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読描徒然 #48

 おはようございます。梅雨入りして急に涼しくなりましたね。ユキです。

 今朝は百合作家の端くれとして、セクシュアル・マイノリティについて語ってみたいと思います。LGBTsとも表現されますが、これは数あるセクシュアル・マイノリティの中でもメジャーなものを略したものに過ぎません。
 まず、セクシュアル・マイノリティとは男女という性別二元論に該当しない人たち。専門用語はあえて使いませんが、身体的性別、精神的性別、恋愛対象、外見的性別(服装など)の四種類の組み合わせによるものです。例えば、身体的性別は女性だけど精神的性別は決めておらず、恋愛対象は全人類、外見的性別は男性というような方もいるかもしれません。
 どこかの研究機関の調べでは全人口の八から十パーセントはいるとのこと。つまり三十人学級なら三人は該当するということですね。

 かくいう私自身もマイノリティの一人です。

 さて、前置きが長くなってしまいましたが、本題に入ります。
 この記事を書こうと思った発端は、百合ってLGBTsを描いた作品の一種なのかなと思ったことでした。ただ、私の中では百合というジャンルとL:女性愛者やB:両性愛者が結びついていないのです。
 昨今の百合はとても幅広く『女性同士の関係』を扱っています。広義の百合においては、『男性不在・女性同士の親密な友情』の二条件を満たすものも含まれるきらいがあります。そういった作品たちを見ていると、百合とは必ずしもマイノリティを扱ったものではないのだと思うのです。
 では、百合がセクシュアル・マイノリティに接するラインはどこかなと考えたとき、大きなキーワードとして『社会性』が考えられます。つまり、同性との恋愛を育むにあたって、家族や友人、職場、社会制度や社会通念の問題に触れている作品は『接する』ものと言えます。女の子が女の子を愛することに疑問を持つこと、周囲からどう思われるかということ、婚姻ができないことなど。

 翻って自分の作品を俯瞰してみると、女性同士に悩むシーンは一部ありつつも、社会的に批判を受けるようなシーンはありません。河内龍や秋田葉太のようなトランスジェンダーにしてもそうです。私の描く世界の中では、マイノリティという概念は限りなく存在しないのかもしれません。批判も庇護もない。それはきっと、私がこうあってほしいという世界なのだと思います。

 朝から長々と語ってしまいました。
 それでは。今日も一日頑張っていきましょう。

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