第三話 なみかぜ①

第三話『なみかぜ』


:あがりもんについて・その①


 あがりもん同士は、互いから発散される特有の臭気により、あがりもんであると察知する。



 秋の西陽をまとった三階建ての校舎が、鬼灯色ほおずきいろに輝いていた。

 その最上階の殺風景な黄昏の廊下には、柔らかさと温かみのあるピアノの音が聴こえている。

 音楽室の窓が全開にされていることは、間違いない。

 そんな必要はないのに、防音のしっかりした音楽室の引き戸に足音を忍ばせて近づき、目を寄せた。

 戸にはめ込まれたすりガラスの窓の向こうにぼんやりと、オレンジ色の残光に浮かび上がる影が見えた。ずんぐりとした体格に膨らんだ男子のブレザーが、一心不乱にグランドピアノに傾いている。

 夕陽の中のピアニスト。その姿が瞳に映り込むと、こちらの心臓が駆け足になる。

 軽く鍵盤の上で滑っていく指。踊る肘、弾む肩。

 彼が動くだけで生まれる、心とろかすような旋律に、しばし目を閉じて聴き入る。それがとあるアニメのテーマ曲だと本人の口から教えてもらうのは、それからもっと後のことになった。

 いつまでも部屋の外にいた。一旦校舎の外に出た音が廊下に戻ってくるのを、遠回りしてくるメロディを胸の内に刻んでいく。

 かたわらに立つでなく、遠くからその存在を確認しているだけなのに、なぜか魂のどこかが安らぐ…

 恋というものは、なにげなく始まって、周りの人間も、当人すら知らぬ間に育つ。その結末に待つものを、怯えるように手繰り寄せながら…


 ⏳


 普段から僕の___刀指とざし氷裂ひょうれつの弟の視線が動くことは滅多にない。いつも切り揃えた前髪の奥から、大きな大きな瞳に茫洋とした反射をたたえて、じっとどこかあらぬかたを眺めている。

 季節に芽吹く花々や、さざめく雪、耳朶を打つ五月雨さみだれ

 あるいは窓ガラスも震わす遠雷、あるいは元旦の日の出の彩雲たなびく神々しさも、はたまた海溝の深淵しんえんよりなお暗い梅雨の真夜中の宵闇よいやみにも、弟が動じることはない。

 その視線は焦点を結ばず…というか結ぶ先は遥か時空すら越えているのではあるまいかというほどに、ひたすらに漠然と広がるパノラマを展開しているだけなのだ。

“はーい、只今佐賀城址で行われております月古祭の会場に来ておりますー。このお祭りもついに10周年を迎えるとのことで、こちらには大勢のテナント主さんがねー、集まっておられますー。雨も降ったり止んだりでしたが、ようやく上がりましたねー、これも日頃の皆さんの行いがよろしいのでしょうねーって、あはは!気になる今後のお天気予報ですが、まずはお祭りの目玉の紹介やテナント主さん達へのインタビューをしていきたいと思いますー!お得なプレゼントもありますのでお楽しみにー”

 それが今、実に3度もテレビに映った映像を見直した。佐賀のローカルネットが流しているご当地キャラのお天気情報コーナーだ…が、それが対象ではない。

 セイが、僕の弟の刀指青磁せいじが本当に注目しているのは、県内のイベントについて紹介しながら飛び跳ねているヒマワリの着ぐるみの様子ではなく、液晶の隅のほうに表示されている時刻のほうだ。

 7:45。カタカタ、カタ、と、弟がお子様用の高椅子にきっちり膝を揃えて腰掛け、揺れている。

 椅子の据わりが悪い?否。地震?違う。セイのお行儀が悪い?…ある意味ではそうともいえるが、それが理由ではない。

「大丈夫?セイ?もしイヤなんだったら、お兄ちゃんから斎兄ちゃんに断ってあげようか?」

 兄の僕、刀指氷裂が声をかけてもセイの視線はブレない。ただ、その身体そのものが細かくおののいているのだ。それはもう笑ってしまうぐらいに、激しすぎて小さな尻が軽く座面から浮いてるんじゃないかというぐらいに。

「でもセイ、毎朝こんな調子じゃ…」

「セーイーちゃーん!ほーいくーえんー、いーこーうー!!」

 玄関のドア、廊下、リビングのドアを突き抜けて絶叫が響いてきた。

 ちょっと鼻にかかってはいるけれど、この上なく高い音域の声。リロ&スティッチの女の子に似た印象だ。それが聞こえた途端に、セイの戦慄は停止した。

「セーイーちゃーん!セーイーちゃーん!ねーえー、いーこーうー!!」

 立て続けにドアを打つ、小さな拳のノックの音。コンコンコンコンコココンコン。リズムがだんだん激しくなり、このままだと穴まで穿ちそうな勢いだ。

「セーイーちゃーん、セーイーちゃーん、セーイー……セェェェイ!!るのは分かっとっとぞぉ出てこんねぇ‼こんアタシば無視シカトしよっとか!?上等やボケタレェ!!」

 アニメの妹キャラが主人公に対しねだるようだった甘い旋律が、まるで古臭いヤクザ映画みたいなかすれた脅し文句へと豹変した。

 ドカン!___極めつけにドアを蹴ったくる轟音。

 僕は溜息をつき、まだ固まったままのセイを残して玄関に出た。

 息を潜めてドアを開ける。キィンと冷えた秋の朝風が、耳をかすめて。

「あ、オハヨ☆氷裂のおにーちゃん♬コマンタレヴー!」

 声の主のドス声トーンが、たちまち元の声調に戻った。僕の膝あたりで後ろ手を組み、色の濃い髪を後頭部でお団子二つにした幼女が澄ましている。ちょうど可愛らしい小鬼がお菓子をねだりにきたような格好だ。…中身が文字通りの『小鬼』なんだけど。

「え、コマ、え、なに?」

「ご機嫌いかが?ってフランス語やん。知らんとー?」

 そんなもん知るか。こっちは生粋の日本生まれのあがりもんなんだから。

「こいからのあがりもんは、ノーボーダー!国際基準でいかんばならんとよ?しっかりせんね!」

 キッキキキ、とバイオリンを引っ掻くように笑う。

 あがりもん。日本人の中に紛れて暮らす、人と獣の姿を行き来する血族。ザル勘定で全国に数万人(もしくはそれ以上)はいるだろうそれに、僕も名を連ねている。

 そしてこの、鼻からのけぞり返って僕を見下ろしている(つもり)の双子お団子頭の幼女もまた、その一人なのである。兄妹ゲンカで興奮するとたちまち真っ黒な熊の姿に変身してしまうというから、やたらに刺激はできない。

「ね、セイちゃんは起きとっと?」

「…まぁ起きてるよ。…あのね、鶫ちゃん」

「うん!あたしはいつもどーりキュートでっしょ?氷裂おにーちゃんは頭の横んところ寝癖ついとるよ、撫でてきんさったら?」

 近所の気さくなおばちゃん並みの台詞がまだ寝起きの頭に刺さって痛い。

 セイと同じ保育園に通っている、本日はワンピースのこの幼女、その名を森野々宮もりののみやツグミという。そしてフワフワと裾を翻す女の子らしい服の中身は、某海賊漫画の悪役のように猛々しいのである。

「あのね鶫ちゃん、毎朝迎えに来てくれるのは有り難いんだけど、ここはお隣さんもいるんだから、もう少しおとなしくしてくれないかな……」

 僕の科白がみなまで言い切る前に「せからしか!勝手するけんお邪魔しまーす!」と鶫は勝手に脇をすり抜けて上がってしまった。

 コンマ数秒ばかりして、

「なーんねぇもぅ起きよるなら返事ぐらいせんね!」

 というせっつき声と、パシンと何かを叩く音が聞こえた。___神様。あれがせめて背中をはたいたものでありますように。まかり間違っても後頭部やほっぺたをビンタされたのではありませんように!

 廊下の曲がり角の先でピン、とエレベーターの停まった音がした。続いてドタドタと重い足音。

「へぇ〜、ぐへぇ〜、鶫のやつ、ぐへぇ、小さいほそかくせして脚の早かぁー、追いつけんばい…」

 ぜいぜいと息せき切って廊下の曲がり角から姿を現したのは、てっぺんがちょっとだけモヒカン風になった丸刈り頭の大柄な高校生だった。

「…あ、アイス。もう、鶫の、来よったやろー?ぐへぇ〜」

「ああ来てる。いつもの通り、セイに行き過ぎたスキンシップしてるよ、あんたんとこの女王様は」

「女王〜?そがん良かもんやなかろうに〜…お転婆に輪をかけて、ドラえもんのビックライト当てたごたる怪物やろ〜?」

「そう思ってるならなんとかしてくれよ、兄貴だろ?」

 ヘロヘロと蛇行運転で歩いてきた斎は、僕の肩に両手をかけて自分の身体を支える。

「そいで良かごと変わるなら苦労せんばい。俺の毎日の虐待されっぷり、見せてやりたかよ」

 呼吸を整える斎の、朝食の(多分ハム入りのスクランブルエッグか何か)匂う吐息が顔中にかかり、とっさに僕は仰け反る。

「皮肉だよバーカ。あんたにそんなことできっこないもんな。ったく妹に甘いんだから。…それより顔、近いって!」

「ぐへへぇ。もっと近うしてやらんばならんか〜?甘えんぼさんには、お目覚めの挨拶が必要か〜?」

「あっこら、よせってバカ!キスすんな!!」

 僕はタコのように突き出した相手の唇を掌で押し返す。先日の一件以来、やたらにスキンシップが激しくなっている気がするのだけど…まぁ僕自身の弱みがあることもあって、外面では強く拒否できない。

 ふた月ほど前のことになる。僕の父親が高層ホテルの空中庭園から何者かによって突き落とされたのは。

 勿論のことだが僕は警察署に招ばれた。生まれて初めて事情聴取なるものも受けた。一命をとりとめた父親が自身にかけていた保険の申請に長期入院の手続き、僕とセイの学資の見通し。今後の生活についてのあれやこれやも、僕の双肩にがっしりスクラムを組んでのしかかってきた。

 やることなすこと生まれて初めてのことばかりで、しかもそこに実の父が昏睡街道まっしぐらという状況を踏まえていえば、控えめに表現しても鉄火場のようなふた月だった。

 運命の悪戯などとなまぬるい。

 絶望の弓矢を手にした運命の女神かもしくは悪魔が、その試し撃ちの標的にしてきたかのような事態。それらが僕を追い詰め潰そうとしていた。へたをしたら___リアルにおかしくなっていたかもしれない。

 もしこの斎が、学校生活でも、同じ学生のあがりもん社会でも仲介・仲裁の役割をしてくれていなければ。

 本当になんの見返りもなく、生意気で天邪鬼で強情な僕を、斎は笑って許してくれた。「男が一度味方になると決めたからには、それを貫き通さんばにゃ」という単純至極な理由だけで、僕の側に立ってくれていた。

 つまり僕の斎に対する弱みとは、精神的に本当に辛かった時に助けてもらった大きな恩のことなのだ。

 斎は鶫の兄であり、僕たち刀指家の世話役をしている名家・森野々宮家の長子だ。

 そして今では僕の大切な親友。佐賀におけるという意味だけではなく、これまでの人生の中でも貴重な存在だ。…もっと言ってしまえば、兄貴分。…………さらにこれは、あまり言いたくはないけれど、特に本人には命に代えても知られたくはないことなのだが……………

 僕はこの無神経な年長風ふかしまくりの友人が、控えめに言って大好きだ。考えかたも体格も趣味もかけ離れているのに気が合う、そんな年上の頼れる存在。

 僕の通う高校の学年ひとつ上、先輩の二年生、森野々宮もりののみやひとし。本来肩提げのスクールバッグの持ち手の部分に両腕を通し、リュックサックのように背中に背負っている。

「もうとっくに来てるよあんたの妹。てか斎、それどうしたの?前のは?」

 僕が指さしたのはスクールバッグだ。真新しくてエナメルコーティングもピカピカ、新品特有のゴム臭まで漂ってきそうなそれとは別に、確かスポーツブランドのバッグも斎は持っていたはずなのだ。普段はそれに柔道着やタオルや替えの下着やガムやらオニギリやら突っ込んであるやつを。

「んぁー、こいな。前んやつは捨てんでとっとるばってん、お前の真似してみたったい」

「僕の真似?どうして?」

「モテたかけんに決まっとるやろが‼」

 なぜかいきなり逆ギレされた。曰く、僕みたいに指定のバッグを背負うスタイルが女子から褒めそやされているのをあちこちで聞いた、と。

「へー。そんなもんかね」と僕もバッグを背負い上げ、肩をゆすって背中の真ん中にくるようポジションをつけてから靴を履く。

「それよりあんたの妹さぁ、もう少しおとなしくさせらんない?あの調子じゃセイのことが心配だよ。この先なんかやらかして、怪我でもさせやしないかなって」

「おお済まん済まん、ばってん俺が言うても聞かんでなぁ…お父ちゃんから言ってもらうのが一番良かごたる」

「おにいの指図なんか受けるもんね」

 またしても登場、小さな凶器、いや、『凶姫』と表記すべきか。

 ポケットから出したロリポップをカサカサと開け、その包装クズを「ん!」とばかりに自分の兄である斎に押し付けた。

「セイちゃんはアタシの手下や。わざわざこっちから迎えに来よるんを、ありがとう思ってほしかっちゃね」

「鶫、お前なー。女子おなごはおしとやかにせんと男に嫌われるぞー」

「手下って…とんだ姐御だね。そこはオマセにほら、彼氏とか言えばいいのに」

「セイちゃんは、カレシにはまだまだ力が足らん!氷裂のお兄ちゃんも文句はなかろうもん?セイちゃんもイヤがっとらんけん」

 セイは鶫に手を引かれている。二人が前後する姿は微笑ましい彼氏彼女というよりは、まるでおとぎ話に出てくる女王様と従者のごとくだ。

「ねー、セイちゃん!うちんこと全然怖くなかやろー?大好きやろー?」

「………」

 無言の肯定。ただ黙っているのではなく、否定をしない消極的なYES。

 そう、それが何より不思議なのだ。あの緊張と恐れがありながら、青磁はこれまで一度たりとも僕に鶫のことをイヤだと表したことがない。軽度の自閉症である弟は好き嫌いがものすごくはっきりしており、生まれてからずっと一緒に見てきた僕とは(というか僕が1番)意志が通じ合っているのだから間違いない。

 他人であれば注意していても気づかないサインも、僕なら分かる。欲しいものもいらないものも、全部だ。

 だから不思議なのだ。外見や行動はやんちゃだが中身は優しい斎と違って、魂の芯から凶暴なだけの女の子(しかも体もセイより一回り小さい)に、なぜ…?

