第一八話「越谷中央高等学校の支配者(四)」
それはまさに白い壁だった。
見通しのよい校舎の屋上からだと、その様子がよくわかる。白妙が美しくもあり、そして空恐ろしくもある、どんな巨人でも乗り越えられそうにない壁。
それがどの方向を見ても、威圧するようにそそり立っている。あたかも世界の終わりがそこにあるがごとく。
いや。確かにそこに世界の終わりがあるのだ。
ただし、越谷バトルフィールドという世界。
それは、偽りの終わりを示す釈迦の指なのかもしれない。
ニュースで聞いた情報では、推定三〇〇〇メートルの高度まで達しているらしい。おかげで夕暮れの空は、まるで丸く切り取られたように見える。はたまた、中にいる哀れな人質を閉じ込める、綴じ蓋のようだ。
閉鎖された空間。だが、もっとも恐ろしいのは、そのこと自体ではない。
その壁は、人だけを拒絶するのだ。
壁は、影を作らない。
壁は、夕焼けなのに赤く焼けていない。
その事実が示すのは、巨大な雲の塊が光を通しているということだ。
光だけではない。風も、そして鳥などの生き物もその雲を抜けている。
あたかもなにかの意志をもち、人の目にだけ映り、人のみを拒絶する雲の壁。
そのような非常識な存在が、円周約三〇キロメートルに渡って走っている。二万キロを超える
しかも、異常性はそれだけではない。
南北を走る東武伊勢崎線の列車に乗っていれば、なぜか越谷バトルフィールドの雲の壁を人間も通りぬけることができるのだ。
否。正確には、雲の壁をぶち抜いて通りぬけるわけではない。線路の通る場所だけ、壁に穴が開いているのだろう。
しかも、新越谷、越谷、北越谷といった各駅にも停車できるうえ、ホームに降りることもできる。さらに改札からならば、越谷バトルフィールドに入ることができるのだという。
ただし、一度入ってしまうと囚われてしまう。
ホーム側から見ればただの改札なのに、改札の外から見ればそこには雲がかかっている。つまり、クリア条件である一〇〇万ポイントを払わなければ、改札からホームへ入ることができないのだ。
マニュアルによると、各駅の改札はゲートとよぶらしい。そして、ゲートは越谷バトルフィールドの唯一の出入り口なのだ。
そしてそのゲートの周辺から一キロメートル範囲は、現在のところ「安全地帯」に設定されている。つまり、駅の近くは
ただしそれも、「初期設定では」という注意書きがある。言い換えれば、いつまでも安息の地というわけではないということだろう。
(つまり、越谷から出ない限り、本当の安全はない……)
流美は屋上を囲う金網に両手をつきながら身を支え、この世の物とは思えない遠景をジッと眺めていた。
世界最大の滝は、落差が一〇〇〇メートル弱らしい。が、目の前の雲の滝は、その三倍もある。状況によっては絶景として楽しめたかもしれない。
しかし現状では、巨人さえも捕らえようとする刑務所の塀にしかみえない。
(ここから……出ることができるの?)
外の世界では、すでに内閣府が動き、内閣官房長官の指示により、元警視総監の【杉森内閣危機管理監】という人物が、内閣安全保障・危機管理室を動かしているという。しかし、状況がまだつかめないため、テロ、自然災害の両面から調査され、警察や自衛隊が動いててんやわんやとしているようだ。
細かいことはわからないが、流美とて外が混乱していることだけは、手にとるようにわかる。こんなこと、誰にも予想できなかったはずだ。そして、この状況に打つ手など、すぐに見つかるわけがない。
それに今、たとえこの壁を壊されても、流美は越谷から逃げることなどできはしないのだ。
(私……生きてる?)
彼女は自分の右腕を握る。唯一、本当の肉体はその先の右手だけ。今、握られている右腕も、そして握っている左手も偽物だ。
(そう。偽物……)
たるみのない鍛えた腕、ふっくらと形がいいと友達に褒められた胸、ひきしまった胴、スラリと伸びる脚……それらを触ったり動かしたりしながら、舐めるように見つめていく。
いつもと同じにしかみえない身体。
しかし、すべて偽物。
もし、
ポトッと落ちる手首……それを想像する。その時、自分はどうなっている?
(私……偽物……)
心臓が木槌で叩かれたように衝撃が走る。
その心臓も偽物。
視界がクルクルと回りだす。
その眼球も偽物。
どうしてこうなった?
そう考えている脳さえも偽物。
その偽物が生む思考は本物なのか?
この気持ちは本物なのか?
(怖い……)
偽物の心臓が本物であると主張するように、バクバクと鼓動を
ハァハァと呼吸が荒くなる。おびただしい汗が額に浮かんで、それが冷たくこめかみを撫でていく。
それもまた偽物――。
(……だめ……怖い……よ……)
自分は本当に【
いや、そもそも人間なのだろうか?
どうすれば、「実感」を得ることができる?
(怖いの……)
やはり自分は、とっくに死んでいるのだ。ならば、ここにいる自分はやはり仮初めの命。というより、もうすでに過去の自分と別物ではないか。右手以外が入れ替えられて、何をもって【
何をもって、自分だというのか?
(わかんない……わかんないよ! わた……私、誰なの!? なんなの、私!?)
流美の思考は、答えのないメビウスの輪を延々とたどり続けながら沈んでいく。
同時に柵へ両手をつきながら、体も力尽きるように段々と沈みこんでいく。
雲の向こうから届く残照を浴びながら、咽び泣く声が「あっ、あっ」と沈むたびにこぼれている。
(わからない……。わからない。わからない。わからないわからないわからないわからないわからないわから――)
彼女はふと、自分の顔に両手で爪を立てる。
もしかしたらこの顔は偽物で、むしりとったら本当の顔が出てくるのかもしれない。そうしたら、【
空が朱から藍色に落ちていく。もうすぐ夕日が沈むのだろう。それに合わせて顔の皮をむしりとってみようか。そうしたら、夕焼けに焼かれたような赤い顔で、解放されたと歓喜の笑みを見せるかもしれない。
「あ……あはは……」
なにがおかしいのか、自分でもわからない。でも、痙攣するような笑いがこぼれる。
馬鹿らしい。
なにを考えているのだろう。
まったくもって支離滅裂だ。
そもそもなにを考えても無駄じゃないか。
自分なんていないのだから。
ああ。そうか。
むしろ【
「そ……そっちのが簡単……はは……」
流美はおもむろに立ちあがり、腰に手を当てた。
そこについていたホルスターから棒状の
これで魔法を問えなれば、右手のひとつぐらい簡単に消し飛ばせるだろう。その瞬間、【
(――消える!? 私……消えるの!?)
突然、
いや、違う。それを持つ手が震えているのだ。それだけではない。脚が、そして体全体が激しく震えだす。自分の体を抱きしめるように抑えてもとまらない。また崩れてしまい、両膝立ちで動けなくなる。
感じているのは、まちがいなく恐怖。
「いや……いや……いやよ……いやいやいやいやいやいやあああぁぁぁっ!!」
頭を抱えて呻るような嘆きをもらす。
「流美さん!?」
背後から聞こえた声にふりむく。
すると、そこにはいつの間に近寄っていたのか、倫が薄闇の中に立っていた。
AROUSE《アロウズ》 〜バトルフィールド・オン・コシガヤ 〜 芳賀 概夢@コミカライズ連載中 @Guym
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