第十話 再び、午後七時
私がちょうどパパに、今日あった事件のことを話し終えた時だった。
パパの携帯電話に着信があり、パパが急いで出た。以下、相手の発言は後でパパから教えてもらった内容に基づく。
「もしもし」
(もしもし、笠井さんですか。娘が、娘が――)
「もしもし、四月朔日さん。どうしたんですか」
しばし無言。そして――
(えっ)
という驚きの声が聞こえてくる。
「もしもし、四月朔日さん、大丈夫ですか」
(はい。あの。そうです。笠井洋さんですが)
なんだか受け答えがおかしい。
(えっ、そうなんですか)
「あの、四月朔日さん」
(はい。あ、そうですか。はい。笠井さん、あの、男の方が電話を代わりたいと)
「あ、そうですか。分かりました」
携帯電話を渡すらしい、かすかな物音が聞こえて、男が電話に出た。
(ああ、兄貴。俺、隆だよ)
「えっ、お前どうして四月朔日さんと一緒にいるんだ?」
(いやあ、偶然、日野のバス停で一緒になった)
なんだかのんびりとした声で、隆さんはそう言った。
「そうなのか。ふうん。まあ、そういうことなら四月朔日さんにまた代わってくれ)
(ほいきた)
再び物音がして、四月朔日さんが電話に出る。
(あの、弟さんですか)
「はい、そうなんです。私の弟で隆といいます」
(なんだか全然似ていませんね)
「そうなんですよね。まあ、いろいろと事情がありまして。それより娘さんがどうかしたのですか」
(あ、そうです。娘が拉致されました)
そして、四月朔日さんが今日あったことを説明し始めた。
*
電話を終えると、しばらくパパは黙っていた。
(私のことは、もう忘れられてしまったのだろうか)
ちょっと残念な気がしたが、向こうもかなり取り込んでいるらしい。
「瞳子」
「はい」
私は、いつもの『良い子モード』に移行する。
「大丈夫だよ。私の方は大丈夫だから――」
「いや、そうじゃなくて」
パパは、珍しく厳しい顔をしている。
「全然大丈夫じゃないんだ。今の電話でそれが分かった」
「えっ」
私は驚く。どうして四月朔日さんの電話と私の話が結びついて、大丈夫ではなくなるのか、その意味が分からない。
「そうだな。うん。説明したいところだが、今はちょっと時間がない」
車が家の前までやってくる音がする。
「もう一つ、大丈夫じゃないことがありそうなので、ちょっと自分の部屋に隠れていてくれるかな」
*
「もういいよ」
自分の部屋のベッドの下に隠れていた私を、パパが呼びに来た。
「ママも帰ってきたから、今日一日のことをみんなで考えよう」
*
リビングに行くと、ママが座ってコーヒーを飲んでいた。
なんだかとても澄んだ顔をしている。先日、急に泣き始めた後のママもそうだった。私が隣に座ると、とても優しい目で私を見つめ、そして優しく髪を撫でてくれた。
パパは自分の分のコーヒーと、私の分のミルクを持ってきて、目の前に座る。
「さて、どこから話そうかな」
パパは腕組みをして、斜め上を見上げた。
「多少面倒な話でも構わないわよ」
ママが優しい声で言った。パパは苦笑する。
「じゃあ、ママと瞳子に隠していた一番の問題から話そうか」
ママと私に隠していたこと?
覆面作家の件じゃなくて?
「まず、ショコラ・デ・トレビアンのことだけど――」
パパは表情を引き締めると、話し始めた。
「――ショコラ・デ・トレビアンの正体は、四月朔日さんなんだ」
私はいきなりの爆弾発言に驚いた。
それって、犯罪者の正体を知っていたのに、ママに内緒にしていたってことじゃない。思わずママのほうを見上げると――
「そうなんだ」
ママは平然としていた。
「おや、全然驚かなかったね」
「パパのことだから、何か事情があって隠していたのでしょう」
ママはとても静かな口調で言う。
私はそれにも驚いた。どうして『正義の味方』にあれほど拘っていたママが、この犯罪者の手助けをしたに等しい話を、平然と聞けるのだろう。
「うん。まあ、そうなんだけどね。じゃあ、もう一つ隠し事を明らかにしておこう」
「はい」
「実は僕は覆面作家なんだ。瞳子がよく読んでいる『児玉水力』がそう」
「あ、あれが。だから変に警察内部のことに詳しかったんだ」
「だから、実名を出すわけにはいかなくてね」
「ふうん。あ――」
そこで、ママが急に言葉を切った。
「ということは、児玉水力というのはパパのペンネームで。先日の神原さんの件は――」
ママの顔がみるみる赤くなる。
「えっ、えっ、そういうことなの」
「そう、そういうこと」
「なんで。えっ。もう、パパったら――」
えっ、なんでそこで怒るの?
「ああ、ごめんごめん」
パパは苦笑しながらママに謝っている。
なんだか、今日一日がなんのことはない、それでも良い一日だったような気がしてくる。
「それでね、四月朔日さんは僕の担当の編集者さんで、ショコラ・デ・トレビアンの犯行は僕のアイデアが元になっていたんだよ」
またまた爆弾発言。
要するに共犯?