 やめよう。余計な考えは目を曇らすもとだ。斎だって最初は粗雑なだけと誤解してたじゃないか。きっとこの子にだって、セイが心を許すだけの何かがあるに違いない。

「じゃあ鶫、セイのことはまかせるけど、くれぐれも危ないことしたり変な遊びはしないでね。セイ、はいお道具袋。中にタオルとか着替えもいつも通り入ってるよ」

「ダイジョーブよ氷裂お兄ちゃん。そいぎ、セイはアタシがあずかっとくけんね!」

 姐御アネゴらしいというか親分肌の渋い物言い。さすが斎の妹というか、それ以上と言おうか、いやに男勝りというか、もう単純にオトコらしい。

 一瞬だけ、鶫がくわえたロリポップの棒の部分がマフィアの葉巻に見えた。

 二人が歩いて五分の近さにある寺の保育園の門をくぐるのを、マンション入り口から見送る。隣から斎が手を扇代わりに口元に添えて僕に囁いてきた。

「どがんかやアイス、セイは鶫に慣れようごたるか?自分わがどんの妹ながら手加減を知らん暴君やからな、イジメになっとらんか心配や」

「うーん、イジメられてたなら、セイはちゃんと教えてくれるはずなんだけど、鶫に対しては意外にも嫌悪感はないみたいなんだよね、これがまた」

「へぇ?そうなんか?おかしかにゃあ、おいにはかなりクソミソに突っかかってくるばってんがにゃー」

「実の兄貴にはそんなもんなのかもよ。好きの裏返し、っていうか、血が繋がってる家族なんだし…それとも同族嫌悪かな」

 自分に振り返ってみてもそれはいえること。僕だって、父さんのことは嫌いだ。

 それとももしや弟には、自分の知らない特異な素質が…俗に言うドM気質でもあるのだろうか。

 とまで考えて、またこめかみを叩く。疑り深いのは悪い癖だな、ホント。

 ドアを閉める前に、慌てて出しておいたゴミ袋をひっつかむ。セイと二人暮らしになり家事保育はもともと几帳面なせいかつつがなくできているものの、うっかりすると忘れがちなのがゴミ出しだ。

「そいぎ、俺たちも行くか!」

 斎の固い手でパンと尻を叩かれた。尻肉がジンジンするほどの強烈さに飛び上がってしまう。

「異論なし!」

 僕は苦笑しながら頷いて、空いているほうの手で思いっきり相手の背中にやり返してやった。


 ⏳


 大通りに出て5分もしないうちに、銀行の角から大・太・細と三つの影が現れる。

 そのうち中の方が真っ先に声をかけてきた。

「そのままこっち歩いてきて、あとちょっと目線くれよ。できれば顔はお互い見つめあった状態で。朝焼けがジャストでいい具合に…そう、そこでストップ!」

 三人の真ん中にいるのは中背で小肥り、首や手足にチャラチャラと安物のチェーンアクセを巻きつけ、ブレザーの前をはだけただらしない格好の男子。

 がっしりとした人相の悪いラーメン屋のような顔に、柄の悪い無精髭。世間を舐めたような目つき。染めた金髪をうなじあたりに束ねる。

 僕と斎へ向かいスマフォを構え真剣な顔つきだが、大方腐った女子にSNSを通じて売りつけるBL画像の素材として僕と斎とを獲物にしているに違いない。…そういうどうしようもない守銭奴なのだ。この、相葉あいばしゅんというやつは。

 斎などは「ん、止まれば良かか?こがんか?」と律儀にストップモーションになっているが、僕はそれに構わずその場に置いたままでスタスタ歩き続ける。

「あ〜もうバカアイス!空気読めってよ〜お前は〜」

 隼がアカウントを持っている写真や動画のサイトでは、一枚2円という破格の安値で売りさばかれるBL写真。日本全国に顧客がいて毎日捌けていて、だから隼の財布はそこそこ稼げているようだ。どうかしているんじゃないのか、日本は。

「だーれがお前の小遣い稼ぎにネタ提供するかよ」

「むぉー…………ッ。分かった、ならバイト代出す。一枚10せんでどうだ」

「おお、しみったれにしては珍しゅう金ば出すか。断腸の思い、ってやつやな」とは斎。

「銭て。為替相場じゃないんだから…そんなハシタ金をもらうくらいなら韻んトコでバイトでもするっての」

「アイス、お前は分かってない。お前らには養殖BLには太刀打ちできない天然モノの希少価値があるんだぞ。それを活かさないなんて宝の持ち腐れだ!真価を発揮すべき時、それは今だろう!?せっかく綺麗な顔とスタイルに産んでくれた両親に申し訳なくはないか!?もっと自分を大切にしろよ!!」

「天然とか養殖とか知るか!それと人をまるで売春サポ専に勤しむ不良少年みたいに言うな!」

「なにっアイス、お前そんなことしてんのか?それならそれで俺がジャーマネやってやるよ!!」

 ここで僕の肩パンが隼に刺さり、相手は命の1.5倍に大事なスマフォを取り落とした。

「あああバカ!こん中のデータ壊れたらどうすんだよ!全国12億の腐った乙女が泣くぞ!!」

「日本にそんなに人口いないだろ、バカ」

「いや、全世界各国のことを言ってるんだ俺は。略せば全国だろ。ワールド・イズ・ウォンティング・BL。BLは世界の宝なんだよ!」

 隼は嘆くが知ったことか。アホくさ。

「おっはよー!斎、アイス!今朝もラブラブ登校やねっ」

 隼の隣で手を振る、蜂蜜たっぷりのホットケーキのようなまあるい笑顔の男子。顔の周りには星やハートマークを散らしたようで、声はパウダーシュガーをかけたような甘く柔らかなボーイソプラノ。

「おーっはよ、韻!ていうかそれやめて。こいつとラブラブとかあり得ない、事実無根、誤解も甚だしいからね」

「分かっとると。隼のマネしたと。言うてみたかっただけ!」

 韻は愛玩動物のような容貌に似合わず巨漢だ。そして背は高いが横にも長い。マシュマロを膨らまして重ねたような体型をしていて、ブレザーの前みごろがが限界まで引き伸ばされている。

 フレスコ画の天使のような癖っ毛、疑うことを知らない純真な瞳、ジャムおじさんのような丸顔に丸い鼻。僕のクラスメイトの癒し系巨漢、古賀こがひびきだ。

「そうだ韻、これ借りてたCDね。忘れないうちに返しとく」

「どがんやった?」

「んー…まぁいけそう、かな。歌詞も難しくないし割と単純なメロディだし、僕の声の高さに合ってそうだし…なんとか…」

 でっしょぉ!と嬉しげに飛び跳ねて髪を揺らす(ついでにプックリと膨らんだ胸と腹肉も)韻。

 声楽部グリー員のこいつは、柔道部に入ることにした僕を部員として勧誘することは諦めたものの、稀少な男子部員の病欠などの場合を考え、コンクールの助っ人として男性パートの穴を埋めることを頼んできたのだ(驚くなかれ、我が校声楽部は今秋の予選を突破し、来年一月に開催される全国コンクールにおける佐賀代表に選ばれてしまっているのである)。

 それくらいならお安い御用。もともと歌うことはそんなに嫌いでも苦手でもない上に、親切で優しい韻の頼みとあっては断るわけにいかない。…もっともはじめはからかいたくてわざと断ってみせたんだけどね。

なつめはど、ど、ど、どがん?」

「あたしか?」

 隼を挟んで韻の反対側の、三人のうちでも同学年の女子の中でも最も細身にあたる、そして腰のくびれのぶんだけ出っ張ったバストの持ち主。整っているけれどキツい顔は、こちらを振り返るだけで東南アジアの風が吹いてきそうだ。美形を鼻にかけないが特定の男子以外も鼻にかけない、浅黒の肌の女子。

 秋の柔らかな朝陽に、キキララのピアスが耳たぶで光っている。制服の冬服の、夏服よりもよほどガードの固い胸元を力強く押し上げている巨乳と、その谷間で魅惑するように揺れる琉球硝子のペンダント。

 隼の双子の妹、相葉棗。そして何を隠そう(本人は隠そうというつもりもないらしいが)韻の片恋のお相手だ。

「知るかよあたしが。お上品な合唱とかキョーミねーしやるメリットもねーし。それにあたしはメロウなバラードかアップテンポなソロしか歌わないつってんだろ!」

 黙っていれば、大自然の恵みというか生まれついた運というか綺麗に飾られた見てくれなのになぁ。

「韻さぁ、だいたいアンタしつっこいよ。あたししつっこい男ダイッキライ。女々しいのも優柔なのもキライ!!」

 グロスリップでテカる唇で氷の刃のように酷薄なツッコミを入れまくる。もし沈黙するという芸当ができたら、男子から相当の人気を博すことは確定的なはず。

「あのさ棗、それは言い過ぎなんじゃない?いくら幼馴染でも酷いでしょ」

「なんだよアイス、言っとくけどアンタのこともあたしキライだからね」

 棗はショボンとした韻とそれを慰めるのに手いっぱいの僕には目もくれず、内向きにはねた髪に指を通して風を入れる。

「いつまでも斎につきまとってないで、韻やバカ兄貴と遊んでつるんでりゃいいじゃん」

 棗をして「バカ兄貴」と呼ばしめたのは、ほかでもない隼だ。二卵性の双子の奇跡というか、このどちらかといえばCan−Canとかan−anとかよりもVOGEよりの女子と、ファッションはまぁ今風なものの外見はふた昔前のヤンキーマンガに出てくる太っちょモブみたいな男子が兄妹だというのだから笑えない。

 当の兄貴の方はといえば、さっきからスマフォをいじくり倒している。大方、いや十中八九僕と斎のツーショットを加工しているのだろう。それも日本全国(今や国の垣根すら飛び越えて世界中の)腐った女子にお届けするために。まったくとんだBLジャーナリストだ。これも笑えない。

 こうして四人で登校するのも、もうすっかりお定まりのパターンに落ち着いた。

 佐賀に移ってもうふた月、暦は11月。そろそろ冬の声が聞こえてきて、僕達も首元に吹き付けてくる木枯らしの冷たさに時折肩をすくめる。

 父さんが__僕の父、東京のあがりもん社会から爪弾きにされたのをきっかけに佐賀へ引っ越すことを決めた刀指高杯たかつきが高層ホテル『宝貝泰ポウペイタイン』から誰かに突き落とされてそれだけの月日が流れた。

 いまだ父さんの意識は戻らず、集中治療室ICUから一般病棟に移るまでに肉体は回復したものの、もしかしたら一生目覚めることがないかともいった可能性を先日示唆されたばかりだ。

 それならそれで保険金も降りるし、僕と弟のセイが暮らしていくには困らない。

 ドライな考え方とそしられようとも、当事者として僕はセイのためにもリアリスティックに考えるしかないのだ。

 不安がないといったら嘘になる。この先の生活、進学、就職…まだまだ子供でいられると信じていた僕のタイムリミットは予告なしに打ち切られたのだ。保護者という後ろ盾を失うことが、大人ではないけれどそれに近くなるということが、こんなにも寒々しく心細くなるものだなんて。

 けれど、それを嘆くほど僕は暇でも悲観的でもない。

 今の僕には仲間がいる。この三人。あがりもんの友。特に…斎がいてくれる。だから怖くはないのだ。

 今も何の気なしに隣にいる斎。ソフトモヒカンを雄鶏のトサカみたいに坊主頭に乗っけて、今朝のウンコがどうだったのと下品な話題に興じている外面も内面も逞しい先輩を眩しく見上げた。

 もう先々月のことだ。父親の危篤と理由のないハブられに落ち込んで、沈みきってしまっていた僕を、思考のブラックホールから引き揚げてくれた。

 普段はその横柄さや不潔さや馴れ馴れしさをバカにしたり呆れたりしているが、この斎がいるから…そしてそれを筆頭として韻や隼やほかのあがりもんたちが支えとなってくれているから…暗く陰気なマイナス思考の病魔にもかからず、今日も僕は元気なのだ。

 バスが僕らの横を走り過ぎる。

 それに最近はついている。良いことがあるのだ。一つ、とてつもなく良いことが。

 バスは次の停車場でブレーキをかけた。同校の生徒がステップを鳴らしてわんさか降りて来る。

 最後に女子が一人、ふわりと降り立った。

 ブレザーを身にまとったイガグリ頭や長髪やおさげの中に混じってひときわ目立つ、まさに烏の濡れ羽色の輝く黒髪。

「みんな、おはよう。また一緒やね」

 黒髪を肩の向こうまでなびかせて、最高級の笑顔を振りまく美少女がこちらに手を振っている。斎も棗も隼も韻も手を振り返す。…勿論、僕も。

「おはよう、アサヒさん」

「あ氷裂くん、ちょっと待って。渡すものがあったと」

 カバンをゴソゴソやって、薬局のスタンプが押された白い紙袋を渡してくる。正直、一瞬だけ、もっと違うジャンルのものを想像してしまったのは男としてしかたがないと思う。

「ああ、新しいサガリソウだね。ありがとう!ちょうど切れてきたところだったんだ」

「アサヒは勘のよかにゃー。まるでねろうたごたるして到着しよる」

 照れながら受け取る僕を、斎が横から邪魔してくる。その太腿をキックしながら薬局の名前が印刷された紙袋をカバンにしまう。

 渡されたものは、サガリソウ。赤い薬包のそれは、僕達あがりもん___獣化能力者にとっての変身阻害薬。興奮するような局面での変身を予防するために、日常生活において欠かせないものだ…斎たちは全然飲まないけれど。

 体育など、特に体を動かす局面では必要になってくるのだが、最近では僕も悪い方へ順化してしまってうっかりすれば飲み忘れてしまう。

 僕が大切に鞄にしまうのを眺めていたらしいアサヒさんと、ちょうど顔を上げたところで視線が噛み合ってしまった。うわ、顔が熱くなる!

