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うぃんこさんvs母の死

前回の近況ノートで膵臓がん患っている母が死んだら本人自筆の闘病日記をカクヨムに連載すると言ったな?その時がついに来てしまいました。

2024年1月21日7:00、母が亡くなりました。ので、その日のことを忘れないためにしっかり記録したいと思います。

1月19日、仕事から帰ってきたら何やらLINEでのビデオ通話が入っていました。動けなくなっても会話出来るようにとのことです。

また、ポータブルトイレも買っていたようなので夕食を食べたらそれの組み立てを即行いました。その後、リハビリパンツも買いに行きました。

この時点ではまだ母は全然元気に歩いていました。それどころか「明日は姉の孫達とソリ滑りに行く!」と息巻いていました。

私はこの時点では「ああ、ついに下の世話をする日が来たのか」「明日ソリ行くの早いから早めに寝よ」ぐらいにしか思ってませんでした。


1月20日5:30。

親父に叩き起こされました。何でも「救急車呼んだから手伝いに来い。母が吐いた」とのこと。

またかよ。と思っていました。母が搬送されるのも吐くのも、もう何度も繰り返されてきた事だからです。

私は20分ぐらい遅れて母の所に行きました。もう救急隊の方々が家に入っていて、母の搬送をしようとしていました。

運ばれた後でベッドを確認したら、まあ結構な量の吐瀉物がベッドと床に撒き散らされていました。吐瀉物はパン粥の香りがしたので処理には抵抗はあまりなかったです。

粗方吐瀉物の処理を終え、従妹に連絡しました。母が救急車で運ばれていねえけど私だけでもソリ行っていい?と。

何でお前母親がヤベエのに遊び行ってんの?と言いたくもなりますが、これは母の最後にやりたかったことだからです。せめて私が代行しようと思ったのです。

結論としては私が行って良かったです。でないと従妹(まだ赤子の第三子を抱いていてソリには乗れない)の旦那さんが第一子と第二子をまとめて面倒見なきゃならなかったので。

ソリ自体は2時間もやらんうちに雪がヤバくなってきたので早々に撤退。家に帰ったら救急車に同乗した親父から電話がかかってきました。

「母、もう死ぬ。胆のうが爆発した」

急いで家を出ました。誤解のないよう言っておくと胆のうは爆発したのではなく破裂しただけです。いや、その時点で「アアッ、オワッタ……!」ってなりましたけども。ピピ美みたいになりましたけども。

親父を病院から拾って詳細を聞きました。母には3つの選択肢がある。「手術をして胆のうを縫う」「胆のうにドレーン管を3本ブッ刺して胆汁を排出する」「緩和ケアを行い苦痛のないよう臨終させる」。

母の意向は「延命治療は行わず死にたい」でしたし、私も概ね同意していました。しかし人間の心情とはいざとなった時にコロッと変わるもので、私は手術をしてもらいたいと強固に思いました。

しかし、本人の意向にそぐわないことはしたくないこと、癌の癒着が凄すぎて手術しても体力がもたないこと、ドレーン管を刺したら今まで通りの生活は行わないこと。これらを総合したら緩和ケアしか選択できなかったのです。

医師の言うには最悪1〜2日で死ぬとのこと。この時点の私は2日持ってくれるなあ、と思っていました。親父は1週間持つと思っていました。恐らく親父が1番母に死んで欲しくないと思っていたでしょう。

家に帰って、さあゲームでもしよう。なんて気分にはなれませんでした。いよいよ母が死ぬと思うと、何もやる気が起きませんでした。疲れてたんで寝ました。


1月20日18:30。

まーた親父に叩き起こされました。飲み会行くから送ってくれと。いや、ソリ行った私が言うのも何だけど、母が危ないのに酒飲むかフツー?

