが、表面上だけでも上手く取り繕っているのなら、離婚の話を持ち出したとしても奥さんが受け入れてくれるでしょうか? ここまで良い旦那さんなら、離れるのを嫌がりそうですね」

 夫婦仲が冷めてしまっているのなら、子供が成人した時点で離婚する話も聞いたことがある。この場合は子供がいるからと、子供の為にと離婚していないパターンで、仮面夫婦のような生活を送っている、冷たい家庭も少なくない。責任の取り方の一つだと見るのなら、納得は出来ます。

 しかし、今回はそこまででの話ではないようですね。夫婦仲は良いとは言えないが、悪いとも言えないずっと平坦な状態。熱が入ったタイミングがないというのは残念な感じもするけれど、当人達にとってみればそちらの方が暮らしやすいのかもしれので、私が口を出せるようなものでもない。いつまでも仲睦まじくいられるのが理想かもしれないけれど、そう見ているのは外に位置している私なのだから、現実は甘くないのでしょう。

 奥さんに対しても追い出すようなことをするつもりはなく、出ていくのは自分だと言っているみたいだし、自分がいなくなった後については、息子夫婦へ実家へ戻ることを打診しているようだ。市の職員に喋るくらいなので既に話はしていると見て良いでしょう。

 報告書の内容と梅原さんから聞いていることから推測すると、若林さんは相談してから行動するタイプではなく、行動をしてから考えるタイプである可能性が高い。尖った意見を持ってしまった場合には危険だけど、そうでない場合は頼りになるので説得力を持ってしまう。

「奥さんへ話は既にされていて、納得はしてもらえているということでした。それが本心からのものかどうか僕にはわかりませんが、熟年のご夫婦がすでに決められたことと言われては、口出しは出来ません」

「そういったところについては、直接言及しないのが正解ですよ。私達が口を挟んでも過程が変わることはなく、夫婦の問題だからと聞き入れてもらえないでしょうね。仮に口を挟むとなれば、その場に立ち会う以外に手段はないと思いますよ」

 そこについては、どれだけ尋ねたとしても私達の方へと情報が漏れてくることはないでしょう。閉ざされてしまった情報を求める場合、奥さんや息子夫婦への面談を試みるしかなく、それが禁止されている以上どうしようもないというのが現実です。このもどかしさを抱えたまま、文書を作るしか道はありません。

「ところで、梅原さんとしてはどうですか? 若林さんの話した内容、やり方について直したほうが良いと、そう感じるところはありますか? または、分からないところがあれば、推測にはなりますが私なりの見解をお伝えしますよ」

 文書へとまとめるために、まずは梅原さんの意見を聞きましょう。その後で、他の意見を出していけば良い。

「離婚という結果を変えるのは無理だと感じますし、他の部分にしても問題があるようには感じていません。ただ、今のタイミングで離婚しようとしているのは、正直なところよく分からないですね。お子さんの独り立ちどころか、お孫さんがいらっしゃる状態ですから。今更離婚してどうするのかと、気になりますね」

「お孫さんがいる状態を考えるのであれば、離婚という選択肢に踏み切った時期として、今を選んだことに疑問が残るりますね……梅原さん、いいところに注目されている可能性がありますよ」

 離婚の時期。なるほど、そこに疑問を感じたのは、重要かもしれません。離婚語の生活という当面の問題に注目が集まる為、言葉を弄さずに隠すことが出来ます。見逃す形で隠れてしまうもの、そこに意味があるとするのなら? 若林さんが、人生の大先輩が隠そうとしたものがそこにあったとしても、不思議はない。もちろん、勘違いだという可能性を捨てることは出来ませんが、切り口としては面白いです。思案するためのポイントとしては十分でしょう。

「離婚の時期、そこを問題点としてスタートしましょうか。梅原さんとしては、今離婚しようとしていることについて、どんな理由があると思いますか? それを解決する為に、離婚という手段を取る利点を考えてみて下さい」

 この場に若林さんがいない以上、どれだけ正解に迫っていたとしても、私達の出すものは推測でしかない。理由が間違っているかもしれないし、きっかっけが間違っているかもしれない、推測した内容自体が全くの外れで、隠そうとしていると見た離婚時期については、何も理由がないかもしれません。

 けれど、そんなものに怯えて考えるのを止めてしまうのなら、この打ち合わせ自体に意味がなくなってしまう。私達がいる、窓口に相談が持ち込まれたこと自体に、意味がなくなってしまう。だから、私達の口から停止の言葉を発してしまうのだけは、避けましょう。

