その感情を、青と名付ける

hibana

その感情を、青と名付ける

 人は、状況が自分の手に負えないとわかると天を仰ぐしかなくなるのかもしれない。

 殴られた頬を人差し指でつついて、私は自嘲の笑みをこぼす。

 神崎杏子、十六歳。派手に生きてきたつもりはない。ただどこも生きづらくって、家にも学校にもいたくなくて、知らない顔ばかりの街をひた歩き続けた。駅前で座り込みながら意地みたいに本を何時間も読んで、誰かが声をかけてくるのを待っていたりした。

 そうして悪い男に引っかかって、いくらか貢いだ。あげくに男が、働いている店の金をちょろまかして、バレたら私を差し出して逃げた。怖かったから走って逃げようとしたら、殴られて泣いた。

 すべてに理由があることが、馬鹿みたいだと私に思わせる。もっと突発的で、理解不能の方が面白かったのに。

 もう逃げないだろうと踏んでいるのか、私の少し後ろに男が歩いていた。ずっと無表情に、低い足音だけが響いている。

「私はどうなるんですか」とさっき聞いた。とても機械的に、男は答えてくれる。「普通は速やかに職場を提供するが」


「私は普通じゃないんですか」

「裏切りもんの女だ。どうするかはあの人が決める」


 十六歳で『女』と言われても、違和感は広がるばかりだ。『あの人』という言葉とともに、うなづけないまま歩く。

 それから上へ上へとあがっていき、ようやく一つの部屋に通された。途端に私は背中を蹴飛ばされて、不恰好に転がる。

 目の前にはスーツを着崩した男が、ソファに腰かけていた。にこにこと人のいい笑顔を浮かべながら、「やあお嬢ちゃん、こわかっただろう」なんて言う。


「どうしてこんな嬢ちゃんを殴って、そんでもって蹴り飛ばしたんだ? 可哀想だと思わねぇか」


 私がようやく起き上がると、彼は自分の着ていたジャケットを私の肩にかけた。『あの人』というのは彼の事だろうか。どんな怖い人物かと覚悟していたが、存外人懐こそうな表情を私に寄せてくる。


「女の顔ってのは大事な商売道具だぞ」


 なあ? と首を傾げる姿は、子どものように無邪気で、だから私は生唾をのんだ。やっぱり、怖い。


「ほら可哀想に、震えてるじゃないか」


 私の背中を蹴り飛ばした男が、無表情に頭を下げる。それから「どうしますか」と言った。


「そりゃあ、こっちは損してるわけだから。その埋め合わせくらいはしてもらわにゃ」


 そう優しい顔をして、私の顔をじっと見る。「べっぴんさんだから、そこまで大変じゃないさ」

 私は視線をそらして、唇を噛む。「そうですか」とまた感情の感じられない声が響いた。


「男はどうします」

「放っておけ。クズは美人と違って金にならねえ。廃品回収なんてしてる暇もねえだろう」


 楽しそうに言いながら、「俺もうまいことを言う」なんてひとりごちる。それから沈黙が続き、「谷中さん」と語気を強めた呼びかけが私の横を通り過ぎて行った。


「あんたは甘すぎる」

「お前、俺のことを食う気か」

「けじめだ。そうでしょう、こんなんで若いやつらが勘違いしたら困る」

「勘違いは若いうちにしておいた方がいい。歳をとればいやでも現実を見なくちゃならなくなる」


 どうして真面目に聞いてくれないんですか、と初めて後ろの男が不機嫌そうな声を出した。機械のような声がデフォルトであったわけではないらしい。


「わかったわかった、男は捕まえてけじめだのなんだのつけさせろ。俺には興味のない話だ」

「女も、殺しておきましょう。見せしめに」


 おいおい、とソファの上であぐらをかきながら谷中と呼ばれた男が呆れたような顔をする。「女は金になる」それから、言い聞かせるように谷中は続けた。


「いいか、竹司。俺はお前が言うほど甘くない。ただ合理主義者なんだよ。お前は若いくせしてやることが任侠映画みてえだぜ」

「あんたがナメられるのは、もう我慢できねぇんです」


 谷中は両手を上げて、「世の上司ってのはみんな舐められてんだ」と大げさに言った。


「お前の気持ちは嬉しいが、だからってたかだか十五、六の小娘を殺したって後が面倒なだけだ。家出娘にだって家族はいるんだぜ。こんなくだらないことで人を殺すな」


 竹司と呼ばれた若者は、納得して部屋を出て行こうとした。まさか置いていく気かとうろたえる私を、振り向きもせずに扉まで歩いて行ってしまう。

 恐る恐る振り返ってみると、谷中はやれやれという表情で扉の方を見ていた。「あの」と口を開いた瞬間に、私は谷中に頭をおさえつけられる。銃声が響き、ガラスの割れる音がした。

 ゆっくりと谷中は立ち上がり、「銃ってのはやかましくていけねえ」なんて不敵に笑う。

身をこわばらせながら目だけを動かすと、出て行ったはずの竹司が扉の前に立っていた。


「日ごろから音を消せと言っているが」

「あんたの言うことは聞いていられないってことです」


 なるほど、と谷中が目を細める。「そんなに俺のやり方が気に入らないのか」と確かめるように言った。竹司は、「違います」とかぶりを振る。


「オレは、オレたちはちゃんとあんたについていきたい。いつまでだって。なのにあんたが突き放すんじゃないか。あんたは甘いんじゃない。わかってる、本当に興味がねーんだ。こんなに長い間あんたのために生きてきたのに、あんたは一度も振り向かない。ずっと背中を見てきた。憧れだった。だから今日を心待ちにしてきたよ。捨てられる前に、あんたを越えるんだ」


 噛みつくように叫ぶ若者の顔には、先ほどまでの機械のような表情は微塵も浮かんでいない。「女を殺してください」と竹司は感情を押し殺したような声で言った。


「なぜここで女が出てくる」

「先ほど女をかばったのはどうしてですか。オレたちには微塵も興味を示したことがないくせに、どうしてその女のことを」

「俺に何のメリットがある」

「女を殺せば、従順な下僕に戻ってやってもいい」

「無茶苦茶言うな。八つ当たりもいい加減にしろ」


 ため息をつきながら、谷中はまたソファに腰を下ろして腕を組んだ。「拗ねたガキの扱いづらさときたら」と嘆く。それが竹司の琴線に触れたようで、眉をピクリと動かした。


「拗ねたガキ?」


 銃を天井に向けて、竹司は引き金を引く。私は耳を押さえて、そのままうずくまった。途端にぞろぞろと、男たちが入ってくる。


「俺たち全員、拗ねたガキだとおっしゃいますか?」


 肩をすくめて、谷中は「ああ」と呟いた。


「お前たち全員、可愛らしく拗ねたクソガキどもだよ」


 それから震えている私の肩に手を置いて、「お嬢ちゃん、あんた随分と引きが強いねえ」と片目をつむってみせる。「ここまで社会経験が積めれば大人になって苦労しねえぜ。まあ、大人になれればの話だけどな」と茶化すように言って見せた。

 私は眩暈を覚えて、倒れそうになったところを谷中に支えられる。見上げた谷中の顔は、どこか楽しげに輝いているようだった。




######




 冷たい廊下を歩きながら、私は途方に暮れて天を仰ぐ。「お嬢ちゃん」と声をかけられて横を見ると、谷中が微笑んでいた。


「昼飯は食ったのかい」

「そんな時間は」

「じゃあ腹が減っただろう、可哀想に、育つもんも育たねえな」


 そう胸を見ながら言う谷中に呆れ果てながら、私は「気づかなかったんですか」と問いかけてみる。


「気づかなかった、とは」

「裏切りの予兆と言うか」

「そりゃあ、あったぜ。俺は未来が見えんだ」


 この期に及んでこんな冗談が言えるのだから、賞賛に値するとは思う。だけれども巻き込まれた身としては、ため息をつくよりほかにない。なんせ通常なら、身体を売るくらいで解決したような話なのだ。命を握られた今、売春くらいならばたやすいことのように思えた。もちろん、こんなことがなければ死んでも嫌だと泣いただろうが。