「バスの時間がちょうどこれくらいなんよ。みんなといっしょに登校できるからラッキーかよね」

 そうそ。ラッキー、ラッキー。僕は朝からアサヒさんの可愛い笑顔が見られて大ラッキー。

「アサヒ、最近ヨウとあんま一緒に登校してないね。どしたの?ケンカでもしてんの?別れんの?」

 見てくれが派手で中身はがさつな棗の無神経な疑問の直球。それにも動じずアサヒさんは軽やかに

「要さんは剣道部の朝練で忙しゅうしよんさっと。それにうちは文化祭で出す部誌の編集やら打ち合わせできるのが朝しかなかとよ。印刷所やらの関係もあるし、早め早めに動きよらんとね。それに比べてッちゃんは、森野々宮さんといつも夫婦んごとできて羨ましかねえ」

 と応える。さすがだなぁ。育ちがいいなぁ。お姫様だなぁ。僕だったら自分の恋人とのことを朝からこんな風にからかわれたら、メチャクチャに怒って突っかかると思う。

「や、やっだなぁアサヒ、アンタ何言ってんのよ、やだな、お似合いカップル爆誕だとか、バッカやめろっての、恥ずかしいだろ!」

 で棗はといえば、おばちゃんくさい手の振り方で調子をこきながら照れてみせる。

「なに恥ずかしがってんのか知らないけど、アサヒさんは別にそこまで言ってないと思うぞ」

「なぁによアイス、あんたはもっと遠慮しなよねー。いっつも斎と登校してくるし…あっ分かった。斎が私に取られるのに嫉妬とか?ホモなの?」

「なんだと!?なに、そうなのか!?やった!!詳しく話せ!!」

「違うから棗、あと隼は食いつき良すぎ!僕にそのはないってとっくの昔に分かってんだろ。やめろ写メは!!ツイッターに上げんな、キャプションつけんな!!」

 隼はハイエナのような笑みを浮かべてスマフォを構え、連続シャッター音をさせている。

「やー、もしかしたら俺の知らないうちにさ、昨夜にでも目覚めたのかなーってな」

 バカ、と満遍なく脂肪のついた固肥りの背中に回し蹴りをしてやる。キックの威力そのものよりも落としかけたスマフォに隼は顔をしかめる。

「そういや文化祭来月か。あんたらはなにやんだ?」

 棗の質問に、韻がキラキラした童顔を割り入れてくる。

「僕と隼とアイスのクラスプログラムクラプロはね、あのね、お芝居すると!」

 対する棗は斎のワイシャツの襟を直してやりながら聞き流している。「あそ」と取りつく島がこの上もないあっけなさ。

「なんで喫茶店にしなかったんだよ?家がフードチェーンの韻がいるから丁度いいのに」

 これは棗の僕への科白。また韻が代わりに答えてくれる。いくら好きとはいえ、まったく健気なことだよ。

「僕だってたまには家業を離れたかと。それにー、やる演目は歌あり踊りありの半分ミュージカルやしー、僕と隼のチカラも思う存分発揮できると!」

 そう、この秋から僕の通うことになった鍋島高等学校の文化祭の特色は、クラスごとの出し物をクラス・プログラム(略してクラプロ)、部活の出し物をクラブ・プログラム(略してクラブ)、有志によるボランティア・プログラム(略してボラプロ)と合計3種類の演目が3日開催の期間中入り乱れてあることだ。

 毎日午前午後にそれぞれに生徒会がきっちり時間を割り当て、厳正なタイムテーブルに則って行われるこれを、このお祭り騒ぎのことを通称『鍋抜かし』というらしい。鍋の底が抜けるような馬鹿騒ぎ、という意味なのかは知らない。

 ちなみに僕たちのクラスは『セリヌンティウスの三日間』というものを演じる。これはかの有名な『走れメロス』の物語を下敷きに、その親友であり彼の身代わりに自分の命を差し出した親友セリヌンティウスの側にスポットをあて、友情と疑心とを表裏に含ませたなかなか味わいのある人間劇に仕上がっている。

 棗は一生懸命に舞台の設定やキャストや内容を説明する韻に「あんたのクラプロなんか別にどーだっていいけど」と無情な科白を叩きつける。

「斎のぉ、柔道部の出し物はぁ、喫茶店なんでしょ❤️あーんもー、絶対行くからね!」

 はしゃぐ棗とは反対に、僕の方は気分がずり下がる。ついでにため息が連発だ。

「はぁ……そうなんだよ、喫茶店…なんだよなぁ……はぁぁ」

「どがんしたと氷裂くん、なんか暗うなって?男の子は明るうしよったほうがカッコよかよ!」

「そうやぞー、アサヒの言いよる通りや。明るく元気よういかんばダメったい!あの服もお前には似合う、俺が保証してやるけん」

「ありがとアサヒさん…斎は黙って…そんな保証いらないよ…てか半分以上あの服がダメなんだよ…それくらいなら代わってくれよ…」

 そいは、いかん!!と腕をこまぬいて笑う斎。

「何何?なにやんだよアイスあんた」

 斎の腕を離さず便乗してくる棗。尋ねるその声が弾んでいるのが鬱陶しい。どうやら棗にとって、僕の不幸は蜜の味らしい。

 クラスの出し物では、僕は台本のセリフを役者が忘れてしまった場合に備えた読み上げ係プロンプターになっているので、本番ではほとんどやることがない。主演も助演も演劇部の手練れなので科白が抜けること自体ないだろう。

 ところがである。柔道部の方が問題なのだ。

 体育会系によくあるというか、元男子校ならではというか、学生にありがちなアイデアというか………

「柔道部の伝統なんだってさ…クラブのプログラムは毎年度が喫茶店で、しかも一年生全員が」

 言葉が切れる。溜息がまたあふれてきて、一層肩が落ちていく。

「メイドの格好しなきゃいけないんだって…」

 一拍置いて。

 一番に笑いだしたのは予想に違わず棗だった。

「女装!女装すんの!?あんたが!やだウケる似合う似合いそう絶対似合う超絶似合うよ!!」

「うるさい棗!僕だってやらなくて済むならそうしたいんだよ‼︎」

「アイスはナヨいから似合うねぎゃははははは‼︎」

 下品に笑う棗を遮るようにアサヒさんは大袈裟に眉を上げる。

「氷裂くんが、女の子の服着ると⁉︎」

「そう…なんだよねー…」

 その昔。鍋島高等学校は文武両道質実剛健、まさしく硬派を絵に描いたような男子校だった。

 無論文化祭でもその校風は遺憾なく発揮され、訪れる人達の心胆を震え上がらせた。

 鍋島高校ナベコーは、こわい。

 鍋島高校は、お堅い。

 やがて時代が下り男女同権の風潮が九州にも押し寄せてきた。するとだんだんに、そんな硬派な、硬派すぎる、硬派そのものの学校は敬遠されるようになっていく。

 しつこいが追記しておこう。当時の鍋島高等学校は完全なる男子校だった。

「さすがにこれを聞いたときはタイムマシンで過去に戻って、その当時の発案者言い出しっぺをブン殴ってやりたくなったね」

「でも無理やろ?なんせその本人が今、校長の椅子に座りよらすけんにゃー」

 そうなのだ。斎の言う通りなのである。かつての柔道部の主将は、古巣の母校に教育者となって帰って来て、

「これではいかん。地域に根付いた名門、新しい時代の扉を開けるときだ」

 そう言い放ち、硬派の学生たちの急先鋒であった柔道部を焚き付けて、何か面白く斬新で硬派とはかけ離れたことをやってみせろとせっついた。

 結果出てきた案が、部員による女装喫茶だったという、笑えない話だ。

 そして今や最高責任者として何食わぬ顔で校長室の主となり、本革の椅子にふんぞりかえっているのだ。…とにかく悪気はなかったとはいえ、僕にとっては厄介な伝統を創り上げた諸悪の根源だ。

「氷裂くんがメイドさんかぁ…」

 スッキリ伸びたつららのように形の良い指を白雪姫みたいな唇あたりに折って、アサヒさんは小首をかしげる。

「うん。良かやなか?きっと可愛いやぁらしかメイドさんになれるよ」

 ドキンと心臓が痛くなる。ホントに困ったことに、アサヒさんは、アサヒさんこそ可愛いんだもんなぁ。ちょっとは自分自身のことを意識してほしいよ。

「あ、ありがと。…まぁ良かったら、アサヒさんが暇な時にでも来てみてよ。サービスするからさ」

「オッ、ヤル気んなったにゃアイス!良か良か!そいでこそ男ん中の男!俺のアイスや!」

 何が「それでこそ」なのかも、男は男でも間に「の娘」が入るだろとか、僕の身柄の所有権についても、とにかく言いたいことは満載だ。

「あーあ、もう学校についちゃった。みんなで話しよると、時間の経つとが早かね〜。そんでこっからが長かと〜」

 韻の大袈裟な嘆きに、棗が自分の片腕にある斎の体温を名残惜しみながらおっかぶせる。

「ほんとだよもー、もっと斎と一緒にいたかったぁー♡」

 斎はひたすらに苦笑。

「どうせまた昼休みに屋上で会えるだろ?」

「アイスはそーだろーけどさ、あたしやアサヒはそうもいかないんだよ。女の子同士の付き合いってのがあんの。えっと…今日は由美香達とランチする予定入れちゃったんだよなー」

「ランチって。どーせ購買のパンとか弁当をさー、中庭とかで食べるだけじゃん。何気取ってんの?普通じゃん」

「それでもランチっつえば雰囲気変わるだろ!男ってのはどうしてこうガサツなのかね〜」

「ガサツだって!?僕が!?この世で一番お前に言われたくないセリフなんだけど、それ‼︎」

「はぁ!?なんだよアイス、あたしに喧嘩売るってんならいっくらでも買うけど!?」

「…朝から抗争ケンカの売り買いか。景気がいいじゃないかナツ」

 おはようの挨拶もなく、皮膚科病院の建物の陰から背の高い女子がヤマハのSDRを押しながら現れた。

 それはまさに「ぬぅっ」という擬音がぴったりの登場だった。彼女が会話に混ざり混んできた瞬間、連れ歩いていたほぼ全員が、召喚魔法で現れたパンクスタイルの魔女みたいな姿にギョッと立ちすくむ。

 着ているものはセーラー服だから、僕達の高校の生徒ではないことは傍目にも明らかだ。勿論、そんなことに驚いてしまったのではない。

「あーびっくりした。なんだよ駿はやみ、気配もなく突っ立ってるなよビックリするじゃん」

「そうか?」

 棗に駿と呼ばれたその女子は、居るだけで周囲を白黒ホラー映画に引き込んでしまうような存在だった。

 まず髪型が角刈りだ。普通、日本の女子高校生でセーラーといえばストレートロングとかおさげとかおかっぱとかウェーブヘアだと思うのだ。アメリカ海兵隊員USNavyよろしく3センチあるかないかのカラーカットを制服ファッションに合わせている女子なんて、僕は東京でも見たことがない。

 そして髪が黒い。髪の色なんかも日本人なら茶色、濃い茶色、薄い黒…とグラデーションがあるものだ(僕だって地毛は茶色がかっているし)が、墨汁から取り出した繊維だとでも言いたげな黒さだ。眉も、瞳も、唇に塗ったリップもまるで鉛筆の1番濃色なやつみたいに塗りつぶしたドス黒さだ。

 そして肌が底抜けに白い。黄色人種に比べ色素が薄い白人みたいなピンクがかった白さではなく、白磁のごとき赤みのない白さ。まっさらのコピー用紙よりもっと白い。病的ではなく、魔的な白さだ。

 目つきはまるで獣の霊魂が取り付いたように鋭く、おまけに下まぶたに隈がある。これもそういうメイクの一種なのかとはじめは思っていたほどだ。

 巨乳(の魅力がもったいない)の棗や女の子らしい大きさの胸の(ゴメン!)アサヒさんに比べて、胸というより胸板のバスト。ひょろりと長い手足。ティム=バートンの映画に出てくるような、病んだ気配の漂うキャラクター。

 黒髪白顔白黒セーラー服。燃える蜂のようなデザインのクラシックなバイクの傍に無言で佇むと、そこいらのヤンキーよりよほど迫力がある。

「…あんたはあれだな、確か……えーと…二文字で…」

 人差し指が僕を穿つ。背筋がぞわりと粟立った。

 いやいや、ただ指をさしてるだけだよ、気にしすぎだ。呪いなんかかけられてないよ…たぶん。

「あ、氷裂だよ。氷を裂く、って書くんだ」

「ひょー…氷裂」

 難しそうに顔を歪めて、チッと舌打ちする。うおお怖い。

「…面倒な発音しやがって。刀指の家の長男だったな、確か」

「あ、ああ、うん。久しぶりだね、憶えてくれててありがとう」

 棗と違い、駿は言動が失礼というわけではない。悪気もなく、ただ本人の醸す空気感というものが剣呑なだけで。おまけに冗談が通じず、登場の科白に「抗争」のふた文字が入るくらい喧嘩っ早いので、僕は我知らずにへりくだってしまう。

「で、どったの駿?あんたがこんな早起きするの珍しくない?」

「…うん。眠い。死にそうだ。けど今じゃないとお前とチョクで話せない」

 自然、駿も僕たちのグループに加わる。ひゃー、それだけで気温がマイナス2度ぐらい下がった気がするぞ…

「おはよう、駿はーちゃん。今日も黒うして、白うして、カッコようキマっとるねっ」

 彼女の登場にも動じなかったただ一人、韻がのほほんわりと掌を振って微笑みかける。

「あれ?駿ちゃん、美容室行ってきたと?」

「…なんで、そう思う」

「えー、やって、トップスの左んとこば変えたとでしょ?わー、メッシュ入れたんやー、サイドも少ーし髪の短うなっとらすもん。後ろの方はハサミで整えよったとでしょ。違う?」

 隣り合うと韻のほうが頭半分背が高い。戦闘力でいえば韻0.3、駿15000くらいの差がありそうだけど。

「それが、お前に関係あるか?文句つけんじゃねえぞクソタコ、イラつく」

 丸顔を寄せてきた韻を睨みつける。

「あはは、よう似合うとるよ!」と返す韻と、フンと鼻を鳴らす駿。なんともはや、寒冷前線と温暖前線がぶつかり合って、挟まれた僕は荒れ模様だ。

「中学のときの、市松人形おいちさんみたいなんも似合うとったけど、いまの短髪もカッコよかにゃー。僕はどっちも好いとるよ、はーちゃんらしゅうて」

「…あんときは校則に長さ制限があったからな。いまの学校は逆で、短くしちゃダメだってうるせぇんだ。クソバカ先公どもがよ」

「そがん訳のありよるとね。そいで、いまは逆に短さに挑戦しよらすわけかあ。うふふ、相変わらずのチャレンジ精神やねえ」

 後から聞いたところによると、英語のチャレンジにはプラスの意味の「挑戦」よりも、相手を打ち負かすという「反抗」や「抵抗」の意味合いの方が強いのだそうだ。

 韻のおかげで緊張感より安心が勢いづき、爽やかな登校風景にふさわしい安穏とした空気が流れた。

 駿は中学まではここにいるあがりもん仲間と同じだったという。他校生でよかった…毎日がこれじゃ、交感神経が擦り切れちゃうよ。

「ナツ、配達先のライブハウスはこの先輩が、来月の定期公演に出てみねえかって。で、私ら佐賀女子高校サガジョのバンド以外にも一つくらいなら呼んで良いって言われた。曲はあっちでチェックするから、早めに何演るかリスト上げろって」

「ええっ!?マジ!?あそこプロもスカウトも来るんだよな!?しかもそれってタダで出られるってこと!?やったね超ラッキー!!」

 それにしても違和感というか目立つ要素の凝集体というか。浅黒南国ギャル系の棗と駿が並んでいると、コントラストで目がチカチカしてしまいそうだ。

 駿は歩き方もズカズカと描き文字を散らせているかのようで、肩肘は突っ張らせ柄が悪いことこの上ない。

「でもお前、学校の面子だけで足りるのか?こっちからも人は出せる。無理はすんなよ」

 駿も自分の高校でバンドを組んでおり、学校側から部活動と認定は受けていないものの学祭や町のお祭りで活躍しているらしい。で、あがりもん同士かつ同好の士かつ同じ中学オナチュー仲間ということで棗ともしょっちゅうつるんでいるそうだ。

「あー…。うん。そうだね。じゃあ頼もうかなー」

「お前がボーカルで…あとは?そこにいるお前の兄貴は何担当なんだ」

「ベースとキーボードはいるよ。ドラムは不在。てか昔はバカ兄貴にドラム叩かせたんだけど体力的にキツイとか言いやがってサボるからさ。その代わり今はバカ兄貴がDTM録音してんだ」

「…じゃあドラムを私がするか。そっちの学祭で演奏する予定の曲がもうあるんだろ。譜面はメールで。練習しておく」

「悪いね、今度なんか奢るよ。あーあ、逃げ出したうちのドラム、もうちょっと根性あればなぁー。あーあー!」

 あからさまなイヤミに対し、隼は分かりやすくトボけてスマフォをいじくる。

「お前らの選曲が負担をかけすぎたんだろ。人には向き不向きってもんもある。ま、私なら大抵は問題なくこなせるがな」

 それだけ言うと、後はメールで頼むとばかりに駿はバイクに跨って走り去った。

「男前だなぁ…」

 とこぼす僕に、

「あいつ、将来の希望は実家に就職してのトラックの運転手らしかぞ。そのへんの男よかよっぽど荒くれなヤカラやにゃぁ」

 と斎は首を振る。

「でもー、駿ーちゃんは優しかし、カッコよかよねー。どうせなら同じ高校ば通いたかったにゃー」

ぽよんぽよんと身体を揺らして手を振りながら、韻は名残惜しそうだ。

「あいつには将来がもう見えてるからな。資格とか取ることを考えたら、普通科に通って卒業してから取るとかまだるっこしくて性格的に無理だろうよ」

「隼、意外としっかり考えてる?自分の将来のこととかさ」

隼はスマフォから金髪頭を上げて、んー、と遠くの山並みなぞを見やり、「まーな」とだけ答えた。

「氷裂君はどがんしよんさっと?卒業したらまた東京に戻ると?」

 アサヒさんに問われて、僕はすぐに答えられなかった。さっきチラリと頭をかすめたことでもあり、顎に手を当て深く考え込みそうになると…

「こんアイスはにゃー、俺の舎弟ったい!けんー、佐賀にずーっと居るったい!なーアイス!そや、親父さんの後ば継いでお前も焼物作れ焼物。佐賀大学にそういう科もできたっていいよるぞ」

 と、斎が左から肩を組んできた。助けられたみたいな気になって、僕は苦笑する。

「まー…父さんの回復を待つまでは、正直そんなに先のことまで考えられないかな……それよりも目先の文化祭と期末試験が大事だよ」

 僕のメイド姿を想像したのか、またひとしきりクックッと喉を鳴らす斎の腹に音高くツッコミを入れてやる。

「おいナツ、軽音部の方からLINE入ってきてないか?俺の方まで回ってきてる」

 隼がスマフォの画面をかざしてきた。こいつは授業中も電源を落とさない。おかげで校内SNSの情報からあがりもんのネットワークのまで、あらゆるお知らせの伝道師だ。

 それを見た棗は舌をベロンと吐いて渋面になる。

「げげっ、そーだった。HR前にチラシの検討会するんだった。忘れてた…じゃ斎、アサヒ、それからその他アホメンズ、またな!」

「あっ走ると?うち、のんびり行きたかけん…」

「あんたは後からおいでー!」

 棗の、こちらもある意味漢らしく先に行く背中を見送った韻は、恋する高校生男子というより恋に恋する女子高生みたいにうっとりと桜色の春のオーラをまとっている。て、もう11月なんだけど?

 アサヒさんは親友に手を振り、舌をベーと出していた僕に気づいて微笑む。つい子供っぽいことをしてしまったのがバレて、僕は内心赤面しながら

「アサヒさんは、何と何に出るの?」

 なんて当たり障りなさそうな話題を提示する。彼氏持ちの、内面も外面も綺麗な女子と話すのって本当に疲れるよね。

「んー、うちは文芸部と茶道部に。…って言うても、両方とも半分くらいしか出席しとらん幽霊部員よ。お稽古事が多くて、何かの大会やらコンテストやらに出場するごたる他の部活だと参加できんけん…」

 空気清浄機なんかメじゃないくらい、周囲を清らかにしてくれそうな声の音色と、まっすぐでいながらしなやかな口調。

「斎は?なんかやたら掛け持ちの部が多いじゃん」

 短いソフモヒを揺らして鼻をほじっていた斎は、勢いよくハナクソを田んぼに飛ばした。

「どがん忙しゅうなっても身体は一つやけんにゃー。今年は柔道部は人手の余りよるし、野球部は人海戦術。けん、推薦された実行委員をやる。あそこは去年がば人員の足らんでざっとなかやったらしかしな」

 人助け一本に絞るわけだ。斎らしいや。

 のんびりと、鍋島高校の校舎の屋根が見えてくる。斎は棗から解放されて欠伸を高々と放ち、韻はあれこれと隼に話しかけては生返事を返されるが楽しそうで、アサヒさんと僕は道端にこぼれたみたいに咲いている草花の名前を当てっこしたり。

 大きく鉄扉を引き開けられた校門から生徒が吸い込まれていくのが見え始めた。あそこを越えたら、クラスの違うアサヒさんや学年の違う斎とは一旦別になる。 

「それにしても恋は盲目だよな、お前らは」

 やにわに喋り出した隼。きっとこの短い時間でも僕や斎(もしかして韻も含めて)のBL画像やら動画やらをたっぷり収録したのだろう、スマフォを満足げに上着のポケットにしまう。

「そうだよね。韻だったらもっと可愛い女の子とすぐに付き合えるのに」

 僕が言うのはもちろん棗以外の女子のことだ。

 実は韻は女子にウケがいい。根っからの嫌味のない善人さと、いじめたくなるほどの無邪気さとで。荒くればかりの女子軽音部の面々にも、家庭科部のメンタルお花畑チームにも、茶道部にも華道部にも、そして当の本人の所属している声楽部グリーにも熱烈なファンがついているくらいだ。

「ほんなごてな。お前、俺の知り合いから女子おなごば紹介してもらわんか?」

 斎から脇をねじ込まれ、韻は「よっ、よかよ僕はぁ!」と困惑する。

「棗だってさ、斎なんかよりもっとお似合いの奴がいるんじゃないかな」

「おいアイス、なんディスりよっとか?俺になんか不満でもあっとか?」

「違うよ」

 僕は真っ直ぐに斎を見上げた。このデカブツが、その外見や普段の行動が精神面と相反していることを知ってるから。…知らされたから。

 あの屋上で、僕を救ってくれたから。

「僕はけなしたりしない。もちろん、棗のことだって。…斎はもっと繊細で、思慮深くて、おしとやかな女の子の方が似合うでしょ。それこそさ、アサヒさんみたいな人が」

「な…」

「強がっちゃいるけど、斎優しいもんね。乱暴なフリしてるくせにさ、傷ついてる人とか弱ってる動物とか見過ごせないでしょ?だからああいう棗みたいなパワー系は、実は相性が悪いと思うんだよね」

 一拍おいて斎が顔を背けた。

 怒っているのではない。頬から顎を下り、前ボタンを外して全開のブレザーからのぞいている喉仏も。そこからぞんざいにネクタイを引っ掛けた鎖骨あたりも。光るように紅潮している。

 おお、クリティカルヒット。照れてる照れてる。

「でも斎があのアサヒさんを要さんから略奪できるかってなると、200%無理だろうけど。ま、恋なんてそんなもんだよね。叶わないとか、ほど遠い、って方がロマンチックだもんねー」

 要は斎の一つ歳上で三年生、剣道部の豪鬼とも礼儀正しいゴリラとも呼ばれる強面だ。

「なんかコイツ、急に悟りよってから。生意気かにゃ!」

 斎に絞め技を食らい、僕はジタバタと暴れて、「ほら他の人の邪魔になりよるけん、やめんね」と韻に怒られ、隼には写真を撮られ、アサヒさんには苦笑される。

「叶う見込みのない恋っていうなら、わりとどいつもこいつも、お前ら全員なんだけどな」

 誰より小狡くさかしい隼の科白。しかし僕たちはそれを聞いてはいなかった。

 これが佐賀に来て三月にもならない僕の、日常の習慣だ。

 そう。あの、父さんの事件のすぐあと鬱的になっていた僕を斎が救ってくれて以来、僕たちはほとんど毎日鞄を並べて登校し、昼ごはんは屋上に集合して一緒に食べている。

 一時期壊れかけてしまったクラスメイトとの仲も改善されてはいる。だから必要ないとやめてしまうこともできたのだけれど、なぜかそれだけは定着してしまった習慣なのだ。

「うーん、今日も良い天気だなぁ。こっちってほんと、空が広くて気持ちがいいなぁ」

「何かアイス、ジジくさかこと言いよって」

「斎みたいなオッサン高校生に言われたくない。僕は素直に良いものをいいって言いたいの!」

「僕らのホームグラウンドを褒めてもらえるなんて嬉しかことやんねぇ、ね、隼」

「さぁなぁ。けなされたとしても構わねえけどな俺は。それでカネを損するわけでなし」

「こんニセ佐賀モンが!東京出身てカッコつけたところで、わがどんも半分佐賀もんやろうが!」

「俺は東京じゃなくて横浜。半分っつっても小六の転校生だからまだ四年ちょい。だから愛着なんてご立派なものは、ないな」

「カーッ、ムカつく!ほらアイスも言い返さんか!俺らバカにされよっとぞ!?」

「いや別に、僕こそ新参だし…」

「あっ、みんなみんな、あっち見て!屋上の柵の上!」

 振り仰いで指差すアサヒさんの繊細な髪が、細いなで肩の上で踊って広がり、また降りる。

 視線の角度をそちらに上げて、僕たちはみんなホォと息をついた。

 虹だった。輪郭がしっかりとして、コバルトブルーの空に貼り付けられたように弧を描いている。

 ぼんやり空を見上げていると、変なものが落ちてくるわよ。

 僕が保育園ぐらいの頃、よく母さんがそんなこと言っていたっけ…

 そして、その言葉は真実だった。

 虹を見上げて和んでいた僕らの上に、意外なものが落ちてきた。

「泥棒っ!泥棒よーっ‼︎誰かーっ‼︎」

 それは叫びというより悲鳴に近かった。それも、悲痛で悲嘆に満ちていて、人生で1、2くらいで火急を要する、声音だった。

 僕と斎、韻と隼、そしてアサヒさんと皆の視線がぶつかった。全員そこで、無言の頷き。

 そして五つのスタートダッシュ。

 あがりもん五人がブレザー色の風になって校門を吹き抜ける。

「いまの声、きっと四階の文芸部の部室よ!」

「遠かにゃー、間違いなかか!?」

「間違いないな、さっきのあれは文芸部の比丘びく登紀子ときこだ」

「はっ、はっ、さすが、っ、隼、絶対、音感!!」

「もーしゃべんなよ韻、死ぬぞ!てかアサヒさん脚も早いね!」

「中学の頃は、はっ、棗と、駿と、一緒に陸上やっとったけん、なまっちろか男子には、はっ、負けんよー」

 のんびりするのが好きと言いながら、肥満巨体な韻やインドア派の隼と違い、息切れもなく涼やかな表情を崩さない。

 玄関に下駄箱のセットをこなして四階に駆けつけるまで余裕で1分を切っていた。もっともそれは僕とアサヒさんと斎であって、韻は10分後、隼に至っては追いつくのをあきらめてさっさと教室に行ってしまっていたが。

 もちろん後続を待ったりせず、僕達は部室階へ駆け上がり、モスグリーンの廊下の片側に並んだクリーム色のドアの、最奥の一つを開けた。

「ねぇ下で聞いたばってん、泥棒って一体何が、きゃっ?」

 アサヒさんにぶつかるようにしてきたのは、後ろをおさげ一本にまとめた眼鏡の女子だった。

「市原さん!どうしよう、あたし…っ!」

「お、落ち着いて比丘びくさん?ここで何があったと?泥棒っておらびよったけど、何がなくなったと?」

 狂乱して形相が違って見えるものの、普段はおとなしい僕のクラスメイトの比丘さんだ。そして、あがりもんではない。

「やぁ、あはは…君たちは?」

 ブレザーの前を開けた、丸眼鏡がいかにもオタクっぽいものの、愛嬌のあるヤギみたいに痩せて背の高い男子が部室の真ん中から笑みを返してきた。

 不安や驚愕、それに疑心。様々な感情を視線に込めて部屋のあちこちにわだかまる文芸部員たちの中で、丸眼鏡の男子だけは体裁を保っている。

 まともに話せそうなのはこの人だけだな。プンと鼻をつくリンゴの甘ったるい匂い…どうやらあがりもんの仲間だ。

「僕は一年E組の刀指氷裂です。こっちは二年の…」

「や、大丈夫やアイス。俺ら二年やし、編入生のお前やなかけん皆お互い知っとる」

 う、うわ!間違えた!何の用かって意味で訊かれたんだ‼︎

 僕はワンテンポ遅れに昇ってきた血流で、背中までカーッと熱く焼けるのを感じた。

「おう美井よしい。どがんしたか?」

 斎から呼ばれ、美井は悲しげに声のトーンを落として言った。

「…文芸部の部誌がなくなった。今度の学祭で発行する予定の冊子見本がね」

 平和な学園生活に、波風が立った瞬間だった。

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となりのあがりもん 鱗青 @ringsei

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