 これもまた面倒ではありますが、存在理由を確かめるのも必要なことです。

「そうですね。例えばですけど、家から出たい理由が出来た、奥さんの傍から離れたい理由が出来たというのはどうでしょう?」

「理由について、具体的なものは思いつくかい?」

 理由は具体的でなければいけない。今後の梅原さんの意見を基準として展開されるのだから。曖昧なまま放置しては先に進むのが難しくなります。

「具体的にですか? 中々難しいですね」

 難しいのは当然ですよ。私達は若林さんでない以上、それなりに説得力を持たせられそうなものを想像し、話にまとめる必要があります。物語を1つ作らなければいけないのですから、小説家でもなく脚本家でもない私達にとって、難しく感じられるのは不思議なことではありませんよ。

 けれど、難しいからと言って投げてしまうようであれば、意味がありませんから気をつけて下さい。外れても問題にはなりませんが、少しでも正解だと思えるものを引き当てられるように、しっかりと探しましょう。

「年齢的にどうかと思いますが、浮気でしょうか? 離婚すれば縛りはなくなります。そして、家から出てしまうのであれば、奥さんの面倒を見ている息子夫婦に干渉される心配も減るのではないでしょうか?」

「それは、この前の長期案件から安直に借りてきていませんか?」

「否定は出来ません。ただ、理由としてはそれなりの説得力を持たせながら、成り立つんじゃないでしょうか」

 年齢的なところについての疑問は残るけれど、離婚の原因となるものとしては浮気は珍しいものでない。それ自体は事実ですね。梅原さんの言う通り、問題のない形にしてしまい、その上で干渉してきそうな家族を止めることも出来るのから、説得力はありますね。多少強引に見えるような手段を取ったとしても、関係の清算が終わっているのであれば誰も口を出せなくなってしまいます。

 浮気という動機自体は安直なものではあるけれど、説得力としては十分だ。

「それにしても、梅原さんがそんな黒い理由を最初にもってくるとは思いませんでしたよ。窓口の担当者、同僚としては阿野も強い話ですが、人間性が歪まないように気をつけて下さいね?」

 離婚に浮気。既婚者がこの言葉を口にするのは、演技のいいものではありません。他人事であったとしても、梅原さんには関わって欲しくなかった。真っ直ぐに伸びている木ほど、一度歪んでしまえば元の形に戻れなくなる。

「この程度では歪みません。余程、無意味な愚痴を聞いているほうが、心根を折られてしまいますよ」

「別に気合を入れるほどのことではないでしょう? 分かっているとは思いますが、梅原さんが歪んでしまうと周りにも影響が出ます。その事実を忘れないで下さい」

 家族がいない、友人もいない。そんな私には八つ当たりをする相手もいないし、少々歪んだところで迷惑をかけるのは職員くらいなもの。そこまで気を使わなきゃいけない相手はおらず、それが原因で別れたとしても大した仲ではないけれど、梅原さんはそうもいかないの。今ある人間関係を壊さないためにも、ほどほどの関わり方にしておいて欲しいものです。

「心配いただきありがとうございます。さぁ、天野さんの意見を聞かせて下さい。僕以上に歪んでいるという自負があるのなら、バッチリ当てて下さいね」

「そんなに期待されても困りますが、先輩としての意地くらいは見せましょう」

 ここで見事に当たったとしても、何も自慢にはなりません。所詮は推測でしかなく、当たったところで若林さんの行動を変えられるような効力もないでしょう。こちらの意見を、アドバイスに上手く混ぜ込めるかどうかは、また別の能力を求められる話になりますし、実践してくれるかどうかに関しては完全に相手任せになりますからね。

 だからといって逃げたりはしませんよ? ここで推測するのが私達の仕事ですから。

「私も年齢という観点から、病気を理由に挙げましょう。奥さんに重たい病気の前兆が見られるから、残りの余生を自由に、自分の為に使いたいから、介護を息子夫婦に任せて自分は老人ホームに入る。これで、どうでしょうか?」

 奥さんから離れたいという部分については、梅原さんに近いものがある。けれど、こちらはマイナス要素しかなく、逃げ出す為の理由に使っている。介護に関しては、子供に押し付けるような形になるけれど、長男であれば拒否することは難しでしょう。打診というのも、逃げられなくする為の手段だと考えれば、自分が望んでいる未来に向かって不安要素が減ることになる。

「病気ですか。確かに、年を重ねるほどにリスクは高まりますし、介護というのも難しくなってくるでしょう。天野さんの話であれば、息子夫婦を呼び戻す理由も、自分が老人ホームに入る理由にもなりますね。なるほど、いくつも出てきている要素に説得力を持たせる感じですね」

「新しく作り出すよりも、既に用意されているものから説得力を借りてくる、それが私の意見です。このやり方には、無理矢理にこじつけた感じになってしまうのを、減らすことが出来ます。相手が用意しているものばかりを使用するので、まるで正解であるかのように喋ることも難しくはありませんよ」

 場に出ているカードを崩すこともなく、無視することもなく。あり方を補強するような形で物語を組み立てていけば、説得力は後からついてきてくれる。要素を分解していくほどに、自分の意見が本物に近づいているように感じる。

 ただし、忘れてはいけないことがあります。これはポーズでしかなく、どれだけ真実味をもって話していたとしても、推測した結果でしかないことに変わりはない。その点では、梅原さんの意見と対比させる必要はあるけれど、それは重さを量るためのものではありませんね。意見をぶつけ合うことでしか推測出来ないからであり、その結果をまとめる必要があるからやっているだけです。

「天野さんの意見が正解のように感じられてしまって、次の意見を探すのが難しそうなんですね」

「そんなことはありませんよ。どれだけ説得力を持っているように感じていたとしても、この意見だって推測の域を出ないものです。病気と言っても幅は大きいですよ。ガンや鬱、健忘症など多様にあるので、その中からも推測する必要があります。その上で、本来の見るべきものからは大きく外れている可能性を、忘れないようにする必要があります」

「なんだか、常に推測であることを忘れないようにしなければいけないって、ちょっと残念ですね。どんな意見も嘘であるかのように聞こえてしまいます」

「仕方のないことですよ。それに例え面談することが可能だったとしても、私達の中にある意見はいつまでも推測でしかありません。だから数を用意して、少しでも説得力を持たせて、安心感や安定感を求めて下さい」

 真実は当事者にならない限り分かりません。話している内容は真実でない可能性があると、梅原さんも知っているはずですよ。安心感に惑わされているようでは、まだ甘いです

「さて、私達の意見が軽く出てきたところで、若林さんの意見はどうしますか? 梅原さん出してみませんか?」

 私達の意見もまだまだ軽過ぎて何にも使えないけれど、ネタを全て場に出してしまうのは有用だから。今回に関しては、全ての意見をそろえた上で煮詰めていきましょう。少し遠回りになる可能がありますが、逃すことなく拾っていく為には、あまり固め過ぎないことも重要です。

次に必要なのは若林さんの意見を肯定する形で、喋っていた肯定するための推測。これについては、既に出ている2つとは全く別の形で考えなければいけません。今までのものは、報告書にある内容をつなげていくことによって、若林さんが最終的に求めているもの、手にしたいと思っているものを探すことを推測していた。だから、辿り着いた先が離婚や病気といった、単語として比較的分かりやすいものとなっているのが状況証拠として出てしまう。

 けれど、肯定するための推測というものは、辿り着く先ではなく根となる部分を探すことになる。言葉を疑うことなく、増やすことによって探す。例えば、現在の私達は離婚する時期について疑っているが、今の時期である理由を見つけようとしなければいけない。情報が絞られている状態で、今ある情報を肯定しなければ意味がないので、骨が折れる作業になるでしょう。

 結構悩んでいる感じですが、気軽に薦めて良いものではなかったのでしょうか?

 今回、相手にしなければいけないのは、感情を表に出さないタイプであり、人生経験を私よりもはるかに積んでいる相手です。言葉遊び程度に端っこを持ち上げて、二つほどの理由を推測を出しただけの私達に探せるでしょうか?

 頭の運動としては中々面白いので、気負い過ぎることなく探して欲しいものです。

「再々の確認になってしまいますが、今回の件に関して若林さんの目的は、第一に離婚を成立させること、第二に自分は老人ホームに入ること。それぞれについての理由もありますが、理由として述べられているもの、お聞きしたものは補強材料程度に使わせていただくことにします」

 離婚を成立させること。確かに、それが成立しなければ、老人ホームへ入ろうとしている第二の目的を果たすことも難しくなりますね。若林さん自身が口にしている目的は、あくまでこの2つでしかなく、他は全て奥さんへ贈ろうとしているものを説明しているに過ぎません。

 うん、今までとは違う形で案件に取り組もうとしているのを、言葉にすることで分かりやすくした感じですね。良い感じなんじゃないかな?

