蓮の花

一齣 其日

蓮の花


情けなくも、男は死ねなかった。

奥州藤原氏四代目、藤原泰衡は額からおびただしい血を吹き出しながら、自らの運命を悟る。頼朝との戦いに負け、助命嘆願も受け入れられず、最期には家臣に裏切られる。

それでも彼は這いずって、逃げた。逃げて逃げて、ようやく倒れた。体の周りに紅が広がる。頭に霧がかかると思えば、今までの人生が次から次へと蘇ってくる。

偉大な父がいた。雄大な国があった。光り輝く金色を見上げる自分がいた。そして、義経がいた。今はもう何もかもがそこに無かった。

もはや奥州藤原氏は滅んだ。滅んでなおも、逃げた自分はいけなかったのだろうか。武士として潔く死んでいれば、今このような憂き目に合わずに済んだのかもしれない。

走馬灯から目覚めると、ふと池の方に目がいった。そこには蓮の花が、一面に咲いていた。旧暦九月にその花が咲くことはない。狂い咲きとしても、一面に咲いている姿は異様だった。

しかし、彼の足はよろりとしながらもその池の方へ向かっていた。いつかの、義経との会話を思い出しながら。




蓮が浮かぶ池の周りを義経と共に歩む。普段なら共に談笑して歩く道なのに、今は一言も口にしない。泰衡は義経を端に見るたびに頼朝の書状が頭に浮かんで仕方がなかった。

泰衡の父、藤原秀衡が死んで一年半近くが経とうとしていた。彼の父は義経を守り、また彼を大将軍として頼朝と戦えと遺した。

対して当面の敵である頼朝はどうだ。秀衡が死んだと知ると執拗に義経を差し出せと寄越す。初めのうちは良かった。父が死んでも平家を滅ぼした男、義経がいると思うだけで勝てると思えた。

しかし、頼朝の圧力は次第に強くなる。次第に義経を売ってしまえば平穏は訪れるのでは、なんてことも頭に浮かぶ。その度に父の最期を思い出してはみたが、苦しみは増す一方だった。

彼は偉大ではなかった。だからこそ義経を将軍にして戦うことに踏み切れなかったなら、殺して頼朝に差し出すこともなかった。どちらにしても地獄なのであった。

平泉だけでも、守らなければ。

彼は曲がりなりにも奥州藤原氏四代目、この奥州の棟梁なのである。その彼がそう考えるのは当然のことである。

「ここの蓮の花は、いつも綺麗でございましたな」

物柔らかい声が泰衡の思考を一瞬飛ばし、目を池の方に投げさせる。蓮の葉がゆらゆらと揺らめいている。開花はまだまだ先であった。

「泰衡殿は、蓮が好きでございましたな」

その言葉によって、見慣れていた蓮の花が彼の頭に蘇る。

確かに、泰衡は蓮の花が好きであった。

物心ついた頃から度々蓮の花に目を惹かれた。池を覆う緑の中に、ぽっと開いた桃の色が妙に強く見えたのだ。それを見るたびに彼もあの蓮の花のようでありたいと思ったものだった。

そんな志はとうの昔にに失せていたらしい。

葛藤に苛まれている自分が、到底蓮の花のようになれやしない。もしもこの蓮のように強かったなら、今こうして悩んでいるわけがなかった。

小気味に握った拳が震えている。時々吹きすさぶ風が異様に冷たかった。

「……兄上がここに攻めてこられたなら、この蓮の花も焼けてしまうのであろうか」

ぽつりと降った言葉が、泰衡の心を穿つ。

はっと見た義経の顔はどもの暗く、しかしどこか腹を括った顔をしていた。

蓮の花だ。

そう、思わずにはいられなかった。

「私の故郷は、ここです。出来うるなら兄上の手から此処を守りたい」

冷たい風が強く義経を打ち付ける。しかし、揺らめきもせず二つの足でただ彼は立っていた。

もしかしたら義経の方が、自分よりも思い苦しんでいるのかもしれない。父を平家に滅ぼされ、様々な苦難に遭いながらも平家を滅ぼすという大きな功績を立てた。しかし頼朝から疎まれ、追討され、多くの家臣を失ったであろう。

