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木綿

木綿・木棉(もめん)は、ワタの種子から取れる繊維。コットン(英: cotton)とも。ワタ自体のことを木綿と呼ぶこともあるが、ここでは繊維としての木綿について述べる。

種類
現在までに見つかっている木綿栽培の最古の証拠はメキシコにあり、約8000年前に遡る。その種類はアメリカ栽培綿 Gossypium hirsutum で、現在世界で栽培されている木綿の89.9%がこの種である。野生の木綿の種はメキシコで最も多様であり、それにオーストラリアとアフリカが次いでいる

栽培
綿花の栽培には降霜のない長い季節と600mmから1200mm程度の降水量が必要とされる。この条件を満たすのは熱帯から亜熱帯にかけての湿潤・半乾燥地帯であるが、現在では灌漑の発達により、ウズベキスタンなどより降水量の少ない地域でも大規模な綿花栽培が行われるようになってきている。生産された綿花はコットン・ピッカーなどの収穫機械により収穫されるが、アフリカなどの開発途上国では手摘みによって収穫されている。

温度
運搬時に好ましい温度: 25℃未満
運搬時の最適温度: 21℃
引火点: 210℃
発火点: 407℃(油分が多い場合: 120℃)
木綿は25℃以上の温度で乾燥すると柔軟性を失っていき、徐々に硬く脆くなっていく。長時間光を当てた場合にも同様である。

25℃から35℃の範囲では、カビが繁殖しやすい。0℃以下では湿った木綿でもカビの繁殖が止む。既にダメージを負った木綿を氷点下にして、それ以上のダメージの進行を防ぐことがある。

歴史
現在までに見つかっている木綿栽培の最古の証拠はメキシコにあり、約8000年前に遡る。その種類はアメリカ栽培綿 Gossypium hirsutum で、現在世界で栽培されている木綿の89.9%がこの種である。野生の木綿の種はメキシコで最も多様であり、それにオーストラリアとアフリカが次いでいる。

旧世界で最も古い木綿栽培の痕跡は約7000年前(紀元前5千年紀から紀元前4千年紀)のもので、インド亜大陸の北西の広大な領域(現在のバングラデシュと北西インドの一部)で発達したインダス文明の住民によるものである。インダス川流域の木綿産業はかなり発展し、そこで生まれた紡績や機織りの技法はインドで比較的最近まで使われ続けていた。西暦が始まる以前に木綿の布はインドから地中海、さらにその先へと広まっていた。

エジプトでは新王国時代の始めごろに、肌が透けるほど薄い木綿でできたカラシリスと呼ばれる衣服が小アジアから伝えられた。 木綿は最初高価なぜいたく品であり、書記や地主など社会的地位が高く裕福な人々だけがカラシリスを着ることができた。

ギリシャ人はアレクサンドロス3世のころまで木綿を知らず、ほぼ同時代のメガステネスが『インド誌』の中でセレウコス1世に「(インドには)羊毛が生える木がある」と教えている。

コロンビア百科事典第六版 によれば、紀元1世紀にアラブ人商人がモスリン(本来は綿織物)やキャラコをイタリアやスペインにもたらした。ムーア人がスペインに木綿栽培法をもたらしたのは9世紀のことである。ファスチャン織りやディミティ織りは14世紀にヴェネツィアやミラノで織られていたが、当初は縦糸にリンネルを使っていた。イングランドに15世紀以前に輸入された木綿布はごくわずかだが、その一部はろうそくの芯に使われた。17世紀にはイギリス東インド会社がインドから珍しい綿織物をもたらした。アメリカ先住民は木綿を紡いで衣服や染色したタペストリーを作っていた。ペルーではインカ帝国以前の墓から木綿の布が見つかっている。染色や織り方の面で、ペルーやメキシコの綿織物は古代エジプトの墓から見つかったものとよく似ている。

イラン(ペルシャ)での木綿の歴史はアケメネス朝(紀元前5世紀ごろ)まで遡る。しかし、イスラム化する以前のイランでの木綿栽培に関する文献は非常に少ない。13世紀のマルコ・ポーロはペルシャの主要産品として木綿も挙げている。17世紀フランスの旅行家ジョン・カルダンはサファヴィー朝を訪れ、その広大な綿花農場を紹介している。

ペルーでは、モチェ文化やナスカ文化といった海岸に沿った文化の発達の基盤として Gossypium barbadense というワタ属の原生種の栽培があった。綿花を川の上流で栽培し、それを使って漁網を作り、海岸の漁村との交易に使った。スペイン人が16世紀初めにメキシコに到達したとき、原住民は綿花を栽培し、綿織物の衣服を着ていた。

中国への伝来は晩唐とも北宋とも言われている。朝鮮半島へは1364年に文益漸が国禁を犯して元から伝えたという記録が残されている。
中世末期には、木綿が貿易によって北ヨーロッパにもたらされたが、それが植物性だということ以外詳しい製法は伝わらなかった。ウールに似ていることから、北ヨーロッパの人々は羊のなる植物があるのだろうと想像した。1350年、ジョン・マンデヴィルは今となっては奇妙な話だが、「(インドには)枝先に小さな子羊がなる素晴らしい木が生えている。枝はとてもしなやかで、子羊が空腹になると枝が屈んで草を食むことができる」と書き記した(バロメッツ参照)。この考え方はヨーロッパ各地の言語での木綿の呼称に痕跡を残している。例えばドイツ語では木綿を Baumwolle と呼ぶがこれは「木のウール」の意である。16世紀末までに、綿花はアジアおよびアメリカ州の暖かい地方全域で栽培されるようになった。

18世紀から19世紀初めにかけてイギリス領インド帝国が確立することでインドの綿織物産業は徐々に衰退していった。これはイギリス東インド会社の植民地運営方針によるものである。インドは原綿だけを供給することを強制され、イギリスで製造した織物を購入することを強制された。

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