 やがて一つの部屋に通され、私はうろたえる。谷中のほうは図々しくも円卓の一番奥に座って様子をうかがっていた。私も座るように促されて、恐る恐る席に着く。

 やがてテーブルに、拳銃が重々しく置かれた。


「ゲームをしましょう、谷中さん。覚えていますか」


 言いながら竹司も椅子にすわる。


「オレがあんたの元につくことになったのは、ロシアンルーレットが始まりだったでしょう」

「お前が粋がって、俺の店にちょっかいをかけてきたころか」


 懐かしいな、と言いながら谷中はついでのように拳銃をこめかみにあてて引き金を引く。玩具のような音がして、谷中は静かに拳銃を戻した。それから私にも、拳銃を手に取るよう促す。


「わ、私も?」

「じゃなかったら座ってないだろう」


 沈黙が痛くて、おっかなびっくり拳銃を手に取ってみる。「こ、これ、どうすれば。ここを引けばいいんですか」と確認するが、誰も教えてはくれなかった。

 できる限り自分と離しながら、しかし銃口は自分に向けて引き金に指をかける。死んだらどうしよう、とぼんやり思った。死んだらどうしよう、痛くないといいな。

 引き金を引いた。空気が重い壁にぶち当たる音がする。それだけだ。私は短く息を吐いて、すぐにそれをテーブルに置く。

 竹司が素早く銃をこめかみに当てて、簡単に撃ってみせる。何も起こらない。

 また谷中の番だ。自然な仕草で同じように引き金を引いて、肩をすくめた。「これ、いくつ入る弾倉だ」と聞く。誰も答えない。

 今度は私の番だ。なんだかおもちゃを扱っているような気がして、私は真っ直ぐに手を伸ばす。

 その時、唐突に谷中が立ち上がった。

 拳銃を素早くつかんで、天井に向ける。鋭い銃声が私の脳をかき回して、耳鳴りをおさえるように頭を抱えた。


「ああ、思い出したよ」


 谷中はゆっくりと腕を下ろし、銃を放り投げる。


「あの時のお前はすっかり怯えて、一発目から天井に撃ちやがった。そんでもって綺麗な穴をあけたもんだから、大したガキだと思ったもんだぜ。幸運の女神に愛された悪戯小僧ってのは、なかなか面白かった」


 それから谷中は私の首根っこを掴んで立ち上がらせ、後ろの窓を全開にした。

 戸惑っている男たちの目の前で、谷中が飛び降りた。目を見張っていると、下から「お嬢ちゃん」と声が聞こえる。この部屋の少し下にある、向かいのアパートのベランダだ。


「お嬢ちゃんさえよけりゃ、飛び降りて来いよ。おじさんが受け止めてやる」


 後ろでは、男たちが動き出している。迷っている時間などない。何本も腕が伸びてきて、私は足を踏み出した。目をつむって、飛び降りる。一瞬風が耳をくすぐって、気付けばあたたかな腕の中で震えていた。


「谷中さん」


 窓から身を乗り出して、竹司が叫ぶ。


「ルール違反だ、あんたの番じゃなかった」

「残念だが、俺の人生においてはいつ何時も俺の番なんだ」


 竹司は悔しそうに、だけれど少し安心したように「次は」と呟いた。後に続く言葉はない。口角を上げるだけの笑顔を見せて、谷中は私の腕を掴んだ。何かを言う前に、引っ張られて走る。

 ベランダから部屋へ侵入し、そこから廊下へ出た。本当に、誰か人がいなくてよかった、と思う。廊下をまっすぐ走っていき、階段を駆け下りると、その先の非常用ドアを開けた。ごみ置き場と化した路地裏の、生々しい臭いが鼻につく。