思えば思うほどに義経という存在が大きなものに見えた。

「泰衡殿、」

急に自分の名を呼ばれた泰衡は、少し驚いた体で義経の顔を見た。安らかな眼をしていたことが印象深かった。

「私は、貴方と共に戦えるであろうか」

すぐに口を開くことはできなかった。答えられるわけがなかった。

出来うるならば、共に戦いたいと言いたかった。この強い丈夫と共に戦いたかった。

しかし、それは個人のことである。

彼は棟梁であった。奥州藤原氏四代目である藤原泰衡であった。彼と共に戦えば、頼朝に敗北した時に平泉は火の海と化すであろう。それだけは避けねばならなかった。

義経の首を差し出せば、平穏に済むであろうか。

何度考え、何度打ち捨てたものが今ふと思い出す。それが、奥州の民の為の最善の策ではないかと頭が巡る。

傍目に義経を見た。先程とは一切変わらず、引くも戻らぬもしない顔つきである。

それを見た泰衡は腹を括った。義経がそうであるように、自らも覚悟を決めたのだ。

面と向かい彼は押し出すように、言った。

「共には、戦えませぬ」

押し出すように、彼は言った。

「できうるなら私は貴方と戦いたい。けれども私は棟梁。この平泉を、奥州の民を守らねばなりませぬ」

義経の前だからこそ、彼は棟梁としての自分を選択した。義経の首一つで奥州に平和が訪れるなら、彼はもう迷わない。けれども震える手からは血が滲みでていた。

「そう……ですか」

義経はそれだけ言うと最後の最後にまた、笑顔を浮かべた。

「此処が守れるなら、私は死にましょう」

泰衡の目から大きな雫が、一滴だけ落ちた。



泰衡は一面の蓮の花の前にかがんで、一輪だけ掬い取る。淡い桃の色が妖しさを帯びていた。雄弁に咲く花に彼はほんの少し見惚れていた。

自分は、この花にとうとうなれなかった。

義経を売ったところで頼朝の侵攻を止めることなど、初めから無理だったのだ。自分の疎かな考えに従った己が随分愚かに思えた。

もしも棟梁の立場を捨て義経と戦っていたなら、こんな思いをせずに済んだのだろうか。

後悔は先立たず。もう全てが今更なのだ。

ふと、蓮の花があの日見た義経の首に見えた。

義経は最後の最期で、彼の郎党と共に死に花を飾ったと聞いた。彼はたとえ戦えなくとも、死ぬとわかっていてもあえてそれに抵抗しようという気概を見せたのだ。

泰衡はその話を義経の首を見分しながらその話を聞いた。聞き終わったところで、彼はとめどない涙を零した。それは潔い漢に対する敬意と、その漢を殺すほかなかった自分の弱さの現れであった。

弱さは自分すら滅ぼした。それをようやく彼は認めた。最後まで彼は蓮の花にはなれずにいた。ただ、その花(くび)を胸に抱きしめることしかできない。それでも感覚の薄れる体で一身に抱きしめた。

そしてぷつんと糸の切れた人形のように倒れ、狂い咲いた花に沈んだ。



後年、藤原泰衡の評価は全くと言っていいほど良くない。さらには、英雄源義経を殺した人物として、その名に不名誉を飾っている。そんな彼の首は、中尊寺金色堂に彼の父の秀衡や、初代、二代目の棟梁の遺体と共に今も眠っている。

さて、貴方は知っているだろうか、彼の首が入っている首桶から幾多の蓮の種が見つかったことを。誰が、何のためにそれを入れたのか、今となっては知る術はない。ただ、その花は何十年かの年月をかけてその蕾を開いた。

そして今、奥州の風に揺られて雄弁に咲いている。八百年越しの開花であった。


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