「離婚をするにあたって、まず世間体として最初に気にしなければならないのは、奥さんに渡すことになる金銭的なものでしょう。問題を起こしているわけでもないのなら、慰謝料という形をとる必要性はないでしょうから、単純に財産分与という形にして、家屋を含める形で半分と。これなら、奥さんも当面の生活の上で困ることもないでしょうし、若林さん自身が非難されることもないでしょう」

「そうですね。具体的な金額が分からないので、どの程度の暮らしが約束されるかは不明ですが。仮にそうだったとしても、半分を渡すとなれば梅原さんの言うとおり非難されることもないでしょうから、安心ですね。そういった意味合いでは、自らが出ていく形で老人ホームへ入り、奥さんへ家屋を残しているというのは自己犠牲と見ることも可能で、息子夫婦が帰ってきやすい環境を残したとも取れます」

 第二の目的ともいえる、老人ホームへの入居。これに関しては、入居先を探してほしいと言っているところから、特別に希望する施設があるというわけではないみたいで、息子夫婦を呼べるように家屋を残しているのは、ただの親切心にしか見えません。私としては、息子夫婦が戻ってこなければならない状況への、念押しだと見ているけれどこれについて、今のタイミングでは口にすべきことではないですね。若林さんの意見を肯定しなければ意味がないのですから、梅原さんの感性にお任せしましょう。

「ただ、そこについては若干気になるところがあるのですが。今はそれについては考えないことにします。否定や疑惑の目を向けるのなら、4つめの意見として扱う方がこの場合は正しいですよね?」

「はい、梅原さんのやりかたで合っていますよ。今の視点で見つけるべきこと以外は、他の視点として考え直した方が、より精度の高い推測が可能になる。少なくとも、可能性段階のものをつぶさないようにするのは大切だね」

 なんだか、心配したのが申し訳なるくらい、あっさりと始めてしまいましたね。もしかして、梅原さんってこういったの得意なんでしょうか? 仮にそうなのだとしたら、本当に私の研修目的で組まれた案件かもしれませんね。梅原さんのやり方をしっかりと見ておかないと、笑われてしまいますね。

「ありがとうございます。ただ、素直にそのままを信用してしまうと、ここで話が終わってしまいますね。若林さんは良い人で、奥さんへの自由をプレゼントしたかったと。それだけになってしまうのですが、良いのでしょうか?」

「見つけるべきものが見えていますので、目的は達成出来たと考えて良いと思います。新しく意見を出す必要はないのですから」

 三つめの視点、意見を見つけるのが目的です。釈然としないものもあるでしょうが、三つ目の意見というのはそのままですから、何も分かっていないような気持ちになってしまいますね。

「さて、三つ目の意見は出し終わりましたので、四つ目について考えましょうか」

「そうですね。家屋を譲り渡す理由ですが――これについては、天野さんが述べられている2つ目の意見に含まれていると僕は見ます」

「なるほど、梅原さんとしては家屋については、離婚を問題なく成立させるための手段だと、そう見るわけですね」

 では、ここら辺で先輩としての意地を見せましょう。手段にしか見えないそれを、目的に絡めるというのも大切なことですから。

「ただ、意見としてみるのが大切なこういった場では、少々強引でも成立させてしまった方が良いですよ?」

「言われていることは分かるのですが、財産的な扱いでしかない、引き渡す財産の一部である家屋を、どうやって目的と見るんですか?」

 二つ目の手段に含まれてしまっているのは事実だし、三つ目の手段にも含まれてしまっている。だからといって、それが目的にならないと決めつけるにはまだ早いよ。

「条件付きの金銭だとか、財産の一部でしかないとか、そういった見方をするのは良くないですよ。住宅というのは、本当にそれだけの存在ですか? 特に、今まで自分が住んできた家を手放そうとする、いや手放したいと思うのはどんな時でしょうか? どういったマイナス要素があれば家を手放そうと思うか、しっかり考えて下さい」

「僕は賃貸暮らしなので、持ち家というのが感覚的には分かりませんが。そうですね、住めなくなるほどに古くなったとか、傷んでしまったとなると手放そうとするでしょうか」

「私にも感覚的なものは分かりませんよ? けれど、若林さんの年齢を考えれば、既に結構な年数が経過していると思います。住宅というのは、雨漏り等があったりすると意外なほどに耐用年数が短くなりますからね。仮の話だけど、白アリが住み着いていたりする場合、適切なタイミングで処理出来ていなければかなり危険な状態になると聞きま。建築には詳しくありませんが、大黒柱が腐ったりしている場合は、長期的に住み続けるのは難しいように感じます」

