こんばんは。深夜営業中のユキです。
ゆれて、ゆられて、ふらふら、ふわり。
音楽の波に揺られて、考える。
言葉はどこまで感情に近づけるのだろう?
連続的シグナルである人の心の動きを、離散的シグナルである自然言語で再現することは果たして実現可能なのだろうか? わたしたちは確かに『人』を描いているのだけれど、それが成立しているのは、読者が離散値の行間を読んでいるからだ。
もし、限りなく連続的な文章というものが書けたとしたら、独立して人を表現しうる文字の束が存在するとしたら、それはもはや『人』なのではないだろうか。小説が、人になる。密に描かれた文脈が、彼女(もしくは彼)の過去であり、起こりうる未来になる。
いや、そもそも人の心も身体も、連続的に動いているのか? 実際の世界に連続性は皆無。ただの凝縮された離散値の集合体。どこまでも離散的で、時間さえ——この瞬間すらもタイムラプスのように切り取れるんじゃないだろうか? 人が離散的であるなら、文章で完全に表現しうるのではないだろうか?
眠い頭で取り止めのないことを書きました。明日になったらきれいさっぱり忘れていることでしょう。
それでは。おやすみないませ。