第二話 馴染 三

 そして結局、隆はその日の十七時からアルバイトを始めることにした。

 その日の午後は特に何の用事もなかったし、電話での清の言動が気になったせいでもある。

 いや――それよりも何よりも、アルバイト先が「一見したところ寂れた中華料理屋だが、実は秘密結社で、特殊任務の可能性もある」という事実が、彼の警戒心を盛大に逆撫さかなでしていた。

 いつものことながら、もう少し早めに警告して欲しいものだと隆は思う。しかし、巻き込まれてしまったのだから仕方がない。巻き込まれてしまった以上、後はさっさと状況を把握するだけのことである。

 それで泥沼にどっぷりとまり込んでしまうのも毎度のことなのだが、隆は慣れていた。本当は慣れてはいけないのかもしれないが、慣れていた。


「で、俺は何をすればいいんですか?」

 十六時半に再び店に顔を出し、美幸が奥から引っ張り出してきた薄汚れてよれよれのエプロンを身に着けると、隆は美幸に訊ねた。

「そうだねぇ、何をしてもらおうかねぇ」

 厨房に置かれた椅子に座り、美幸は腕を組んで頭を捻る。

「いまさら『何をしてもらおうか』は変ですよ」

「そいつはそうなんだが――早速、特別任務でもやってみるかい? どうかね?」

「ごめんなさい。まずは通常任務からでお願いします」

「若いのに保守的だねぇ」

「いえいえ、秘密結社でバイトしている時点で保守的じゃありませんから」 

「ああ、そういえばそうだね」

 美幸は左掌を皿にして、右拳を小指を下にしてその上に当てる。乾いたいい音がした。

「じゃあ、今日のところはお客さんが来たら水を運んで、注文を取って、料理が出来たら持っていって、勘定を受け取って、料理の器を下げて、洗って乾かしてくれないかな」

「要するに調理以外の全部ですね」


 *


 とはいうものの、開店時間となり暖簾を外に出しても、客は一向に現れなかった。

 隆が最初に受けた印象の通り、この店は一見さんが入りやすい店構えではない。

 それでも、美幸が「馴染みの客がいる」と言っていたので隆はそれを期待していたのだが、十八時を過ぎても客は現れなかった。こうなると美幸の言葉すら怪しい。

 ――まさか、あの料理に恐れをなして常連すら出来ない店なのか?

 一見客が入りにくいほど、外観が寂れている。

 常連客になりようがないほど、料理が不味い。

 残る可能性は隆が食べたガパオライスのようなスペシャル目当ての客だが、メニューにないものを出すという意味が分からない。

 だったら最初からそっちをメニューに載せればよいのだ。そうすれば、必ずや人気店になって行列必死だろう。それほどの美味である。

 考えれば考えるほどよく分からない店である。本当にやる気があるのだろうか。

 そんなことを隆が考えていた時、店の入口の扉が横に開けられた。

「よう美幸さん、生きてるかい?」

 そう言いながら、美幸とさほど変わらない年齢の男が入ってくる。

 そして、隆の姿を目に留めるとにわかに動きを止めた。

「うっ――」

 そんなうめき声が唇の端から漏れる。しかし、男はそれ以上何も言わずにテーブル席に座った。

 机の上のメニューを手に取り、真剣な表情で品定めをする。なにやら思いつめた雰囲気に隆は頭を捻った。

 とりあえず水を運ぶ。

「注文はお決まりですか」

 と訊ねてみると、男は血走った目で隆を睨んだ。

「兄ちゃん、あんた本当にバイトなんだよな」

 よく分からない質問である。客がエプロンをつけて水を運んでくる店はないはずだ。

「はあ、今日から働くことになりました、笠井です」

「今日から――」

 男は見るからに悄然とした。

「――まったくついてねえ」

「はあ。で、ご注文は?」

「ラーメン。汁多めで頼む。いいか、なみなみと入れてくれ。なみなみだ」 

「はい。ラーメン、汁多めでなみなみ」

「そうだ、なみなみだ」

 どうしてそこまで念を押すのか全く分からないものの、隆は注文をそのまま美幸に伝える。

 すると美幸はにやりと笑った。

「ふむ、そう来たかね」

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