でも親父の心情も分かるんで「今日はしっかり呑んでこい!」と言いました。結局あまり呑んでいなかったようですが。迎えが終わってからは私も親父も即寝ました。


1月21日2:00。

またまた親父に叩き起こされました。病院から連絡があって、母が危篤状態とのことです。

結局また私が病院まで運転することになりました。幸い昨日降った雪は雨に流されていて楽に運転出来ました。

4:00ごろ、病室に通されました。母は呻き声をあげて手足をじたばたとさせていました。口にはガーゼを含み、時おり胆のうのあたりに手を当てていました。

医師の説明によると、胆のう破裂により胆汁が腹膜に浸透し、多臓器不全を起こしている。そのうち心臓も止まり、死に至るとのことです。

心拍数100、血圧80/31、酸素飽和度69%。この数値は素人が見ても「アカン、死んでまう」と一発で分かるでしょう。死の2時間前の利用者さんとほぼ同じ数値だったので、母の命もあと2時間ぐらいと当たりをつけていました。

途中、母が親父に何かを訴えていました。親父は母の要求とは違うことばかり言っていたので、業を煮やした母が気力を振り絞って「ボタン……!ボタン……!」と言いました。これが母の最後の言葉でした。

ボタンと言っても親父は「衣服のボタンを外すの?」と言ってまた不正解を引いていたので、私は母の手に握られているナースコールみたいなものをポチッと押しました。

どうやら正解だったようで、母はうんうんと頷きました。そのボタンは押すとモルヒネが流れて苦痛を緩和してくれるボタンだったのです。医師、それの説明してたよね!?

で、モルヒネ流れるボタンを押しても母はまだまだ苦しみ続けています。正直母の苦しむ姿を見ながら何もせずずっと座っているのは苦痛でした。

あと機器がいちいちうるさい。そりゃずっとバイタルレッドゾーンなんだから仕方ないし、母がしきりに腕を曲げるから点滴入れる機器も「閉塞しました!」って5分おきに言うし。その度に看護師さん来るのもアレなので私が手順覚えてアラート止めてました。

母にかけた最後の言葉も酷かったですね。母にとっての姉の孫がソリ1人で滑れたよ。ですよ。こいつ前日遊んできたことの報告しましたよ。息子として言うことそれしかないんですかこいつ。

5:00ごろ?4:45ぐらい?母が急にズボンをおろし始めました。親父は「おしっこしたいの?オムツしてるから大丈夫だよ?」と言って止めました。

また不正解引いてんなこいつ。と思いました。オムツを外したがる理由なんて一つしかありません。尿が股に当たり続けているなんて気持ち悪いからです。

念の為「おしっこしたい?」と聞いたら首を横に振るので「じゃあ、オムツ替えたい?」と聞いたら首を縦に振ってくれました。

親が介護状態になり、親のオムツを替えるのはよくあることです。幸か不幸か、私は母親のオムツを替えるのがこれで最初で最後になりました。

股の気持ち悪さが取れたのか、それともオムツ交換で体力を使い切ったのか、オムツ交換が終わった後で私が「これで最後のオムツ交換になるかもしれん」と余計な口を滑らせたのか。

母の呻き声はなくなりました。というか呼吸が浅くなりました。その息の吸い方で酸素は充分に得られるのか。

私はそこで落ちました。寝ました。親父も寝ました。2時起きで病院かっとんで来たんで眠いんですよ流石に。

6:50。聞きなれないアラート音が鳴り、起きました。どうやら心停止したようです。看護師さんも3人ぐらい集まってなんか終わった感ある会話をしていました。

心停止のアラートって刑事ドラマとかでよく聞く「ピーーー」じゃないんですね。機器によるのかなあ。

そんなことを考えながら、もう二度と動かなくなった母に「さよなら」と言って、首筋を触りました。

そこで一気に涙が溢れてきました。何例も確認した利用者さんの遺体と同じ温度感。それを実の母から感じてしまい、死を確信してしまったのです。

生前の母には「俺は多分母が死んでも泣かんだろうな」と宣言していました。仕事柄遺体は見慣れていますし、なんだったら遺体が腐らないようアイスノン4個ぐらい使って冷やした事もあります。

