終章 空の向こうで始める恋

  048 少女と少年




「――負けちゃった」


 薄暗いカプセルピットに、その呟きが反響した。


 それはもう、完膚なきまでに敗北した。

 雛森夏希が、ここで死んでも構わないという程に死力を尽くして、それでも負けた。

 これを敗北と言わずしてなんというのか。


 外には怒号が熱波のように渦巻いている。

 歓声が嵐のように吹き付けていて、防音のはずのカプセルピットをごうんごうんと揺らしている。


「はは」


 悔しい。

 勝てなかった。

 幾つもの策と幾つもの奇襲を捩じ伏せて、真っ向勝負に持ち込んで、それでも負けた。


 シェイプデータを読み直したセレネが、夏希の後ろに現れた。


『……体調は?』

「ちょっと息苦しいけど、ぶっ倒れる程じゃないなぁ」

『そう……』

「あははっ……あー、負けちゃったな」


 悔しい。泣きそうなくらい悔しい。

 伏せていたセレネが飛びかかった一瞬、視界を奪う掌へと彼の意識が向かった時、相手の伏兵を一切警戒していなかった。

 胴を貫いたイスカが消滅したかどうかの確認を怠った。

 そもそも、間合いに持ち込んで仕留められなかった。


 反省点は無数にあった。

 それでも結局、最後の最後で上手だったのは修二だった。


 至近距離、夏希の間合いに持ち込んで尚生き延びてみせた。まるで自然にそうしていた。そこにどれだけの努力があったか、夏希には分からない。

 作戦もドローンの操作も、そのドローン自身の装備も、非常に洗練されていた。

 真っ向勝負を避けて奇襲奇策の連続で追い詰めるプランをとっておきながら、修二は避けたはずの正面衝突に立ち向かった。


「……負けちゃった」


 勝ちたかった。


『夏希……』

「あー、くやしー。くやしいよぉ、セレネぇ」


 ぐっと上を向いて、ぎゅっと目を瞑った。


 何か賞品があるわけでもない。名誉や得点がつくわけでもない。

 それでも、夏希と修二にとって、この戦いは何より偉大で尊いものだった。


 悔しい。つらい。つまらない。むかつく。悲しい。

 やっぱり、ちょっと苦しい。


『そうね』


 セレネは鋼の翼を撫でた。


『悔しいわ……とっても腹立たしい。あんなに言われて、負けちゃった』


 勝てるはずだったなどとは言わない。

 生涯で初めて、勝つか負けるかも分からない戦いだった。

 だからこそ、勝ちたかった――。


「くやしーなぁ……くやしい……」


 ああ、だめだ。夏希は思った。

 鼻の奥がつんとした。目元の奥で何かが渦巻いている。もう今にも溢れそうだ。

 それをぐっとこらえて、夏希は硬いシートに深く身を預けて、緩く息を吐いた。


 外の怒号とは遠く離れたこの場所で、夏希は抑え切れない無数の感情に胸を押さえる。

 それが外へと溢れ出そうという時に、ドアが独りでに開いた。


「――夏希!」


 外の喧騒を一身に背負って、修二がピットへ入ってくる。


「修二くん……」


 夏希はさっと目元を拭った。

 目元を拭って顔を上げた時には、修二はもう目の前まで来ていた。


「わ、わ」


 近い、と言う暇もなく、肩を掴まれる。

 今はダメだ――目元真っ赤なのがばれてしまう。


「夏希」

「は、はい」


 それでも、夏希は視線を外せなかった。

 その目の向こうに、息を呑むほどの輝きを見た。

 そういう眼差しをしたヒトだから、夏希は好きになったのだ。


 多分吐息がかかる距離。夏希はらしくなく慌てていた。



「――好きだ」



 そんなことを言われてしまうと、もう夏希では何も出来ない。

 頭の中まで真っ赤だった。


「言いたいことは山ほどあるけど、俺は夏希が好きだ。それだけだ。好きだ。愛してる」

「しゅ、しゅ、修二くん」

「だから俺に出来ることはなんでもすることにした」

「へ……?」


 鼻先にARウィンドウが開く。

 その数文字を読んだだけで、夏希は今度は頭の中を真っ白にした。


「修二くん、これ……これ……」

「出来る事なんて多くないんだ。俺はやっぱりただの高校生で、夏希みたいに生まれつき才能に恵まれてるわけじゃない。誰でも出来ることしか出来ない」


 ――体内粒子機械相互同期監視機構、新規接続申請。


「こ、こんなことしたら、修二くんまで」

「構わない」


 オーガノイドの体内に宿る粒子機械が持つシンセティックマイクロバランサーは、相互に状態を監視して、異変を察知、修復する機構だ。

 原理上、それは体内の粒子機械でなくても代替は効く。現に夏希も入院中は大掛かりな機械を使ってそうしていた。


 ただ、それとこれとはわけが違う。

 他人の体内の粒子機械を使って自身の平衡を保つというのは、それは、相手側の負担が尋常ではない。

 そもそも、その効果を十全に発揮するには、互いの粒子機械が正常にリンク出来る距離を保たなくてはいけない。


 夏希は自分が今どんな顔をしているのか分からない。

 つらつらと表示された彼の粒子機械のセキュリティのあれこれを読んでいることにさえ、言葉に出来ない想いが溢れて顔が熱い。


「だ、だって、これじゃあ、これ、これ……そのっ」


 夏希の病状は重い。倒れるときはいつも突発的だ。

 この契約で夏希の病気を防ぐためには、夏希の体の調子が狂う前に効果範囲にいる必要があって。


 だからつまり、修二はずっと夏希と一緒にいなければならなくて。


「まっ、まだ私たち付き合ってもなくて」

「これからずっと付き合うだろ?」

「ず、ずっ……と」


 イスカが溜息混じりにセレネを見て、肩を竦めた。

 セレネは、修二の発想に呆然と顎を落としていた。


「そ、そんな、私なんかダメだよ、ゲームしか興味ないし、料理も家事も出来ないし、女の子らしいこと全然出来ないし」

「必要ならすぐ覚えるくせに?」

「そうだけど! そうじゃなくて!」

「それがどうした」


 その言葉は、あんまりだ。夏希は口を噤んだ。

 それを持ちだされたら、雛森夏希は黙るしかない。

 それが彼の原動力だから。


「だから、夏希」


 イカロスの翼が溶け落ちて、海へと落ちていくのなら、この背に乗せて行けばいいと。

 溶け落ちた蝋の雫に身を焼かれても構わないと。

 修二はとっくに覚悟していた。


 修二は、夏希が好きだからだ。




「どこまでも、一緒に行こう」




 気が付くと、夏希は彼に手を引かれてピットの外へと向かっていた。


 いつ頷いたかも分からないけれど、暗がりから踏み出した一歩を、夏希は生涯忘れない。


 夏希はもう一度だけ涙を拭って、修二の背中に飛びついた。




 ――少年の名前は鷲崎修二。

 夏希は少年のことを、さいっこうに愛している。

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ワックスワーク・ワルキューレ 宗谷織衛 @Olier_claire

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