 谷中は止まらない。路地裏を抜けて、車の通りの多い道路を突っ切っていく。クラクションが鳴り響いて、私は足がもつれながらも必死でついて行った。

 息を切らす私を横目で見て、谷中はいきなり私の肩を抱き寄せ、そのままの勢いで膝を抱き上げる。視界がぐるりと回り、何の変哲もない青空が広がった。思わず声を出すと、「うるせーよ」と谷中が笑う。


「お姫様抱っこは初めてか、箱入りみてえな顔してよぉ」


 清々しいほどの笑い声をあげて、谷中は走っていた。子リスのように丸まって、私はただ成り行きに任せる。

 やがてブティックの前で立ち止まり、ようやく谷中は私を下ろした。何も言わずに入っていく谷中にならい、緊張しながら私も店に入る。できればこのまま帰りたい、と思いながら。


「この子に服を見立ててやってくれ。イメージが変わるくらい思い切って」


 単刀直入に谷中は言った。「お嬢さんですか?」と言いながら店員は人懐こい笑顔で私に寄ってくる。当惑しながら谷中を見たが、もうすでに私への興味を失っているようで、呑気に服などを見ていた。心細くなりながらも、店員の言葉に頷き続ける。

 数十分後、私は髪をハーフアップにして毛皮をまといながら歩いていた。隣には、笑いを押し殺した谷中がいる。上等のスーツを着て、すっかり真面目なサラリーマンと言う風体だ。


「随分イカした格好にされちまって……よく似合ってるぜ。だけどお嬢ちゃんがそういう路線で行くんなら、俺だってもうちょっと考えたんだがな」

 吐き慣れないハイヒールに苦戦しながら、私は一生懸命に歩いているというのに。隣の男は頭をかきながらへらへら笑っている。


「これじゃあビジネスホテルに素泊まりするんでも、うだつの上がらないサラリーマンが嬢に貢いでるようにしか見えねえな。いっそラブホに泊まるか」


 やめてください、と私は不機嫌になって言った。どうしてこう、この人はこの状況を茶化せるのだろう。谷中は「それも初めてか」と楽しそうに呟く。呆れて黙っている私の腕を引いて、「ここに泊まろうぜ」と谷中が言った。

 ビジネスホテルなんてとんでもない、いかにもレッドカーペットが敷いてありそうな、立派なホテルだ。私は息をのんで谷中を見た。


「ああ、金なら心配するな」

「観光に来たんじゃないんですよ」

「こういうところの方がいい。誰も通すなと言えば誰も通さないし、少なくとも一晩は比較的安全だ。あと腹が減った」

「そうですか……」


 回転ドアを器用に通りながら、谷中は堂々と歩いていく。カウンターに近づくと、「お名前は」と尋ねられた。


「申し訳ないけど、予約はしてないんだ」


 訝しげに、女性が「はあ」と答える。しかし気を取り直して、「ツインでよろしいですか」と言った。「できれば上の方で」と図々しく谷中は付け足す。


「お名前をお聞きしても?」

「谷中」

「ヤナカ様でいらっしゃいますね」

「部屋には誰も通してほしくないんだ。もしかして知人が来るかもしれないけど、今日は彼女と二人でいたい気分だからさ」

「……かしこまりました」


 女性が「ご案内いたします」と言うと、近くにいたボーイがにこやかに近づいて来て、私のバッグを持った。そのままエレベーターまで歩いていき、私たちを乗せて上がっていく。

 やがてベルが鳴り、長い廊下が広がった。どこか機械のようなぎこちない動きで、ボーイは私たちを部屋まで案内する。

「ありがとう」と言った後で、思い出したように谷中は「食事を用意してくれるとありがたいんだが。たくさんね」とつけ加える。ボーイはにこやかに「かしこまりました」と答えた。

 頭をかきながら、谷中が奥のソファのへりに行儀悪く腰掛ける。大きな硝子戸を少し開けると、風が私のところまで吹き抜けた。外は暗い。星もない空は、まるで吸い込まれそうなほどの黒だ。


