第17話 新海教授

 「ご無沙汰しております。俺のこと覚えてらっしゃいますか?」

 喫煙室に入るなり挨拶をされた老紳士は、正面に立つくたびれたスーツの男を老眼鏡の上からじっと見た。

「はて、どちら様でしたかの」

「一年ほど前でしたか、僕は清掃員で教授とはよくこの喫煙室でお会いしました」

 それでも思い出せない様子の老教授は、目を細めた。

「鏡市のことで一度お話を」

「ああ、あの時の」

 思い出したのだろう、老教授は気さくに握手を求めてきた。くたびれた男は、恐縮ですと言って、右手の汗をズボンで拭ってから握手に応じた。

「何か御用ですかな?」

「ええ、実は教授に鏡市についてもう一度お話を伺いたいと思いまして」

「新海です」

 老教授――新海卓造は名刺を差し出した。

「あ、私は加山――加山三行と申します。すみません、現在無職なもので名刺を持ちませんで」

「お気になさらず」

 そう言うと新海は、こちらへどうぞ――と、三行を案内した。

 鏡市から高速道路を走って二時間半。わざわざF大学までやってきた。

 兄一行の失踪時、何も知らない覚えていないと一点張りだった美湖が、実は全て覚えていたことを、昨夜の一件で知って動揺した。 

 なぜ黙っていたのか、その理由を問い詰めたかったが母に強く止められた。たしかに少し頭に血が上っていたと思う。頭を冷す為にも、別のことをしようと思った。

 まもなく、史学部と小さく書かれた案内板が見えてきた。大学のキャンパスの片隅にあるその学部は、周りと比べてとても小さいレンガ造りの建物だった。三行が辺りを見渡したり、学部の建物を見上げたりしていると、新海が言った。

「学生も少なくてね。これくらいの建物で十分なのですよ。部屋のほとんどは資料で埋まってますがね」

「あ、いや――しかしレンガ造りとは珍しいですな。ここだけ?」

「ここと、向こうの地質資料展示棟がまだレンガ造りです。他はコンクリートに建て替えられました。なんせ古いのでね。危ない」

「じゃあ、いずれはここも建て替えられるんですか?」

「ええ。私はこのレンガ造りが好きなんですけどね。耐震なんとかでダメらしいです」

 どうぞ、と招かれたその部屋は、窓から差し込む明かりだけで薄暗く感じた。新海がぱっと電灯をつける。明るくなった部屋は、ごく普通の部屋だった。壁はレンガが剥き出しになっているわけでもなく、コンクリートで塗り固められている。

「あ、中は普通なんですね」

 と、三行は思わず言った。

「レンガは外壁だけですよ。でないと寒くて仕方がない」

 どうぞ座ってくださいとソファに案内され、では失礼しますと言って三行は腰掛けた。

「コーヒーでよろしいですかな? インスタントしかありませんが」

「はい。あ、どうぞおかまいなく」

 新海はコーヒーカップを二つお盆に乗せてきた。テーブルの上にそれを置いてから自分もソファに腰をかけ、どうぞといってカップのひとつを三行に差し出した。

「ありがとうございます。すみません、アポなしで押し掛けたのに」

「いいんですよ。お客なんてめったに来ないですし。しかし――」

「ああ、裏門から入ったんですよ。あそこ、警備置いてないんですね」

「正門と、学生の通用口が四つありましてな。まあ、警備員はだいたい車が出入りする正門におります」

「止められたらなんて言い訳しようかずっと考えてたんですが、拍子抜けしました」

 三行は、はははと笑った。

「近所の住民が横断するくらいですからな。秋になると、構内のイチョウに銀杏がたくさん実りまして。それを拾いに住民がやってきますよ」

「ほう」

「まあセキュリティがしっかりしている新しい建物に入るのは難しいでしょうが、ここら辺は出入り自由のようですよ。本当はいかんのでしょうが」

 申し訳ないと、三行は頭を下げた。

「電話をしようと思ったのですが――」

 まともに用件を話したところで、取り合ってもらえるわけがないと思ったのだ。それで押し掛けることにした。

「いいのですよ。都合が悪ければ断りますし。そうなると、あなたはただ無駄足を踏むだけ」

「仰る通りです。お会いできて、しかも招いて頂けて、僕はついてた」

 新海はにこりと笑った。

 とても感じのいい老人である。銀縁の老眼鏡はいつも鼻の頭までずり下げている。べっ甲のループタイがとても洒落ていた。白髪交じりの頭は、太宰治を思わせるような髪形をしている。

「で、鏡市の何が知りたいのですかな?」

 ああ、と三行は手にしていたコーヒーカップを置いて改まった。

「以前聞かせて頂きました伝説を知りたいのです。鏡市が鏡市と言われるようになったという――」

「はいはい」

「空にもうひとつの町が浮かび上がった時、先生は『人が霞のように消えた』と仰いました」

「ええ」

「僕の兄が――実は失踪いたしまして。もう十一年になります。娘と風呂に入っていて、突然消えたのだそうです」

 新海の顔が少し険しくなった。

「僕は元刑事です。兄を探しました。そりゃもう全国津々浦々。兄は何かの事件か事故に巻き込まれたに違いないと。しかし、手がかりは一切出てこなかった。足取りが全くつかめないのです。まさに霞のように消えたようでした。そして先日先生から鏡市の話を聞いて――」

 三行は深呼吸した。

「僕は仮にも刑事だった男です。非現実的なものを受け入れるなんて出来ません。物事には原因があって結果が起きるんだと、それは今でも思っています。けれど、万が一、いや百億に一、その非現実的な伝説の中に手掛かりがあるのだとしたら、僕は見過ごせないと思ったんです。そこで先生の見解をお聞きしたい。人が消えたというその伝説について、どういう可能性が考えられるのかを」

「なるほど」

 と、新海は短く呟いた。

 顎に手を添え、しばらく天井を見つめて考えていた。

「お兄さんは鏡市で失踪を?」

「はい」

「そうですか」

 それはお気の毒です、と新海は言った。

「まあ私は刑事ではないので推理は苦手ですが、当時の鏡写しの現象についてなら少し独自の見解がございます」

「はい」

 三行は背筋を伸ばした。それから、あっと思い出した様子で、スーツの内ポケットからメモ帳とペンを取り出した。

「鏡市の鏡写しの現象は、過去に二度ほど起こっておるようです。ひとつは江戸末期、ひとつは大正です」

「大正ですか」

「はい。町が空に映ったのであれば、蜃気楼やブロッケン現象……そういった自然現象で説明がつくのでしょうな。ですが、町が空に映ったのではないんですな」

「違うのですか?」

「ずれていたんです」

「は?」

 三行の口がぽかんと開いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鏡国物語 こだまねこ @kodamaneko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