第十一話 午後十時

 お母さんが私を呼ぶ声がする。

「瞳子ちゃんから電話だよ――」

 珍しい――というか、有り得ない。

 トコちゃんがこんな時間に電話をしてくること自体。

(しかも、どうして携帯電話ではなく固定電話?)

 今日のこともある。私は大急ぎで電話まで走った。


 *


「もしもし、聡子だけど」

(あ、サトちゃん)

「どうしたの、こんな時間に」

(うーん、訳を説明している時間がないんだけど――)

 声は思ったよりも明るかったが、なんだかひどく言い辛そうにしている。

(当分会えなくなるけど心配しないでね、って伝えようと思って)

「えっ」

 私は驚いた。

「なんで。そんな急に。今日のことが何か問題になったとか――」

(あ、うーん。そうとも言えるし、そうとも言えないんだけど)

「何が何だか分からないよ」

(ああ、そうだよね。訳分かんないよね。ごめんなさい)

 申し訳なさそうに話すトコちゃんに、一瞬にして頭が冷える。

「あ、こっちこそごめん。えっと。じゃあ、どういうことなんだろう」

(ごめんね。細かいことは話せないんだ。でも、私はもう大丈夫だから)

 そう言うトコちゃんの声には、とても力があった。

 依然として意味不明だが、私は力を込めて言った。

「分かった。いや、なんだか分からないけど、分からないなりに信じる。しばらく会えないけど、心配するなってことよね」

(そう)

「どこかに行くことになるの」

(そうなる。そして、行き先は教えられないの)

「そう――なんだ」

(うん)

 しばしの沈黙。私は全力で考える。

 トコちゃんが意味なく音信不通になるわけがない。

 これには深い理由がある。

 例えば、これからの行き先を私に教えることで、私が何か問題を抱え込むことになるとか、そんなことで――

 聡子は問題の大きさに愕然とした。

(それでね、お願いがあるんだ)

「えっ。何」

(ちょっとカニコを預かってほしいの。今、カニコは家にいて、すっかり眠ってしまっているので、連れて帰ってほしいの)

「うん。それくらいならなんてことないけど」

 実際に、笠井家が長期旅行に行く時など、カニコ二号を私の家で預かることはある。ペトロニウスが笠井家に行くこともある。

 そして、預かるということは――

「じゃあ、必ず帰ってくるということだよね」

(うん。そうなるってパパは言っていた)

「そう――じゃあ安心だ」

「そうだよ。安心だよ」

 また沈黙の帳が落ちる。

(じゃあ、そろそろ行くね)

「えっ」

 私は激しく狼狽する。

 ここは何か言わなければいけないところだが、何を言うべきか分からない。

「待って。その、うん。なんだろう。そう。私はトコちゃんのこと、絶対に信じているから、もう本当に信じているから、なにがなんでも信じているから――」

(――)

「お願い、絶対に帰ってきて。お願いだから!」

 支離滅裂で、最後には涙声になってしまう。

(大丈夫だよ。私は必ず帰ってくるよ。じゃあね)

 電話が切れた。

 私はしばらくの間、受話器を握りしめながら立ちすくむ。

 そして、

「お父さん、お願い。一緒に来て」

 と叫ぶと、玄関に走りだした。


 *


 お父さんはなにも言わなかった。訳も聞かず、ただ即座に

「分かった」

 とだけ言って一緒に自転車で走りだした。


 トコちゃんの家に、向かう。

 肺が痛くなるぐらい必死でペダルを、回す。

 夏の温気が残る夜を切り裂いて、走る。

 伝えきれなかった思いが頭のなかでペダルのようにぐるぐる、回る。

 刻一刻と離れてゆく二人の距離を、思う。

 そしてそれを少しでも縮めるかのように自転車を、飛ばす。


 トコちゃんの家についた時には汗だくだった。

 私は切れ切れの息の中で、笠井家を見上げる。笠井家の明かりはすべて消えていた。

「カニコはなんだかよく寝ているね。ゆすっても起きないや」

 お父さんはそれだけ言うと、一緒に笠井家を見上げてくれた。私は、自分でも論理的ではないことを自覚しつつ、こんな風に感じていた。

 暖かいものが暴力的に断ち切られた、唐突な喪失……

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パパは覆面作家 第五章 我が家は絶体絶命? 阿井上夫 @Aiueo

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