「夜景は好きかい」

「わからない、です」

「無理に敬語なんか使うな」

「こわいです」

「俺が?」


 小さく頷くと、谷中は目を細めて外を眺めた。気まずい沈黙に思わず姿勢を正しながら、私は彼からのアクションを待つ。谷中は何も言わない。やがてチャイムが鳴り、ボーイが料理を持ってきた。

 イタリアンを中心に、チャーハンや寿司など、雑多ながらも美味しそうに盛りつけられている。私はわざとそれから視線を外して、谷中が何か言うのを待った。


「食わねえか」

「いいんですか」


 カンの悪い小娘だ、と谷中は笑う。「むしろ俺は食わねえよ、こんなに」と楽しそうな顔をした。


「た、食べないんですか」

「歳を取ると見るだけで胃がもたれてくんだよ。満腹だ、もう」


 言いながら谷中は近づいて来て、おもむろにフォークを生ハムのサラダに刺す。自分で食べるのかと思いきや、押し付けるように私の口元へ持ってきた。抵抗もできず、私はそれを口にする。美味しかった。


「初めて食べた」

「美味いか」


 私は小さく頷く。にわかに空腹感が襲ってきて、恥ずかしさを覚えながらも料理を次々と手に取った。

 ずっと微笑ましげに見ていた谷中が、口を開く。


「カレシのこと、好きだったか」


 手を止めて、私は谷中に怯えた目を向けた。「わからないです」と震える声で答える。


「だけど、優しかったから。殴ったり蹴ったりもされたけど、お金を出せば優しかった。愛してるって言ってくれたし。好きだったと思う」


 谷中は眉をひそめ、困ったような顔をした。それから優しい子守唄のような声で、「あのな」と私に言い聞かせる。


「それでも愛とか優しさってのは、ふつう金じゃ買えないんだぜ」


 わかっているけど、と私はぼんやり外を見る。街の明かりが乱反射して、美しさが惑わしてくるようだ。

 優しくしてほしかった。愛してほしかった。大切にしてほしかった。たぶんそれだけだったのに、何もかもが手に届かない。


「いいかい、嬢ちゃん」


 片膝をついて、谷中は私の手をやわらかく包み込んだ。


「この街に『愛されたい』とすがるのは金輪際やめろ。街に愛は落ちてねえ。愛ってのは人しか持ってねえもんだ」


 私が何かを言う前に、谷中は気だるげな瞳をそれでも優しく細めながら続けた。


「綺麗なもんだけ見てろ。美味いもんをたらふく食え。あったかいところで寝ろ。それができる場所まで逃げることだ」


 戸惑う私を抱き寄せて、静かに背中を叩く。「わかるだろ? 利口に生きようとするな」とささやいた。

 甘い響きがする。そんなことよりも口づけが欲しい、愛が欲しい。どんな痛い目にあっても、心がそう叫ぶのだから仕方がない。


「俺は何ひとつ真剣に向き合ったりしなかった。手を抜くことが利口だと勘違いして、何もかもを持て余しているだけだった。無様でも泣きわめけばいい。でも見境なくじゃ駄目だ。不器用な嬢ちゃんじゃ難しかろうが、ちゃんと見極めろ」

「でも。でも私、偽物だっていいのに」

「お嬢ちゃんが本物である限り、偽物なんて釣り合わねえよ」


 ぎゅ、と私は拳を握る。谷中が私を離し、ショートケーキに乗っていた苺を食べた。思わず「あっ」と声をもらしてしまった私を見て、からかうような表情をする。


「苺、好きだったのかよ」

「あの、いや」

「好きだったか?」

「は、はい!」


 くすくす笑いながら、谷中は「なんだ」ともらした。「『たぶん』とか『思う』とかじゃなく、言えるじゃねえか。ちゃんと好きなら」

 私は顔を赤くしながら頷く。満足したように、谷中はベッドに寝そべった。


「ぜんぶ終わったら、あいつらもあんたには興味がなくなるだろう」

「そう……ですか? あの人、竹司さん? 私のこと、殺そうとしてるんじゃ」

「あいつのことは気にするな。周りに担ぎ上げられただけだ。利用されて、終わったらどうなるんだろうな、あいつは」

「終わったら、自由になれますか? ほんとう?」

「もちろん。言ったろ、俺には未来が見えんだよ。それに、俺は首輪をつけられた女は好きじゃない。いい女ってのは自由でいるのがいいに決まってる」


 それからまた、谷中は苺を口にした。「俺も好きだよ」と挑戦的に笑いながら。私はムッとしながら、ケーキを囲い込む。谷中がけたけた笑った。

 お腹がいっぱいになってぼんやり座り込みながら、私はため息をつく。見知らぬ他人が創った物だって、手作りならば美味しいと知る。

「おねむかい」とささやかれ、私は顔を赤くしながら頷いた。「お嬢ちゃんさえよけりゃ、こっちへおいで」と谷中に自分の座っているベッドへ招かれる。

 私はおそるおそる、ベッドの端に腰かけた。谷中はそんな私の肩を掴んで、引き寄せる。私はそのままこてんと倒れて、谷中の顔と天井をぼんやり眺めた。

 やがて目をつむり、じっと耳を澄ます。ライターで火をつける音が聞こえてきた。

 黙って彼の様子を盗み見る。谷中は煙草をくわえながら、財布を片手に頭をかいていた。「しけてるよなぁ、我ながら」とひとりごちる。それから慣れた手つきで煙草を指で弄んで、ため息のように煙を吐いた。

 子供が寝た後で財布の中身の心配をして、子どもが寝ている隣で煙草を吸う。それがなんとなくちぐはぐで、大人らしくて、笑ってしまいたくなる。

 わがままを言ってみたくて、振り回したくなって、何もできないからただ気づかれないように谷中の服の端を掴む。とろとろと誘うような睡魔に身をゆだねて、谷中のタバコの煙が窓から消えていくのを見た。

 私もああやって、消えていければいいと思う。そうしたらこの人は追いかけてくれるだろうか。

 くれないだろう、たとえ夢の中であっても。




#####




「もう一泊していきませんか」

 少し意地悪な気持ちで、私はそう言った。案の定、谷中は渋い顔で難色を示す。「これ以上同じところにいたら他人様に迷惑かけるかもしんねぇ」ともっともらしいことを言った。

「それに、いいかいお嬢ちゃん。俺だって男だ。昨夜あんたの貞操が守られていたのは奇跡みたいなもんだぜ。こんなおっさんに襲われてぇか?」なんて優しくうそぶくので、私は黙って頷いた。肯定とも否定ともとれるように、ゆっくりと。

 ホテルを出た二人は、どこへとも決めずに歩いていく。昨日手に入れた薄着では、やはり震えるほどに寒い。

 この時期にしては珍しいほど暖かいけれど、人の体にはだいぶ厳しい風が吹く。

「もうすぐ新しい年か」と谷中が呟いた。「新年は何をして過ごす」と興味もなさそうに聞いてくる。


「何もしません」

「だよなぁ」


 スーツのポケットに手をつっこんだまま、谷中は近くのベンチに腰をかける。


「俺は一応初もうでに行く」

「神に祈るんですか?」

「おう、御籤も引くしな。寒い中に大勢がひしめき合って、なかなか楽しいぜ。お嬢ちゃんも連れて行きてえよ」

「じゃあ」


 連れて行ってください、と目を合わさないまま私は言う。谷中はちらりとこちらを見て、無言で煙草に火をつけた。

 煙が白い空に昇っていく。分厚い雲と同化していくのが見えた。


「ガキの頃は露店が楽しみで仕方なかった」


 そう、ぽつりと谷中は言う。「そういう気持ちを、一つずつ拾っていけ。俺じゃない誰かと」

 無気力を絵にかいたような表情で、谷中は煙を吐く。それからおもむろに立ち上がって、うつむいたままの私の頭をなでた。


「同情するぜ小娘。だけど、俺じゃないだろ」

「あなただって言ったら」


 私は顔を上げて、谷中の目をじっと見る。「一緒にいてもいい?」

 じっと見つめ合い、強い風が二人の髪を揺らした。やがて谷中は、私の額を指ではじく。


「いきがってんじゃねえよ」


 冷たい声で背中を向けて、谷中は歩いて行ってしまった。私はこぶしを握りしめて追いかける。すがりつくというより噛みつくように、必死でついて行った。


「未来が見えるんでしょう? ねえこれから私たちどうなるんですか」

「なんとかなる」

「なんとかって」

「ロシアンルーレットだよ」


 ふと、谷中は立ち止まって目を細めた。


「先が見えたって結局、人生はロシアンルーレットだ」


 谷中の見ている先をたどっていくと、男がふらふらと歩いているのが見えた。酔っているのか、随分と危ない足取りだ。嫌だな、と思って振り向くと、同じような男が二人こちらへ近づいて来ていた。


「谷中さん、」

「あら随分しおらしくなっちゃって。怖いか、嬢ちゃん」

「……こわいです」

「いい子だねぇ本当に」


 前から近付いてきた男が、「お前たちに恨みはないが」とにやにや笑いながら言った。「俺にも恨みがない」と谷中は肩をすくめる。

「恨みがないもの同士、何事もなくお別れしたいところだが」とぶつぶつ呟いて、谷中は口角を上げた。「無理だろうな」と、不意に半歩、右足を前に出す。

 前の男が身構えたが、谷中は当たるか当たらないかくらいの距離まで緩慢に腕を動かしただけだった。が、男は悲鳴を上げて離れる。谷中の手には、まだ火のついている煙草が握られていた。


「おっと、灰皿の代わりくらいにはなんねえかなぁ。どうせ雑魚なんだから」


 激高した男が我を忘れて突っ込んでくるのを、谷中はポケットに手をつっこんだままかわす。両側に挟まれる構図だったものが、単純な三対一へと変わった。谷中は私を背中において、拳を構える。


「遊ぼうぜ、可愛い糞ガキちゃん」


 その声を合図に、相手が同時に間合いを詰めてきた。「馬鹿かよ」と嘲笑しながら、谷中は後ろへ退く。動きづらそうな男三人が手を伸ばした。それをひらりと避け、谷中はけたけた笑う。


「いるんだろう竹司。こんな雑魚となんか戦わせるなよ」


 鼻息を荒くする男たちをからかうように避けていく谷中は、私から見てもひどく楽しそうだった。少しずつ私から遠ざかっていきながら、くるくると谷中は回る。お人好しの目をして、馬鹿にしきった避け方をしてみせる。

 しばらく呆けて見ていると、唐突に谷中は男の一人を殴った。驚いて固まる男の腹にこぶしを入れ、谷中は首をかしげる。


「飽きたぞ竹司。次のゲームを用意しろ」


 手早く三人を地に伏しながら、谷中は軽く手を叩いた。それと同時に、悔しそうな顔の竹司が谷中の前へ現れる。


「谷中さん、本当に後悔しませんか」

「しないんだなこれが」


 竹司の後ろから、男たちがぞろぞろと出てきた。「へえ」という顔をして、谷中は目を細める。「面白そうなゲームだな」なんて茶化すように付け足しもした。


「あなたにとってはゲームでも」


 風の音と間違えるほど小さな声で、竹司が呟く。「オレには一世一代だ。絶対に勝つ」と、その言葉を合図に、男たちが谷中と私を囲んだ。

 腰に片手を当てて、谷中は頭をかく。「なぁお嬢ちゃん」と言われて、私は思わず上ずった声で「はい」と返事をした。


「悔いはねぇか?」

「あ、あります!」


 そうか、と柔らかく笑って、谷中は私の前まで歩いてくる。その場でくるりと私に背を向けて、静かに構えた。

 複数の足音が激しく聞こえてくる。怒号が響き、谷中が微かに右足を後ろへずらした。押されているのは明らかで、それでも谷中はその場から動きはしなかった。殴られても蹴られても、逃げはしないし反撃のために前へ出ることもしない。ただその場に根が張ったような体で、殴られたり殴り返しているだけだ。

 若い男の拳を受け止めて、谷中は笑う。声を出して笑う。


「いい顔してるぜお前ら。楽しいだろ、負ける見込みがない喧嘩は。だけどな、やっぱりスリルは必要だぜ、人生には」


 それから谷中は素早く腕を左になぎ払った。男が小さな悲鳴を上げて、言うことを聞かなくなった腕を押さえる。その男の頭を掴んで、盾のようにした。散々使った後で放り投げながら、谷中はまた手を伸ばす。

 しかしその手は何も掴まないまま、ゆっくりと下された。


「この景色か」


 どこか醒めてしまったような表情で、谷中は周りを見渡す。「この景色なんだな」と、疑うように確かめるように納得するように繰り返した。

 そんな谷中を殴り倒したのは、竹司だ。

 谷中は私の隣に転がって、鼻血を拭う。竹司が何かを投げてきた。

「お前は本当にこれが好きだな」と谷中はあざ笑う。投げられたものは、黒光りする拳銃だった。


「これが最後ですよ、谷中さん。その女を撃つか、さもなければ、それでオレを撃つなりして逃げたらどうですか」

「結局は『アタシとその女どっちを選ぶの』ってことか?」


 やれやれと言いながら、谷中は肩をすくめる。「つまんねーゲームだな」と言って拳銃に手を伸ばした。

 竹司が、緊張したように拳を握ったのが見える。私も谷中をじっと見ながら、身構えた。谷中は拳銃の安全装置を外し――――

 自分のこめかみへ、銃口をあてた。

「どうして」と声が聞こえる。私は最初、その声が自分のものだと疑わなかった。だけれどそうすがるように言ったのは、竹司だ。


「ロシアンルーレットってのはよお、竹司」


 泣いている子供をなだめるように谷中は口を開く。


「俺が撃ったら、次はお前の番だ。引き金を、引くも引かぬも好きにしろ。撃たずに逃げ出してもいい。あの時みたいに、天井に向かってぶっ放してもいい。俺はそこまでの責任は持てねぇが、まあお前はなかなか運がいい。俺より器用にやるだろう。頑張れ」


 そう言って目を伏せる谷中を止めようと、私は必死に彼の服を掴んだ。「どうした?」と言わんばかりの自然な顔で、谷中は私を見る。「未来は」と泣きそうになりながら私は言った。


「未来はどうなっていますか」


 きょとんとした顔で、「見えねえな」と谷中は言う。

 それから、ふっと笑って谷中が手を伸ばした。私の額を指でつついて、思いついたようにはじく。


「首輪をつけたつもりはねえぞ」


 谷中は私の額から手を離し、やがて銃声が響いた。

 だけれどその音は、私の耳に入らない。ただ、谷中の言葉だけが耳の中にこだまして、私の心をゆっくりゆっくりかき回していった。

 スローモーションの無声映画のように、谷中は倒れていく。

 竹司が夢遊病患者のような顔で瞬きをして、何も言わずに背を向ける。一人ずつその場を離れていった。

 私は当惑して、谷中の血に濡れた髪をかきあげる。義務のように続く谷中の呼吸が止まったとき、私は途方に暮れて天を仰いだ。

 いつからか、空からは雲の影すら消えて、青い色がどこまでも広がっている。

 人は、状況が自分の手に負えないとわかると天を仰ぐしかなくなるのかもしれない。空は何も教えてはくれないけれど。

 目に沁みるような青空は、皮肉のように美しかった。

 もうこれから一生満たされることはないだろう。そんな予感を抱いて独りで見る青空は、悔しいことに、今まで見た中で一番に美しいものだった。




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