第二話 馴染 二
「あんた、爺さんから本当に何も聞いていないんだねぇ」
「はあ。日野に知り合いがいる、という話すら聞いていませんでした」
「知り合いっていう程の仲じゃないが、まあ、そいつはよかろう。ふうん――それにしても、あの爺さんも食えないお人だねぇ」
そう言うと、美幸は目の前にあったコップを手に取って水を飲んだ。実に何気ない仕草だったが、
――あれ?
と、隆は自分の目を疑う。いつの間に水の入ったコップがそこに置かれたのか、分からなかったからだ。
カレーライスの後、美幸は隆にファンタ・オレンジが入ったコップを差し出した。隆はそれを一気に飲み干していたから、机の上にあるのが空のコップであれば違和感はない。
また、さきほど美幸はガパオライスの皿だけをを捧げ物のようにして持ってきた。あれでは一緒にコップを持ってくる余裕は、どこにもなかったはずだ。
しかし、今机の上には食べ終わったガパオライスの皿と、水の入ったコップだけが置かれている。空のコップはいつの間にか消えていた。
隆の戸惑いを見て、美幸が微笑む。
「おや、もう気がついたのかね。こいつは早いねぇ。さすがは爺さんの後継者だけのことはある」
「……でも、いつの間にコップが入れ替わったのか見当もつきません。これでも相当に修練しているはずなんですが」
「仕方がないよ。爺さんも一番最初の時はまんまと引っかかったしね」
「あの親父がですか?」
隆は驚いた。清が見過ごすとなれば、彼女は相当な手練れである。
「ああ、騙されたよ。ただ、やっぱりすぐに気づかれたけどね。ところで、あんたさっき『コップの入れ替えを見過ごすなんて、自分もまだまだ未熟だ』と考えていただろう?」
美幸の右の眉が心持ち上がる。
「はあ、まあ」
「そんなの思い上がりだよ。個々の事象に限れば、あんたら以上の化け物はいくらでも存在するんだって。まだまだ青いねぇ」
「あ――すいません。そうですよね、思い上がりですよね。有り難うございます」
隆は即座に謝罪した。美幸の言う通りである。自分の能力を過信することは凋落の第一歩であるから、厳に慎まなければならない。
隆の潔い姿を見て、美幸は目を細めた。
「あんたのその素直さは美徳だねぇ。これからも大事にしたほうが良い。それで、仕事の時間なんだけどさ」
「あ、そうでした」
「あんたは学生さんだから、大学の授業を優先しなくちゃならないね」
美幸は、一瞬だけ目を閉じて腕を組みながら考え込んだが、すぐに目を開けた。
「それじゃあ、授業が空いている時に手伝ってもらおうじゃないか。うちは十一時から十四時までが昼の営業時間、十七時から二十時までが夜の営業時間だからね。フルに出られるときに来たらいい」
「あの――」
「何か不満でも」
「いや、むしろ俺に都合が良すぎて涙が出そうになりました。なんだか自宅の手伝いのような緩い条件ですが」
「学生だから仕方がないじゃないか。それとも何かい、あんたはバイトで学業を疎かにしても、全然気にならないタイプなのかい?」
「いえいえ、そんなことをしたらお袋に睨まれます。もともと口数が少ないのに、さらに半年は口を利いてくれなくなりそうです。実に恐ろしい」
想像しただけで、隆の全身に震えが走る。美幸は隆のその様子を見て、声をあげて笑った。
「そうかい、そうかい。いや実に結構。怖いもの知らずというのは長生きしないからね。しかし、母親が怖いとはなかなかだねぇ」
「変ですか」
「変なものかね。母親のことを深く思いやっている証拠じゃないか。実に結構」
そう言いながら椅子を降りると、ガパオライスの皿を捧げ持つようにして、奥に下がってゆく。
そして、気がつかないうちにコップがテーブルから消えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます