第6話 一人の命を救う者

 夢で会えたら。

 よく耳にする言葉だけれど、僕の心情からすればむしろ、夢で会えても、といったところだった。

 もう何日、水月を見ていないだろう。

 募る気持ちを代弁するように、彼女は幾度も夢の中に現れた。それがどんなシチュエーションでも、最後に必ず水月は見つめ合った目をそらし、寂しげな横顔で背を向ける。僕は彼女の腕をつかんで引き戻し、そして、言いたくて言えないたったひと言を━━いつも、そこで目が覚めた。

 さよちゃんの時には、夢の中でいくら謝っても死者には届かないという虚しい現実をつきつけられたけれど、今は、夢の中でさえ伝えられない言葉が、せつなさの余韻とともに僕を苦しくさせた。

 このまま、会えなくなってしまうんだろうか。手の平に残る細い腕のリアルな感触をたぐり寄せ、僕はソファで眠る暁に視線を移す。

 会いたい。

 何も言えなくても、何もできなくても、僕はただ水月に会いたかった。

 薫から渡された調査報告書には、暁の母親の現在の住所と生活ぶりが記されていた。江東区のアパートで暮らしているらしい。男の影は今のところないようだったが、生活保護を受けて酒浸りの毎日を送っていると報告してあった。僕は暁に知らせるべきか否か結論を下せないまま、報告書を暁の目に触れない場所に隠した。

 十二月最初の土曜日、台所で昼食の支度をしていると、携帯が鳴った。可奈子からだった。

「ごめんなさい。急に」

 遠慮がちな声が届いた。

「いいよ」

「ちょっと話したいことがあって……前の公園に来てるんだけど、いいかな?」

「わかった。行くよ」

 電話を切って、僕はジャケットを着た。コロッケを揚げるのに小麦粉がないのに気がついて、暁に買いに行ってもらっているところだった。まな板の上のキャベツは刻みかけだし、すぐに戻って来るとわかるだろうと思い、僕は玄関の鍵を開けたまま外へ出た。

 ブランコの前の柵に、可奈子が腰掛けていた。彼女は僕を見て立ち上がり、微笑んだ。

「ほんとに時間いいの?」

 僕は頷いた。ストレートだった彼女の髪にはやわらかいウェーブがかかっていて、色も以前より明るくなっていた。

「似合うな、髪」

「ありがと」

 そう言ってから、可奈子は少し眉根を寄せた。

「顔色が良くないね。具合、悪いんじゃないの?」

「そんなことないよ」

 彼女は地面に視線を落としてから、顔を上げて僕を見た。

「この間はごめんなさい。私、ひどいこと言ったね」

 僕は首を振った。

「ほんとのことだよ。これは嫌味じゃない。自分でもそう思うんだ」

「そんなふうに言わないで。かえって責められてる気分になる……」

「ごめん」

「そうやって謝るのも。高久は、必要以上に自分をいじめすぎるのよ。悪いくせだよね」

「かもしれないな」

「高久は人より不器用で、自分の気持ちをうまく整理できないだけ。人の気持ちがわからないんじゃなくて、わかろうとして、けど全部を理解できないのがつらいの」

 可奈子はうつむいて、顔に落ちる髪を耳にかけた。

「好きな人がいるんでしょ、高久」

 小さく笑って可奈子は続けた。

「今はその人のことで頭が一杯なんだ?」

 可奈子は、誰とは訊かなかったが、もし訊かれたとしても、僕には答えられるはずもなかった。僕は可奈子をただじっと見つめた。

「うまくいくように祈ってる、なんて言うほどお人好しじゃないけど、お互い後悔しない未来が待ってるといいね」

 そして可奈子は背伸びをすると、僕に軽くキスをした。

「じゃあね」

 さっぱりとした表情で歩き出した背中に、声をかけた。

「可奈子」

 彼女は振り返って、首を傾げた。

「ありがとう」

「ごめんって言われるより、そっちの台詞の方がずっとうれしいわ」

 とてもきれいな笑顔を僕に投げ、可奈子は言った。

 彼女の背中が角を曲がって消えるまで見送ってから、僕はブランコの後ろの植え込みに目をやった。ラムネの死骸は、もう朽ちてしまっただろうか。躯が、土に還っていくのなら、魂はどこへ行くんだろう。そんな場所が本当にあるか否かを考えること自体が多分に寓話的だと思いながらも、現在の世界の前にも後ろにも「無」しかあり得ないのなら、生きることの意味という根源的な問いに対する答えを見失ってしまうような気がした。

 アパートに帰ろうとして振り返ると、公園の入口に暁が立っていた。いつからそこにいたのか、左手にスーパーの袋をさげ、右手にはセロファンでくるまれた青い花を持っていた。

「ラムネに買ってきたのか」

 僕は花を見て言った。暁は返事をせずに、ラムネの墓に花を添えると、踵を返した。

「待てよ」

 暁の腕をつかんだ。暁が怒っていることは気づいたが、その理由がわからなかった。暁は僕の腕を振り払おうとしてやめ、公園の入口に立ち止まったまま顔を伏せた。

「放してくれ」

 暁の腕が微かに震えていた。

「暁、どうしたんだよ」

「なんでもない」

 逃げるようにアパートへ向かって駆け出した暁のあとを、とまどいながら追いかけた。暁は小麦粉が入った袋を投げるように居間のテーブルに置き、全身を固くして唇を噛んでいた。

「何か気にさわることがあったんなら、はっきり言えよ」

 ささくれだった暁の心を扱いあぐねて、僕達は険悪な雰囲気になった。

「とにかく座れよ」

 気を静めて、なんとか暁をなだめようと肩に手を伸ばした。暁はそれを思いきり払いのけた。

「放っとけよ!」

「放っとけるわけないだろ」

「あんたに何の権利があるんだよっ」

 暁は僕に向きなおると、肩をいからせながら叫んだ。

「権利ィ?」

 僕は低く唸った。

「心配するのに権利もクソもあるか」

 僕を睨みつけていた暁が、ふいに自分の足元に視線を落とした。裾をまくり上げたジーンズの先から、血が細い筋になって伝わっていた。

「これ……なんだ」

 怯えと自失がないまぜになった表情が、答えをゆだねるように僕へ向けられた。焦点の定まらない瞳の中に微かに艶めくものを感じて、立ちつくしていた僕は確信した。暁の体は、女に戻りたがっている。彼女が「外」に出ようとしているんだ。

 前に踏み出した僕に、暁は後ずさった。

「近寄るな」

 ためらいは数秒だった。僕は意を決して暁の腕をつかみ、言った。

「お前の母親は、都内に住んでる」

 感電したように暁の体が跳ねた。

「今から会いに行こう」

 自分の中で起き始めた変化と僕の言葉に混乱し、暁は両手で耳を塞ぐと、激しく頭を振った。

「暁」

 もう一度、暁の右腕をつかんだ。暁の目が空を泳ぎ、そのまま気を失った。

 ソファに暁を横たえ、僕はその顔を見つめていた。しばらくして、青白い瞼が少しづつ開かれた。ゆっくりと僕を見つめ返したのは、水月だった。

 彼女は静かに上半身を起こすと、僕から視線を離さずに言った。

「暁の心が壊れちゃうかもしれないわよ」

「それは、今のままでもおんなじだよ。きみだって気づいてるんだろ。暁は、主人格の彼女と融合し始めてる。彼女は外に出ようとして、でも最後のところで怯えて立ち止まってるんだ。今を逃したら……」

 水月は顔を伏せ、震える息をついた。

「わかった。高久の思う通りにして」

 そして毛布をまくり、自分の足先を見た。血はもう止まって、かかとの内側とシーツに乾いた色をつけていた。

「処女みたい」

 水月は笑って言った。泣いているみたいに見える微笑だった。

「抱いてくれなかったね。もしかしたら、これでさよならかもしれないのに」

 言葉が出てこなくて、水月へと伸ばしかけた手を止めた。暁と水月が救われるために、僕ができることは、二人の消滅を助けることだけなのか。こんなに側にいるのに。手を伸ばせば、きみに触れることができるのに。

「けど、これでよかったのかもしれない」

 水月が言った。

「あたし、ほんとに好きな人に抱かれたことってないから、もし高久にそうされたら、きっと後悔するよね。だって」

 水月が唇を噛みしめた。

「どんなに好きになっても……」

 言葉を切った水月はすぐに笑顔になり、明るい口調で言った。

「もともと高久に彼女を見つけてって頼んだのは、あたしだもんね」

 僕はこらえきれずに水月を抱きしめた。

「きみは消えない」

 水月が強く顔を埋める。僕の肩先が暖かく湿った。

「人格が統合されても、それは消滅じゃない。きみも暁も、自由になるだけで、消えたりしないよ」

 言葉が心に追いつけなかった。僕はそれ以上何も言えなくなって、ただ抱きしめる腕に力を込めた。あふれ出す感情を、言葉のかわりに行為に託すということも、僕は暁と水月に出会って初めて知った。

「高久、お願いを聞いてくれる?」

 消えいりそうな声で水月は言った。

「これでもう、困らせたりしないから」

「……言いなよ」

「好きだって言って」

 ゆっくりと顔を上げた水月の、涙で滲んだ瞳が僕をとらえる。

「嘘でいい」

 水月は言った。

「嘘でいいから、今だけ、ほんとの振りをして」

 水月から目を逸らさず、水月だけを見つめて僕は言った。

「好きだ、水月」

 水月の瞳に涙があふれて、僕達はそっと唇を合わせた。

 真実を伝えられない唇に、僕はこの一瞬、すべてを託した。救いになんてならない真実より、お互いの体を繋げる行為より、今は確かにこの口づけのほうが本物だった。

「……ありがとね」

 水月は僕から離れると、涙を拭って、血がついたシーツを剥がした。

「高久、体が熱かった。熱があるんじゃない?」

 自分の額に手をやると、確かに少し熱っぽかった。

「風邪でもひいたかな。でも咳も出ないし、たいしたことないよ」

「あたし達のせいで、疲れがたまっちゃったのね」

 シーツを持って、彼女は風呂場に行った。シャワーを浴びてきた水月は箪笥の上から救急箱を取ってきた。

「暁と交代するために、あたしは眠るわ。何か薬ある?」

 僕は箱の奥から、以前不眠が続いた頃に医師から処方された睡眠薬を出した。

「一錠でいけると思う」

 水月は冷たい水と錠剤を飲み、どれぐらいで眠くなるのかと訊いた。

「体質によって違うけど、たぶん二十分もかからないと思う」

「あたしが眠るまで、手を握っててくれる?」

 ソファに横たわった彼女の手を、そっと取った。

「暁の妹が完全に目覚めた時、もしかすると、父親から受けた虐待の記憶が戻るかもしれない」

 体を僕の方へ向けて水月が言った。

「過去のトラウマと向き合って克服させるっていう治療法が、多重人格者に有効かどうか、立証はされてるの?」

「俺は精神科医じゃないよ」

 水月は、このまま霞んで消えてしまいそうに見えた。言い知れない不安が募り、僕は強く彼女の手を握った。

「素人の俺が、きみ達に医学的な治療を施そうなんて、そんなバカなことは考えてない」

「パンドラの箱の最後を信じてるの?」

 僕は首を振った。

「ただ、伝えたいだけなんだ」

「何を?」

 僕は水月に顔を近づけた。彼女の瞳の中で、いびつなミニチュアみたいな僕が大きくなり、焦点がぼやけた。

「きみ達の命に、意味はある」

 水月は黙って目を閉じた。涙を隠すためなのか、眠りの気配に誘われたのか判別できなかったが、彼女はそれきり何も言わなかった。やがて静かでゆっくりとした寝息と共に、僕に預けた左手から力が抜けた。


