第二話 馴染 四
そして、笑みを浮かべたまま美幸は厨房で作業を始めた。
まず、台所の片隅に放置されていた薄汚れた片手鍋を取り出し、ろくに洗いもせずに水を適当に入れると、ガスコンロの上に載せる。
それと同時に冷蔵庫の中から、古びたタッパーをいくつか取り出した。タッパーの内側にはいろいろなものが染み付いているらしく、空けないと中身が確認できない状態になっている。
続いて美幸は、流し台の上で干乾びる寸前まで放置されていた長葱のかけらを手に取ると包丁で切ったが、それが遠目で見ても不揃いだった。
ただ、手際だけは良い。包丁の
その後、美幸は冷蔵庫から麺を取り出し、そのまま沸騰する前の片手鍋に放り込んだ。これは料理をあまりしない隆から見ても、手順の間違いにしか思えない。沸騰前のお湯に冷え切った麺をそのまま放り込んだら、確実にお湯の温度が下がって麺はくっついて塊になるだろう。
しかも美幸は、それを解そうともせずに放置している。お湯も少なめであったから、片手鍋の中身は白濁し、なんだか粘性高めな泡が浮かび始めた。
それでも美幸は放置したまま、ラーメンの丼を取り出す。
こちらは流石に洗われた後のもののようだが、普通に目にするものよりも一回りサイズが大きく見える。いや、むしろ店が企画ものとしてやっている「○分で完食したら無料」系の大きさに近いかもしれない。
美幸は流し台の下から醤油の瓶を取り出すと、丼に無造作に醤油を注ぎ込んだ。普通のラーメン屋だと小さな柄杓のようなもので、何度かに分けて注いでいるのをよく見かけるものだが、美由紀はお構いなしである。一般の店より三倍近い量ではないか、と隆は推測した。
そこにラードらしい塊を、大きめに切って放り込む。さらにはその上で、化学調味料らしき小瓶を念入りに振った。丼の内部は既にもう破滅的な状況であったが、美幸はさらに信じられない所業を連発する。
どう考えても失敗したとしか思えない片手鍋の麺を、普通の
さらにはその丼に、傍らに置かれていた電気ポットからお湯を注ぎ込んだ。まるでインスタントラーメンのような扱いである。それを美幸は軽く掻き混ぜたが、麺は既に団体で動き、しかもスープの色が変に濃い。
しかもそこにさらにお湯を加えて、丼の縁ぎりぎりまでスープを増量する。それを掻き混ぜもせずに、タッパーから黒っぽいチャーシューのようなものと、黒っぽいメンマらしき物体と、ナルトを取り出して、麺の上に載せた。さすがにナルトは外見上変化内容に見えるが、他の食材の扱いからすると保証の限りではない。
そして、不揃いな葱達を適当にばら撒くと、美幸はそれを両手で捧げるように持ち、厨房の端にあるカウンターに置くと、隆に向かってこう言った。
「ほらよ」
どう考えても罰ゲームのようなラーメンである。「なみなみと」という客のオーダー通り、スープは丼の縁で、辛うじて踏ん張っていたが、途中で放り込んだラードが表面に幕のように漂っており、それが表面張力すら打ち消していた。これでは、少しでも丼を傾けると零れるだろう。
にもかかわらず、美幸はこう付け加えた。
「スープを一滴でも零したらあんたの負けだよ。その時はそれをそのまま、今晩のあんたの賄いに回すからね」
要するにそういうことだった。
隆は無言で首を縦に振る。
もう四の五の言っている場合ではない。既に真剣勝負の間合いは切られている。隆は丼に両手を添える前に客のほうを
隆は腕を揺らさないように注意しながら向きを変えた。
それだけの動きでも、スープの表面には微かに
そして、ゆっくりとした足取りで慎重に運ぶと思いきや、彼は普段の足取りとそんなに変わらない速度で移動し始めた。このような場合、慎重になったほうが身体の動きに普段とは異なる無駄が生じる。むしろ普段通りの慣れた動きのほうが誤差が少ない。そう判断した上での動きだったが、客のほうは狼狽した。
慎重な動きに合わせて仕掛けるタイミングを計っていたところに、想定外の滑らかな動きである。彼は焦って腰を椅子から離すと、隆に向かって突進する。そして、隆の左足の脛を狙って右足の蹴りを入れた。
それは洗練されていない動きであったが、ラーメンのバランスを崩すのに必要充分な勢いがある。当ればもちろん、交わしたところで身体のバランスを崩すことになるであろうから、男の勝利はゆるぎないように思われる。そのため、男性客は僅かに笑みを浮かべていたが、次の瞬間、彼の表情は驚きに変わった。
隆は両足で軽く上に飛び上がって男の右足を交わした。
しかも、ラーメンの丼が空間に固定されているかのように、腕の撓りだけでバランスを維持している。
信じられない動きに男が目を点にして立ちすくむ中、隆はラーメンを男の座っていたテーブルの上に置く。
スープは一滴も零れることがなかった。
男性客は顔面蒼白になりながら言った。
「お前、一体何者なんだ!」
その問いに隆が答える前に、厨房から美幸がこう言った。
「ちゃんとさっき名前を言っていたじゃないか。”笠井”って」
それを聞いた男の顔が、さらに白くなる。
「な、ん、だと……笠井、ってあの……」
そして、その後の言葉を口にできないほどに震え出す。そこでまた美幸が口を挟んだ。
「ああ、笠井の爺さんの息子だってよ」
「くっ、なんだよ。俺としたことが聞き逃すだなんて」
そして男はラーメンに目を落とすと、ぽつりと言った。
「どうせ勝てない勝負と分かっていれば、月光丼を頼むんだったよ……」
株式会社×秘密結社 阿井上夫 @Aiueo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。株式会社×秘密結社の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます