桜月

水無月美樹

第一章 柊

冬空

 グレーの空が、威圧するように重くのしかかる。

 見上げて、白い溜め息をついた。

 家を出る時これみよがしに着て来た新品の真っ白なコートは、雪景色を行き来する間に無残にも薄く汚れてしまっていて、お父さんの故郷を少し呪った。

 人が亡くなる時には雨が降るものだとは言うけれど、冬の雪国なら雪が降るに決まってる。

 寝不足と疲れ、加えて慣れない寒さですっかり荒れてしまった肌を隠したくて、古いピンクのマフラーに顔を埋めた。

 最後に会ったのは、もう何年前だったのか忘れてしまいそうな程古い記憶にしかいない祖母が、つい数日前亡くなった。


゚・*:.。..。.:*・゚・*:.。..。.:*・゚


 付き合っている彼と、週末旅行に行くはずだった。

 それがいよいよ明日……という時に、鼻歌を歌いながら荷造りしていた時、携帯が鳴った。

 ──5年ぶりの、お父さんから。

 折角の予定は、あまり可愛がって貰った記憶のないおばあちゃんの危篤だという報せに奪われてしまった。

 付き合っている彼──さとしさんは、肩を落とすあたしを慰めた上、最終列車に間に合うよう車を出してくれた。

里桜りお。そんな顔、するな。旅行になんていつでも行けるんだから」

 マンションの下まで迎えに来てくれた聡さんは、荷物を抱え不機嫌そうに佇むあたしを見、苦笑する。

 冬の空気は張り詰めたように冷たい。上空から吹く風は、これから雪が降ることを予告しているようで。

「だけど、折角聡さんとふたりきり、だったのに」

「いつもふたりきりじゃないか」

 あたしの不満を笑いながら軽く受け流す聡さんは、あくまで優しい。13歳離れている聡さんは、その年齢を単純に想像した割には若々しく、清潔感があった。

 髪はいつも襟足で短めに切り揃えられ、涼しげな一重の目元には、細いフレームの眼鏡でフィルターがかかっている。いつもはきちんと分けられている前髪が額にかかっていて、彼がついさっきまで部屋で寛いでいたことを窺わせた。

 それが情事の後を思い出させて、少し切なくなる。

 迎え入れられた、慣れた助手席。暖かな車内で、あたしは聡さんの横顔を遠慮することなく見つめた。

「……どうしたの」

 煙草に火を点けながら、聡さんは横目でちらりとこちらを見る。

「……氷見ひみ、行ったら聡さんのオフの顔、来週末まで見れなくなっちゃうから、見溜めしとくの」

 夜が深まり、交通量の少なくなった上り車線。聡さんは車を歩道に寄せて停めた。

「……馬鹿」

 繊細な微笑みを浮かべ、眼鏡の奥の瞳がやわらかく溶ける。

 この瞳を見ると、愛されているのだと判る。それが嬉しくて、くしゅっと笑った。

 聡さんはあたしのストレートの黒髪をするりと撫で、そのまま引き寄せる。彼の口唇が、あたしのそれに重ねられた。

「……帰る前、連絡して。迎えに来るから」

「はーい」


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 深夜、お父さんが迎えに行くからと指定された駅に着いた。