ですが、生まれてからずっと人生全てを連れ添って来た親の死には到底ドライには受け止めきれませんでした。私にはまだ人の心が残っていたんだと安堵もしました。

嘘をついてごめんなさい。私は現実を受け止めきれず気丈ぶっていただけなんです。その言葉はもはや届きません。


1月21日10:00。

さて、遺族が本当に忙しいのは死亡直後です。霊柩車と一緒に帰って来ると言う親父を病院に置いて、私は一足先に家へ帰りました。道中でラーメン食ったり来客用のお茶買ったりしましたが。

やらなきゃいかんのは遺体の受け入れです。母の部屋のベッド(パラマウント製介護ベッド!デカい!)をどっかにやってカーペットを剥がして布団を敷いて片付けやら掃除やらを1時間でやらなきゃなりません。

1人でヒーコラ言っていたら母の姉夫妻が駆けつけてくれました。地獄に仏とはこの事か。やけに手慣れてるお二人のおかげでスムーズに事が運びました。ありがとう!

11:00、霊柩車が到着。母を担架から布団に移し、メイクと着替えを葬儀屋さんが行っている間、駆けつけた親父の弟も交えて仮の打ち合わせが始まりました。私の仕事はお茶汲みです。

12:00、母のメイクが終わりました。死相を一切感じさせない、見事な仕事です。服も生前リアル裁縫師だった母が自ら縫った死装束になってました。いや待て用意が良すぎるだろ母。

13:00、打ち合わせも終わったので、私は親父に命じられて母の預金をおろしに行きました。預金額が強固過ぎてとても数日では引き出し切れません。稼ぎすぎだろ母。

14:30、車で2時間半はかかるであろう所から従姉が家族ぐるみで来ました。死に目に遭いたいのは分かるが、フットワークが軽過ぎだろお前ェ!?今の旦那と一緒に世界一周するような女です。強過ぎる。

15:00、母の従妹2名が来訪。お茶汲み役、もう台所に篭ってました。

16:00、昨日ソリへ一緒に行った従妹家族来訪。そのタイミングでお坊さんも来たのでお経を上げた後に打ち合わせ。ええい!キャパが!キャパが足りん!

お坊さん、どうやら戒名をつけるために母の人生歴を聞きたいそうです。親父、私、母の姉がもう洗いざらい全部しゃべりました。

その過程で親父が「こいつ(私)は母親にはとにかく従順で」とか話しやがったので「タバコくさい、くさい、口うるさい、論点のズレたことばっか言う(からそんな奴より母の言うこと聞くわ)」と言って喧嘩しました。タバコ吸うようになったのは親父の影響なんだけどな!ケッ!

17:00、お坊さんも帰ったので私は職場行って片付けをしつつ夕飯を買いに行きました。そのタイミングで兄貴が東京から帰って来ました。我々が頑張って対応してたのにコスプレ撮影してきおってからに。とは微塵にしか思いませんでした。

飯も食って暇になったのでさあゲームだ!とはなりませんでした。だって眠いもん!潜水艦だけ回してサムレムコラボやって寝ました!入眠タイムは21:00でした。

疲れていたのか6時までぐっすり眠り、この近況ノートを書き始めて、途中で職場に1週間丸々休む事を伝えて、やっと今ここです。長かった……

ここまでの経験で思ったことはただ一つ。とにかく掃除だけは毎日やっておけ。いつ死んでもいいように準備はしておきましょう。

母はその辺のプランニングがとても上手く、去年の9月には死んだらどうするかバッチリ決めて用意していました。

死後着る服、死後寝る布団、自身が相続すべき財産とその分配、葬儀の段取り、治療方針の意向などなど全て決めていたのです。

その中に、自分の闘病日記を世に出すことも含まれていました。なので落ち着いたら書いてカクヨムに連載します。まずはその日記がどこにあるのか探すとこからスタートなんですが……

今日の午後には葬儀屋さんと本打ち合わせがあるんで、今日のところはここで終わりにして母に線香炊いて来ます。それでは、また。

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