黒須友香様が書いて下さったレビューの前半に関して言えば、「『リバーズエッジ』を読んで理解できない」
という感覚と似ていると思います。
つまり、普通の高校生が(尤も私は中退ですが)売春やゲイや妊娠や中絶、ヤクブツ、死体、過食症もろもろについて理解できないと。
「でもこのエッセイは、」という後半の文章について、黒須友香様は私の一番の理解者だとすら(個人的に)思える、
というのも、例のハッシュタグMeTooでは無いですが、私はゲイで強姦された事についても、売春についても、全く卑屈にならず、事実だけを述べているのですから。
ところで、事実と真実は違います。
事実は「おおやけ」のもので、真実は「個人的なものですから....
そう言う意味に置いて、私のこのルポは事実では有るが、真実は私個人的なものです。
何故寄り道してこんな事を書いたかと言えば、このエッセイ、ルポルタージュ、ドキュメンタリーは、事実では有るが、私にとって個人的な真実でしか無いと言いたかったからです。
黒須友香様がお書きになった通り、「売春というと、どうしてもよくないイメージがつきまといます。
悲惨で犯罪めいた裏事情が山ほどあるんじゃないかと邪推したりします。」
それは全く間違っていませんが、私はそれを、売春もゲイも強姦も、「私当人にとってはまるで現実感も無いし悩んでもいないし問題になっていない。」
と言う事をこのルポでひたすら曝け出していました。
「だから読む側も顔をしかめることなく、この世界ではこんなことがあるんだな、こんな考え方もあったのか…と、興味を持って楽しく読み進めることができます。」
と書く黒須友香様の言う通り、私は強姦にしろゲイにしろ強姦にしろ全く卑屈に自己嫌悪に、もっと言えば、自分を悲劇的に見せように書いてはいません。
どちらかと言えば、「みんなこんな経験が大なり小なり有るだろう、だからゲイでも売春してない人でも共感出来るだろう」
と、奢りを、傲慢さをもって書いているのです。
芸術なんぞ(このルポがヘミングウェイのような芸術とは思いませんが)他人に共感されなければ全て無意味なものだと思いませんか?
黒須友香様は、「でもこのエッセイは、ご自分を卑下されたり他人を徹底的に罵倒したりすることもなく、時に淡々と、時にユーモアを交えて、ご自分が体験された事象をあくまでも論理的に紹介・分析されているのが特徴です。」
と書いて下さいました。この事は本当に嬉しい。
しかし改めてまた繰り返しますが、エッセイ、ルポルタージュ、ドキュメンタリーは、事実では有るが、私にとって個人的な真実でしか無いのです。
だからこう言いたいのです、「ご自分が体験された事象をあくまでも論理的に紹介・分析されている」
と黒須友香様は書いて下さいましたが、自分の事を自分で客観的に考える時、どうしても...これは人間のさがなのかは知りませんが、自分を客観的に分析する事など不可能だと。
どうやったって、自分の過去を掘り起こす際に、自分自身に対して人より多少は優れているだろうと言う主観が入ってしまうと。
そうしないと自分がもたないんですねえ....
ただ、一つだけ言いたいのは、
「ぼくたちのイメージは単なる外見で、そのうしろに、世の中のひとびとの視線とかかわりのない、自我のまぎれもない本体が隠されているなどと思うのは、まあ無邪気な幻想」
だと言うように、自分のイメージに自分は責任を持てない。
しかし、黒須友香様がその自分の(相手が決める)イメージに、私自身を、自我を、メッセージを、レビュー内でも上手く表現して下さった事、この事において非常に感謝しています。
感謝しても仕切れないくらいに。