見送る雪

 人が動き出す気配に、ぼんやり目覚めた。

 十数年振りに会った静月とは昔話もそこそこに、疲れ切っていたあたしはメイクを落として用意された布団で眠り込んだ。

 暖房がつけられたままだったので、少し喉が痛い。軽く咳込み起き上がると、がらりと襖を開けられた。

「ああ里桜ちゃん、起きたん」

 見覚えのある顔は、士郎おじさんの奥さんである奈津子なつこおばさんだ。

 顔の輪郭を越えた脂肪があごの下にもうひとつのラインを描き、それに見合ったふくよかな身体。いかにも人のよさそうな垂れ目が懐かしい。

「おばさん、おはようございます。昨夜は挨拶もなしに、すみません」

「ええの、ええの。こっちも迎えにも行かんで寝とったき。顔洗って朝ごはん食べ。したら病院行くからね」

 九州訛りの残る豪快な話し方は、昔とちっとも変わらない。士郎おじさんに対する嫌悪とは裏腹に、奈津子おばさんに対しては好意を感じていた。夫婦は必ずしもセットではないのだと、子ども心にこのふたりからそれとなく感じ、教わった気がする。

 着替えて荷物の中からタオルと旅行用のハブラシを出し、洗面所に向かう。

 裸足で廊下を歩くと、縮み上がる程冷たかった。靴下くらい履いてから来るんだった、と後悔しながら洗面所のドアを開けると、そこにはすでに静月がいた。

「はよ」

「お、おはよ」

 静月は洗面所での用は済ませたみたいだけど、あたしの足元を見て笑った。

「ばっか、スリッパか靴下くらい履けよ。家ん中だって凍えるぞ」

「今後悔してたところよ。と、と、とりあえず顔洗わなきゃ」

「歯ぁガチガチいってるし。北陸ナメんなよ」

 笑いながら静月は洗面所の前をあたしに譲り、ドライヤーを手に取ってスイッチを入れる。

「何? 何して……」

「ほれ、さっさと顔洗っちまえ」

 ドライヤーの暖かい風が足元を吹き抜けていく。

「……ありがと」

「おう」

 とりあえず洗顔と歯磨きを済ませ、食卓に向かった静月と別れていったん部屋に戻った。すっぴんと薄い眉でうろうろしてられない。起こしに来てくれたらしい奈津子おばさんはともかく、静月にすっぴんを見られたのは不覚だ。

 そんな女の性を恨めしく思いながら、あたしはしっかりビューラーとマスカラまで使い、靴下を履いて部屋を出た。


゚・*:.。..。.:*・゚・*:.。..。.:*・゚


 病院は週末ということもあって、閑散としていた。

 三階の狭い病室、ベッドではなくストレッチャーに寝かされたおばあちゃんは色んな管に繋がれていて、辛うじて生きているだけなのだと改めて確認させられる。

 狭い病室に居場所はなく、お父さん達に任せて静月とあたしは一階の談話室に来ていた。

「脳梗塞、だっけ?」

「うん。でもばーさん、前からあちこち患ってたから、色々こたえてたんじゃないかな」

「そうなの?」

「ああ。胃腸炎で吐いたり寝込んだりってのはしょっちゅうでさ。ウチでは好き勝手やってストレスかからない暮らししてたのに、具合悪くなっちゃって。まあトシだろうって医者も本人も言ってた」

 周りに人がいないことを確認し、静月は灰皿を引き寄せると、煙草を取り出した。

 セブンスター。最近見た女性誌に載っていた、キスがまずくなる、と敬遠される煙草一位がこれだったような。

 どうでもいいことを考えながら、小さくぶるっと震えた。

「東京の薄着じゃ、寒いだろ」

 煙草を持ったまま、静月はにやにやと笑う。何かと見透かすような目をする従弟に苦手意識を抱いた。

「寒くないわよ。このコート、あったかいんだから」

「いくらすんの、それ」

「……五万」

「げっ、お前それ正気?」

 もったいねぇ、と呟きながら静月はあたしとコートをまじまじと見た。遠慮のない視線が、また気恥ずかしい。

「社割きくから、実際四万してないけど」

「それでも信じらんねぇ。てか社割って? 仕事何?」

「アパレル。契約社員だけど」

「あ、そんで羽振りいいのか」

「勘違いしないでよ。月給いいけど、ボーナスはないんだからね」

「そうなの?」

 大して興味はない様子で、静月は深く煙を吸い込んだ。

 セブンスターの火種が、ちりちりと焦げる音がする。それを見つめながら、急に聡さんを思い出した。本当なら今頃、雪景色の中で仲良く彼と遊んでいたはずなのに。

 そして、夜には──。

 煙草の匂いと同時に記憶されている、聡さんのかすれた声や器用な指先が過ぎり、軽く頭を振った。今はそういうものを恋しがっていられる状況じゃない。

 ほとんど興味も情も覚えのないおばあちゃんでも、それくらいの気遣いをしなければならないことくらいは、判っていた。

「里桜、男いんの?」

 顔を上げると、気怠げな静月の瞳があった。

「……うん、いるよ。年上で、優しい人」

 あまり訊かれたくないことを訊かれた時、端的に答えて質問返しをする。そうすると、深くは突っ込まれないことは心得ていた。

「静月は?」

 彼は困ったような笑顔を浮かべ、煙草の灰を落とす。

「いるけど、もう終わりかな。俺、就職決まったんだけど、彼女は地元だから……続けらんないって言うか、それでもめてばっかり」

「会社、遠くなの?」

「春からは里桜と同じ。東京暮らし」

 言い終わると同時に視線を合わせた静月に、一瞬言葉を失った。


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 深夜になって、おばあちゃんは静かに逝った。

 容態が急変することもなく、だんだん脈拍の間隔が広がって行くのを、家族と医者がただ見守るという光景。射ち続けていた点滴のせいか、自分で排尿することも出来ないおばあちゃんの顔は、すっかりむくんでいた。

 不謹慎ながらも、おばあちゃんのためにもみんなのためにも、長引かずに済んでよかったのかも知れない。お父さんやその兄弟達は母親の死にさすがに涙を流していて、その輪に入れないあたしは、ひとり居心地の悪さを感じていた。

 そんな中、病室から静月の姿が消えていることに気付く。ただすすり泣く声が響く病室の空気に耐えられないこともあり、それを理由に静かに引き戸を開き廊下に出た。

 ひんやりと底冷えするような石の廊下の突き当たり、そこにある大きな飾り窓を臨んで静月は立っている。彼も病室の空気に耐えられずに出たのかと思った。

「静月、ここにいたの……」

 弾かれたように振り返った静月の顔を見、思わず硬直した。彼はとめどなく流れる涙を拭いもせず、声も立てずに泣いている。

「あ、あの、ごめん」

 思わず謝ると、静月は少し恥ずかしそうにしながらまた背を向け、手の甲で涙を拭う。

「ちぇっ、みっともないとこ見られた」

 かすれた静月の声に心臓が跳ねた気がして、思わず胸元を手で押さえた。静月は鼻を軽くすすって、口を開く。

「ばーさんがたらい回しにされてうちに来てから俺、けっこうばーちゃん子でさ……病院通いしててもずっと身体のあちこちが悪いって状態になってから……その、覚悟はしてたんだけど」

「……うん」

「死なれたらそれなりにこたえるもんだな。経験なかったから、参った」

 少し震える静月の背中を見ながら、空いた手が自分の上着のポケットに当たり、かさ……と音がした。

 入っていたのは、聡さんと別れた後、駅前で押し付けられるように渡されたポケットティッシュ。ハンカチがすぐに出てこない自分が少し恥ずかしくなったけど、背中越しにそっと差し出した。

「……あ、悪い。鼻かみたかったから助かる……」

 静月のかすれた涙声。思わずくすりと笑う。

「……おばあちゃんのために泣けるって、いいね」

「え?」

 ティッシュで鼻水を拭った静月はようやく振り返り、こっちを真っすぐに見る。

「うち、両親が離婚したでしょ。母親の方って親戚いないから、身内っていうのがよく判んなくて」

「ん、ああ……知ってる」

 静月は軽く鼻をかんで、ティッシュを備え付けのごみ箱に放り込んだ。

「叔父さんに頼まれてたから。『里桜はいやいや来てるから、退屈しないよう相手してやってくれ』って」

「そうなの?」

「里桜はほとんどこっち来たこともないし、まあ、判らんでもないなって。……ばーさんのことは大人達がやるから、俺はすることないしな」

 お父さんは、離れて暮らす娘のことなんて判らないだろうと思っていたのに、少し恥ずかしくなる。

 静月は肩をすくめて笑った。

「さっき、うちの母さん呼んだから。来たらちょっと付き合ってくれないか?」

「え?」

 首を傾げると、静月はジーンズの後ろポケットから、くしゃくしゃになった封筒を取り出した。

「ばーさんに頼まれてることがあって。俺しか出来ないことなんだけど……できれば、里桜にも付き合って欲しい」

 そう言う静月には妙な強引さがあって、思わず頷いていた。

 静月のお母さん──裕美子おばさんはすぐにやって来て、おばあちゃんの顔を見ると静かに泣いた。

 もう話は通じているのか、静月が「じゃ」と言うと裕美子おばさんは頷いて「お願いね」と言った。

 そうして深夜の道路を、静月の運転で走る。小さい子どもの拳くらいあるんじゃないかと思うような降雪が、不慣れなあたしには恐ろしかった。慣れている静月にはたいしたことはないらしく、慎重かつスムーズな運転にこっそり感心する。