「なるほど、修理代があまりにもかかり過ぎるとなれば、移住先を探す方が賢いかもしれませんね。奥さんに名義を書き換えて、息子夫婦が住んでいるとなれば、若林さん自身が何らかの責任を追及されたとしても、実際に費用をねん出するのは在住されている方々になるでしょう」

「どうですか? こうして考えていくと手段も目的になると思いませんか もちろん、それだけが目的だと見るのは難しいでしょうが、目的の内の一つとして見るのは不可能ではないよ」

 他人を疑うというのは、楽しい作業ではありません。出来ることなら疑うなんてことをしたくないし、無条件に信じ込んで大丈夫なのであれば、信じてしまいたいものだけれど、私としてはどちらかといえば無条件に人を疑う癖があるから。他人の口から出てきた言葉の、半分以上が嘘だと思っているから。そうそう簡単に、言葉を飲み込めない。

 面倒になりそうなものを面白いと言い、ややこしくなりそうなことを面白いと言い、厳しい状態になるのを面白いと言える。そんな天邪鬼も仕事によっては役に立つんですよ。ものは使いようって言うでしょ? 私でも役に立つタイミングがあるんだよ。

「なるほど……しかし、これらをどのようにして文章にまとめましょうか。恥ずかしながら、僕は文章の構成等に至っては完全な素人ですから、どうまとめれば良いのかが分かりません」

「私もあてになる程ではありませんが、二人で考えましょう。そもそも今取り出した意見を基にして、どうするべきかのお薦めを作らなければいけませんから」

 今回の案件において、本題はここからとも言えるでしょう。ノートに書き散らし、取り出した4つの意見。それらを踏まえた状態で、若林さんに納得してもらえる提案をしなければ意味がないのですから。中々骨の折れる作業ですよ。有料老人ホームの紹介については、時期未定の状態で斡旋は難しいので、ご案内程度ですね。そして、日程が固まってきたところで、再度窓口へきてもらって斡旋するという形になるでしょう。

「天野さん、書類まで手伝ってくれるんですね」

「書いてみると分かりますが、これだけでは意見としては不足していますよ。曖昧な形で留めているものもありますから、煮詰めながら文章にして、それを修正する形で書き上げましょう」

 まったく、室長も面倒な仕事をくれたものだよ。相手が納得する文書を作るというのは、難しい。それなのに、梅原さんは簡単に捉えているきらいがある。このまま私が離れてしまえば、提案書が完成するまでに期日を越えてしまい、私も一緒に怒られることになるでしょう。それはイヤです。

 口頭での報告であれば、その場での修正も出来るし、追加も出来るというのに、文章というのは面倒ですね。私に至っては、会ったことすらない相手に向かって、お薦めの文章を作るお手伝いをしなければならないわけで。頭が痛くなりそうです。なるほど、他の仕事を抱えたままやるには難しそうだし、こういった相談者は丁寧に対応しておかなければ、後々の問題につながりかねない。日頃からクレーマー処理のような仕事ばかりしているから、変わりがないと言ってしまえばそれまでですが、ここまでくると貧乏くじですよ。

「そんなに難しいものなんですか? 僕としては十分にアイディアとして使えそうですが」

「私の出した意見なんて、病気としか話していないでしょう? 一つに絞ってしまうか、いくつか候補を出してしまわないとまとまらなくなります。最終段階は梅原さんにお任せしますが、途中までは私も一緒に作りますよ。その為に呼ばれましたからね」

 アイディアといっている時点で、厳しいということに気付いて欲しいのですが。また素人だと言い切ってしまったのであれば、素直に頼って下さい。任せろなんて大口を叩くことは出来ませんが、それなりにはお役に立ちますよ。

「言われてみればそうですね。このままでまとめるのは難しそうです。申し訳ありませんが、もう暫くお付き合い下さい」

「報告書ではなく、お薦めする形のものなので少々面倒ですよ。通常のフォーマットを使用するのは難しいので、時間もかかります。根をつめても仕方がないので、休憩を挟んでからにしましょう」

 私達が打ち合わせを始めたのは、昼休みが終わってすぐの頃。そこまで時間が経っているようには感じなかったのに、時計の単身が既に四を通し過ぎてしまっている。喉くらい渇くはずですね。

「はい、では十分後くらいに再開しましょう」

 三時の休憩を取り忘れたのは残念だけど、それなりに話は進められたしプラスに考えましょう。どうせこの後は大して時間が残っていないから、書き進めたとしても微々たるもの。それぞれの意見を使えるように煮詰めていく方が賢そうですね。

 その過程で梅原さんには慣れて頂きましょう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る