 一時間ほどが過ぎて、ぼんやりと起き上がった暁に、僕は調査報告書を渡した。

「暁、母親に会いに行こう」

 時計に目を走らせて僕は言った。

「江東区なら、そんなに時間はかからない」

 青ざめた顔で食い入るように報告書の文字を追っていた暁は、それをばらまいて立ち上がると台所へ走り、流し台の下から包丁を取り出そうとした。僕はその手を払った。

「罪悪感や惨めさを、憎しみにすりかえるのはもうやめろ」

「すりかえる……?」

 暁はよろめくように流しのへりにもたれかかった。

「自分だけが生き残った罪悪感と、親に愛されない惨めさだよ。お前は、愛されなかったって嘆くことにさえ、うしろめたさを感じてる。自分の存在を認められないから、自分自身のために泣くこともできない。この感情の逃げ場は、死んだ片割れの中に自分を閉じ込めて、ただ憎しみに集中することだけだったんだろ。そんなことは、終わらせるんだよ」

「あんたにはわからない」

 暁が叩きつけるように叫んだ。

「わからないさ。それがどうした。俺の経験じゃないんだからあたりまえだろ。人を殺しちまった人間の苦しみを理解したいと思ったら、殺人を犯さなきゃだめなのか。同じ痛みを背負った人間なら、お前の心に入ることができるのかよ。ふざけるな。そんなもので人の心を測ろうなんて、甘えてんだよ。大事なのは、理解できるかどうかじゃなくて、どれだけ理解したいと思うかだろ」

 顔を逸らせた暁の両腕をつかんで、僕は自分の方を向かせた。

「母親に会って、言いたいことを言ってやれ。殺す価値があるかどうか、自分の目で確かめるんだよ。それを確認したら……もう、親の愛情なんか求めるな」

 僕は強く暁を揺さぶった。細い体が人形のようにガクガクと軋んだ。

「聞こえてるんだろ。いつまで、暁と水月の後ろに隠れてるつもりなんだ。出てこいよ」

 大声で言った。

「もう一度言うぞ。親の愛情なんか求めるな。そんなもんにすがりつくな。過去の亡霊だよ。周りを見ろ。目の前の俺を見ろよ」

 暁は両手の自由を奪われたまま、壊れたように頭をめちゃくちゃに振った。

「何を言ってるかわからない」

「わかるまで何度でも言ってやるから、俺の声をちゃんと聞け」

 僕は暁を引っ張って車に乗り込んだ。

 隅田川を越えて十四号線を走り、荒川の少し手前で南に折れた。下町の情緒を色濃く残した町並みが続き、タイヤ工場を左手に見つけたところで、僕はカーナビを切り、路肩に車を停めた。外に出ると、立ちくらみがした。額がさっきより熱くなっていて、頭が重かった。暁の母親の住むアパートは、古い商店街の裏側にあった。クリーム色の壁はまだらに変色し、ところどころひび割れている。取り壊し寸前と言っても差しつかえないような建物だった。

 僕はふんばるように二の足を踏んでいる暁の背中を押して、一階の真ん中にある部屋の前に立った。両隣は空き部屋のようだった。表札はなく、木が色あせて剥がれているドアをノックした。暁は顔から血の気が失せ、立っているのがやっとの様子だった。

 返事がないので、僕は暁の手を引き静かにドアを引いた。カビ臭い空気とアルコールの匂いが鼻をつく。せまい玄関にはすりきれた女物のサンダルが、バラバラに脱ぎ捨てられていた。台所は電気が消えていて、開いた障子から見える奥の部屋も薄暗かった。

「ごめんください」

 応答はなかったが、もう一度声をかけると、ややあって破れた障子の向こうから、返事ともうめき声ともつかない、くぐもった声が聞こえた。つかんでいる暁の手が、ビクリと揺れた。

「松島涼子さんのお宅ですか」

 また声が途切れた。僕は暁と目を合わせ、小さく頷くと「失礼します」と言って、室内に上がった。

 ビール缶や酒の瓶がテーブルだけでなく、そこいらに転がっているせまい部屋に、彼女はいた。窓際に置かれた石油ストーブの横に座り込み、毛布をかぶってうつむいていた。

「松島さん……?」

 乱れ落ちた髪に覆われた顔がゆっくりと上げられ、とろりとした半開きの目がこちらを向いた。年齢と雰囲気の違いはあっても、その面差しには、明らかに暁と同じものがあった。

「だれぇ……?」

 化粧気のない荒れた唇から、ろれつの回らない掠れた声がもれた。かなりの重度のアルコール依存に侵されているようだった。

「あんた、借金取りぃ? 金ならないよ」

 彼女は、僕の横に立つ暁に、何の反応も示さなかった。

「あなたの子供を連れて来ました」

 彼女の表情と体の動きに表れる何らかの感情を見逃すまいと、僕は神経を針のようにして、暁の母親に視線を集中させた。けれど彼女は、ただ惚けたように僕らを見上げるだけで、眉ひとつ動かなかった。

「こどもぉ……あたしに子供なんていないよ。娘はどっかに行っちゃったし、息子は死んだわ」

 暁は呼吸がうまくできないみたいに、乾いた唇を喘ぐように動かした。部屋の中は暖かすぎて、灯油の匂いに気分が悪くなってくる。

「名前も……もう忘れたね」

 大きく反らせた頭を壁に押しつけ、彼女は長い息をはいた。土気色の顔の中で、頬がえぐり込んだようにこけている。落ち窪んだ瞳は白目の部分が黄色く濁り、肝臓を患っていることがわかった。

「あたしだってねぇ、そりゃ……子供をかわいいって思う時もあったわよ。けど……あたしの邪魔にならないように、いてくんなきゃ。子供優先なんて……ムリだから」

 泥酔状態の彼女は、目の前の僕達のことはすでに眼中になく、もうろうとした意識の中で、誰にともなく喋り続けていた。

「子供が男に殴られても、助けてやんなかった。だって、あたしまで殴られるもん……恐い恐い」

 暁の母親は、近くに置いてある酒瓶をつかむと、そのまま飲んだ。唇から流れ出たウィスキーが大きく上下する喉を伝って、セーターと毛布を濡らした。

「ああ、ほんと、面倒くさかった……」

 瓶を床に転がして、暁の母親は口元を拭った。ウィスキーがなみなみとこぼれて床と毛布の裾を浸す。

「だから」

 ふいに目の焦点を合わせて、彼女が暁を見据えた。

「子供なんて、いらないの」

 真冬の海に突き落とされたような衝撃が僕の全身に走った。

「いらない」

 刻印を刻むように、暁の母親は、はっきりと言った。僕が暁を見たのと、暁が走り出したのは同時だった。

 石油ストーブが倒れ、首を絞められた暁の母親がうめき声をあげた。アルコールを吸ったカーペットと毛布に、ストーブの火が引火する。消火している余裕はなかった。僕は燃えている毛布を暁の母親から離し、暁に覆い被さった。

「あきらっ! はなせっ!」

 暁の両手は、それ自体が強い意志を持った別の生き物のように、しっかりと母親の首に食い込んで離れなかった。母親の顔が、真っ赤に染まりながら苦痛に歪んだ。その口から奇妙な声が洩れる。

「あきらっ」

 僕は全身の力を込めて暁の手を引き剥がした。天井が回って、体がバラバラになりそうな気がした。喉元を押さえて嘔吐する母親に再び飛びかかろうとする暁を、僕は思いきり突き飛ばした。

「俺を殺せよ」

 正気を失ったような暁の目が、瞬間、わずかにひるんだ。

「お前に親殺しなんか絶対させない。どんなことしてでも、俺はお前の邪魔するぞ。どうしても母親を殺したいんだったら、まず俺を殺せ」

 つめ寄った僕を、暁は信じられないものでも見るように見つめた。目を見開いたまま、動かない。向き合った僕達の背後で、暁の母親が短い悲鳴をあげた。火が、カーテンや押し入れに燃え移っていた。部屋の中は煙がたちこめ、我に返った僕は、手で鼻を覆った。みるまに火の勢いは増していき、もう消し止められるレベルじゃなかった。

「暁、早く外に……」

 振り返った僕は、言葉を呑み込んだ。

 暁はだらりと両手を下げて立ちつくしたまま、食い入るように炎を見つめていた。その目はとりつかれたように異様な光を宿し、聞きとれない声で何かを呟いていた。

「お父さん……」

 はっきりと暁が言った。

「お父さんが、あの中にいる」

 暁じゃなかった。炎に近づこうとする彼女の腕をとっさにつかむと、悲鳴をあげて、わけのわからないことを叫びながら暴れ出した。

「お父さん、やめて!」「お兄ちゃん、お兄ちゃん」「熱いよ、痛いよ、助けて!」

 過去の記憶がフラッシュバックして、パニック状態に陥っていた。錯乱した彼女をとにかく外に連れ出すために、僕は腕ずくで押さえ込もうとしたが、彼女は渾身の力を振り絞って抵抗した。突き飛ばされた拍子に、激しい目まいに足を取られ、テーブルの角に左胸の下を強くぶつけた。脳髄の裏側まで痺れそうな痛みが走り、僕は両手で脇腹をかかえて這いつくばった。瞬間、彼女は正気に戻った。僕の脇に崩れるように座り込み、唇を震わせた。僕は歯をくいしばって、おそるおそる息を吸い込んだ。刺すように痛む。どうやら肋骨が折れたらしい。倒れた時に右足首も挫いたようだった。

「高久……」

 恐怖に怯える瞳が、僕を凝視していた。僕は鉄を乗せられたみたいに重い頭を持ち上げた。

「逃げろ」

 熱がかなり上がっているのがわかった。立ち込める煙と高熱で、視界に霧がかかる。体を起こすことができなかった。

 その時、今まで腰を抜かしたように放心していた彼女の母親が、鳴咽まじりの声をあげながら立ち上がり、玄関へと足をもつらせながら走り出した。

「また逃げるのっ?」

 彼女が叫んだ。血を吐くような悲痛な響きに、僕は内臓をえぐり取られるような思いがした。彼女の母親は一瞬、大きく肩を揺らせて立ち止まった。けれど、娘のほうを振り向くことなく、転がるように外へ出て行った。その背中を見送り、彼女は笑った。うつむいている頭がゆらゆらと揺れて、空虚な笑い声が辺りに散らばる。憎しみさえも彼女を見捨て、本当に空っぽになってしまったように。

「泣くな」

 僕は言った。涙は彼女の頬を伝ってはいなかった。けれど、彼女の内部に流れ落ち、ゆっくりと心を切り刻んでゆくのが僕には見えた。

「泣くな」

 彼女がゆっくりと僕を見た。

「あんな母親のために、一滴の涙も流さなくていい。何も考えるな。俺の声だけ聞いててくれ」

 彼女が、弾かれたように大きく瞬きをした。僕はなんとか上体を起こそうと腕に力を込めたが、煙にむせて咳き込んだ。目が痛くて、まともに開けているのが辛かった。彼女も苦しげに口元を押さえた。時間がなかった。

「逃げろ」

 僕は言った。反射的に手を貸そうとした彼女を、僕は、首を振って制した。

「俺はいいから。ひとりで逃げろ。このままじゃ焼け死ぬぞ」

 彼女はゼンマイ仕掛けの人形みたいに、首だけを左右に激しく振った。じわじわと火の手は広がって、ゴムを焼く匂いに似た悪臭と、火の粉が弾ける乾いた音が大きくなった。彼女の手首をつかみ、僕は怒鳴った。

「早く行けったら! こんなとこで死ぬつもりか!」

 自分の声があばらに響いて、息がつまった。小さな子供のように首を振る彼女に、僕は懇願した。

「頼むよ。逃げてくれ。暁、水月、聞こえるか? きみ達は望まれなかったんじゃない。生まれて、ここにいることの意味を考えろ。親が何だよ。親に愛されなかったからって、すべてが終わるわけじゃない」

 目を閉じて、歯をくいしばった。そうしないと、高熱のせいで歯が鳴ってしまう。まだ気を失うわけにはいかない。彼女にちゃんと伝えるまでは。最後のピースが埋まらないジグソーパズルの意味を。その絵が何を表すのか、彼女が自分で意味を見つけ出すように。

「自分を否定しなくていい」

 僕は言った。

「きみは許されてそこにいるんだ。胸を張って、いばってろ。絶対、死んだりするな」

 頭の中が混濁して、自分の声が何人もの人間の木霊のように反響して飛び交った。僕は目一杯息を吸い、声を絞り出した。

「生きろ」

 目を開けているのに、辺りが暗くなってくる。声は、もう言葉にならなかった。

 暁、思いきり笑った顔を見てみたかった。冷たい顔や怒った顔、他にもいろいろ知ってるけど、笑顔だけが浮かばない。たった一度俺に向けた、どこか悲しそうな笑み以外は。そして水月。さっきの告白を、きみはやっぱり嘘だと思ってる? 本当のことを言いたくて、ずっと言えなくて……俺も、つらかったよ、水月……。

「高久、高久! いやだ、目を開けて!」

 泣き叫ぶ彼女に、返事を返せなかった。

 体から精神が抜け落ちて、亀裂の谷に沈み込んでいく感覚の中で、僕は十二年前のあの時から、いつのまにかその存在を認識の外へ押しやっていた、遠く大きなものに祈った。

 お願いです。彼女達を救って下さい。幸せになれるように、生まれてきてよかったと、心から笑えるように、どうか力を与えてあげて下さい……。

 遠くで自分を呼ぶ声が、切れ切れに聞こえた。薄れてゆく意識の中で、僕はたったひとつの祈りを唱え続けた。


 色とりどりのシャボン玉が、いくつも浮かび上がる。いつしかそれは、柔らかいブルーに輝く光の輪になった。その輪の中で、誰かが泣いていた。

 天使?

 よく確かめようと、重い瞼をこじ開けた。ブルーの輪は消えて、代わりに覚えのある白い天井と蛍光灯の光が、じわりと角膜を刺激した。目の前に、涙を浮かべて覗き込んでくる顔があった。彼女の名前を呼ぼうとして、僕はそのまま唇だけを動かした。周りを白で囲まれたこの場所が病室で、自分がベッドに寝ていることに気づくと同時に、彼女の反対側から声がした。

「天国に行きそこねたな」

 薫が微笑していた。その横に、義母と悠介の顔もあった。体を起こそうとして、左胸と右足首に鋭い痛みが走り、僕は顔を歪めた。

「動くなって。あばら骨折と捻挫、加えてあちこちの火傷で、全治一ケ月だよ」

 薫が穏やかに僕を制した。

「何曜日……?」

「月曜の三時五十二分」

 腕時計を見ながら薫は言った。

「四十度も熱だして、まる二日間眠ってたんだよ。心身の疲労が原因だろうってさ」

 僕は義母と悠介に目をやった。

「お義母さん」

 義母は赤い目で僕を見つめて、微笑んだ。憔悴した表情に、安堵の色が滲んでいた。

「すいません、心配かけて」

「子供を心配するのが親の仕事よ」

 悠介が、ベッドにすがって泣き出した。僕はその頭をなでながら言った。

「心配させてごめんな。兄ちゃん、すぐ元気になるから、またドッジボールしよう」

 薫が柔らかい笑みを浮かべ、僕を促すようにベッドの向こうに視線を投げた。そっちを向いた僕は、大粒の涙で頬を濡らす彼女と目が合った。額や右の手のひらにガーゼが貼られていたが、目立った外傷はないようで、僕は胸をなでおろした。

 薫と義母達はそっと病室を出てゆき、僕と彼女は二人だけになった。

「……目が覚めたの?」

 黙って僕を見つめる彼女に、僕は重ねて言った。

「覚めたんだね」

 彼女がゆっくりと頷いた。僕はひとつ息をはき、彼女と視線を合わせたまま、ずっと訊きたかったことを口にした。

「名前は……?」

「あかり」

「あかり……灯火のあかり?」

「そう」

あかり……」

 僕はかみしめるようにその名をくり返した。水月や暁は消えるんじゃない。幹と枝葉の先端にまで、同じ生命が張り巡り、鮮やかな花に彩られるように、今も彼女の中に息づいて僕を見てる。これからもそれは変わらない。そうして、僕の中の一番深い場所に、明かりを灯してくれる。瞬きの瞬間に彼女が視界から消えてしまうのさえもせつなく感じて、僕は灯から視線を外さなかった。

 僕が退院するまで、灯はとりあえず僕の実家に身を寄せることになり、その日は義母に連れられて帰って行った。

 翌日、灯は病室に来なかった。午前中、医師の許可を得て、刑事が火事の出火原因について質問しに訪れた。部屋の主が消えていることや僕の怪我からも、ごまかしはきかない状態だったので、正直に事情を話した。当然、僕の実家にいる灯のところにも刑事の訪問はあったようだが、すでに僕からすべてを聞かされていた義母が、うまく立ち回ってくれた。死者が出なかったことと一室のみの火災で済んだこと、加えて灯が未成年であるなどの事柄が考慮され、警察も深く突っ込んだ調査は必要なしと判断したらしかった。この程度のことで人員を割くには、今のご時世は事件が多すぎるということかもしれない。なんにせよ、僕達にとっては幸いだった。

 それでも、こうなった以上、遅かれ早かれ旭川の施設に警察からの連絡がいくのは避けられないだろう。僕は気持ちの整理がつかないまま、週末までは入れ替わり立ち替わりに訪れる友人達との時間や、レントゲンなどの検査に追われて、目まぐるしい日々を過ごした。その間、灯は一度も顔を見せなかった。

 着替えや日常品を持ってきてくれる義母に、僕は灯の様子を尋ねた。

「やっぱり、遠慮して少し落ちつかないみたいだけど、心配になるほど不安定な感じでもないわ。食事もちゃんと摂ってるし。小食だけどね。今日も、一緒に行きましょうって誘ったんだけど、あなたのお友達がお見舞いに来てるだろうし、ちょっと用事があるからって……」

「そうですか」

 彼女の精神が均整を保っていることに安心しながらも、どこへ出かけているんだろうと気にかかった。

「……旭川の施設から、何か連絡はありましたか」

「いいえ」

 義母は首を振った。

「警察も、ちゃんとしているようでいて結構穴があったりするから、その辺りの事務処理は後まわしになってるのかもしれないわね」

 そう言って、たたんだ洗濯物をベッドサイドの物入れにしまった。

「もうしばらくの間、よろしくお願いします」

「一応、元看護師よ。引退して随分たつから、大船に乗ったつもりでいなさい、とは言えないけどね」

 義母はそう言って笑い、帰って行った。

 翌々日の日曜日、僕が昼食を終えたあと、灯はやって来た。ジーンズの上に水色のセーターと、アイボリーのカーディガンを着ていた。

 義母が揃えてくれたものだろう。華奢なスタイルに、優しい色の組み合わせがとてもよく似合っていた。最初に会った日の服以外は、いつも僕のものばかり着ていたので、新鮮な驚きに、僕は眩しい思いで彼女を見つめた。

「これ、高久のお義母さんが、庭に咲いていたのを切ってくれて……」

 彼女は少し頬を赤くして、手にしていたコスモスをテーブルに置いた。

「ありがとう」

 僕は椅子に座るよう促した。

「具合、どう?」

 灯が遠慮がちに訊いた。

「熱もないし、食欲もあるよ。あばらはギプスができないから、じっと寝てるしかないんだ。捻挫も同じ」

「火傷は?」

 灯は、僕の手首に巻かれた包帯や、襟元から覗くガーゼを見て訊いた。

「これも、問題なし。すぐ包帯もいらなくなるよ。そっちこそ、どう?」

 彼女の手のひらには、まだガーゼがあったが、額のそれは絆創膏に変わっていた。灯は自分の額を指差して言った。

「ここは、ただの擦り傷だから。手のひらの火傷も、跡は残らないだろうって」

「そうか……よかった」

「ごめんなさい」

 目を伏せて、灯は言った。

「何が」

「いろいろ……全部」

「顔を上げなよ」

 灯は伏し目がちに僕を見た。

「きみが俺に謝らなきゃいけないことなんて、ひとつもない」

 しばらく黙って僕を見つめていた彼女は、やがて、小さな声で言った。

昨夜ゆうべ、高久のアパートに泊まったの」

「アパートに? ひとりで?」

 頷いて頭を下げる。

「ごめんなさい、勝手に」

「謝らなくていいって」

 僕が言うと、少し長くなった髪をかきあげて、灯ははにかむように笑った。

「部屋に入った時、もうずっと前からあそこで暮らしてたみたいに、懐かしかった。ほんの三ケ月足らずだなんて、信じられないくらい」

「そうだね」

 たった三ケ月。僕も改めて驚いた。あまりにもいろいろなことがありすぎたせいだ。

「掃除して……片づいた部屋にひとりでじっと座ってたら、戻って来ない人を待ってるみたいな気分になった」

 灯は足元に視線を落とした。

「ずっと待ってたかったけど」

 そう言って、灯は息を整えるように胸を押さえた。

「高久」

 僕は目だけで応じた。

「旭川に帰るわ」

 今、なんて言った? そう訊き返したかった。けれど僕を見つめる彼女の瞳は動かず、僕の言葉を奪った。

 警察から連絡がいけば、近いうちに灯が施設に戻らなければいけないだろうことは予想していた。それでも、彼女の口から現実のこととして聞かされると、僕はとっさに反応できなかった。

「警察が連絡したんだな」

 やっと声を出した僕に、灯は小さく首を振った。

「自分で電話したの」

「自分で……?」

 僕は驚きを声に出した。連れ戻されるという状況を覚悟していた僕にとって、灯が自らの意志で帰るなんてことは、想像の外だった。

「園長先生、あたしが突然いなくなった理由については何にも訊かないで、とにかく無事で良かったって喜んでくれて……。ほんと気のいいおじいちゃんって感じの人なの」

「そうか」

 上半身を起こしていた僕は、天井を見上げて頷いた。

「約束したの。帰るって」

 僕は顔を灯へ向けた。

「あたし、自分の病気のこと、いろいろ調べたの。高久のお義母さんにも相談して。お義母さん、すごく親身になってくれた。前に働いてた病院や、知り合いのお医者さんに連絡とってくれて……旭川の医科大学に、いい精神科医がいるって教えてもらった。多重人格の研究では、国内ではトップクラスだって……」

 あいづちも打てずに、途中から灯の唇の動きだけを追っていた僕の中に、どうしようもないやるせなさが募った。

 誰も彼もが、僕の前から去ってしまう。水月も暁も、ようやく見つけることができたと思った灯も、指の間を砂がこぼれ落ちるように、すり抜けていってしまう。

 僕は灯の目を見返して言った。

「いつ、帰る?」

「来週。施設の人がこっちまで迎えに来てくれるって」

 僕はシーツを握りしめた。

 行くな。

 喉元まで溢れかかった言葉を、ぎりぎりのところで押し戻した。自分が引き止めようとしているのが、目の前の灯だけじゃないと知っていたからだ。何のために僕は水月に嘘をつき続け、暁を男として扱ったのか。今、行くなと言ってしまえば、今日までの日々をすべて裏切ることになる。そして何より、水月が必死に守ってきた灯を、これ以上傷つけるようなことは絶対にできなかった。

 僕の沈黙をどう受け取ったのか、少しの間うつむいていた灯は、やがて顔を上げた。

「あの火事の中で、高久は、生きろって言ってくれたね」

 灯は言った。

「親に愛されなかったからって、すべてが終わるわけじゃない。生まれて、ここにいることの意味を考えろって。じゃあ、何のために? なんで自分達は、当たり前に与えられるはずのものをもらえなかったのか。暁は殺されたのに、あたしがまだこうしてここにいるのはどうしてか」

 灯は目を閉じて、ひとつ息をついた。

「その意味を見つけるために生きることが、自分の過去に意味をもたせることに繋がるかもしれないって、思った。死んだ暁の、六年間の人生も……」

 水月と暁の命を宿した瞳が、彼女だけの灯火をたたえた。

「高久の手にひかれて、ここまで来れた。でも、これからは……」

「さよならだな、灯」

 灯の肩が、微かに揺れた。

「きみは、やっと前に進めるんだ」

 僕の寂しさは、自分自身で処理するものだ。水月と暁が再び僕の前に立つことは、おそらくもう二度とないだろう。確信と言っていい予感だった。それでも、自分の中に灯に対する憎しみめいたものがほんのひとかけらも存在していないことが、波立った僕の気持ちを鎮めてくれた。灯は今、生きようとしている。僕にはそれだけで充分だった。

 灯は立ち上がると、コスモスと花瓶を持って病室を出た。戻って来て花瓶を中央のテーブルに置き、椅子に座った。殺風景な部屋の中で、そこだけが、清楚な明るさを放った。

「高久」

 灯が立ち上がり、カーディガンのポケットから何かを取り出すと、僕の前で手のひらを広げた。水月に浴衣を着せた夜に、僕が渡した口紅だった。僕は灯の手からそれを受けとり、じっと見つめた。

「ひとつ訊いていいか?」

「何?」

「あの夜、公園で俺を抱いてくれたのは……水月じゃなくて、きみだったんだろ?」

 灯はうつむき、けれどすぐに顔を上げると、僕の目を見てゆっくりと首を振った。

「水月よ」

「……そうか」

 僕はそれ以上、訊くのをやめた。灯がそう言うのなら、それでいいと思った。

「高久、水月と暁を呼んでもいいよ」

 灯が言った。今度は僕が首を振った。

「ほんとに?」

「ああ」

 少しの沈黙のあと、灯は言った。

「もう一度、会いに来てもいい?」

 声が、少し震えている。

「治療は、一年やそこらで終わるようなもんじゃないと思うし、あたしも、何年かは時間が欲しい。でも、いつか、自分に自信が持てたら……」

 廊下を行き交う人々の足音、外を走る車のクラクション、エアコンの断続的なうねり。周囲の音が消えてゆき、僕はただ、灯の声だけを聞いていた。

「もう一度、高久に会いたい」

 僕は灯の顔から視線を外さず、自分の右手を差し出した。

「待ってるよ」

 灯が、おそるおそる僕の手を握り返す。彼女の思いのすべてを代弁するように、暖かく柔らかい手だった。

「出発の日は、ここには来ない」

 手を握ったまま、灯が言った。僕は黙って頷いた。つながった手が、ゆっくりと離れていく。

「ありがとう」

 さよならの代わりに彼女はそう言った。

「ありがとう」

 僕も同じ言葉を返した。僕の前をすり抜けるように、彼女がドアに向かう。いつのまにか慣れてしまった、僕と同じシャンプーの香りが鼻を掠めた。

「灯」

 ドアに手をかけた彼女に呼びかけた。振り返り、静かに僕を見つめる目。

「また、いつか」

 胸に刻みつけるように、僕は言った。それは鎮魂の言葉でも免罪符でもなく、まぎれもなく未来へとつながる約束だった。たとえ、果たされることがなかったとしても。

 灯は微笑み、僕も笑顔を返した。ほっそりとした彼女の後ろ姿が、閉じていくドアの向こうで、美しい音楽の余韻のように消えていった。

 ひとりになった病室は、世界から切り離されたように無機質な空間だった。僕は手の中に残された口紅の蓋を取り、ひかえめな赤に見入った。あの夜、この手で紅をひいた水月の唇が蘇り、同じ唇から発せられる暁の低い声が耳を掠めた。僕は蓋をして、口紅をベッドサイドの屑籠に投げ入れた。

 こみあげてきたものは、突然だった。あっと思うまもなく、涙があふれた。悲しみとも寂しさとも痛みとも判別できない感情が、頬を滑り落ちていった。涙なんて何年も忘れていたのに、自分の意志に反して流れ出すものを、どうしても止められなかった。僕は泣いた。


 これを秋晴れといわずして。感心してしまうくらい、抜けるような青空が広がっていた。目を凝らして見ないと、窓が閉まっているのかがわからない。ここの窓の清掃担当は、人一倍几帳面で仕事熱心なようだ。

 僕は窓から壁に掛けられている時計に視線を移した。一時二十五分。灯が乗る飛行機の離陸時間が近づいていた。

 あれ以来、灯からの連絡は絶えていた。今日の飛行機の時間も、義母から伝え聞いたことだった。それでいい。僕達にはもう、言葉にしなければいけないことは何もなかった。

「またいつか、か」

 最後に彼女に言った言葉を、窓の外を見ながらつぶやいた。

 病室のドアをノックする音に、僕は振り向いた。

「どう? あばらの調子は」

 薫は、手にしていた紙袋をテーブルに乗せ、ダウンベストを脱いだ。

「食っちゃ寝の生活だから、退屈だよ」

「そうだろうと思って、見舞いの品を持って来た」

 そう言って薫はテーブルの紙袋を僕に渡した。本が二冊入っていた。

「『ハムレット』と、ユダヤ教の『聖典タルムード』?」

「前に、ひとりを何とかできたとしても、根本的な解決にはつながらないし、世の中は変わらないって言ったろ」

「言ったけど……」

 薫はベッド脇の椅子に腰かけて足を組んだ。

「まあ、時間つぶしにはなるよ」

「いいけど……。こっち、なんで原書なんだよ」

「だから、時間つぶしになるって言ったろ」

 僕はため息をついて、『ハムレット』の表紙に印刷されている英文字を見やった。

「辞書はついてないのかよ」

「重かったから」

 笑う薫を横目で睨み、『聖典』の分厚い表紙をめくろうとした時、ノックが響いて看護師が入ってきた。

「魚住さん、検温ですよ」

 邪魔にならないように立ち上がった薫に会釈して、同年輩の看護師は僕に体温計を渡した。

「昼食後のお薬は飲まれましたか?」

「はい」

 明日から薬が一種類減ることを伝え、看護師は薫にすばやく笑顔を投げて出て行った。

「お前が見舞いに来ると、なんか看護師が色めき立ってる気がする」

 僕は体温計を脇に挟んで言った。

「へぇ、じゃあ、俺も診てもらおうかな」

 薫は笑って椅子に座り直した。

「彼女は、もう発ったのか?」

 薫の言葉に、僕は時計に目をやった。

「一時四十八分……ちょうど、飛び立ったところかな」

 僕の目線を追うように窓の外を見ていた薫は、しばらくして言った。

「お前、もう進路は決めた?」

 僕は頷いた。

「児童福祉司と迷ったけど、臨床心理士を目指そうと思ってる」

「どっちも、職場は児童相談所?」

「児童福祉司は、児相に来た親子に対しての指導的役割だけど、臨床心理士の方は、臨床心理学を使って相談者の心の問題を解決に持ってく専門職だから、児相の他に少年鑑別所なんかに勤務する場合もある」

「じゃあ、大学院だな」

「ああ」

「日本の福祉社会の現状は厳しいよ」

「わかってる」

 僕は体温計を外して目盛りを確認してから、ベッドの脇のボードに置いた。

「虐待されてる子供は、まだ世間にごまんといる。けど、さよちゃんと灯に会わなかったら、俺にとってそれは、ニュースの中にしか存在しない出来事で終わってた。彼女達と関わって初めて、現実の問題として俺の前に立ちはだかったんだ」

 薫の後ろに透けて見える遠い日のさよちゃんの幻に、僕はそっと笑いかけた。今まで、ごめん。きみを苦い記憶の中に縛りつけていたのは、きみの死に意味を見つけ出せずに逃げていた俺の弱さだったね。それこそが、過去の亡霊だった。

「ここから何かを始めなけりゃ、たった数年で死んだ暁やさよちゃんは、もう一度殺されちまう」

「世の中には、職業じゃなく、生き方そのものっていう仕事があって、福祉、教育、医療もそれにあたるらしいよ」

 薫が穏やかな笑みを浮かべた。

「杉田先生が言ってた」

「職業じゃなく、生き方……」

 人が人としての尊厳を守られ、自身の力で幸せを得られるように尽力することが福祉というものの理念だとすれば、確かにこれ以上ふさわしい言葉はないような気がした。僕は肌寒さを感じてシーツを胸元まで引っ張り上げた。

「大学に行って、今の学部を選んでよかったよ」

 少しの面はゆさを隠すように、僕はわざと軽い口調で言った。

「福祉っていう生き方、してみたくなった」

 返事の代わりに、薫はわずかに片眉を上げて見せた。

「だからって、今の現実にどう関わっていけばいいかなんて、それこそ見当もつかない。途方にくれてるよ。まさに、目の前のひとりさえ……ってやつだよな」

 僕は天井を見上げてため息をついた。

「彼女は、お前と出会って救われたと思うよ」

 その言葉に、僕は薫に顔を向けた。

「誰かを救うなんて、そんな度量は俺にはないよ」

「それは、お前じゃなくて彼女が決めることだろ。救いが何かなんて、俺だってわかっちゃいないけど、少なくとも彼女はもう一度生きようとしてる。お前が救った命なんじゃないのか?」

 そうだろうか。僕はしばらく薫の言葉を胸の内で反芻した。

「薫、お前の進路は?」

「いずれは親父の後を継ぐ形になるだろうけど、まずは現場の教師になるよ」

「現場の教師?」

 目にかかる前髪を、薫は邪魔くさそうに指で払った。

「福祉と教育。この二つに手ぇ抜く国に未来なんてないよ。教育の問題も、虐待に負けないくらいひどいもんだけど、実態を正確に把握するには、現場に飛び込んでみるしかないだろ」

 僕は少し迷ったあと、訊いてみた。

「前に言ってた、やりたいことって?」

 彼はゆっくりと視線を僕へと移した。

「たぶん、この国の大部分の人間が思ってんだろうけど、俺も、今の世の中に希望なんか持ってない」

 不遜な笑みを浮かべて、薫は膝の上で指を組んだ。

「だからって、しょうもない人間の好きなようにされんのも我慢できないからさ。気に入らない世の中なら、変えてやろうと思って」

 傲岸なまでに言い切ってしまう大胆さに、あっけにとられて薫を見つめた。彼は口元にのせていた笑いを消し、気を呑まれるほど静謐で真摯な目を僕に注いだ。

「お前は、お前の場所で、俺に力をくれよ」

 と薫は言った。

「一緒に、おもしろいことやってこう」

「後先考えないし、感情に流されやすいよ」

 柔和な微笑が返った。

「知ってるって」

「いろいろと、世話かけたな」

「ホントだよ」

 薫は笑いながら立ち上がって上着を着た。

「ツケって言ったろ。借りは返してね」

 薫が病室を出て行ってから、僕は窓の外を見た。はるか上空を、トンボのような飛行機が、空に線を描いて消えていった。

 もう一度会いたい、と灯は言った。何年か後、その言葉が現実になるかどうかなんて、僕にはもうどちらでもよかった。ただ、この同じ空の下に、彼女の幸せを心から願っている人間が、少なくともひとりはいるんだということを、灯が記憶の片隅にでも留めておいてくれればいい。それがどんな形であっても、誰かを本当に思うということが、こんなに痛みを伴って、誰かのために祈れることにいいようのない幸福を感じられるなんて、彼女に出会うまでは知り得なかったことだから。

 だから、もういい。

 きみの瞳、きみの声。きみの体温。けして消えない大切なきみの全て。

 きみに会えなくても、もう僕は。

 傍らに置いていた二冊の本を見て、ユダヤ教の聖典を手に取った。一番最初のページには、一行だけが記されていた。

『一人の命を救うものは、全世界を救う』

 僕は笑った。それから、深く重く、そして優しいその一節を胸に刻みながら、本を閉じた。


                                    了

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今、僕の中に大切なきみの全て 滝川 七央 @62344

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