「どこ行くの?」

「俺んち」

 あたしの質問には言外に何をしに行くのか、という意味もあった。だけど静月はそれに答えるつもりはないらしい。

 病院のあの空気の中、他人のような顔をしているよりはましか、と小さく息をついた。


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 車の振動が心地よくて、少し眠ってしまっていた。静月に揺すり起こされて慌てて居住まいを正すと、彼は気にしていない様子で小さく笑う。

「里桜、ウチは初めてだよな。ばーさんの部屋、こっち」

「何するの?」

 急いで車を降り、玄関のたたきでブーツを脱ごうとするあたしを見下ろし、静月は目を細める。

「身も蓋もない言い方すると、家捜し」

「はあ?」

「ばーさんに頼まれてやるんだけどな。それ脱いだら一番奥の部屋来て」

 一秒でも惜しいという様子で、静月は家の奥へと消えて行った。家捜しという言葉に首を傾げ、ようやくブーツを脱ぐ。家人の不在でひんやりとした家を、静月の進んだ方へ向かった。

 早速ガタガタと物音のする部屋の襖の間から、光が漏れている。

「静月?」

「うん」

 襖をそっと開けると、静月はすでに押し入れの中のものを出し始めていた。

「何探せばいいの?」

「日記だよ。ばーさんの」

「日記?」

「ああ。すっげー古い日記。ばーさんが、俺と母さんにだけ言ったんだよ。自分が死んだら、日記を息子達には見られないようにしてくれって」

「そんなの、元気な時に預けてくれたらよかったのに……」

 静月は部屋を見回しながらコートを脱ぎ、段ボールを開けて小さく笑う。

「俺もそう思う。けど、生きてるうちに見られるのは恥ずかしいっつって。それに、自分でもどこにしまったか忘れたんだってよ」

「ふうん」

「だから里桜、テキトーに部屋の中見てってよ。故人の部屋だとか気にしなくていいから」

「……本当に?」

「女の部屋は女の方がよく判るだろうし。母さんが出来れば一番いいんだけど、あの人一応嫁だからさ。通夜とか葬式の方で忙しくなるから」

「外から来たあたしならどこにいようと誰も気にしないし、都合がいいわけだ」

「そういうこと」と呟いて、静月は再び段ボールの中を確認する作業に戻る。

 年寄り独特のすえた匂いのする部屋をもう一度見回し、息をついた。あまり気持ちのいいものじゃないけど、退屈よりずっといいかも知れない。

 押し入れは静月に任せ、古い桐箪笥きりだんすの前に立ち、「失礼します」と呟いてから開けていった。お年寄りの箪笥らしく、整理された着物がはく押しの和紙に包まれ、綺麗に置かれていた。

 仕事柄というわけではないけど、その中をひとつひとつ見てみたい衝動にかられる。でも静月の行動の速さからして、あまり時間がないことは明らかだ。小さな欲望と好奇心を押し込め、すぐに元に戻せるよう丁寧に中から着物を出していく。

 古い日記。自分ならどこにしまうだろう。

 自分しか触らない場所。人の目に触れないように、でも失くしてしまわないように。

 しばらく考えて、やっぱりさっきの着物の和紙を解いてみることにする。大切なものは大切なものといっしょにしておくんじゃないの、と自然と思えた。

 そっと解いていくと、中からとてもいい香りがした。最近のフレグランスでは嗅げないような。爽やかで甘いその香りは一体何だろう……と思いながら、和紙の包みを開いた。

 中からは、びっくりする程細かい花柄が描き込まれた、鮮やかな訪問着が現れた。桐箪笥の一番奥にしまい込まれていたものだ。呉服屋の目に付く場所に、衣桁いこうに掛けられ飾られていてもおかしくない程のものじゃないんだろうか。

 桜、松、たちばな、葵、菊……他には何だろう。若竹と萌黄のグラデーションに四季の花々がこれでもかと散りばめられた訪問着は、とても年老いた女性が着るようなものじゃない。

 おばあちゃんが若い頃身につけていたものかなと思った瞬間、膝からばさりと重みが滑り落ちる。

 あ、と思った瞬間、静月もその音に気付いてこちらを振り返った。

「里桜、今の音」

「う、うん。何か本みたいだった」

 うっかり着物に見とれてしまっていたことをごまかしながら、広げかけていた訪問着をさっと畳み、和紙ごと膝の上からどける。静月とあたしは、同時に息を飲んだ。

 そこには、古びた表紙の本が落ちている。

「これ……」

 固まっていると、静月が隣にしゃがんで手を伸ばした。

 小さめのノートくらいの大きさのその本は、訪問着の持ち主のものだと判る程に似た柄の縮緬ちりめん生地に覆われた表紙がつけられていて、中の紙はすっかり焼けてしまっている。

 静月が手に取り、ぱらぱらと中をめくった。

「……ビンゴ。やるじゃん、里桜」

 あたしの顔を覗き込み、静月はにやっと口の端を上げて笑って見せる。彼が開いたページには、今の時代では信じられないくらいの達筆で文字が綴られていた。

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桜月 水無月美樹 @minazuki630

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