 改札口の外で待っていた白髪混じりのお父さんは会わなかった5年分、老け込んでいる気がする。すっかり背中が丸くなって、現役の男だという雰囲気は見る影もなかった。

「彼女とうまくいってるの」

 改札を出て、久しぶり……と形ばかりの再会の挨拶を口にした後、荷物を受け取ってくれるお父さんに、嫌味だろうかと思いつつ訊ねる。

 お父さんは、少し困ったような笑顔を見せた。

「まあな」

 どっちの意味か、よく判らない。ふうんと呟いて、お父さんの向こう側に広がる景色に視線をやった。

 駅の真正面、深夜にも関わらずロータリーを行き来するタクシーのヘッドライトが構内に差し込んで、少し眩しい。

 ライトに照らされて、大粒の雨が景色を濡らしていた。歩くだけで身体が冷えてしまいそう。

 雨が降っているのは列車の中からも判っていたけれど、うっかりパンプスなど履いて来ていたら歩けなかったところだ。

 一昨年買ったブーツをすっかり履き潰してしまうつもりで来たのは、正解だったみたい。

「車、借りて来たから」

 そう言って歩き出すお父さんの後に、続いた。

 車に乗るんだから手袋を嵌めることもないと、コートのポケットに手を突っ込む。

「ねえ、あたし今夜どこで寝ればいいの」

 傘を開いたお父さんの隣でそう訊くと、少し眉尻を下げて答えた。

「悪いなあ、お前の嫌いな士郎しろうのとこだ」

「はあ……やっぱり」

 森川士郎──お父さんのすぐ下の弟さん。あたしの叔父だ。

 あたしは昔から士郎おじさんが生理的に苦手だった。

 記憶を辿れば、にこやかで愛想のよい男性。何が苦手なのか、自分でもよく判らないけれど。

「一番部屋数が多いのが士郎のところだからな。数日だけ我慢してくれ」

「数日って……最初からそんな長くいるつもりなくて悪いけど、お婆ちゃんそんなに危ないの?」

 促され、助手席に乗り込んだ。車内が冷えないよう直前まで待っていてくれたのか、中は暖かい。

 お父さんは車の前を回り込み、運転席に腰を下ろした。

「もって3日だそうだ」

 ドアが閉められ、車体が軽く揺れる。

「……そっか」

 それ以上何かを訊く必要もなく、黙り込んだ。

 車を走らせながらお父さんが口を開く。

「そうだ、士郎のとこに静月しづきくんも来てる」

「静月?」

 静月はあたしの2つ下の従弟で、もう軽く10年以上会ってない。

「そう。久しぶりだろう。どうせ待つだけになるだろうから、静月くんと色々話でもするといい」

 何を待つの……とは、訊くまでもなかった。

「顔面にぶつけられた雪玉のかけらが鼻に入っちゃって、泣きながら鼻水と一緒に吹き出した記憶しかないんだけど」

「ははは、子供の頃の話だろう。さっき会って来たけど、落ち着いたいい大人になってたよ」

「そう? ま、会ってみなきゃ判んないけど……」

 特に興味などないというふうに呟いて、暖まった瞼を伏せた。少し、眠い。

 人が亡くなるのを待つ為だけに皆集まるなんて、不毛だ。

 退屈な数日になりそうだ……と思いながら、重い瞼を押し上げた。


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 長く寒々しい夜の道路を、四十分程走っただろうか。道を覚える気などなかったけれど、段々道幅が狭くなって行くのが判った。車体に打ち付ける大粒の雨は、ばしばしと無数の音を立てながら視界を奪う。粒だけ見ていれば雪かみぞれと見間違えてしまいそうだけど、フロントガラスのワイパーに弾かれるのはたっぷりとした水分で、こういうのが雪国の雨なのかと思った。

 やがて道の脇に田畑が目立つようになり、住宅が建ち並ぶ集落に入ると、車が減速を始めた。真下からじゃりじゃりと荒っぽい音がして、道が舗装されていないことが判る。やがて見覚えがあるような開けた玄関先で、車が停まった。

「ほら、傘。先に入ってなさい」

 車を降り、玄関のライトの下に立つ。お父さんは器用にハンドルを切りながら、駐車スペースになっている玄関先に停車した。エンジンが停まったのを確認してから、運転席のドアまで傘を持っていく。

「何だ。行かないのか」

「いくら親戚だからって、何年も会ってないのにずかずか上がり込めるわけないじゃない。それに父さんが濡れる」

「……都会の子だなあ」

 なにが嬉しいのかお父さんは口元を綻ばせると、あたしの持つ傘の下に入る。底冷えするような夜風に晒される前に、引き戸を開けた。

「信じられない」

「何が」

「鍵、かかってないなんて」

「土地柄だな。ここらにいた頃は、やたら人を信用したもんだ」

 眉をひそめるあたしに小さく笑いながら、お父さんは慣れた様子ですたすたと上がり込む。親戚同士の密な付き合いから遠ざかって久しいあたしにはそれさえ違和感の塊で、首を傾げつつ鍵をかけ、ブーツを脱いだ。

 雨戸の閉まった窓に添った人気のない廊下、お父さんに続いて一番奥の部屋に向かって足を進める。

「何だ、静月くんひとりか」

 納戸の開き戸のような扉の向こう側、裕少し疲れた様子のお父さんの声。思わず足を止めた。

「あー、皆寝ちゃいました。疲れてんでしょうね」

 初めて聞く、低い声。最後に会った時の静月の声はまだ、幼い少年のものだったことを急に思い出した。そろそろと、足を進める。

「ああ、車ありがとう」

「いえ。んで叔父さん、里桜は?」

 やましいことなど何もないけれど、十数年ぶりの従弟など初対面も同然で、にわかに緊張してしまう。

「おい里桜、何してるんだ」

「別に」

 このままここに立っていてもどうしようもないので、また足を進める。

(大丈夫、大丈夫。今の自分はどこからどう見てもちょっと上等な女の子)

 小さな見栄でそう確認してから、明るい部屋に足を踏み入れた。

「里桜?」

 静月らしき人物は、ちゃぶ台の上の硝子の灰皿に煙草の灰を落としながら、あたしを見上げた。

 長めの茶髪、くっきりとした二重の奥の瞳はきれいに澄んで、片膝を立てた胡座の脚はすらりと伸び、長身であることを窺わせる。ちんちくりんな身体で、必死に雪玉をぶつけて来た面影は、もうどこにもなかった。

「驚いたな、すっかりそこらへんの綺麗なオネーサンじゃん」

 静月が、目を細めてにっこりと笑う。その笑顔だけが、昔と同じものだった。

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