「ああ、それは気がついていた。なんだか似たようなことが書いてあるなって」
またもやママが受け止める。
もう、何がどうなっているのか私にはよく分からない。
「瞳子は早いうちから、僕が覆面作家であることに気がついていたんだけどね」
急に振られて私はあせる。
「あ、うん」
「そうなんだ。なんだ。私だけが知らなかったんだ」
「そうなんだ。ごめんなさい」
「あ、それはいいから、話を続けて」
「それで、僕は途中で四月朔日さんの正体に気がついたわけだけど、彼女が犯罪に手を染めたのには理由がある。お子さんが原発性免疫不全症候群で入院していて、ショコラ・デ・トレビアンはその子の想像の産物なんだ」
「うん」
「だから、怪盗の名前がそれ」
私はさらに混乱する。
「えっと、ということは娘さんの病院の費用が必要だからということで――」
「あ、それは違うわよ」
ママがなぜそこで否定する?
「長くて面倒だから四月朔日さんと呼ぶけど、彼女は決して盗みは働いていないの。ただ侵入を繰り返していただけ」
「えっ」
余計にわけが分からない。
「そうなんだ。彼女は何も物を持ちだしてはいない。持ちだしたのは情報だけなんだよ」
そこでパパは一口コーヒーを飲む。
「その件は話し始めると長くなるので、また今度にするとして――」
「えー、そんなあ」
私は不満の声をあげる。
パパとママはなんだか楽しそうに微笑んでいる。こんな柔らかな時間はいつ以来だろうか。
「それでね。そのことに気づいた人がいると思われるんだ」
そこでパパが姿勢を正した。
ようやく話が核心に入る前触れ。今までのは前座にすぎない。
*
「どこの誰かは今のところ分からないので、とりあえず『彼ら』と呼ぶことにするけど。彼らは四月朔日さんの正体に気がついて、先手を打つことにした。四月朔日さんの行動を監視して、協力者の存在を探る一方で、彼女の行方が分からなくなった時のために、人質をとる準備までしていた」
「えっ」
「さっき、四月朔日さんから電話があっただろう。あれは、彼女の娘さんが拉致されたことを伝える電話だったんだ」
「お嬢さんが拉致されたって、大変じゃない」
「そうなんだけど、先に言った通り娘さんは原発性免疫不全症候群で、外気に触れることができない。だから無菌状態で運び出すしかないんだ」
「――相手はそれが可能な組織ということね」
「そういうことになる」
俄に話が大きくなる。
「まあ、後で四月朔日さんが隆と一緒に松本まで来るので、詳しい話はそこで聞くことにしよう」
「えっ、なんでそこで隆さん?」
「そうなんだよね。また彼の変な体質が出たみたいだね」
ああ、厄介事に巻き込まれやすい体質ね。
「そして、その組織の矛先は四月朔日さんだけではなく、僕達にも向いている」
「えっ、なんで。パパが協力者だからなの?」
「いや、多分そうじゃない。それは気づかれていないと思う」
「じゃあ、どうして私達に話が及ぶのかしら」
「それなんだけどね」
パパはママの目を見つめて言った。
「おそらく、ママにこれ以上捜査をさせないためだと思う」
つかの間の沈黙。
「――それって、つまり私がショコラ・デ・トレビアンを逮捕してしまうことを避けるため、ということかしら」
「おそらく」
「だから、県警本部が急に広域犯罪指定に踏み切ったのね。そして私を担当から外したと」
「ああ、そうなんだ。それは知らなかったけど、一連の出来事だと思うよ」
「ふうん、でもどうしてもっと早めに広域指定しなかったのかしら」
「それは、彼らがショコラ・デ・トレビアンの正体を知ったのが最近だからだと思う」
「どうしてそれが影響するの」
「もし、早めに警察に圧力をかけて捜査をやめさせたとする。その後もショコラ・デ・トレビアンが犯行を重ねられたらどうなるかな」
パパは質問に対して質問で答える。
「それは、不満や不信感が生じる――ああ、だから自分たちで対処できるようになったから、警察は用済みということなのか」
「そう、その通り。そして、僕には海外赴任の辞令で攻めてきた」
「えっ、海外? どこに?」
私はまたもやの急展開に慌てる。
「中国の蘇州」
「いつ?」
「三ヶ月後」
「受けたの?」
と、これはママ。
「保留してある」
「えー」
もう頭がついていかない。なんだろうこれは。
「そして、瞳子が学校で盗みの容疑がかかるように工作したんだ」
「えっ」
ママはそう言うと私の顔を見つめる。私はなんだか萎縮する。ママは厳しい顔で断言した。
「そんなことするはずないじゃない」
パパも聞いた直後に、同じように断言したのを思い出す。それでまた涙腺が緩みそうになる。
「そうなんだ。だからこれは一連のもので、僕達を標的にした敵の罠なんだ。罠に落として逃げ道を準備する。それに乗れば見逃すし、乗らなければ――」
「実力行使」
「そうなる」
ママとパパがそこで顔を見合わせた。
「パパ」
「はい」
「そこで私も気がついたことがある。今日、担当から外されたことはさっき話したけど、実は捜査をやめるつもりはなかったの。だから榊と馬垣にも説明した上で、なんとか別件で捜査が続けられるように画策していたところだったの」
「ふうん、じゃあさっきのは――」
「そう、それを知った誰かが送り込んできた刺客」
「えっ、刺客って――」
私は、今日一番の不穏当な言葉に飛び上がる。
「ああ、もう帰ったし、今日はもう来ない。でも、明日からは分からない。そこで、ここからが相談となる」
刺客のことを宅急便のおじさんのように扱ってから、パパはまた姿勢を改めた。
「我が家は今、絶体絶命の危機にある。急ぎ取りうる行動は、基本的に二つしかない」
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